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II 英国海難調査局(The Marine Accident Investigation Branch)における海難調査
1 設立の経緯
 英国の海難調査局(The Marine Accident Investigation Branch、以下「MAIB」という。)の設立は、1989年6月19日である。
 しかしながら、同国における海難調査制度の誕生は古く、栄華を誇ったビクトリア王朝時代の1840年ごろ、当時頻発した海難による国力の低下、衰退を危惧した衆議院が、特別調査委員会を設置して海難調査に当たらせたのがその嚆矢とされている。
 同委員会は、調査の結果、海難の原因として、船舶の構造上の欠陥や艤装上の不備、修繕の不完全、貨物の積付け上の不良、海図の不整備、避難港の不足、或いは、船長や航海士の技能上の欠陥等を指摘したほか、海技従事者に対する試験制度や審判制度の設置を勧告した。
 この勧告が起爆剤となって、1846年には汽船運航法(The Steam Navigation Act)が海難事故の原因調査に関する初めての法律として制定され、また、1850年には海員審判制度が「処罰される者に対しては防御の機会を与えなければならない。」という法律正義の思想によって裁判制度として創設され、更に、1854年には商船法(The Merchant Shipping Act 1854)が従来の海事関係の法律を改修、統合して制定された。
 加えて、所管省が商務院(Board of Trade)から商務省(Department of Trade)、運輸省(Department of Transportation、以下「DOT」という。)へと順次移管された。
 このように、不文法を基本とするイギリスにおいて、最初から成文法として発足した海難事故の調査制度は、その後、海運の発展、及び、それを取り巻く環境の変化とともに幾多の変遷を経ながら改革されていった。
 ところが、近年、運輸省海事局(Marine Directorate of DOT、現在の海事安全局Maritime and Coastguard Agency、(以下「MCA」という。)に当たる。MCAは、日本では海上保安庁という名称で知られている。)が、1970年商船法(The Merchant Shipping Act 1970)に基いて海難事故の調査を担当していたところ、1987年3月6日ベルギーからイギリスに向かった英国船籍の旅客フェリーHerald of Free Enterprise号(総トン数7,951.44)が、出航後程なくして、開放されたままの船首部ランプウェイゲートから浸入した大量の海水によって横転し、船客・乗組員合わせて200人近くが死亡するという事故が発生したとき、海難事故の調査制度上の問題点が浮上した。
 すなわち、政府の同一部局(The Same Branch of Government)が、一方で海難事故の原因調査と事故防止の勧告を担当するとともに、他方で政策や規則の立案と施行を担当することは、延いては一方では国民を代表して原告になるとともに、他方では法律の規制と実施について被告になるという結果に繋がり、制度的に利害関係の衝突、矛盾(Conflict of Interest)をもたらすことが明らかになったのである。
 そこで、運輸省海事局から分離し、同省の外局(Separate Branch、又はIndependent Arm)として、また、運輸大臣に直結した機関(Totally Independent Unit)としての海難調査機関の設置が検討され、その結果、既存の運輸省外局である航空事故調査局(Air Accident Investigation Branch AAIB)をモデルにした海難調査局(MAIB)が1989年に設立されるとともに、1995年には海難調査及び海難審判の基本法(Principal Act)として、1995年商船法(The Merchant Shipping Act 1995)が制定されたのである。
 なお、1999年ごろ、運輸省は、環境・運輸・地域問題担当省(The Department of The Environment、Transport and The Regions、DETR)に改組されたが、2003年には、再び運輸省(The Department for Transport、以下「DfT」という。)が発足し、MAIBも現在は同省の外局として位置付けられている。(英国では、しばしば組織の変更が行われている。)
 ついでながら、来年2004年には、鉄道事故調査局(The Railways Accident Investigation Branch、RAIB)が、DfTの外局として新たに業務を開始することになっているが、自動車分野については、DfTにこのような調査機関を設立する動きはないという。
 
