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マイラーラの事跡と寺院
 マイラーラを奉る寺院は、実は、この地域にふたつある。この地域、というのが正確かどうか、ひとつはバラリー地区にあり、もうひとつは、ダルワール地区にあるからだ。といっても、隣接していて、わずか数キロを隔てているだけだ。しかし、カルナータカ大学を擁するダルワール地区とバラリーは、文化的にも大いに異質な要素を蓄えていて、ダルワールは、インド第二の都市ボンベイ(ムンバイ)を州都とするマハラシュトラ州の境界にあって、マラーティ・コンカニ語が、カンナダ語とともに流通している。
 ダルワール地区のマイラーラ奉戴の寺はデヴァラグッダDevaraguddaと称されている。
リンガエットによる管理運営ではなく、デシュパンデ、デサイの両ブラーミン家によっている。この両種姓は、マハラシュトラ・カルナータカにまたがる地域に分布していてアーリアン・ブラーミンの系を引く家系だ。
 丘の上のちいさな堂宇で、なによりも特徴的なのはリンガが寺内中央にあり、それを見つめる立派なナンディ・聖牛が設えられてあることだ。聖牛とリンガの組み合わせは、ヒンドゥイズムでは一般的なことだが、シュワリンガとは馴染むものではない。カルナータカ北・中央部の形態とは明らかに違っている。こちらは、リンガエット運動などの影響を受けることなく、ヒンドゥイズムと混交して育まれてきたのであろう。祭礼は、一〇月の満月に頂点を迎える。寺の呼称デヴァラグッダは、もともと一○月の意味だ。そのハイライト、旅所での儀礼、礼拝はマイラーラ寺とおなじ場所でおこなわれる。その祭礼はシュウァパシュパティShiva Pashpathiと呼称されている。
 マイラーラ寺は、通称マイラーラの古い町並みのなかにある。寺を中心に表と裏の参道があり、現在はバススタンドからやや蛇行しながら表参道を経て、寺の門前へ素直に導かれる。途中に幾筋もの露地があって、回り込むと裏参道、裏門へ連なっている。小さな門前町である。二月の祭礼時になると街の姿は一変して、臨時バスが朝から信者講を運んでくるし、露店が軒を並べて寺の門前までつながってしまう。
 この寺は、すでに述べたようにマイラーラとおなじゴーラ出身者を司祭に仰いでいるが、裏門内にはヒンドゥの寺のように僧侶や管理職たちの住居がある。そして、これも記したことだが、管理運営はここに住むリンガエット・ブラーミンが担っている。彼らは彼らの講中を持っており、祭礼のときなど、彼らの家に泊まり込む信者も多い。通常、ヒンドゥ寺院にはマータと呼ぶ巡礼宿、宿坊があるのだが、この小さな寺にはそれがなく、リンガエットの住居がその代行をしている。いつも訪ねるリンガエット家の出身地は、当時わたしが居住していたホスペットだった。その子息は、ホスペットのヴィジャヤ・カレッジの学生で、ホスペットの親戚に寄宿しているのだという。実は、このカレッジには教員で、ドッタータという芸能の研究者がいて、何度か訪ねたことがあるし、頼まれて特別講義をしたこともある。この後、彼の息子はわが家を訪ねてきたりもした。
 デヴァラグッダ寺がマハラシュトラ州との境界域である北部へ向けて信仰圏を開いているのに対して、マイラーラ寺は南東部からの信者や司祭者、そして階級社会の背景を得ている。それはマイラーラの伝承物語そのものにも読み取ることができる。
 この地域は豊かな農業地帯でもあり、米、落花生、綿などの産物が豊富だ。予備調査の折り、裏参道のある中流の家に、なんの案内もなく飛び込んで、話を聴いた。突然の訪問者にもかかわらず四〇代の当主は気持ちよく応じてくれた。この家は、もともとマイラーラにあったのではなく、三代前の主がトンガ・バトラ沿いだが山間の農村部、バラリー郡からこの地へ移住してきたのだという。彼の曽祖父がマイラーラヘの信仰者で、ここへ籠もりにきた。二〇日あまりの籠もりの内に、ここに肥沃な農地を得られるとの託宣を受け、奇蹟のように田畑を手放したいという人物がお参りにきているのに出会った。娘を嫁にだすための持参金捻出のために農地を売る、というのだ。早速、好条件での交渉が成立し、耕作地を手に入れた。およそ五〇年前のことだ。ということは第二次大戦直後ということになる。その当時に、年賦払いだったということだが、農地が取得できるというのは、おそらくリンガエット・ブラーミンか、それに準ずる階層の次、三男であったに違いない。それからだんだんと農地を増やし、いまに至っている、とのことだ。たしかに屋内には収穫した綿や麦が積まれていて、豊かな生活を伺わせる。
