東京財団 東西文化・思想比較研究 研究報告(補綴)
〜今日のインドから捉える日本、そして世界へ〜
本稿「補綴」は、本文「報告書」を補って、緊迫する現代インドをいかに読み解き、日本の現実に対応するものであるかを提言するものである。
1) 2001年テロ後のインド
インドはいま、緊迫している。南インドでは、表面上まったく緊張感はない。しかし、穏やかな日常の見えない背後では差し迫った情報が飛び交っている。
宗教、階層、職能コミュニティ内部では、それぞれの立場から情報の交換と議論がなされている。クリスチャンは、各教区の教会で神父を囲んで、モスリムはモスクで、ヒンドゥ各階層は寺院やコミュニティ会館(注)で情報を収集し、集約している。
特に、2001年12月ニューデリーでの首相官邸襲撃テロの後は、パキスタン犯行説を確認し、何時、戦線が開かれてもおかしくない情況になっている。準戦争当事国という認識はマスコミも持つにいたっている。
注) カトリック・イエズス会は、マンガロール地域(カンナダ郡)に70教区あり、ひとつの教区は400家族から最大1500家族程度の規模である。
イスラム・モスクは1キロ平方にひとつはあり、ひとつのモスクのモスリム信徒数はそれぞれかなりのばらつきがある。ひとつのモスクは、ひとつの血族コミュニティである場合が多く、大小さまざまである。総じてアラビア海沿岸の東西に居住地域が延びており、10数世紀を越える以前に定住した歴史を持つコミュニティから数代前に定着しモスクを建立したものまである。モスクは近年、増加の傾向にある。
マンガロール郊外ウラル地域にある聖ジンマ・マスージット寺院は、地域の本山といったモスクで、血族コミュニティを逸脱した大寺院である(
報告書本文一章I参照)。
本文報告書に触れたように、ほとんどがスンニ派でケララ州との境界地域には、例外的にシーア派もいる。しかし、この地域ではスンニがアフリカ、イランにシーアがイラクにといった親密関係はない。ほとんどが彼ら自身、どの派に属しているか自覚していない。原理主義者もいない。
ヒンドゥ・コミュニティは、集落の地域信仰宗族と血縁が交錯している。職能コミュニティが重複している場合も多く、中東、パキスタンとインドの政情は農業産品の輸出入に多大な影響があるため、深刻である。たとえば、食後の嗜好品であるチューインガムのようなパームをつくる「檳榔樹」の実は地域の特産品で、パキスタンヘの重要な輸出品である(
本文報告書二章I参照)。テロ後、30%前後、価格が下降している。
カンナダ郡のメジャー階層であるバンツ(本文参照)はマンガロール市内に会館を持ち、定期的に会合を持っている。郡内60%を占めるコミュニティのセンターオフィスでは、各市町村での地域部会、職能別部会を集約し儀・祭礼への公的支援、選挙対策、政党支持の統一見解などを発信している。
地域を指導する階層であることを自認している。
2001年9月11日 ニューヨークテロヘのインドの反応
テロ直後、インドでは大きく二つに分かれた見解があった。
A. アメリカのアジア・中東に対するプレッシャーがイスラム諸国の不満と抵抗を導き出した。
B. パキスタン、アフガニスタンはもともと危険な指向をはらんでいた。彼らに国際協調への忖度はない。パレスチナ、アフリカを含めてイスラム、特に原理主義を封ずるべきである。
Aは、親イスラム的立場で、一部の新聞、報道を除いて、マスコミは賛同していない。しかし政治学者、知識階級にはこのような意見が多く流布している。ヒンドゥ教の立場からは、このような意見は生まれにくい。また、アメリカの自作自演、あるいはアメリカ情報機関の失敗によって事件が惹起、拡大した、という意見も根強くある。
イスラムばかりではなく、ヒンドゥの上部階級を除いた多くがニュアンスを替えて、こうした考えに傾いている。
Bは、マスコミを含めた公式の見解としてある。そればかりではなく、より直截にパキスタンに対する不信を募らせる意見が多い。そもそもタリバン(イスラム神学兵士)を養成したのはパキスタンである(注1)。パキスタンが背後にあることは明確である。パキスタンの脅威を排除しなければならない、といものだ。アメリカによるアルーカイダ犯行説がでた後は、パキスタンがアメリカ、イギリスに協調する姿勢を欺瞞的対応として非難する。日本はどうなんだ、という詰問をなんどか受けた。パキスタンに対する経済援助を留保していた日本が援助再開をするのではないか、と非常に気にかけていた(注2)。