 MAIBは、本部をサザンプトンに置き、主席検査官(Chief Inspector of Marine Accidents)のほか、副主席検査官(Deputy Chief Inspector)及び4名の主任検査官(Principal Inspector)の6名に加えて、10名の検査官(Inspector)と管理マネージャー(Administration Manager)を含む12名の行政事務官(Administrative Officer)の総計28名によって構成されている。
 主席検査官は、MAIBの責任者(The Head of MAIB)として、MAIBの予算の作成や経費の処理など、その運営と管理について責任を負うとともに権限を有しているが、海難調査の実務については、当該海難事故の調査を行うべきか否かを決定し、また、調査を行った場合は、その調査結果を直接大臣に報告しなければならない責務を負っている。
 なお、主席検査官は、副主席検査官、主任検査官及び検査官と同様に、政府職員にも非政府職員にも門戸が開放されているが、全員が学士号又は修士号を所有していて、船長或いは機関長等として海上の管理経験も豊富で、現職の主席検査官は、英国海軍の出身である。
 主席検査官は、大臣(Secretary of State)によって選任され、任期は3年で、再任は可能である。
 また、副主席検査官は、首席検査官を補佐し、同人が不在の場合は同人に代わってMAIBの任務を遂行することになっている。
 他方、主任検査官は、大きな海難事故(Major Accident)の検査官を務めるとともに調査全般を指揮し、最終報告書(Final Report)を主席検査官に提出する一方、これを関係先に配布する責務を負っている。また、交代で主席検査官及び副主席検査官とともに、当番コーディネイター(Duty Co-ordinator)になるとともに、教訓(Lessons)を記載した安全要録(Safety Digest、資料1)を作成する責務も負っている。
 なお、検査官は、航海、機関(舶用)、造船及び漁業の専門家で、2003年10月現在、4名の主任検査官の専門は、航海2名(うち1名は、他の専門家と変わることがある。)、機関1名、造船1名であり、また、10名の検査官の専門は、航海5名、機関3名、造船2名となっていて、その他に漁船部門の検査官の採用を希望しているが、適任者が見つかっていないという。
 また、管理マネージャーは、事務所の効率的な運営に責務を負い、更に、行政事務官は、海難報告書の作成や出版物の刊行、資料の分析等に携わるほか、事故調査の全段階において検査官を全面的に支援することになっている。
 このように、組織が小さい点に関して、主席検査官は、小さい組織を維持することによって、細部に渡って監督が行き届くという利点を挙げている。
 一方、MAIB、AAIB及びRAIBの三機関は、各機関がそれぞれ個別に存在することに関して、研修や出版、報酬、身分等について共通の認識、見解を持って任務に当たっているが、政府は、調査機関(Transportation Board)が行政と費用の面から重要な役割を担っていることを承知しており、また、各交通形態別の専門家の専門知識とニーズ(Specialists Expertise and Needs)も認識していることから、三機関は、これからも個別の機関として存続するものと思われるという。
 
 MAIBが海難事故の調査を行う基本目的は、海上における人命の安全の向上と将来における事故の再発防止のために、事故の状況(Circumstances)と原因(Causes)を明らかにし、事故の再発防止のための教訓(Lessons)を引き出すことであり、責任割合を定めたり(Apportion Liability)、科刑を課したり(Apportion Blame)することが目的ではないと定められている。
 因みに、MAIBは、海技従事者に対する懲戒権(Disciplinary Authority)をもっていないが、このことは、AAIB、RAIBも同様である。
 そして、MAIBは、海上保安の執行業務とは全く関係がなく、また、いかなる取締り機関からも独立した存在であるということを、法律の実施庁(Enforcement Agency)でもなければ、公訴の訴追庁(Prosecuting Agency)でもなく、政府や海上保安庁(MCA)に対して批判し、規則の改廃を提案することがあるとして、このことを機会あるごとに強調している(別項「7 海上保安庁との関係」参照)。
 ただし、MAIBは、法律上、安全問題と教訓のみを考察するよう義務付けられているが、MAIBの報告書(Public Report)は、民亊にも刑事にも利用できることになっている。
 なお、参考のために記すと、英国における海難事故の調査は、1995商船法のもとで下記の4種の形式によって行われている。