 籠もりで託宣となると、媒介する巫女の存在が必要だ。寺の裏参道脇に二軒のデバダシ、カンナダでいうジョーガンマの家があって、数人の女性がいる。元は五〇人以上いたそうだが、政府の取締で、いまは数人になっている。寺の管理者であるリンガエットたちに、その存在を尋ねると、頑なに否定するが、事実はマイラーラの伝承物語を語り伝える唯一の語り部たちなのだ。現代では、マイラーラ物語を唱う集団になっているが、元は宿坊に出向いて語り部となるとともに、籠もりの信者と同衾して、マイラーラの妻を演じ、あるいは神威、神的パワーを信者に与える媒介ともなったのだ。彼女たちからいただく託宣は神の声、そのものであった。わたしの執拗な質問にマイラーラ寺のリンガエットは、そういう者がいたとしても、それはただの売春婦、シッドだ、と吐き捨てるようにいった。しかし祭礼には、彼女たちの仲間、信女の講もあって、彼女たちに一○数人が加わって朝から晩まで、唱いつづける。ここに採集した「マイラーラ伝承譚」は、まさしく彼女たちによるものである。
 先に挙げた中流農家の家伝物語と後述するマイラーラ伝承譚を参照すると、ジョーガンマを介在した裏返しの余徳譚とも読めるが、しかしマイラーラ神威のひとつの形ではある。
マイラーラ伝承譚
 マイラーラの物語は、遊芸人ゴロウァに語られて街道をゆくものと巫女・信女たちに唱われ伝えられるものである。どちらもおなじ物語で、カンナダ大学民俗学科が採集した巫女・信女による唱導を中心にゴロウァの門付け歌謡で補強したものである。カンナダ大学の調査では、マイラーラ寺に集まる信女、一○数人の唱導をテープに採集し、カンナダ表記した。録音採集は一九九五年二月から一二月までの間、数度にわたり、一二時間に及んだ。ここに記述するのは、ビルマール教授と助手によるカンナダ採集を、英語で討議しながら直に書き記したものである。もちろん原文は朗誦のための詩文である。
 物語は、三つの挿話がほとんどを占めていて、マイラーラの嫁取り話である。マイラーラの三人の妻がいかにしてマイラーラのものになったか、という筋立てである。マイラーラの生死、王位の取得などの話は伝わっていない。
構成は、
1. ガンギ・マーラウァ・カテ Gangi Malavva Kate
第一の妻ガンギの物語。三つの挿話のうち、最もよく知られていて、アンドラプラデシュ州南部にまで知れ渡っている。
2. クルバッタウァ・カテ Kurubattevva Kate
クルバ出身の第二の妻クルバッタウァの物語。カルナータカ中北部には極めてよく知られている。
3. コマリ・カテ komali Kate
この話は、バラリー地域トンガバトラ河流域以外、ほとんど知られていない。コマリは、不可触民(皮革なめし職)でクルバと交流がある。
1. ガンギ・マーラウァ・カテ
 マイラーラは結婚したいとおもっていた。ふさわしい女性を求めて歩いた。また、わたしと結婚したい女はいないかと、訊ねまわってもみた。そうして彼は、ティルパティ・チンナッパという処に至った。土地の人びとは、商人シェッティのところにはたくさん娘がいる、と教えた。マイラーラはシェッティの屋敷を訪ねた。シェッティは、七階建ての広壮な家に住んでいた。マイラーラは、門前で、でんでん太鼓を鳴らした。主のシェッティは七階の部屋でその音を聴くと、窓を開け、下を見やった。と、ひとりのゴロウァがでんでん太鼓を鳴らしている。シェッティは、娘のひとりガンガンマに「門前に乞食がきているようだ。なにかやって追い払いなさい。」と命じた。ガンガンマは施しをするために玄関の扉を開けると、ひとりのゴロアが立っていた。マイラーラは、施しを受けるために、胸から提げたズタ袋を広げた。ガンガンマは、ゴロウァに近づき、袋に施しを入れた。その拍子に、マイラーラは彼女の手を握ってしまった。驚いたガンガンマは、悲鳴をあげた。その悲鳴を聴いて、主のシェッティは、ふたたび窓を開けて見ると、娘が手を握られている。シェッティは階段を駆け降りると「なにをしている。手を離せ。」と怒声を浴びせた。が、ゴロウァは懼れ気もなく、落ち着き払って「わたしは娘さんと結婚したい。