2. 水産資源の総合管理に関する法制度の展開
2.1. 明治漁業法制定以前の制度の変遷
わが国において、古くは、漁業は農業の一部であり、農民がそれぞれの地先水面において自由に水産動植物を採取してきた。幕藩体制が確立した江戸時代初期以降、封建領主が、磯の定棲性生物については、漁村部落に独占的な水面の利用権を特許し、その独占利用の慣行を容認した。また、沖合の回遊性の魚類については、個人ないしは部落の特権的・独占的な水面利用権が認められることもあったが、原則として数漁村の共同利用(入会)に開放した。1741年の律令要略の「山野海川入會」は、江戸時代の漁業制度に関する一般原則を定めるものであるが、そこで「磯猟は地附根附次第也、沖は入會」の原則が示されている
3。
明治8年、太政官布告23号(雑税廃止)、195号(海面官有宣言)、太政官達215号(捕魚採藻のための海面所用出願と許可による海面借区制)は、江戸時代の貢租によって裏付けられていた慣習的な漁場占用利用権を消滅させて、新たに漁業生産のために官有の海面を貸与し、その借用料をとるという構成をすることによって、徳川幕藩体制と異なる近代国家的漁業制度の確立を試みるものであった。しかし、この制度は誰に新たな漁場利用を許可するかをあいまいにしたままであったために、各地で紛争を多発させた。明治9年、太政官達74号によって、実効性を上げないまま新制度たる海面借区制は取り消された。
それに代えて、以後は地方において、適宜府県税を賦課し、旧来の漁場利用占用権の一時的消滅と政府の許可による新たな発生という原則を維持しながら、漁場取締りは「従来の慣行によって」府県が漁業取締規則を定めて行うこととされた。この新たな制度は、従来の慣行によることを強調しながら、他方で、納税、取締り、許可という側面では個人と行政庁たる府県の関係で法律関係が形成されるという近代的な構造を持った。そのために、慣習法上の権利主体として認められていた江戸時代の村、仲間といった中間団体と、個人という近代的法主体の間に存在する差が、新制度をめぐって多くの紛争を生じさせることとなった。
そこでこの間隙を埋めるべく、個人を集団化した漁業者団体を結成させて、その自治的規制によって漁場利用関係、漁具漁法の禁止を調整し、秩序維持を図ることが試みられた
4。それが明治19年漁業組合準則(農商務省令第7号)である。しかし、この試みも乱獲の進行の防止、漁業紛争の沈静化に成功せず、漁業法の制定によって抜本的な問題解決が図られることとなった。
2.2 明治旧漁業法の制定(明治34年)とその全面改正(明治43年)によるいわゆる明治漁業法の制定
明治34年のいわゆる旧漁業法の制定は、[1]旧来の慣行によって行われていた漁業資源保護、漁業調整、漁業取締りに関して、統一的制度が必要となったこと、[2]それまでの慣習法のみに依存する漁業制度の維持が、近代的な権利義務を前提とする他の諸制度との調和を欠き、漁業にかかわる法制度と他の法律関係の調整が難しくなったこと、[3]新町村制度が導入され、準則組合とは別の、漁場占用利用権の主体としての漁業組合が必要となったこと等により、近代国家の法制度として統一した制度を定めたものである。
同法は、[1]専用漁業権は大臣、他の漁業権は地方長官の免許によることとし、[2]漁業権を定置、区画、専用、特別の4種に区分し、[3]専用漁業権をi)従来の慣行に基づく専用漁業権と、ii)漁業組合のみに認め、免許する地先水面の専用漁業権とに分けて、漁業者に対して従来の慣行による漁業免許の特例を認め、[4]大臣および地方長官に、水産動植物の繁殖保護、漁業取締のための各種の命令を発する権限を与え、[5]準則組合の認められた範囲よりも狭い地域である、浜、浦、漁村その他の漁業者の部落を単位にして、一定区域内に住所を有する漁業者は、行政官庁の認可を得て、漁業組合を設置できることとし、組合が漁業権の享有・行使に関し権利義務の主体となることを定めた。
しかし、旧漁業法は既に譲渡、賃貸、相続の対象となっていた漁業権の性格について近代法的な明確さを欠いていた。さらに、明治30年遠洋漁業奨励法制定以降わが国で急激に遠洋・沖合漁業が発達したことによる、トロール漁業と沿岸漁業との調整の必要性の発生