クリスチャンは、独自にBの見解に属している。マンガロール郊外コナジという小村の教会コミュニテイをフイールド対象として、たびたび訪れた。イエズス会所属のカトリック教会で、信者戸数380、ココナツ、米作などの農業が主の豊かとはいえない集落である。01年10月以降、毎日曜の神父の説教には必ずテロ関連の話が加わった。イスラムには強い敵愾心を持っている。グジャラート、コルコット(カルカッタ)での教会テロ(01年12月02年1月)以降は、烈しいイスラム批判がおこなわれていた。個人的に神父にインタビューした折にはない激しさであった。あきらかに彼らなりの世界戦略に則った発言とおもえる。
注)1. 1800年代後半ムガル王朝の終焉期、インドに起こったイスラム復興主義による教育が育んだイスラム神学生が、タリバンの起源である。第二次大戦後のインド開放に伴い、イスラム宗教国となったパキスタンではイスラム復興主義(原理主義)を理念とした教育が普遍化した。インドで教育を受けた復興主義シュたちが教育に携わった。その後、多くのアフガニスタンからの難民子弟、カシミールからのイスラム宗族子弟がパキスタンの学校(大学)へ密出国し学んだ。全寮制、学費なし、生活費給付という条件だ。対ソヴィエト、対米という歴史の流れを経て「学生・タリバン」は「聖戦(ジハード)戦士」という拡大解釈を普遍化し、アフガニスタン権力そのものになった。同時にそれは、オマル、オサマ・ビン・ラディンの組織、アル−カイダ(戦線基地の意)にアフガン・タリバンの多くが吸収されていったことを意味している。こうしたことをインド側、特にヒンドゥはパキスタンによる教育と育成とみている。
2. 昨01年12月からの日本対印、パの対応には、印、パそれぞれ、非常に神経質になっている。パキスタンは従米方針と引き換えに日本からの経済授助を復活、それ以上に拡大したい、インドはそれを阻害しようという思惑だ。
パキスタンは、従米によってサウジ、イラン、イラクのオイル・ビジネスヘの参画とその開発権益を失うことを恐れている。そして最大の危惧は脆弱なインドとの国境戦を守護する軍事的、経済的背景だ。
インドは第四次印パ戦争をなにより恐れている(後述)。
02年になって、小泉首相の訪印を受けて、インド・ヴァジペイ首相の来日、それに呼応するパキスタン・ムシャラク大統領の来日とプログラムは続いた。ムシャラク来日の際には、インド大使館は報告者森尻までも呼びたて、パキスタンヘの協調を牽制した。02年が日印修交50周年に当たることを口実に、関係強化を要請してきた。
第四次印パ戦争への緊迫
《参考》過去三次の印パ戦争
第一次 1947〜49
インド独立に際して、東西パキスタンの分離独立カシミール、西パキスタン(現・バングラデッシュ)の国境紛争であった。49年、国連の仲介で停戦。カシミール地方は分割され、インドはカシミール州としてヒンドゥ州政府を擁立した。しかし当時、住民の77%はモスリムだった。
第二次 1965
インド側カシミール州のヒンドゥ政権への不満に乗じてパキスタンがカシミール地方の覇権を企図した紛争で、ベトナム戦争を背景として中国も介入、国境線は不確定なまま終息した。なお、中国は62年中印国境紛争によりカシミールに中国管理地域を得ている。その後、パキスタンヘの軍事支援などを背景にパキスタンからも管理地域を受け、現在、カシミールの約20%を事実上、領有している。
第三次 1971〜72
東パキスタン独立運動に対応してインド軍が介入した。72年、北インド・シムラーにおいて合意が成立した。東パキスタンはバングラデッシュとして独立、ヒンドゥ政権を樹立した。飛び火したカシミール側は、現行の停戦ラインとして暫定国境としている。
1980年代のインド・カシミール州は、隣接するアフガン、中央アジアヘのソヴィエト、アメリカによる侵攻の影響からイスラム民族主義運動が激化し、パキスタンの支援で第四次戦争への危機が高まつた。
1990年代に入ると、カシミール州のイスラムによる自立運動は、州内では終息したかに見えるほど安定していた。散発的な騒擾も拡大することはなかった。一般にはインド側のリークによりイスラムが敵対している、と伝えられていたが、カシミール州ヒンドゥ政権の徹底的なイスラム封じ込め、政治活動弾圧、イスラム共同体の破壊が事実だった。はじきだされたモスリムたちはパキスタンに逃れた。アフガン経済難民としてパキスタンに逃れてきたモスリム活動家、その予備軍は、インド・カシミール・モスリムと合流し、タリバン養成教育を受け、アル−カイダヘの参入がひそかに進められていた。
一方では、90年代末、印パ国境の山岳地帯では正規軍の小競り合いが繰り返された。双方、核保有国となった時期であり、日本にはあまり伝えられなかったが、一時的に緊張が高まった。パキスタン側がソヴィエト(時代の)、あるいは中国からの武器で対応するのに対し、徴兵制度を停止したインドはネパールなどからの傭兵で対抗するという危機感の相違は否めない状態であった。