(1)海難調査局(MAIB)(267条)
(2)海難審判(Formal Investigation、FI)(268条)
 一般に、重大な海難事故が発生した場合に、イングランド、ウェールス及び北アイルランドでは海難調査委員長(Wreck Commissioner)によって、また、スコットランドでは州長官(Sheriff)によって行われる審判をいう。
 詳細については後述する。
(3)懲戒審問(Disciplinary Inquiry)(61ないし63条)
 大臣が、士官等の適格性などについて問題があると考えたとき、1人以上の現役又は退職裁判官を指名し、1名以上の裁判所補佐人(Assessor)を陪席させて行われる審問をいい、免許の取消や停止などの懲戒を行う。
 海難関係人が、懲戒に不服の場合は、高等法院(High Court、ただし、スコットランドではCourt of Session)に上訴することができる。
 詳細は省略する。
(4)死亡事故に関する調査(Death Inquiry)(271条)
 英国船籍の船舶において死亡事故があった場合に、死亡後最初に入港した港において警視(Superintendent)または資格のある警察官(Proper Officer)によって行われる調査をいう。
 詳細は省略する。
 このように、MAIBが発足したとはいっても、海技従事者の懲戒を含む海難審判等の制度が依然として存続されているのは、国家が海技資格制度を設け、一定水準以上の海技知識及び技能を有する者に対して免許を交付し、危険とされる船舶の運航を許可するのであれば、国家は、その海技免許が正当に行使されていることを常時担保する義務を課されているからである。
 
 海難調査局(MAIB)の使命は、事故に係わった個人の過失や技量不足を指摘して応分の処分を決めることではなく、IMOで決議された「海難及び海上インシデントの調査のためのコード」(IMO決議A. 849(20))の趣旨に則って、事故の原因(Cause)をヒューマンファクターに基いて奥深く(The Depth of Investigation)調査し、国家や団体、組織等の海運システムにおける安全性の欠陥を指摘するとともに、事故の再発を防止するための教訓(Lessons)を幅広く(The Extent of Report)引き出し、これを勧告(Recommendation)することによって、海上安全の増進と海洋汚染の防止を図ることにある。
 取り分け、幅広く、奥深い調査という点については、MAIBは、海上保安庁(MCA)の調査結果も船舶及び人命の安全確保と海洋環境の保全に資するための資料として活用しているほか、Southampton InstituteのWarsash Maritime Centre(別題「Southampton Instituteにおける海難調査」参照)のSimulation記録(別項「(5)海難調査の手法」中の例題、Bro Axel・Noordhinder Near Miss事故関連、資料 2)も採用しており、これらのことからあらゆる資料、情報、知識を収集して報告書を作成していることが伺える。
 また、勧告については、主席検査官は、何時でも(At Any Stage of an Investigation)勧告することができることになっているが、主席検査官の勧告文書(Chief Inspector's Letter)や調査報告書(Report of Investigation)に記載される勧告は、安全性又は汚染防止に有益と考えられる勧告(Safety Recommendation)に限られていて、懲戒的な勧告(Disciplinary Recommendation)は除外されている。
 主席検査官が、海難事故の発生を知るのは、MCAからの報告(SITREP)によることが多いが、海難関係者からIncident Report Form(IRF、資料3)を添付して送られてくるE-mailによることも多く、それは、年間1,000件ぐらいあるという。
 MAIBは、事故の報告(Report of Accident、ROA)を受けると、同局の事務部門が直ちにこれをデータベースにインプットし、事故報告記録簿(Accident Reporting Memorandum、ARM)に登録して事故番号(Unique Number)を付ける。
 一方、主席検査官は、調査によって事故再発防止のための教訓を得ることができるかどうかを勘案したうえ、検査官による調査の要否を決定し、かつ、当該事故の発生を船長又は船主の報告によって知ったものであれば、報告受領後28日以内に調査の実施如何についての決定を同人達に通知しなければならないことになっている。
 したがって、主席検査官は、決定を下す前に必要に応じて船長や船主、あるいは、その他の関係者や団体から、手紙などによって更なる情報(Follow Up Action又はAdmin Inquiry)を入手することができる。
