国際海事機関(International Maritime Organization;以下、「IMO」という。)において採択・決議された「航路指定」
39第1編「航路指定の一般通則(general provisions on ships' routeing)」の定義(第2章)に基づくと、分離通航方式(traffic separation scheme;以下、「TSS」という。)とは、通航路の設定及び適当な方法により、対面する交通流の分離を目的とした航路指定の方法(routeing measure)の一種であると規定されている。換言すれば、TSSは反対方向又はほとんど反対方向に進行する船舶の通航を分離する方式のことであり、主に船舶交通のふくそうする水域における船舶交通流の整流を目的として設けられている
40。政府間海事協議機関(Inter-governmental Maritime Consultative Organization;以下、「IMCO」という。なお、IMCOは1982年5月に名称をIMOに変更した。)の勧告としての性格を有していたTSSは、航行安全上の有効性が認識され、1972年の国際海上衝突予防規則(International Regulations for Preventing Collisions at Sea;以下、「COLREG」という。)のB部操船規則及び航行規則(PART B steering and sailing rules)の中に取り入れられた。
当時のCOLREG第10条(a)項では、「この条の規定は、機関が採択した分離通航方式に適用する。(This Rule applies traffic separation schemes adopted by the Organization)」と規定され、各国が独自に設定しているTSSには適用されないことを明示している。またTSSを使用する船舶は、通航路(lane)を当該通航路の交通の流れの一般的な方向に進行しなければならず((b)項(i)号)、TSSを使用しない船舶は、実行可能な限り当該分離通航帯から離れなければならない((h)項)。さらに(c)項では、「船舶は、実行可能な限り、通航路を横断することを避けなければならない。(A vessel shall so far as practicable avoid crossing traffic lands)」と規定し、TSSを設定した趣旨に鑑み、不必要な見合い関係を生じさせないように通航路の横断を原則禁止としている。2船間の航法という観点からは、その後のCOLREG改正によって、(a)項に「当該規定は、他の条の規定に基づく義務を免除するものではない。(and does not relieve any vessel of her obligation under any other Rule.)」という条文が加えられ、特にB部操船規則及び航行規則の他の条項との間に生じていた航法上の誤解を形式的には法規範文の上で解消した
41。
一方、我が国では海上衝突予防法(昭和52年6月1日法律第62号)第一〇条第一項において、「この条の規定は、1972年の海上における衝突の予防のための国際規則に関する条約に添付されている1972年の海上における衝突の予防のための国際規則第1条(d)の規定により国際海事機関が採択した分離通航方式について適用する。」と規定され、TSSに関してはCOLREG第10条の規定と同様の内容が適用になっている。また同法第一〇条第一四項に基づき、現在126箇所のTSSが告示されている(「分離通航方式に関する告示」平成13年5月14日海上保安庁告示第149号[第58次改正])。
しかしCOLREGと航路指定との間の問題や、各々の法的拘束力や性格の問題等、TSSに関連する種々の問題点も指摘されている
42。これらの問題の多くは、長年の伝統により培われてきた船員の良き慣行の集積であるCOLREG上のTSSの法的地位や、TSSの法的性格の曖昧性に基因しており、国際会議の場において、TSSの技術的側面の研究もさることながら、法的側面の研究の必要性も認識されつつある。
4.1 TSSの歴史的背景
分離通航(traffic separation)及び通航路指定(traffic routing)という形式をTSSの原形とみるのであれば、既に1847年に天候を考慮した航路が提案されていた。また1855年には、北大西洋を横断する汽船を相互に離して反対方向に航行させるよう設計された分離路(separate lane)が提案された。一方、航海の安全を目的とした国際的合意という形でのTSSは、1898年に北大西洋航路の客船運航会社の間で交わされた分離通航路(traffic separation route)に関する一種の紳士協定(gentlemen's agreement)が起源となっている
