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南国都市の亡影・・・神田 孝治
◎1 南国都市の島都台北◎
 「台湾の風景」と題された一篇の紀行文が、一九二八年に田村剛の手によって著されている(註1)。その冒頭では、台湾行きを目前に控えた気持ちが以下のように綴られている。
 
嘗て渡米の途次ハワイに上陸して、その空、その海、その動植物、その他の風物悉くが、南国特有の強烈な光や色や香に濃く色付けられて、吾々の地上で想像し得る限りの、所謂パラダイスそのものを実現してみるのを見た時、機会があったら重ねて遊びに来たいものだと沁みじみ思った事があった。…私の推定する所に依ると、ハワイに酷似する気候風景等を有するものを我が領土内に求めるならば、それは正しく台湾島であらねばならぬ。
 
国立公園調査のために台湾を訪れることになった林学博士の田村は、ハワイと重ね合わせるなかで台湾を南国のパラダイスとして想像していた。このような南国楽園幻想は、当時ハワイがアメリカの、そして台湾が日本の植民地となっていたように、帝国主義による世界空間の再編を背景として生み出されていたことは疑い入れない。西洋人が魅惑的な他所として東洋を想像したように(註2)、南国が北側の人々によって憧れの地として想像され、かつ北側列強諸国の植民地分割の焦点とされる時代が訪れていたのである。この状況は、「日本風景論」(註3)の著者として知られる志賀重昂が、一八八七年に刊行した「南洋時事」(註4)において、南洋における欧米列強の植民地分割を指摘し、そこを近代日本の資本主義的発達のフロンティアたる希望の地として描き出していたことからも窺われる。奇しくも帝国主義の時代に日本の風景について語ったこの二人は、南国を他所として想像し、そこに各々の欲望を投影していたのである。
 台湾の名で呼ばれるこの南国の島も、ポルトガル人による「フォルモサ(華麗の島)」の呼称をはじめとして、「(小)琉球」、「東蕃」、「高砂」、「東都」などと(註5)、様々な名称が時に憧れや侮蔑の意味が込められつつ外部から与えられ、オランダ(一六二二−一六六一)スペイン(一六二六−一六四二年(註6))、成功創設の氏王朝(一六六一−一六八四年)清(一六八四−一八九五年)、日本(一八九五−一九四五年)といった外部による支配にさらされ続けていた。そのうえ、インドシナ系やマレー系人種からなる原住民が多数の部族を形成して暮らしていたこの地には、一六二〇年代以降からは主に福建省から漢民族が移住して、台南を中心に様々な統治体系の下で開拓を進めており、十九世紀にはアメリカの如く移民の地となっていた(註7)。すなわち台湾は、憧れや侮蔑のまなざしがなげかけられる南国の他所であると同時に、東西両文明から統治され、異なる文化の人々が住まうなかで、異質な文化が出会い、混じり合う場所となっていたのである。そして、このような混淆した文化空間の中で、外部勢力の様々な欲望や欲求が投影されて形成された南国台湾の都市は、必然的に様々な他者性を取り込んだ異種混淆的都市となる運命にあった。
 この台湾における都市形成には、五〇年以上もそこを統治した日本が特に大きな役割を果たしていた。なかでも台湾北部に位置する島都と呼ばれた首都台北(図[1]の北)は、一九三五年段階で、大陸から移民した漢民族である「本島人」約一九万人、日本本土から来た「内地人」約八万人が生活し(註8)、日本第六番目の規模を持つ大都市として台湾の政治経済の中心となっていた。この台北の都市空間形成の過程においては、近代日本人が他者と出会うなかで想像した様々な心象地理が投影され、既存の都市空間が読み替えられるなかで、差異化されたいくつかの特色ある空間が生み出されていた。本稿では、南国都市の形成とその文化を考える手掛かりとして、近代日本人の心象地理との相互関係などに注目しながら、都市台北の差異化された空間形成について若干の考察を行うことにしたい。
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[1]日本統治期の台湾地図








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