ぜひ、ください。」といった。シェッティは「おまえのような門付けでものを乞うている者に娘はやれるわけがない。黄金の七千万グラムも積むというのなら別だが、…」と愚弄した。マイラーラはにっこりと笑って「わかりました。郷里へ帰って、黄金を送りましょう。では、娘さんをいま、いただいてゆきます。」と答えた。シェッティは「そういうのなら仕方がない。しかし、ここでも式だけはしなければならない。費用は一切、おまえが持つのだぞ。できるか。」「できますとも。でも、いまはあなたが払っておいてください。帰ったら、それもただちに送りましょう。利息もつけます。」シェッティは、受け答えの物怖じなさに、よし、と認めて、すぐに結婚式をおこなった。式が終わるとマイラーラは直ちに帰郷する、といいだした。そして旅費を工面してくれるよう、義父に頼んだ。勿論それも後から送る、といってズタ袋を広げた。
 マイラーラは妻を伴って郷里に帰った。そして義父との約束を忘れた。
 しばらくして、待ちきれなくなった義父がマイラーラの元にやってきた。そして支払いを要求した。マイラーラは、すみません、と素直に謝ると「しかしいまは金がありません。どうぞ、バラタ・フンニメBHARAT HUNNIMI(二月の満月祭)にきてください。たくさんの参詣人がきてお金が集まります。その賽銭を全部、もっていってください。」義父はいわれるままに、娘の無事なことだけを確かめて帰っていった。
 約束通り、義父は、次の祭りに戻ってきた。ほんとうに多くの参詣があった。マイラーラは山と積まれた賽銭を得た。マイラーラと義父は、手伝いを呼び、積まれた金を真ん中に囲んで、大喜びしながら仕訳、数えた。そのとき、誰かが祝いの鬱金(うこん)の粉を義父にむけて放った。バンダーラBANDARAといって、お祝い事にやる習わしだ。しかし義父の目をめがけて放たれた粉は、煙のように義父を覆ったばかりか、しばらく目を開けることもできなかった。ようやく涙を拭って目を開けると、なんと、山と積まれた賽銭が消えている。義父は驚いてマイラーラを問い詰めると「ここにいる誰が盗ったというのです。誰も盗っちゃあいませんよ。あんなにたくさんの金を隠しようもないし、ご覧なさい、みんなここに揃っている。大体、目を瞑ってしまったあなたか悪いのです。あなたのせいですよ」まわりの者たちも、マイラーラの言い分に乗って義父を非難した。嘆きぼやき、泣く泣く義父は帰っていった。
 その嘆きの様を見送った新妻ガンガンマは、あまりに可哀想だ、とマイラーラに訴えた。それならば、とマイラーラは妻をタマリンドTAMARINDOの並木畑へ連れていった。「この畑を、わたしの妻であるおまえにあげよう。そして今年できる収穫はすべて父親に捧げたらいい」と彼女に提案した。喜んだガンガンマは父にそのことを報せた。タマリンドは、答満林度とも書いて、朝鮮藻玉のこと。インドでは、実を生で食べることもあるが、カレー味の料理にはチャツネの材料として欠かせない香辛料だ。一方ではしかし、タマリンドの木には魔が棲みつき、それが悪さをするといって人びとは怖れている。そんな説話がたくさんある。
 義父は、タマリンドの実がなる頃、いそいそと戻ってきた。そして今度こそ失敗すまいと、毎晩、寝ずの番をしていた。しかし、丁度、実の熟す頃、どうにも疲れ果ててマイラーラの家へいってしまった。娘ガンガンマは、父を迎えて「どうしたのです。目が真っ赤ですよ。沐浴して、食事をしてください」娘は、食卓を支度し、寝床を用意した。父はおいしい食事のもてなしを受け、ぐっすり寝入ってしまった。マイラーラは、その間に、すべてのタマリンドを収穫して運んでしまった。翌朝、義父は実がひと粒もないのを発見して、怒り、マイラーラを難詰した。マイラーラは「いいや。なにも知りませんよ」というばかりで、まわりの人びとも「それは、畑の見張りを怠ったあんたの過ちで、マイラーラはなんにも知らないでしょう」と取りあわない。義父は、意気消沈のままティルパティヘ帰った。
 人びとは後に、このタマリンドの並木畑をタマリンド街道と呼んだ。いまでも人びとは、マイラーラの寺へ向かうこの街道を通ってマイラーラに会いにゆく。
 
