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橋本は西門市場一帯(図[8])を、歓楽地、楽天地、市民の遊び場所で、女が多いダークサイトであると、城内とは全く異なる空間として描き出している。行政側の書物においても、「夜は歓楽境にして三階建の大カフェー、大小料亭、花柳界、ダンスホール、大映画館と凡そ娯楽に付随したものは、総べて比の一帯に集まって居る(註21)」と記述された西門町界隈は、まさに台北における非日常の娯楽・歓楽の場所であった。この城内と対比される非日常的実践の空間は、橋本が「台北の不夜城」という台北唯一の遊廓である萬華遊廓(図[9])で頂点を極め、城内で働く日本人男性にとっての高級な遊び場となっていた。このような歓楽街隆盛の背景には、都市形成の土木工事に伴う好景気とそれに携わる男性の多さ、そして他の娯楽の種類が少なかったという植民地台湾独特の条件があったとの指摘があり(註22)」、また西門町における映画館(図[10])隆盛の背景についても、内地から俳優を遠距離移動させる必要がある興行界とその必要のない映画の違いという台湾独特の事情が当時から指摘されていた(註23)。すなわち萬華とは、南国都市特有の条件によって特徴づけられた、城内に住まう内地人向けの娯楽・歓楽空間だったのである。
[8]西門市場の写真
(所収:謝森展編著「台湾回想1895-1945 THE TAIWAN
思い出の台湾写真集」創意力文化事業有限公司、一九九三。)
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[9]萬華遊廓の絵葉書
(所収:謝森展編著「台湾回想1895-1945 THE TAIWAN
想い出の台湾写真集」創意力文化事業有限公司、一九九三。)
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[10]新世界館の絵葉書(映画館)
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 ここで萬華()場所の系譜を辿ってみると、この地は北上してきた本島人と既に居住していた原住民が一七三〇年代から共同で開墾した台北地域で最も早い時期に開かれた地であり、一八二〇年代には、台南・鹿港と並んで「一府」「二鹿」「三」と呼ばれ、淡水川沿いの港として大陸との交易の中心地の一つになっていたことが確認できる。しかしながら、次第に土砂が堆積してまで大型船が通れなくなったこともあり、その繁栄の地は、一八五三年のこの地での勢力争いで敗れた本島人が居を構えた(註24)、より下流の「大稲」に移っていった。すなわち次第に衰退して本島人の活動拠点ではなくなっていたを、内地人が己がための遊び場の萬華として刷新したのである。
 一方の大稲は、一八六〇年代後半から台北北部で茶業が発達したことを背景に、イギリス・アメリカ・ドイツ・オランダ・ロシアの領事館も置かれた茶を中心とする国際的な貿易港として発達し、日本統治期にも台北市人口の約六割を占める本島人の多くが居住する商業地となっていた。この活気溢れる本島人街について、橋本は以下のように述べている。
 
大稲は百鬼も晝行すれば、金も亦唸つて居る。政治に不平の徒もあれば、財政豊かにホクホクして居る呑気な、百万長者も居る。実にや千趣萬態の台湾のパノラマはこの大稲に於て始めて見られる譯である。城内のようにコセコセして居らぬ、何となく悠長な気分が雑踏の内にも窺はれる。
 
本島人芸妓たる「芸妲」が高級な芸を売り、橋本が「暖昧魔窟の女」とする無許可の台湾商売婦が「百鬼晝行」し、茶の貿易によって多くの富を得たり、「政治に不平の徒」と表現された政治結社「文化協会」で運動する本島人が活動する大稲。「市区改正で街路整然赤煉瓦の大厦鱗次(註25)」した建築景観も、「城内とは甚だ違った異国的な情趣を漂はし(註26)」ているとされ(図[11])、当時の観光案内書には、台湾料理を食し、支那芝居を鑑賞するなどといった「大稲見物」(註27)がしばしば提起されていた。まさに大稲は、「千趣萬態の台湾のパノラマ」が見られ、南国的に「何となく悠長な気分」も喚起される、内地人にとってのエキゾティックな異郷とされていたのである。
[11]大稲 堤市街の絵葉書
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