《インド周辺諸国の情況》
ネパール
ネパールとブータンは、インドではアジアのスイスと呼んで、その穏健、中立、平和の施政を認めてきた。しかし01年、王官内での複数暗殺事件でにわかに内情を世界に曝した。実は、90年代半ばからマオ派、毛沢東派と呼ばれる過激派が台頭していた。現在、中国との直接の関係はないのだが、70年代後半、インド・西ベンガル州の共産党、バングラデッシュの左翼急進派などと連携していた過激グループが、ネパール国内で孤立したものだ。彼らはイスラム・コミュニティとは一線を画すが、その動向はインドにとってけして有益ではない。
バングラデッシュ
ヒンドゥ政権ではあるが、国民の多数は東パキスタン以来のモスリムで親パキスタン意識は根強い。01年12月のニューデリー首相官邸襲撃テロもパキスタンからバングラを経由してインドヘ侵入した、という説が有力である。
長い経済不況で疲弊しており、日、米、中国との関係も逼塞していてパキスタンの動向を注視するほか、手立てをもてない情況である。
一時はなくなっていたが、アフガン以後、多くの難民がシッキム、アッサム経由でインドに流出している。インド側でも理解しかねている。
中国
中国とインドの関係は、常に微妙だ。チベット問題、国境紛争、中国によるパキスタン、アフガニスタンヘの武器供与などである。双方が問題を広げないよう隠蔽しあっているようにさえ見える。他方、95年以降、文化交流、研究者・留学生交換などは活発である。パキスタン、アフガンが従米を鮮明化するなかで中国がどのような対応にでてくるか、予測不能と、インド側はみている。
想定・第四次印パ戦争
第四次印パ戦争は避けられない情勢である。インド西北部に沿って長い国境線を持つパキスタンだが、戦端はやはりカシミールであろう。アフガン・アル−カイダが事実上、破砕されたとはいえ実態はイスラム自治の理念、イスラム民族主義はなくなることはない。イスラム教国パキスタンにとってカシミールは本来領土なのである。インドは、第二次大戦後の建国に際して、カシミールを分離し独立したと、現在も認識している。分離というキーワードはインドにとって屈辱の禁句なのである(注)。では、なぜアフガンに続いて危機なのか、…
(1) アフガン暫定政権、パキスタンがともにアメリカに従うことによって、常にアメリカと一定の距離を保つインドは政治的に守勢に立つ。パキスタンは戦端を開くのにアメリカの暗黙の了解を勝ち取ることができる。
近年、米印は、経済協力、IT戦略の共有などでかつてない緊密な関係を得ている。しかし政治的立場は異なって、核問題を含め、常にアメリカとは一線を画している。アメリカにとって局地的印パ戦争は、無害以上のインドに対する政治的発言カを獲得する機会でもある。
(2) アメリカのイラク攻撃は時間の問題といわれている。パキスタンは湾岸戦争当時、軍事政権で国内政情に不安を抱えていたせいもあり、最終的にアメリカを容認した。今回は、より積極的にアメリカ支持にまわるだろう。もとよりイラク・シーア・イスラムはパキスタンのスンニ・イスラムとはコミュニティを異にしている。サウジをはじめとするアメリカ同調国と踵を揃えるだろう。インド攻撃への好機とする。
(3) アフガニスタンは、暫定政権以後、政情はきわめて悪化するだろう。旧北部同盟の台頭、復活は当然で、新政権とは相容れない。アフガンの特殊な多民族混交と宗族コミュニティの重層を欧米型民主主義に嵌めこむのは不可能である。パキスタンはそれを見通している。いずれにしろ、アフガンからあふれたモスリムをパキスタンは受け入れる。パキスタンはタリバンをアメリカの容認、あるいは黙認の上、再生産する。インドヘのジハードが成立する。
01年12月のニューデリー首相官邸テロ以降、危機は肉薄しているという認識は軍部、中央政府にはある。このたび、在日大使館にも資料の提出を含めて問いただしてみた。概ね、上記項目に一致している。しかし、一般的には緊迫感はない。それがインドらしい大まかさ、いい加減さ、と映ってしまう。なぜなのだろう。
次項では、本文報告書を参照しながら、現代のインドの違う面を捉えてみる。
2) 多重共同体社会・インド・・・アンチ・グローバリズムヘの芽
インドを他民族、多言語、多宗教国という。しかし多民族国家はアメリカ合衆国もそういえる。多宗教ともいえるだろう。伝統の国ともいって、身分制度に言及するのが常套である。すでに本文報告書に克明に記述したように、身分制度は固定された抑圧や疎外のためにあるのではなく、共同体とその営みのためにあるのである。そして、共同体は民俗生活に寄り添いながら、歴史のなかで組み替えられ、時に逆転し、継承されて来たのである。