 シェッティの在所ティルパティは、アンドラプラデッシュ州中東部、やや南よりの古都で、寺院の街でもある。チンナッパはヴィシュヌのカンナダ異名だ。チンナは黄金、ナッパは人、者、転じて持つ人、の意だ。お金の神さまだ。ティルパティ寺は、ヴィシュヌを主神とし参詣人も季節を問わず多く、バスのターミナルだ。その縁起は歌舞劇ヤクシャガーナの材ともなっていてカルナータカの人びとには馴染み深い土地だ。
 義父となるシェッティ氏姓は、カルナータカ多数派で第四階級シュードラのバンツ、そしてジャイナ教徒である場合とリンガエット・ブラーミンである場合がある。カルナータカ北部、隣接するアンドラプラデッシュ、マハラシュトラ南部ではリンガエットである場合が多い。南部からケララ州境界地域では、バンツの場合が多い。いずれにしてもシェッティは、カルナータカでは非常によく知られた名前だ。
 シェッティは七階の部屋におり、七千万グラムの金、という表現がある。七がキーナンバーになっている。マイラーラ祭礼に蝟集する講の人びとは街道から参道へ「エルコティ、エルコット」と叫びながらやってくる。カンナダでエルは七、コティは、千万の意で、マイラーラの所業を顕彰しながら祭礼に参画するものだ。
 マハラシュトラ州では、マイラーラ物語は、すでに触れたように「カンドーバKHANDOBA物語」として伝わっており、しかしいくつかの違った設定がある。
 シェッティはリンガエット豪商であり、ガンガンマは、シェッティの妹になっている。ガンガンマは、カンナダでも、ときにガンギマーランマとも称され、マハラシュトラ語であるマラーティ、もしくはコンカニ・マラーティではマーランマ、マーラサデービイ、あるいは最もよくマーラチィなどと称せられている。
 シェッティとマイラーラのやりとりのなかで、結婚式の費用を用立てるについて、利息、ということばがでてくる。七世紀、シャータウァーハナ王KingSHATAVAHANAは、治世下の農民に、一年間一〇〇頭の牛を貸し与えるから、翌年五〇頭の利息をつけ一五〇頭にして返せ、と布告した、と伝えられている。五○頭以上の子牛を得たら、それが利益になったというわけだ。また、シリゲーリSHIRINGERIというに所在する寺では、寺の管理下にある巡礼宿(宿坊)、マータMHATAで女性を売っていた。買い手は、子どもができると利息としてひとりを寺へ戻すという契約があった。この風習は、一九世紀まであり、一九世紀初頭で、女性の価格は二五ルピーであったという。
 マイラーラとガンガンマの館は、現在のマイラーラ寺の敷地内にあったといわれている。
四本の石柱が残っており、古カンナダ文字が刻み込まれている。マイラーラ寺が、マイラーラの館だったという説は、この石柱を根拠にしている。
2. クルバッタウァ・カテ
 妻ガンガンマと暮らしていたマイラーラはある日、狩にでた。四日を経てわが家に帰ってきた。彼の唇は赤く腫れ、顎や頬に傷がある。ガンガンマはいぶかしんで、どうしたのですか、と尋ねた。マイラーラは、鷲を獲ろうと追いかけ、引っ掻かれたのだ、と答えた。
 ガンガンマは、なにかを感じたが、疑いを解くことができなかった。彼女は大きな蟻塚に蛇が巣喰っていることを知っていた。そこで、蟻塚に腕を突っ込んで、七つの頭を持つ蛇を掴みだした。彼女は、七つの頭の蛇を夫の前に突きだして「さあ。この蛇を手にとってご覧なさい。あなたがほんとうのことをいっているのなら、蛇はあなたを噛みません。でも、嘘をいっていると、噛みつきます。」マイラーラは「尾になら触れてもいいが、頭はどうも、…。頭のない蛇なら、懐に入れることだってできるがね。」ふたりはいい争って、結局、マイラーラは、ズタ袋を下げ、黄金の枝、枝のような姿をした金塊、を持って家をでてしまった。
 マイラーラは、まっすぐにクルバトウァの家にやってきた。彼女こそ、いまマイラーラが懸想している羊飼いの女だ。マイラーラは早速結婚を申し込んだ。しかし彼女はにべもなく断って、井戸端へ水汲みにいってしまった。後を追った彼は、水汲む彼女の裳裾をつかんだ。しかし、クルバトウァはするりとかわして逃げてしまった。
 マイラーラは一計を案じ、行商の小間物屋に扮装して彼女の元にやってきた。彼女に腕輪、バングルを奨めて、サイズを計りましょう、と手を握った。クルバトウァは、すぐに気づいて、振り払って逃げてしまった。次に彼は、花売り娘になってやってくると、花の髪飾りをしましょう、と彼女の頭に触れた。これも彼女はすぐに気づいて、屋内に閉じこもってしまった。それならば、とマイラーラは召使いの女に化けて、家に入り込んだ。クルバトウァはすぐに様子の怪しい召使いに気づいて、はげしく叱りつけてお払い箱にしてしまった。