 その際、これらの者が、正当な理由なく情報の提供を怠ったときは、陪審によらない有罪判決(Summary Conviction)により罰金・科料(Fine)を課される。
 因みに、2001年には、海難事故の報告があった1,459件のうち485件について、主席検査官が、同報告を正確にデータベースに記録するため、或いは、有益な教訓(Lesson)を得る素地があるかどうかを検討するため、更には、調査(Full Investigation)を実施するか否かを判断するために、交信手段によって追加情報の入手措置が取られている。
 こうして、主席検査官が、海難関係者との事務調査の結果、或いは、現場調査チーム(Team on Site)の予備調査(Preliminary Enquiry又はOn Board Examination、資料 4)の結果、事故の重要性(Seriousness of the Case)を査定して、調査不要(No Further Action、NFA)と認めた場合は、将来的な分析に備える意味もあって、事故の発生地点等をインプットするのみで当該事故の終了処理をする。
 一方、安全問題が明らかとなり、各種教訓が得られ、勧告が必要と考えられた場合は、主席検査官は、文書(Chief Inspector's Letter)によって、調査の実施をMCAを含む関係者に伝える。
 主席検査官が、調査の実施を決定した場合は、通常、1名の主任検査官を含む4名の検査官からなる調査チームが結成される。同チームには、船舶分野と機関分野の検査官が必ず含まれており、主任検査官は、チームの管理とクオリティーコントロールを担当するとともに、主任調査官(Lead Investigator)を任命し、最低もう一人の検査官と一緒に彼らを現地調査に向かわせ、予備的な調査に当たらせる。
 このように、現地調査は、事故がたとえイギリス国外で発生した場合であっても、最低2名からなる調査チームが事故発生現場に派遣され、主任調査官が調査報告の草案を纏める。
 なお、調査に当たる検査官は、適切な検査官が任命されていない場合とか、専門の資格や経験を有する人材が別に存在する場合には、主席検査官が特に任命する者を検査官に追加したり、又は、その者に検査官を代替させたりすることができ、その際、追加又は代替して調査に当たる者は、既存の検査官と同一の権限が付与されることになっているが、通常は外部検査官(External Inspector)に調査を委託することはない。
 また、海難調査の国際協力という点に関して、MAIBは、これを積極的に推進していくことにしていて、1992年8月7日Queen Elizabeth IIが、アメリカのVineyard海峡を航行中、乗揚げた事故では、USCGとNTSBの共同調査に検査官を派遣し、独自の調査を行うとともに、審問に参加したという。
 (ただし、NTSBの調査報告書では、イギリスの検査官は、守秘義務を楯に調査への参加を断ったと記載されている。)
 なお、事故調査の国際協力とはいっても、証人の供述調書は、同人の許可がない限り相手側に提供又は相手側のそれと交換することはしない。
 一方、イギリス近海では船籍の異なる船舶間の衝突事故が散見されるが、このような異国籍船間の事故ではあっても、EUに所属する船舶がほとんどであるため、調査に困難をきたしたことはないという。
 詳細は後述する。
 調査の対象となる海難事故(Marine Accident)は、船舶の国籍又は航行海域と事故の態様という二つの条件によって規定されている。
 すなわち、MAIBが調査の対象とする船舶は、世界の全海域(河川や湖沼、内海、平水区域を含む)にいるイギリス船籍の船舶(商船、漁船、プレジャーボート等の商船法(Merchant Shipping Acts)上、船の定義に当てはまるもの。したがって、ジェットスキーや水上オートバイは対象外)又はイギリスの領海内にいる世界の全船舶(同上)であり、また、調査の対象となる海難(傷害を含む、)は、船舶の衝突、座礁(Grounding)、火災、爆発、滅失(Lost)、放棄(Abandoned)、故障(Disabled)等のほか、人命の喪失、主要な傷害(Major Injury)、肉体的な損害(Material Damage)等に加えて、設備や貨物の圧壊(Collapse)、破損(Failure)等である。
 これには、船舶の運航に伴って発生する事故(Accident)以外の事件で、船舶や船舶上の人の安全が阻害されたり、環境を損なうような事故が発生する可能性が極めて高い、いわゆるニヤミス等のインシデント(Hazardous Incident)も含まれている。







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