言語、宗教、血族、階層、地域、職能といった多義に渡る共同体とその意識に生き、社会を形成しているのがインド、といえる。
インドは多重共同体国家というのが、最も適切である。
インドのIT戦略
カルナータカ州バンガロールが東洋のシリコンバレーと呼ばれて久しい。
インド・IT産業の実態とその特徴を列挙してみる。
(1) インドのソフトシステムは圧倒的にマイクロソフトである。アメリカンメジャーのシステムを常用している。
(2) インドは工業化に乗り遅れている。というより、工業化を放棄している、といってもよい。ハード(機器)は輸入に依拠している。
(3) ソフトはしかし、その人材を含めて、適応力と開発能力はいまや世界一といっていい。コンピューター言語の多くがインド技術者による造語といわれている。
(4) コンピューター技術者に階級制度は持ち込まれない。カルナータカ州バンガロールは、コンピューター基地として最適な地域だった。本文報告書で述べたように階層共同体が、ブラーミニズム・カースト一辺倒ではない地域性である。他州、多言語域の人材を容易に受け入れている。
(5) ハードのシムテムは、グローバルスタンダードに則って製作されている。しかしソフト開発においてインド人技術者たちは、スタンダードをいかに逸脱するかという仕事をしている。ハードに風穴を空けていく。
(6) 彼らはひとつの規範 (スタンダード) に向かわない。逸脱し、次の価値を模索する。次の新たな価値を見出しても、以前の仕事 (価値) を捨てない。以前と新しいものは、層化され堆積していく。ここで問題は、彼らがこうした営みを意図的におこなっているわけではないことである。心性なのである。実は、われわれが共通にもつアジア的志向なのである。
カシミールとカルナータカ
カシミールとカルナータカは、本来の成り立ちにおいて酷似している。現代、世界の脅威であるモスリムを多く擁し(
本文報告書一章I)、多宗教、多種族地域である。カルナータカのコーグ族は、古代カシミールからの移住民だといわれている。共通して、遊牧民の地域でもある(
本文報告書一章2)。しかし、共同体のあり方は、違ってしまった。カルナータカはアラビア海沿岸域であり、カシミールは地続きの国境に囲まれている。海のフィルターは文化と社会の基盤に重層するものを植えつける、といえる(
本文報告書二章2)。カシミールは、イスラム立国を企図して許容力を失った。ここでは、カシミールを悲劇と呼ばずに、あるべき本来を提起することにすべきだろう。
アンチ・グローバルスタンダード
すでにみてきた現代のインドをまとめつつ提言すると、
(1) カシミールは戦争を受け入れなければならないだろう。なぜなら「パッチワーク・キルト」国家(ヴィクラム A・チャンドラ、
研究報告レジュメ参照)であるインドに覇権主義はなくとも分離は認められないからだ。ひとたび分離を認めたら理念としての国家解体の危機に瀕する。そして、インドは敗北しないだろう。国境は、国家を超えた共同体のものだからヒンドゥとモスリムの共存さえ実現すれば、策定する必要がないからである。
(2) ただし、前章でみたように心性である無自覚な多層化に任せれば、自治自立はやってこない。
(3) 現代日本は、村落共同体、宗教共同体、職能 (会社) 共同体を喪失したといわれている。しかし、変容した村に地域性は本当になくなったのか。新たな価値観と機能に促される思考を見失っているだけなのではないか。宗教を本当にもっていないのか。民俗のなかにある祭礼や儀礼は、渡来した仏教や道教を咀嚼して、自らのものにしたはずだ。西欧の思想では、神と個が対峙しないという意味で宗教ではないのかもしれない。そうした価値観を排除すると、見事に宗教行事なのである。そこにコミュニティも発見できる。変容に脅えることなく、インドの泥臭さを敬遠することなく、対象化することが内なる異質を見出すことに連なるはずである。
(4) 現代アジアの問題は、西欧との共存を欲するあまり、自ら西欧の衣装を纏おうとすることにある。また、そこでは自らを客観化する視座を失い、それが快感であったりする韜晦に生きていく。インドの多くがそうであるように、共同体はおのずと備わった社会の装置であるように無自覚化して近代人になる。しかし、民俗とその歴史が提示している闘争は、まさにその装置を創造し、破壊する物語である。
(5) いま、世界が模索の苦しみに喘いでいるのは、自覚する多重の共同体に生きうるモデルであろう。共同体とは、一重のものではなく、選びだされた幾重かのものなのである。その多重を、均衡を保ちつつ果敢に往来しなければ、装置、共同体は腐ってしまうのだ。