 首にされたマイラーラは、遂に怒って、彼女の羊にバンダーラを投げつけ呪った。羊は病気になってしまった。彼女の父親は、どうして羊が病気になってしまったのかわからず、ブラーミンの祈祷師、ジョイサJOISAに伺いをたてた。祈祷師は「娘さんをゴロウァにやったほうがいい。そうすれば、羊の病気も治るはずだ。」と宣した。こうしてマイラーラはクルバトウァと結婚することができた。マイラーラは彼女を伴って自分の家へ帰ってきた。
 帰ってはきたが、ガンガンマは戸を開けない。マイラーラがいくら脅し、怒ってもガンガンマは、頑として聴かない。クルバトウァも「わたしの夫が自分の家に帰ってきたというのに、なぜ開けないの。」とマイラーラとともに怒った。扉越しにガンガンマとクルバトウァは罵りあいをはじめた。やがて争いを聞きつけた人びとが集まってきた。そして、人びとはふたりを裁いた。ガンガンマはいままで通りこの家に住んで、もうひとつ家を建てて、クルバトウァが棲めばいい、というものだった。マイラーラは人びとの裁定に従って、敷地の外にあたらしい家を建て、そこにクルバトウァを住まわせた。
 
 第二の妻クルバトウァ取得の物語は、マハラシュトラ州にも、ほぼおなじ筋立てで伝わっている。この話は、遊芸人たちが最も得意とするところで、ひと件りを門口で語るのに適してもいるからだろう。クルバトウァは、クルバの娘、といった意味としてよい。マハラシュトラやダルワール郡ではクルバ・ムラウァMULAVVA、クルバのムラウァという固有名詞になっている場合が多い。
 ゴーラ、あるいはゴロウァは、カースト下の階級とはちょっと違っていて、定住の農業者とは違い、本来、牛を飼い果樹を養う在地民への労働力だ。にもかかわらずゴーラは、カースト外氏族と扱われている。その強い信仰が、ヒンドゥイズムと相容れないからであろうか。あるいは彼らの労働力そのものが、生産性を伴った社会的評価になっていないからだろうか。このことは、次の第三の妻の物語にも大きく反映している。
 正妻ガンガンマが、蟻塚から七つの頭を持つ蛇を引きだす、というのは示唆に満ちている。蟻塚は、インド全域で信仰の対象になっているが、特にインド中、南部では天然痘をはじめとする疫病除けの象徴として対象化されている。そこに蛇が宿っていたというのは、二重の意味が付与されていて、ことさら女性たちが強く信奉するナーガ(蛇神)信仰の下染めが浮きでてくる。七つの頭を持つ、という七のキーナンバーがここにもあらわれる。また、ついでに触れれば、英雄神話ラーマーヤナの作者ヴァール・ミキは、泥棒であった前半生と叙事詩人として再生する後半生の空白期間を、蟻塚での籠もりに費やしていた、といわれている。
 求愛が、裾、手、髪にまつわるのが、象徴的だ。水汲みの女の裳裾を掴む、というのは、辺境の地域では、井戸といっても、野天堀の泉のような深い溜池といった風で、縁に桶を吊す門構えの櫓が組んであるだけのものだ。浅い場合には、その門構えの設えもなく、裾をまくって裸足を水際へはこんで汲む。風情のある女たちの風景だ。普段は脹脛さえ見せない女たちが、このときばかりはそんなことをいっていられない。通常、膝上を見せるのは、よほど心を許したものに限られるので、マイラーラはクルバトウァにそれを期待したのだ。
 手に腕輪、バングルを与えようという策略は巧妙で、手元に巻くバングルは婚約や結婚の指輪の習慣がヨーロッパからくる以前のおなじ、いやそれ以上に強い役割のものだ。人生の節目節目に神を仲立ちとして、親子縁戚と結縁するものなのだ。小間物屋に化けてこれを結んでしまおうという狡猾な試みがマイラーラの企てだった。旅の行商である小間物屋、というのはチャンバラ映画にでもでてきそうだが、インドでも全くおなじで、おまけに世事に長け、噂話の伝達人である、という風評までおなじだ。ときに世情の偵察者としてお上の密偵でもあったという。
 花の髪飾りは、極く一般にいまでもおこなわれている。長い髪をまとめた後頭部をジャスミンの花輪で留める。夕方になるとひとの集まる辻には、かならず二、三の屋台店がでる。おかしいことに出勤帰りの男たちが、新聞紙に包んで貰って買っていく。妻への一日の感謝を表現するものだという。マイラーラのクルバトウァヘの企みは、こんな習慣に乗って、いかにも手がこんでいる。