5、その他の経済事情の変化に惹起された漁業組合の脆弱な財政基盤を改善する必要が生じ、明治43年旧漁業法の全面改正が実施された。
主要な改正点は以下のような点であった。
[1]漁業法の適用水面を明確化し、私有水面であっても公有水面に接続する場合には漁業法の適用水面とする、
[2]漁業権を物権とみなして、土地に関する規定を準用し、漁業権を担保に供し、漁業資金を獲得する方途を拡大する、
[3]水面使用に関する権利義務を、漁業権処分とともに移転させる、
[4]行政官庁が必要ありと認めるときに、漁業権免許に制限・条件を付すことを可能にする、
[5]公益上の必要あるときに限り、漁業権の取り消し、停止ができるようにする、
[6]入漁権を物権とみなして、その性格を明確化する、
[7]漁業権登録の制度を設けて、効力を明確化する、
[8]漁業の発達のために他人の所有権を制限しうる場合のあることを規定する、
[9]大規模漁業である汽船トロール漁業、汽船捕鯨業の安定的発展と沿岸漁業への悪影響を防止するために、両漁業を許可制にして、取り締まりに関する規定を設ける、
[10]漁業組合の目的範囲を拡大し、施設を設けて経済事業を営むことを可能にする、
[11]漁業監督を強化するために、漁業監視員以外の海軍将校、警察官、港湾吏員、税関吏員に取締権限を与えて、罰則を強化する
2.3 大正・昭和における漁業の変遷と法制度
このような制度の近代化に支えられ、日本漁業は大正から昭和初期にかけてわが国の経済発展の中で資本制漁業への転化を実現した。動力化による漁船の大型化、航海能力や漁船速度の増大による漁場拡大、綿網普及、各種魚網の大型化、動力漁船と大型曳き網の結合による生産力の飛躍的増大等々、技術革新に支えられた漁業の資本制漁業への転換は、漁業生産者の内部に零細漁民と一部資本家ないしは特権的富裕漁民との鋭い利害の対立を生むこととなった。
地先漁場占用利用の一部特定者による独占的排他的権利化、組合有漁業権の名目化と実際の行使権限の一部の者への集中、資本家への漁場の賃貸等が進行し、それがトロール・底曳網漁業と小生産者との抗争等となって現れた。
このような状況に対処すべく、大正末期から漁業法制の改正の検討が開始され、昭和8年には改正が実施されたが、当初の課題であった漁業権制度の改正は実現せず、漁業組合の権能の充実が行われる等に留まった。
2.4 GHQ主導による新漁業法の制定
第二次世界大戦後、サンフランシスコ講和条約による主権回復まで、わが国は連合軍の占領統治の下に置かれた。終戦時の昭和20年、わが国の漁業生産量は昭和9年から11年までの平均生産量420万トンの4割、180万トンにまで激減していたといわれる。GHQの漁業に対する政策の基本は、日本国内の治安維持および安全保障のための食糧確保、そのための漁業再建ならびに漁業の民主化にあった
6。漁業制度の改正にあたり、総司令部天然資源局長が、[1]漁業権は全体的に漁業組合と漁民組合とに与えられるべきこと、[2]多額の資本を必要とする事業については、漁業者連合体および漁民連合体のようなものを組織すること、[3]漁業権は特別の事情のない限り、抵当物件、または売買の目的とすることを禁止すること、[4]漁業権付与の条件として、適当な賃貸料と税金とが設定されるべきこと、[5]魚類の保護増殖の原則に従うこと、[6]漁業権、漁区などの紛争解決のために漁業関係調停機関を各地に設けること等を要求していた
7。この要求にGHQの考える民主化の内容がよく現れている。
昭和24年新漁業法が公布され、それに基づいて以下のような制度改革が逐次実施された。
[1]昭和26年から27年にかけて、旧漁業権の消滅、新漁業権の免許が行われた。
[2]旧漁業権に対する補償は、昭和26年から実施され、漁業権証券で総額181億円が交付された。そのうち127億円あまりが国債整理基金によって買上償還され、漁業協同組合の経営資金となった。
[3]補償財源として、当初、沿岸漁業者からは免許料または許可料を徴収し、それ以外の漁業者からはそれとほぼ等しい負担度の許可料を徴収することが予定されていた。昭和27年からこれらの負担の徴収が行われたが、昭和28年の議員立法である漁業法改正によって免許料、許可料に関する条文が削除された
8。そのため、これらの負担の徴収は昭和27年度分の沿岸7.5億円、遠洋1.5億円のみに終わった。