43。関連条項はSOLAS条約に取り入れられ、1960年のSOLAS条約では第5章第8規則(北大西洋航路)において、「(a)北大西洋を両方向に横断する認められた航路及び特に北大西洋の両岸の船舶が集中する区域における認められた航路に従うことの慣行は、船舶相互間の衝突及び氷山との衝突の防止に貢献しており、この慣行は、すべての関係船舶に対し推奨されなければならない。(The practice of following recognized routes across the North Atlantic in both directions and, in particular, routes in converging areas of both sides of the North Atlantic, has contributed to the avoidance of collisions between ships and with icebergs, and should be recommended to all ships concerned.)」と規定された。
1961年、フランス、ドイツ、英国の航海学会(institute of navigation)は、衝突のおそれが頻繁に発生する海域であるドーバー海峡を対象として、共同で分離通航に関する方法の研究を行い、TSSの導入案はIMCOに提出され、海上安全委員会(Maritime Safety Committee)において承認された。そして1967年には、自主的な航路指定方式(voluntary routing schemes)としてドーバー海峡に2つの主要な通過通航路(through-traffic lane)と2つの沿岸通航帯(inshore traffic zone)が設定された
44。1971年、ドーバー海峡で発生した衝突事件を一つの契機として、IMCOは第7回総会(1971年10月)においてTSSの通航方法の遵守を確保するために2つの決議を採択した(Resolution A.205(VII)、Resolution A.228(VII))。この総会では、まずIMCOを航路指定に関して、国際的レベルの方式を確立・採択する唯一の国際機関として位置づけ、1960年のSOLAS条約第5章第8規則を改正することにより、IMCOが採択したTSSでは、船舶は交通の流れの一般的な方向に進行しなければならないとした。また一種のサンクションの必要性を認めて、加盟国政府に対して、IMCOによって採択されたTSSの交通の流れの一般的な方向に反して進行した船舶を、当該船舶の旗国の違反(offence)とするよう勧告した。そして連合王国を初めとして、多くの政府が、この勧告を履行するため立法措置(legislation)を講じた
45。しかし強制化の問題については、TSSの条項をCOLREGの中に取り込んだ方が望ましいとの結論に達し、1972年のCOLREG第10条に規定されることになった。ところがCOLREGの施行前には、既に63のTSSがIMCOによって採択されており、第8回総会(1973年11月)において採択された決議(Resolution A.284(VIII))によって、本条に規定しているのとほぼ同様の航法原則が適用されていた(ANNEX 1)。その意味からいうと、本条は従来からのIMCOの勧告であった航法原則を条約上の義務に引き上げることになったといえる。なお1974年のSOLAS条約では、航路指定に関する規定を整理したが、勧告としての総論的な意義しか見いだすことはできない。
一方、1972年のCOLREG施行後の「航路指定の一般通則」については、第10回総会(1977年11月)で決議が採択され(Resolution A.378(X))、第11回総会(1979年11月)決議で改正され(Resolution A.428(XI))、第14回総会(1985年11月)決議で新規に採択されたが(Resolution A.572(XIV))、基本的な事項については変更されていない。