3. コマリ・カテ
 マイラーラの在所は、いまでこそマイラーラで誰もがわかるが、カリヤプラ、黒い菩提樹と呼ばれた所だった。マイラーラの近隣には、富裕な庄屋マルラナ・ゴウダMAL LANA GOUDAがいた。彼にはマルラウォ MAL LAVVA という妹がいた。
 庄屋ゴウダは、牧民ゴーラが嫌いだった。ゴーラがやってくると、わけもなく打ち据え、ゴロウァの信仰の証であるバンダナを外して追い返した。
 ゴウダは乳牛を飼っていた。この乳牛は仔が産めなかった。人びとは、このような牛をバルレン BARREN と呼んだ。だが、ゴウダの乳牛は、ゴディGODDI、石女(うまずめ)と呼び立てて、蔑み揶揄った。ある日、このゴディはマイラーラに出会うと「子どもを授けてくださいな。」と懇願した。マイラーラはウッタティUTTATHI という果実を与えた。ゴディは、これを食べ、水を飲んだ。そして孕んだ。ゴディは、大喜びでマイラーラに「お腹の子どもに名前をつけてやってください。」と頼んだ。マイラーラはコマリKOMALI と名付けた。ゴディは、生まれたらマイラーラの氏族ゴーラの嫁にしようとおもった。そしてマイラーラも、それを望んだ。
 しかしゴディのお腹の仔は、普通の仔牛のようには生まれなかった。そして、妊娠して七ヶ月目にお腹のなかで口を利いた。「おかあさん。あたしは外にでたいとおもっているけれど、なかなかでられないのよ。で、おかあさんの耳から生まれでることにするわ。」といった。その後、ゴディが森で草を食んでいるとき、耳から赤ん坊を産んだ。娘だった。マルラナ・ゴウダは、夕方、森ヘゴデイを連れ戻しにいって、彼女の足元で泣いている女の赤ん坊を見つけた。ゴウダは、赤ん坊を拾って、妹のマルラウォに預け、養った。娘はすくすくと育った。
 コマリが一二歳になる頃、マイラーラがゴウダを訪ねてきた。「あなたの娘コマリはもうじき一二になる。ゴーラにあの娘を与えないと、背中にできものができますよ。」といった。ゴウダは怒り「なにをいう。なぜ、おまえたちにあの娘をやらねばならんだ。二度とわしの土地に足を踏み入れるな。」と怒鳴り、追い返した。
 コマリは一二歳を迎えて、初潮を得た。ある日、男たちは皆、野良へでていた留守にマイラーラがコマリを訪ねてきた。ゴロウァであるマイラーラは、物乞いをした。コマリが、なにほどかの施しをしようとすると「施しをいただく物乞いにきたのではないのだよ。おまえを望んできたのだ。」と物乞いのゴロウァがいうではないか。驚いたコマリは、家のなかへ駆け込むと、育ての母であるマルラウォに、ゴロウァがわたしを連れにきた、と訴えた。マルラウォは、長柄の箒を持ちだすと、ゴロウァを打擲した。ゴロウァは打たれながら、マルラウォにバンダーラの粉を投げつけた。マルラウォは、目潰しをくってゴロウァを見失ってしまった。同時に、牛小屋の牛たちが、突然、逃げだしてしまった。
 帰宅したゴウダは、家の異変を聴いて、怒った。しかし、ひと晩を怒りに過ごした後、落ち着いたゴウダは、いま娘のコマリになにかよくないことが起こっている。ゴーラはきっと、手を替え品を替えて、毎日やってくるだろう。これを治めるのは、早く嫁にやることだ、と決心した。そして、おなじゴウダ族のソーマナというものに縁付けることにした。早速、許婚の式も終えた。が、ソーマナがコマリに触れようとすると、ソーマナの体中に吹き出物がでる。どうしても新妻を抱くことができない。怒った婿は、コマリを森へ追いやった。森で、コマリはマイラーラに会った。コマリはマイラーラに、夫とうまくいくようにして欲しい、と訴えた。マイラーラは「よし。わかった。婿さんとうまくいって子どももつくれるようにしよう。そのかわり、毎月、満月の夜、わたしの住む丘にきて、わたしへの信仰を興しなさい。この約束を必ず守るというのなら、すべてうまくいくようにしてあげられる。」コマリは、マイラーラのことばに従って約束した。
 医者の扮装をしてマイラーラはコマリを伴いソーマナの元にやってきた。「わたしは医者だが、あなたの新妻の悩みを聴いた。そして森の薬草を処方して、もうすっかりよくなっている。」と夫に告げた。その後、それほどの時を経ずに、コマリは妊娠した。コマリは、やがてひどい悪阻になり、満月の夜、マイラーラの丘へゆくことが困難になった。そこで彼女はマイラーラに「わたしの家には庭に家神の祠があります。あすこでお祈りをしますので、おいでください。」と提案した。