[4]漁業者による漁業調整組織として、海区漁業調整委員会が設けられた。
また、漁業制度民主化のもう一つの柱として、戦時中統制機構に組み入れられていた漁業組合の制度改革が行われた。昭和23年水産業協同組合法が制定され、漁業法制定に伴う24年改正、25年改正が行われた。これらの制度の中心は、[1]漁業協同組合が漁業権の保有主体となること、[2]組合員資格は同居親族、配偶者で漁業に従事するものと雇用者が有すること、漁協が一定の要件のもとで漁業の自営ができること、[3]漁業生産組合を設け、生産の協同化を進めること等であった。
2.5 漁船法、漁港法、水産資源枯渇防止法、水産資源保護法等の制定――戦後の漁業基盤復興と漁獲努力量の削減手段の導入――
漁業生産の基本的要素である漁船の復旧も戦後漁業再建政策の大きな柱であった。昭和21年5月から22年1月までの間、GHQによる漁船の建造許可が行われ、同時並行的に臨時漁船取締規則によって漁船登録が行われた。22年10月には、漁船登録規則が公布されて、従来登録を要しなかった5トン未満を含む全ての漁船の登録が義務化され、漁船に関するさまざまな手続は運輸省と農林省に二元化することとなった。これを漁業生産を管理する農林省において一元化すべしとの議論が強くなり、昭和25年、議員立法によって漁船の建造調整、登録、検査等に関する制度を定める漁船法が制定された。具体的には、[1]漁業調整その他公益的見地から必要な場合に、動力漁船の合計トン数の最高制限や性能の基準の設定、[2]漁船の建造、改造および転用についての大臣または知事の許可制、[3]漁船の都道府県漁船原簿への登録の義務付け等の制度が設けられた。生産手段の制限を可能にするこの法律は、漁業の許可制度とならんで漁獲努力量調整に重要な機能をはたすこととなった。
また、漁船の基地である漁港の整備を急速に進めるために、全国的な漁港整備計画を立てて、その整備を計画的に進め、その維持管理についても国が一定の関与をする制度を整備する漁港法が、昭和25年、議員立法で成立した。
この間、外地からの引上げや失業者の吸収によって漁民数が急増し(昭和26年には戦前の漁民数の40%増となった)、政策的な漁船数の増大(昭和22年には戦前の水準を上回った)や、漁場操業区域の制限(昭和20年8月20日、GHQの指令による全ての日本船舶の航行禁止、同年9月14日、日本沿岸から12海里以内の水域での操業許可、同年9月27日、いわゆるマッカーサーラインの設定による一部沖合い、遠洋での操業許可等で漁区が制限されていた)が相まって、限られた漁場での乱獲と魚価低下による漁民の経済的困窮が深刻化した。
昭和25年、東経130度以西の機船底曳網漁業、トロール漁業は、漁場が中国、韓国に接しているためにマッカーサーラインも狭く設定され、そこでの資源枯渇が激しく、さまざまな法違反、規則違反も絶えなかった。政府はこれらの地域において漁場指定と漁船数の制限(漁業許可取消による3割減船)およびこれらの措置に対する補償を行うために水産資源枯渇防止法を制定した。東経130度以東の底曳についても、同年、以東機船底曳網漁業総合基本対策要綱が制定され、適正規模、適正隻数の考え方が導入された。
昭和26年、GHQは「日本沿岸漁民の直面している経済的危機とその解決策としての5ポイント計画」を発表した。これは前述のような乱獲と資源枯渇、魚価低下による漁民の困窮に対する根本的抜本的解決を可能にする長期計画として、[1]乱獲漁業の拡張を停止して操業度の所要の低減を行うこと(中型底曳網漁業、小型底曳網漁業の年次計画による減船、不法漁具の取り締まり、さんま漁業の操業期間短縮、まき網漁業の大臣許可制による漁船増加抑制)、[2]各種漁業に対する堅実な資源保護規則の整備(水産資源保護に関する法令整備により水産資源の保護培養と最高の漁獲率を維持する基礎条件の確立、資源調査研究の充実による資源量と漁獲限度の関係の解明、漁業従事者への資源保護思想の徹底)、[3]漁業取締のために水産庁と府県に強力な部課を設けること、[4]漁民収益の増加のための各種施策の実施、[5]健全融資計画の樹立、という5つのポイントを示すものであった。
