2. 脳波解析を通した重度痴呆性老人の終末期医療としての音楽療法評価
宮城大学 教授 佐治順子
平成14年度笹川医療医学研究財団研究助成金
脳波解析を通した重度痴呆性高齢者の終末期医療としての音楽療法評価
宮城大学 佐治順子
キーワード:音楽療法、痴呆性高齢者、固有テンポ、脳波解析、終末医療
music therapy, senile dementia, subjective tempo, EEG, terminal care
I. 研究の目的・方法
I.1. 研究の背景
加齢と共に、運動・感覚・認知機能のみならず、内臓諸器官の機能低下が予測される痴呆性高齢者にボランティア活動による音楽療法セッションを、宮城県内のA介護老人保健施設(入居ベット数110床)で継続実施して6年間になる。筆者は、音楽療法のセッションは、MMSE評価痴呆度別に重度・中度・軽度の3つのクラスに分けた集団セッションを、筆者研究室ゼミ生の演習、および音楽療法に関心をもつ他大学生および一般人のボランティア活動の一環として実施してきた。この間無事に機能が回復して、ご家族のもとに帰宅できた方はほんの握りしかない。その割合は各年度のよって多少変化するが、筆者の6年間の平均では、その約65%が、病気療養のために近隣病院に入退院しながら現在も入居中の方である。約25%は、最後の1〜2週間前までは、音楽療法セッションにも静かに微笑みながら出席していたが、残念ながら他界されてしまった方である。その他約10%は、特別養護老人ホームや御家族の都合で遠隔地の他施設に移られた方、あるいは幸い家族のもとに帰られた方々である。平均年齢が、82.7±1.04才の高齢者とは思えないほどのいいお声を披露し、少々照れながらもそれぞれが思い思いに楽器演奏参加もされていた姿に、終末期の医療と人生の意味を学ぶ、有意義な共有時間であったと確信している。
高齢者の音楽療法研究は、2000年の筆者の調査によると 1)、事例研究を含む学術雑誌に掲載された論文数では、欧米(9%)よりも日本(19%)の方が多い。大きく分けて研究方法に、行動観察を基盤にした定性的研究〔松井(1994)、岡崎・門間(1994)、Clair(1996)、師井(1992)、Aldridge(1996)、高橋(1996)、赤星(1999)、加藤(2000)、栗林(2000)〕と、科学的データーに基づいた定量的研究〔Waltonら(1988)、Swartzら(1989)、Guntherら(1993)、貫ら(1994)、奥村ら(2003)〕に分けられるが、高齢者の場合後者の研究はまだ少ない。その要因の一つに、音楽療法が20世紀後半から学問として本格的な活動を開始した新しい学問であるために、家族を含めた本人に音楽療法の理解とインフォームドコンセントがとり難いこと、二つに、加齢による不可逆的機能低下を充分考慮に入れた多角的な構築が必要であることなどがあげられよう。痴呆性高齢者人口の急増している現在、患者やその家族両者の生活に大きな負担と支障をもたらしている痴呆性高齢者問題を、早急に緩和・改善する必要である。そのためには、希望を提供できる実践に基づいた科学的研究が必須である。
I.2. 本研究の目的
筆者が6年前から実践・研究してきた痴呆性高齢者の集団および個人音楽療法の中から、1998年秋〜2002年秋までの約4年間、自由参加形式の集団音楽療法セッションに、亡くなる最後の1ヶ月以外は皆勤出席であったBさん(享年70歳)に対する音楽療法効果について、脳波解析とセッション時の行動観察から評価することを目的とする。Bさんを選んだ理由は、第一に1998年から毎年1回、音楽療法セッションに参加された方の中から、施設医師および本人・家族の了解の承諾が得られた方へ、音楽聴取時の脳波計測を実施してきたが、これにBさんは毎年参加していたこと、第二に脳波計測後の脳神経内科医の診断で、Bさんが「中程度の脳波異常」の診断が出されていたのに関わらず、終末期においても積極的に音楽療法に参加したこと、第三に痴呆性高齢者の一事例研究ではあるが、脳波測定の経年的変化を捉えた、重度痴呆性高齢者の研究が少ないことなどのためである。
I.3. 方法
I.3.1. 対象者
・ 1998〜2002年までの4年間、県内におけるA介護保健老人施設で、毎月3回づつ、継続的に実施している音楽療法セッション、および各年度1回定期的に実施している脳波計測に参加した施設入居者C氏である。
・ 入居時の診断名は、脳梗塞、糖尿病であり、MMSEは13点、1999年までは自分で歩行が可能であった。2002年の最後の一年間は、MMSE:1点、介護度:車椅子使用で完全要介護(V)であった。
・ C氏の高嗜好度楽曲は、宮城県民謡「斎太郎節」と「夕やけこやけ」であり、最後まで好んで使用した楽器はドラムであった。特に2000年に隣に座った入居者の男性にドラムのバチを、一本渡して、一緒に一つのドラムを叩いていた姿が印象的である。
・ C氏のコントロールとして、同じく1998〜2002年に音楽療法セッションに参加しているD氏をおく。彼女は、2001年時74歳、MMSE:15点で、介護度:車椅子使用で半介護II、入居時の診断名は、老人性欝病であった。
I.3.2. 対象者の痴呆度と行動評価表
・ Mini Mental State調査(MMSE)は、筆者を含む3名が毎年1回行なっている。脳波計測の予備調査として、計測の1−2週間前に実施した。MMSE結果から、重度痴呆高齢者をMMS:8点以下、軽度痴呆性高齢者をMMS:18点以上に分けた。