 次の満月の夜、ゴロウァはゴウダの家神の祠にやってきてコマリを待った。しかし彼女はこなかった。コマリは家神の祠に小さな、それでも獰猛な蛇が棲んでいるのを知っていた。マイラーラは今夜、その蛇に噛まれて死ぬだろうとおもっていた。それで、こなかったのだ。
 翌朝早く、マイラーラはでんでん太鼓を放りだして、仰向けに倒れ、死んだふりをしていた。人びとが起きだしてきて、ゴロウァが死んでいる、と騒ぎになった。あれこれと騒ぎたてた後、死体をゴーラの村へ運びだそうということになった。しかし死体は地に貼りついたかのようにびくとも動かない。どんなに男たちが力尽くで挑んでも運びだすことができない。そこで、ひとりが「仕方がない。とても遠くには運べないから、転がしでもして、裏のゴミ捨て場へ捨てちまおう。」とみんなの賛同を促した。すると、死体は自分で動くかのように容易に持ち上がり、ゴミ捨て場に放り込まれた。ゴミ捨て場は、コマリの部屋のすぐ裏なのだ。
 翌朝、コマリがゴミを捨てにでると、ゴミのなかから手が伸びて、彼女の裾を掴んだ。彼女は驚愕の叫びをあげ、家へ駆け込むと「ブータ・チューステ BHUTA CHEESTE、悪鬼のお化けがでた。」といった。ほんとうに、そうおもったのだ。
 コマリが牛小屋に乳搾りにいくと、ゴロウァが待っていた。彼女はあのゴロウァ、マイラーラだとわかると「あなたのお陰でわたしは妊娠しています。夫にも大切にされています。どうぞ、わたしに想いをかけるのはやめてください。ああ。もし、どうしてもわたしに会いたいのなら、夕暮れ、井戸端へきてください。ここへは、こないでください。」
 マイラーラは、夕方、水汲み場に潜んで待っていた。コマリは桶を頭に乗せてやってきた。水を汲もうと桶を井戸に落としたが、いつもと違って重くてあがらない。マイラーラが背後からでてきて、難なく桶を引きあげてくれた。コマリは、自分のおこなうことすべてが、マイラーラの意思にとらわれているいることを知った。しかし「叔母のマルラウォがわたしの帰りを待っています。すぐに帰らなければなりません。いまは話をすることもできません。夜、もう一度ここにきてください。」といって、そそくさと帰ってしまった。
 深夜、コマリが水汲み場にやってくると、マイラーラは馬できて待っていた。そして彼女を馬に乗せ、カリヤラプラ、黒い菩提樹の家へ連れていき、ともに暮らした。
 後日談としては、娘コマリを奪われた庄屋マランナ・ゴウダは、息子マニとマラの兄弟にマイラーラを攻撃させた。マイラーラは、マニアスラ、マラアスラ、マニ魔、マラ魔、討伐のゲリラを企て、新月の夜、ふたりが潜む森の陣を襲い、退治した。マイラーラの祭りにおこなわれる闇夜、沈黙の儀礼は、これを人びとが、いまに伝えているのだ。
 
 このコマリの物語は、マハラシュトラには伝えられていない。カルナータカでも、一般にはあまり知られていない。アンドラプラデッシュ州では、コマリとクルバトウァの物語が混交して伝わっている。
 カルナータカの中、南部階級社会の特殊性を背景としながらゴウダ氏族とゴーラ共同体の確執、そしてコマリ氏族の創世神話ともなっている。
 ゴウダは、すでに述べたように、カルナータカのもっとも多数派であるバンツに並ぶ階層ウァッカリガ VAKKALIGA の氏族で、広くカルナータカに分布している。カースト階級はシュードラに属し最下層だが、宗教文化、職能、経済力は多様で大きな力を持っている。少数派であるゴロウァが、実質的な上部支配階層であるゴウダに激しい対立意識をもっていることが観てとれる。そもそも、庄屋ゴウダの名、マルラリは、サンスクリット語でマラリ・マハトメ、偉大なマラリ、と尊称され、マラリは、マラ=マイラーラ、アリ=敵、とも読み替えられて物語の人物名になっている、という説もあるほどだ。
 また巷間の一説には、ゴーラはゴウダの訛ったもので出自を共にしている、というのがある。確かにカンナダでは、DとRは混濁してわかりにくく、ゴウダのある氏族がクルバを介在してゴーラになった、というのはありうることだ。こういう巷説は得てして正鵠を穿つものだ。そうだとするとマイラーラとゴウダの激しい近親憎悪による挿話ともいえる。