すなわち航路指定の目的は、「船舶の集中する水域及び船舶交通密度の大きい水域又は限られた操船余地、航路障害物の存在、限られた水深若しくは不利な気象条件のため操船の自由が制限される水域において、航行の安全を向上すること(to improve the safety of navigation in converging areas and in area where the density of traffic is great or where freedom of movement of shipping is inhibited by restricted sea-room, the existence of obstructions to navigation, limited depths or unfavorable meteorological conditions)」であり、「個々の航路指定方式の明確な目的は、緩和の対象となる特殊な危険の状態で決まる(the precise objectives of any routeing system will depend upon the particular hazardous circumstances which it is intended to alleviate)」とされている。また航路指定方式の使用に関しては、「IMOが採択した分離通航方式内又は付近を航行する船舶は、他船と衝突するおそれの増大を最小限にとどめるため、COLREG72第10条の規定に特に従わなければならない。同規則の他の条の規定もすべての点で適用され、特に他船と衝突するおそれのある場合には、同規則B部第2章及び第3章の各規定が適用される。(A ship navigating in or near a traffic separation scheme adopted by IMO shall in particular comply with Rule 10 of COLREG72 to minimize the development of risk of collision with another ship. The other rules of COLREG72 apply in all respects, and particularly the rules of Part B, Sections II and III, if risk of collision with another ship is deemed to exist.)」と規定している。
法的意義は異なるが、国際海事機関が決議した航路指定の一般通則には、分離通航方式のほかに航路指定方式として、対面航路(two-way route)、推薦航路(recommended route)、推薦航路(recommended track)、深水深航路(deep water route)等が定義されている。また水路書誌
46では、航路指定に関連して、船舶の集中する水域および船舶交通密度の大きい水域など操船の自由が制限される水域において、船舶の安全を推進することを目的として、沿岸通航帯、警戒水域、深水深航路、避航水域といった「航路」を指定し、海図に記載されていることを紹介している。
このようなTSSに関する規定の整備と並行して、第11回総会では実効性の担保という観点から、それらの規定遵守の問題についても検討された(Resolution A.432(XI))。すでに一部の加盟国政府は、自国の沿岸沖のTSSを監視し、1972年のCOLREG第10条に違反する船舶を旗国(flag state)に通報する制度を確立していた。そこで1972年のCOLREG第10条の遵守を強制化するもっとも効果的な方法は、ある種の罰則(penalty)を課すことであるという見解のもとで、IMCOは加盟国政府に次のような事項を要求した。すなわち第11回総会では、(a)1972年のCOLREGの条項を常時遵守する必要性に鑑み、船舶所有者、船長及び海員の注意を喚起し、(b)沿岸国は違反の内容を、この決議の様式に従って旗国に通報し、(c)旗国は他国政府から受け取った違反通報に対して適切な措置をとり、その結果を通報してきた政府に通知することを決議した。
昭和60年1月1日から平成13年8月31日にかけて、我が国の船舶が第10条の規定の航法に違反したとして沿岸国から通報があったのは42件であり、その内訳は、イギリス7件(ドーバー海峡及びその接続水域)、フランス19件(ドーバー海峡及びその接続水域、アシヤント沖、カスケット沖)、オマーン13件(ホルムズ海峡)、スペイン3件(フィニステレ沖、ジブラルタル海峡)となっている。なお一部の国においては、交通の流れの定められた方向に反して進行することを違反(offence)と定めた政府によって、過去に若干の訴追(prosecution)が行われている
47。