第二のポイントに対応して、議員立法によって、昭和26年、水産資源保護法が制定され、枯渇防止法は廃止された。同法は、[1]農林大臣、都道府県知事が採捕制限の命令を定めることができる、[2]農林大臣は許可漁業の漁船定数を定めることができる、[3]漁業の種類または漁獲物の種類および水域別に漁獲限度を定め、関係漁業者に勧告できる、[4]大臣または知事は「保護水面」を指定し、管理を行い、保護水面での工事制限等を行うことができる、[5]サケ・マスの人工孵化放流事業を国営で行う、[6]特定の水産動植物の種苗を販売するための採捕をする者または生産する者の届出制設ける、といった内容のものであった。
また、昭和27年、第一のポイントに対応して、小型機船底曳網漁業整理特別措置法が制定され、各府県との協議の下で、海区資源等の自然的条件、許可・無許可の別、沿岸底生魚種に悪影響を及ぼすと推測される漁具漁法、小底に対する依存度等の社会的条件を勘案して、5カ年計画で減船を実施することとなった。結果的には4,796艘の減船が実現した。
昭和27年、わが国の主権回復に伴いマッカーサーラインが撤廃され、漁業の沖合い展開、遠洋展開が可能になった。政府もこの方向を支援する政策を採用し、北洋漁業、かつお・まぐろ漁業、遠洋トロール漁業等が漁船の大型化と歩調を合わせて発展した。小型底曳網漁業、中型底曳網漁業の減船政策は、昭和28年から開始されたが、政府は漁業転換政策を採用して、これらをかつお・マグロ漁業等に転換させる助成、誘導政策(減船見合いで新規許可を発給)と一体に行われた。
2.6 高度成長と漁業制度の変遷
高度成長によって漁業も漁船の動力化、高馬力化、大型化等が進行し、漁労機器、冷凍・冷蔵装置、魚群探知機、無線通信等の漁船装備も高度化した。それに伴い漁業生産も増大したが、その成長のテンポは鉱工業のテンポにははるかに及ばず、いわゆる二重構造問題が深刻化する中で、漁業にあっては沿岸漁業の停滞と一人あたり所得の相対的低さが問題とされる状況となった。
このような中で、昭和34年政府は農林漁業基本問題調査会を設置し、その漁業部会で構造政策が検討され、35年10月に「漁業の基本問題と基本対策」が答申された。答申の要点は、[1]産業能率的視点から生産性の高い企業的漁業経営を育成すること、[2]社会福祉的観点から漁業就業者世帯の生活水準を向上させること、という2目標を示し、その実現のための重点施策として、[1]沿岸漁業の構造改善、[2]中小漁業振興、[3]沿岸漁業等に関する調査および試験研究事業の充実についての国の措置の必要性を指摘するものであった。
これを受けて、昭和37年には漁業法が改正され、昭和38年に「沿岸漁業振興法」が制定された。同法は、水産基本法制定以前におけるわが国の高度成長期以降の沿岸漁業政策の基本法とも言うべき位置付けを与えられるものであり、この法律を中心に据えて、沿岸漁業構造改善事業をはじめとする各種の振興事業が行われ、漁業生産調整組合法(昭和36年)、魚価安定基金法(昭和36年)、漁業災害補償法(昭和39年)、中小漁業振興特別措置法(昭和42年)、漁業近代化資金助成法(昭和44年)、海洋水産資源開発促進法(昭和46年)、沿岸漁場整備開発法(昭和49年)等の一連の法制度が整備された。
昭和37年の漁業法改正によって、組合管理漁業権の行使関係の適正化をはかる目的で、漁業権(または入漁権)行使規則制度が創設された。これは従来「組合員であって漁民であるものは、定款で定めるところにより、各自当該漁業権の内容たる漁業を営む権利を有する」と定められ、この各自行使権の規定が漁業協同組合の平等原則と相まって、一般的に、漁業権を組合員が平等行使する方式の根拠となっていた。このような制度は、漁業の民主化政策と慣習的な漁業権の一体化の産物と評して良いものであったが、これが経営規模の零細化を止揚しえない一因となっていた。
これを改善するために、昭和37年改正は、総会の特別決議を経た上で、都道府県知事が認める漁業権行使規則で定める一定の資格を有する者が、当該漁業権の行使権を有するという構成に変えた。これによって行使規則で定めれば、特定の者に行使権を限定できることとなり、それによって零細経営の防止と専業化をはかり、あわせて組合の合併促進に資することを目的とするとされたのである。