・ 介護度は、各クライエント担当の介護士が記載し、看護婦長が確認した施設での日常生活動作(ADL)の評価表、および投薬含む病症歴を、年1回施設医師より資料の提供を得ている。
・ 毎セッション時の行動評価表MCL−S(これは松井(1994)のMCL−Sを、佐治が改訂したものである)と、脳波計測中の行動記録は筆者が行なった。
I.3.3. 「固有テンポ」
1998年から集団・個人セッションの中でクライエントが、歌による、或いは手拍子、打楽器による演奏をした時のテンポを、「固有テンポ」と呼ぶ。これらは施設長の許可を得て撮影したビデオから、メトロノーム法で記録した。また集団セッションだけに参加していた対象者には、2000年4月より、確認のため個人セッションを追加して行い、同様の方法で「固有テンポ」を抽出した。
I.3.4. 使用楽曲
・ セッション時の使用楽曲は、MMSE記録時に好きな楽曲名の聞きとりアンケート調査と、これまでのセッション時の反応から、音楽療法士である筆者が毎回プログラミングしている。
・ 1998年より3年間音楽療法に参加した入居者らに、共通して最もよい参加が得られた楽曲は、宮城県民謡「斎太郎節」であったので、脳波計測時の聴取楽曲は「斎太郎節」の2番まで(約1分30秒)とした。
・ この曲は今から約400年前から宮城県内の漁民の間で大漁を祝って歌われた作業唄であり、特に「大漁唄い込み」として沿岸地域に親しまれていた。今では作業唄としてよりは、祝い唄として、あるいは広く寄り合いの席で唄われる民謡である。膝打ちや首ふりだけの参加も含めると、参加しないクライエントは殆どいない楽曲である。
I.3.5. 脳波計測
・ 脳波測定は、全て筆者が各対象者のベットサイドで、生音声によって与えた。この際耳の遠いクライエントに対しては、聴こえる側で、状況によっては音量を大きくして与える配慮をとった。
・ 対象者の頭部に電極を装備することによって、いつもと異なる緊張感や不安感を抱かせないように、電極づけにかかる約15〜20分間、いつもの個人セッションをベットサイドで実施した。この個人セッションの導入によって、被験者の不安げな様子が消え、リラックスした表情を伺うことができた。集団では出し難かった自発的表現が発露される場面もみられた。
・ テンポは2種類で、(1)これまでの記録から抽出した各自の演奏テンポ(2)「斎太郎節」の速めのテンポを、ランダムに聴取させた。この際の速めのテンポは、通常健常者が「斎太郎節」を歌うテンポ(SGC−15のCD版 No.6「大漁唄い込み」)がMM =88である。
I.3.6. 脳波解析
・ 脳波は19極全ての電極を記録しているが、眼球運動の影響、また測定中に自発的に歌い出す被験者などの顎運動に起因するノイズが影響しているために前頭極部と側頭部は除き、解析部位は前頭・中心・頭頂・後頭部のみとした。「基準電極法では、どれか一つの電極に、たとえば大きな瞬きや体動などが入ると全体に影響してしまうが、連結双極導出法では、二つの電極がおかれている部位付近に局在し、しかもどちらかの電極により接近して出現する電位変動がある場合、両電極に共通の部分が差し引かれるので、基準電極法よりもはっきりと記録されることが多い」(大熊1963)。従って本研究の脳波解析では、連結双極導出法による6部位間の脳波データ(F3−C3、C3−P3、P3−01、F4−C4、C4−P4、P4−02)を使用した。
・ 安静時脳波は、楽曲聴取時及び聴取後の各脳波データに対し、ハイカットフィルタ(60Hz)をかけた後、開始から等しく30秒間を抽出し、各楽曲聴取時のパワースペクトルPower Spectrum(PS)値を算出した(日本光電EEG−Focus使用)。
・ 脳波の解析周波数区分は、θ−α−β波帯域に存在する不可逆的経年変化を捉えるため、以下の通りに設定した:δ波(1−4Hz)は1区分とし、θ波(4−6Hz=θ1/6−8Hz=θ2)、α波(8−10H=α1/10−13H=α2)β波(13−20Hz=β1/20−60Hz=β2)を2区分づつに細分化した。
・ 「斎太郎節」聴取時の脳波解析は、(1)「固有テンポ」聴取時・聴取後の脳波(Subjective tempoと表示)、(2)速い非固有テンポ聴取時・聴取後の脳波(Non-subjective tempo)の各30秒間のパワースペクトル相対比Ratio of Relative Power Spectrum(RRPS)を算出した。ここでRRPSを用いたのは、各被験者に対して音楽聴取時の脳波に含有する嗜好度や生活歴に起因する個人差を、PS値から除くためである。
II. 研究の内容・実施経過
II.1. 固有テンポ
1999−2001年間の「斎太郎節」の[固有テンポ]の経年変化を図1に示す。コントロールとして、軽度痴呆高齢者D氏の固有テンポを示す。図1によると、C氏の固有テンポは、1999年代の1年間はおよそMM =63−76の間を前後していた。2年目以降次第に軽度痴呆者(D)は、MM =80以上のテンポを示すようになる。一方重度痴呆者(C)は、2年目以降も、MM =69−76内であり、最後は睡眠状態が続いていたので計測をやめ、C氏の好きだった「斎太郎節」を彼の呼吸数に合わせて、筆者がベットサイドで静かに歌った。時折目を開けては、また眠りに入っていった。
図1. 斎太郎節の「固有テンポ」経年変化
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