なお、航路指定の第7編(Part G)では、1974年の海上における人命の安全のための国際条約の改正(International Convention for the Safety of Life at Sea, 1974, as amended)に関連し、強制の船舶通報制度(Mandatory Ship Reporting Systems)および強制の航路指定方式(Mandatory Routeing Systems)を定めている。第5章第8規則では、「船舶通報制度は、海上における人命の安全、航行の安全及び海上環境の保護に貢献する。(Ship reporting systems contribute to safety of life at sea, safety and efficiency of navigation, and protection of the marine environment.)」とあり、「船長は、採択された船舶通報制度の要件を遵守し、各通報制度の規定に従って要求されるすべての情報を関係当局に通報しなければならない。(The master of a ship comply with the requirements of adopted ship reporting systems and report to the appropriate authority all information required in accordance with the provisions of each system.)ことになっている。強制の船舶通報制度が定められている海域は、[1]Torres StraitとGreat Barrier ReefのInner Route、[2]Ushant沖、[3]Great Belt Traffic水域、[4]Strait of Gibraltal分離通航方式の水域、[5]Finesterre沖、[6]Malacca StraitとSingapore Strait、[7]Bonifacio Strait、[8]UNITED STATES北東と南東沖、[9]Dover Strait/Pas-de-Calaisの9カ所、強制の航路指定方式を定めている海域は、North Hinder〜German Bight間のタンカー用強制航路の1カ所である。
4.2 TSSの法的性格
1972年のCOLREG第10条(b)項(i)号では、分離通航帯を使用する船舶は、通航路を当該通航路の交通の流れの一般的な方向に進行しなければならないと規定され、また海上衝突予防法第一〇条第二項第一号では、船舶が分離通航帯を航行する場合は、通航路をこれについて定められた船舶の進行方向に航行しなければならないと規定されている。すなわち法規範文としては、船舶がTSSを使用する際の方法を規定するにとどまり、TSSそのものの使用を法的に義務づけてはいない。換言すれば、TSS使用の強制化に関する法的な明文規定は存在せず、IMOはTSSの遵守を確保するためのサンクションの必要性を認めつつも、直接COLREGに基づく措置を講ずることは避け、加盟国政府に対してその実効性を担保するよう勧告している。
一方、操船の場において、TSSをその交通の流れに沿って航行している船長の中には、自船は航法上のある種の特権を与えられており、横切り船に対して優先権があると信じている者もいた。このような考え方の背景には、TSSが他の法定航路と類似した形態を有しており、またCOLREGの中にそのような特権を否定する明文の規定は存在していなかったこと等が挙げられる
48。そのため「統一適用のためのガイダンス」案
49や英国の改正案
50では、TSSを航行していても1972年のCOLREGの他の規定があらゆる面で適用され、特に他の船舶と衝突のおそれがあると思われる場合は、B部操船規則及び航行規則の第2章及び第3章の規定が適用されることを注意喚起した。結局、COLREG第2次改正においては、当時の「航路指定の一般通則」第8章(航路指定方式の使用)に、同様の趣旨が明記されていることもあり(para.8.3)、COLREG第10条(a)項に一種の確認的規定(「当該規定は、他の条の規定に基づく義務を免除するものではない。」)が追加されたが、この規定はある意味では不必要であったという意見もある
51。現に海上衝突予防法第10条第2項には、「この法律の他の規定に定めるもののほか」という解釈上のメタルールが明記されており、当初から2船間の航法についての誤解は生じないような規定になっている。すなわち行為規範という観点からは、COLREG第10条は第9条と同様、基本的には衝突のおそれの発生を減少させること(衝突間接的回避)が目的であり、相手船の現実的存在を前提とした物理的衝突を回避する(衝突直接的回避)ためには、原則として、いわゆる狭義の航法
52に従わなければならない。
