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◎4 郊外の観光と日本の風景◎
 また、城内の南には植物園(図[12])、北には動物園が配置され、さらに北方には北投温泉があるといったように、台北の都市周縁、特に郊外は観光地となっていた。歓楽地の萬華や本島人街の大稲には訪れなかった田村も、動物園に立ち寄り、植物園にあっては熱帯台湾の風景を構成する植物を鑑賞すべくほぼ一日を過ごしている。そして台北市から電車で三十分、車で二十分で到達するとされた大屯山麓の北投温泉については以下のような感想を述べている。
[12]植物園の絵葉書
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黒々とした森の間の北投温泉場が美しく展開してゐた。私は一見して、これはよい處だと思った。…樟の造林地があって、立派なものになってゐた。それから続いて町の公園もあった。丁度外国の温泉場のやうな感じがした。ただ遺憾なことには、これを利用する者が多くは飲んで騒ぐ、内地の温泉場の悪い方面を代表する、お客筋だというふことであった。せめて、草山だけは、さうさせたくないものである。
 
一八九六年の大阪出身平田源吾による旅館創設以降、一九〇〇年代に陸軍が主体となり療養地として開発がなされた北投温泉は、「内地宝塚温泉場の公共浴場に似て居る」とされた「壮麗な和洋折衷の公共浴場」(註28)(図[13])の創設(一九一二年)をはじめとして漸次公園等が整備されると、田村のいう「外国の温泉場」のような近代的温泉場に刷新されていた。特に一九一五年に新北投駅(図[14])が開設されたことで「本島に於ける遊覧地としてその右に出づるものなし」(註29)といわれるまでになり、一九三七年発行の観光案内では、「別荘地」「清遊地」「歓楽地」などとその多様な魅力が語られる一方で、萬華遊廓の移転の可能性まで指摘されるほど、なかでも検番もある歓楽地としての役割が協調されていた(註30)。
[13]北投温泉公共浴場の絵葉書
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[14]新北投駅の絵葉書
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 田村がこの北投温泉の歓楽地化傾向に遺憾の意を示し、草山温泉という近くの温泉場をそうさせたくなかった背景には、彼が国立公園の候補地として草山を中心とした大屯山一帯の調査を依頼されていたことがあったと考えられる(註31)。実際の国立公園選定にあたっては、大屯一帯の範囲の狭さなどから在台の邦人知識人によってその資格に疑義が唱えられたにもかかわらず、田村や台湾総督府側の役人は観光地としての重要性や山岳とナショナリズムとの親和性を強調して、一九三七年発表の台湾国立公園に新高阿里山と次高タロコと共にこの地を選定している(註32)。田村は観光地とされた台北郊外の山岳方面と日本を代表する風景を重ね合わせていたのであり、このような観光とナショナリズムとを結びつける思考は「台湾観光のプログラムには、きっと台湾神社参拝が書き込まれる」と述べた彼の発言からも伺われる。実際に田村は、台北についたその日のうちに北方の郊外に位置する一九〇一年に建立された官幣大社の台湾神社(図[15])に参拝し、そのついでに附近の動物園に立ち寄っていた(註33)すなわち観光地であった台北の郊外とは、山村をはじめとする台湾統治を目指す人々によって、ナショナリズムを喚起しうる日本を代表する風景地としても位置付けられていたのである。
[15]台湾神社の絵葉書
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