昭和37年の漁業法改正は、その他に、[1]漁業権について、i)分類と内容を整理し、ii)免許内容の事前決定に関する規定を整備し、iii)免許の適格性、優先順位に関する規定を改善し、iv)真珠養殖および大規模な海面での水産動植物養殖業について、権利の存続期間を10年に延長し、[2]漁業許可制度につき、i)大臣許可漁業の根拠規定を統一し、指定漁業制度を創設、ii)許可の一斉満了、一斉更新制、公示に基づく許可方式を採用し、iii)許可の継承について制限を加え、iv)40トン以上のまき網漁業を大臣許へ移行し、小型さけます漁業を法定知事許可にして、法定知事許可漁業の内容を整理し、[3]漁業取締りの規定を強化し、[4]漁業調整委員会の定数増、学識・公益代表の比率の増加および任期延長を行い、[5]遊漁者との調整を図るために、内水面漁業について、第5種共同漁業権に基づく遊漁規則制度を新設した。
また、漁業法の改正と同時に水産業協同組合法の改正が行われ、[1]漁業協同組合の正組合員の資格基準である従事日数を引き上げて、漁業依存度の高いもので組合を構成できるようにし、[2]漁業生産組合および小規模な漁業法人にも正組合員資格を与え、[3]漁業協同組合の漁業自営および漁業生産組合について、その営む事業に常時従事する組合員数の制限を緩和し(3分の2から2分の1に緩和)、[4]漁業生産組合の一組合員の出資口数についての制限を廃止した。
2.7 高度成長期以降海洋法条約体制確立までの状況
昭和48年の第一次オイルショック、54年の第2次オイルショックによる燃料価格の高騰は、わが国の漁業に大きな打撃を与えた。また、この時期以降、世界の各国が自国周辺の漁場について領海の拡大、あるいは漁業専管水域の設定を主張する傾向が強まる。昭和52年アメリカ、ソ連が200海里の漁業専管水域を設定したことはその象徴であった。その結果、高度成長期以降のわが国の漁業を支えた遠洋への外延的発展によるわが国漁業生産の拡大が望めない状況が発生し、減船による漁業の縮小を余儀なくされることとなる。
この時期の立法としては、これらの問題に対応して中小漁業振興特別措置法を発展的に解消し、省エネルギー対策等の新たな構造改善や漁船隻数の縮減等の措置を内容として盛り込んだ「漁業再建整備特別措置法」(昭和51年)や、日本における200海里漁業専管水域の設定を行う「漁業水域に関する暫定措置法」(昭和52年)、平成8年の国連海洋法条約発効に伴うTAC制度の実施を行うための「海洋生物資源の保存及び管理に関する法律」(平成8年)等がある。
以上のような水産政策の変遷の中で、平成8年5月に「水産政策検討会」が水産庁に設置された。これは国連海洋法条約の発効によって、排他的経済水域の設定と漁獲可能量(TAC)制度の導入に代表される、同条約による200海里体制が本格化することを前提にして、水産業の直面する課題と対応方策を検討するものであった。漁業経営、流通加工消費、漁業協同組合、地域振興といった小委員会における問題の検討を踏まえて、平成9年7月に同検討会の報告書がまとめられ、そこで基本的な施策・制度の検討を深めるべきだとの提言がなされた。
同検討会の提言を受けて、平成9年9月、水産庁に「水産基本政策検討会」が設置され、水産業の将来ビジョンと、従来の実質的な水産基本法とも言うべき沿岸漁業等振興法を含む水産個別制度の見直しを行うこととなった。個別制度の見直しに関連して、TAC制度の定着を踏まえた漁業管理制度のあり方を検討するために、漁業管理制度検討作業部会が設置された。
同検討会は2年間にわたる検討を踏まえ、平成11年8月に報告書を発表した。報告書は、一方で、昭和38年の沿岸漁業等振興法による水産業近代化等の一定の成果を評価しつつ、他方で、同法の制定から36年が経過する中で、国連海洋法条約の発効に伴う本格的な200海里時代が到来したことを前提に、周辺水域の水産資源の悪化による漁業生産の減少、漁業就業者の減少・高齢化、漁業の高コスト化による国際競争力の低下・漁業経営の悪化に対処するための構造再編等といった問題を検討・指摘し、水産業がこのような問題に的確に対処するために、今後の水産政策に関する基本理念の明確化と政策の再構築を行うべきだとした。「水産政策基本法」はこのような課題に対処すべく立法された。