ところでCOLREG第10条(c)項及び(h)項の規定には、通航路の横断や分離通航帯付近の航行方法について、「実行可能な限り」という文言が付加されているが、その法的な用語の解釈によっては、TSS遵守の実効性や法規範性に影響を及ぼすものと思われる。すなわち第10条に定めるこれらの義務規定は、船舶の衝突を予防するためのCOLREG上の原則ではあるが、「実行可能な限り」という用語を形式的に解釈すると、あくまでも航法上の一種のガイドラインにすぎず、一律に航法を義務づけたものと見ることも困難となる
53。しかし他の条約と異なり、COLREGにおける行為規範の前提には広い意味でのグッドシーマンシップが存在し、実効性の曖昧な部分をカバーする良き伝統が支配しているという考え方もあり、それらの規定は法的には必ずしも画一的な義務を課しているとはいえないが、実質的には当為性を有する一般的義務を課していると見ることができる。
またCOLREG第10条では、TSSを「使用する(using)船舶((b)項)」と「使用しない船舶((h)項)」に分けて航法を規定しているが、船舶あるいは船長の意思を前提としているのか、あるいは船舶の客観的な航行形態を前提としているのかによって、法規範としての性格に差異が生じる。すなわち前者の前提の場合は、船長がTSSを使用する意思がなく、しかも実行可能ではないと主観的に判断するのであれば、第一義的にはTSS遵守の義務から解放されることになる。したがって、たとえ通航路の交通の流れの一般的な方向に進行していなくても、分離通航帯を使用していないのだからCOLREG第10条(b)項の規定に違反しているとはいえないし、また実行可能ではないので、通航路を横断すること及び分離通航帯から離れて航行していないことも、第一義的にはCOLREG第10条(h)項に違反しているとはいえない。しかし後者の前提の場合は、船長がTSSを使用する意思がなく、しかも実行可能ではないと主観的に判断しても、船舶交通の安全と直接関係のないような個別の事情は考慮されず、あくまでも航行形態から客観的に判断されるために、場合によっては船舶に多少の不利益が生じることになっても強制的にTSSに従う義務が生じることになる。その限りにおいて、通航路の交通の流れの一般的な方向に進行していないことはCOLREG第10条(b)項の規定に違反していることになり、通航路を横断すること及び分離通航帯から離れて航行していないことも、第10条(h)項に違反していることになる。
したがって行為規範の観点からTSSの法的性格を論じると、一般論として主観的な法的思考に基づくならばTSSの実効性の担保は困難であり、COLREG第10条は一種の訓示規定的な性格を有することになる。また客観的な航行形態を前提とする法的思考に基づくならば、TSSの実効性の担保の問題はある程度解決するものの、当事者間の主観的な判断・認識のずれ(例えば、使用しているかどうか、あるいは実行可能かどうかの判断)の問題は残る。なお沖合いにあるTSSの境界線内及び至近の進入域においては、船位の誤差に伴う操船者の認識のずれを防止するための設計基準を定めており(「航路指定の一般通則」第6章)、また提案された航路標識によって十分な精度で船位を決定できるかどうか検討することになっている(同第3章)。
次に裁判規範(民事責任における過失認定と原因追及)の観点からは、判例上(当時のCOLREGにはTSSに関する規定が存在しなかったけれども)、視界が制限されている場合あるいは両船以外の船舶が両船の航行に影響を与えることが明白な場合は、TSSの目的に鑑みてIMCOが承認したTSSに違反することも、衝突の原因たる法的因果関係を有する過失になりうることを示唆している
54。現実の損害賠償の調査(investigation)あるいは訴訟(action)において、TSSの通航路内を違法な方向に進行する船舶は、衝突のおそれを著しく増加するので重過失(seriously at fault)があると認定される場合もあるといわれている
55。但し、このような法的思考は、船舶衝突事件の民事責任追及過程における責任分担に関連して生じたもので(民事裁判における遵守義務)、それが直ちに操船規範としての遵守義務の問題とされるわけではない
56。
一方、別の判例
57をみると、IMCOがTSSを承認していなくても、それが実質的に衝突予防の有効な方法として法たる効力を有する慣行に達し、かつ、視界が制限されている場合あるいは両船以外の船舶が両船の航行に影響を与えることが明白な場合であれば、TSS違反はグッドシーマンシップに従わなかったものとして、衝突の原因たる法的因果関係を有する過失となりうる可能性を有している。その意味からいうと、当時のTSSに対するIMCO承認の意義は、法的拘束力の問題を除けば、グッドシーマンシップとして遵守すべき規範の前提となる法的効力の付与にあったといえる。そして現行のCOLREGのもとでは、第10条にTSSに関する規定が明文化されたので、同条を根拠として条約上の義務が発生し、その限りにおいて、グッドシーマンシップが法的推論プロセスに現れることはない。但し、IMOが承認していないTSSが慣習法たる地位を得ている場合には、グッドシーマンシップに基づいた法的推論が成立する余地がある。
最後に、船舶に対する法的拘束力あるいは国家の権能という観点からは、TSSにかかわるCOLREGの規定遵守の強制化が問題となるが、第一義的には旗国主義を前提とする船舶の航行と、TSSを設定している沿岸国の領域主権との問題に還元できる。TSSの設定海域は、基本的には領海、公海、部分的に領海と公海に及ぶ3つのパターンに分類される。
まず領海を越える部分がないか、または国際航海に使用される海峡内の部分がない航路指定方式を設定する政府は、「航路指定の一般通則」によると、IMOのTSSについての基準に従って設計し、かつ、これを採択するようIMOに提出することを要請されているが(para.3.14)、政府が航路指定方式をIMOに提案しないこととしたときは、航海者に当該方式を周知するために、当該方式に適用される規則の水路図誌への記載を確実に行うべきであると規定するにとどまっている(para.3.15)。すなわちTSSを領海内に設定する場合は、沿岸国の領域に対する主権を配慮しており、各種のIMOの要請はあるものの、基本的にはIMOの関与を前提としていない
58。このような前提で領海内に設定されているTSSにおいては、沿岸国の領域主権が及ぶので、自国船舶にとどまらず外国船舶に対しても、COLREGの締約国あるいは非締約国の船舶とにかかわらず、義務の履行に関しては原則として沿岸国の国内法令が適用される。
次に領海以遠、または国際航海に使用される水域あるいは海峡に新設の航路指定方式や採択された航路指定方式の修正を提案する政府は、その方式の国際的使用のためにIMOに協議(consult)すべきであると定められており(para.3.11)、各種の手続きに従うことが勧告されている。すなわちTSSが公海上に及ぶ場合は、IMOの関与を前提としているので、国連海洋法会議(1982年)の規定、海洋法並びに沿岸国及び旗国の管轄権の種類及び適用の範囲に関する各国の現在又は将来の主張若しくは法的見解を侵害することがないように、領海における沿岸国の領域主権が間接的に制約されることも有り得る。このような前提のもとで、部分的に領海と公海に及んでいるTSS(例えば、東行通航路が公海上、西行通航路が領海上に設定された場合)を航行する船舶について検討すると、その状況及び法適用関係は複雑であり、個々具体的なケースによって異なってくるものと思われる。したがって一般論としては、TSSに関する沿岸国との同意(agreement)が必要であるとする考え方
59もあるが、TSSの目的を達成するためには、国家管轄権の域外適用の理論、旗国主義と領域主権を調和する理論、あるいは一種の世界主義的な理論等を整理し、その法的拘束力について検討する必要がある。
1972年の海上における衝突の予防のための国際規則に関する条約(昭和52年7月5日条約第2号)の第1条には、一般的義務規定として、「この条約の締約国は、この条約に添付されている1972年の海上における衝突の予防のための国際規則を構成する規則及び附属書の規定を実施することを約束する。」と規定されており、このような多数国間条約に基づく国際的合意がCOLREGの規定遵守を抽象的に確約しているともいえる。また国連海洋法条約第94条(旗国の義務)では、いづれの国も自国を旗国とする船舶について、衝突の予防に関し必要な措置をとらなければならず(第3項)、その際に一般的に認められた国際的な規則、手続き及び慣行を遵守すること並びにその遵守を確保するために必要な措置をとることを要求されている(第5項)。すなわち旗国主義の原則の背景には、旗国の自国船舶に対する適切な管理権の行使という実効性の側面からの要請がある。したがって自国船舶に対するCOLREGの直接的な法適用あるいは国内法に基づく間接的な法適用といった法制度上の差異や立法政策上の差異はあるものの、COLREGの規定は第1条(a)項に定めるように、国際社会においては公海あるいは領海を問わず、原則として海上航行船舶が航行することができるすべての水域の水上にあるすべての船舶に適用されることが期待できる。但し、TSSに関する各種の規定については、歴史的な経緯からも明らかなように、当初は航行の安全を向上させる目的のみに主眼をおいていたので、沿岸国や旗国の管轄権といった海洋法秩序に関する理論的検討
60が、必ずしも十分であったとはいえないように思われる。