 そして同時に、牛・異類婚を介在してゴロウァの影響力の元にコマリという階層が、ウァッカリガから派生して登場する物語ともいえる。コマリについては、ひとつの階層として扱われているが、実態はよくわからない。マイラーラを奉戴するダルワール地区のデヴァラグッダ寺、一○月寺では、コマリは「馬の娘TURANGA BALI トランガ・バリ」といっている。マイラーラをマイラーラ・リンガと尊称し聖牛ナンディとともに祀るデヴァラグッダのヒンドゥ教への偏りが、牛を憚って馬としたものであろう。いずれにしても、異類婚から生まれた娘の名が氏族の名としてあり、動物にまつわる職能をもった非ヒンドゥの低階層であることは事実だ。
 コマリとマイラーラの館は、カリヤラプラ、黒い菩提樹のある所、ということになっている。マイラーラ寺の所在地が、古くそう呼ばれていたのかどうかはわからない。コマリの館跡、といわれている所は残っている。マイラーラ寺敷地内ではなく、デヴァラグッダ寺との中間あたり、広大な畑の真ん中に四〇センチばかりの石塔だけがぽつんとある。周囲にそれらしき祠などはなにも残っていない。しかし礼拝する人びとの存在が絶えないことを、石塔の額の辺りにつけられた真新しい赤いプラサード、聖印が示していた。
 マイラーラの妻取り物語は、その三人の妻すべてが、マイラーラの共同体出身者ではないことが、最大の特徴だ。最上部、リンガエットから最下層までの女たちを妻とする、というカースト横断物語なのだ。そして、いかにもトリッキーに女の親族をやりこめ支配してしまう。慇懃で不遜な侵犯性を発揮して、階級の規範を組み替えてしまう。マイラーラはトリックスターであり、それ故に民俗英雄なのだ。マイラーラ信仰が広範囲な人びとに支えられているのは、カーストの名の元に制度化されているそれぞれの共同体と人びと自身の矜持、畏怖、憧憬がまのあたりするからなのだ。それらが混然と猥雑に、そしてそれなりの秩序をもって開放と収斂と癒しとして展開するのが祭礼だ。
マイラーラの祭り 一〇月・デヴァラグッダ寺の祭り
 旧暦の祭礼月に入ると、信者たちがぽつぽつと訪れてくる。子ども連れが多い。名付け式をおこなうためである。すでに述べたようにデシュパンデ、デサイ両家ブラーミン司祭による名付けの式は、シュワリンガと聖牛ナンディに礼拝した後、奥殿に鎮座するマイラーラの像に捧げものをし、子どもの腕に輪をかけ神と盟約する。満月の祭礼近くなると、急激に参詣人が多くなる。この寺には、宿坊も司祭の宿舎もないため、泊まりがけの参詣人は少ない。司祭も通ってきている。それでも、寺内周囲に布や毛布を敷いて雑魚寝する人びともいる。マイラーラ寺に泊まって、朝、この寺へくる人たちもいる。.
 祭礼時、寺内ではマイラーラの像を花で飾り、それを旅所へ持ちだすための儀礼だけがおこなわれる。祭礼の中心は、旅所にある。参加者や見物は、旅所に集まっている。旅所は、マイラーラ寺、二月の祭りとおなじ所で、ゴーラによって運ばれたマイラーラの像の前で礼拝をし、司祭から聖水を受ける。司祭とともに祭礼の次第を運ぶのはゴロウァ、ゴーラッパだが、デヴァラグッダ、一○月祭りに特徴的なのは、クルバの活躍がめざましいことだ。
 まず目に立つのは、多くの女性信者たちだ。人毛でできた払子(ほっす)を振り立て、バンダーラ、鬱金の粉を振りまく。ほとんどがクルバの女たちと見えるのだが、コマリやゴーランマ(ゴロウァの女性)がどのくらい混じり込んでいるのかわからない。マイラーラ顕彰の章句を唱え旅所の周りに、集まってくる。なかには女装したクルバも混じっている。これは、女装巫女(ジョーガンマ)やヒジュラと呼ばれるニューハーフではなく、マイラーラ第二の妻クルバトウァに自らを仮託したものだ。やがて、クルバの女たちが特定の男を取り囲んで、唱えごとが激しくなる。するとその選ばれた男は、バンダーラをことさら厚く頬に塗りたくると、長い針を突き通す。女たちは、どっと勝ち鬨を上げて男を賞賛する。自己供犠であるこれは、二月の祭りでは、ゴロウァがより秩序だっておこなうものだ。以後の次第は二月の祭りとおなじなので、記述の重複を避け、ここには記さない。総じて、マイラーラ寺の二月の祭礼に比べて、いかにも規模が小さい。
二月・マイラーラ寺の祭り
 一九九五年九月末から九六年一〇月下旬までの間、四回にわたってマイラーラ、デヴァダグッダを訪ねた。最後の一〇月の祭りは学期の忙しい時期で、博士課程の学生たちも同行することができなかった。ビルマール教授はわたしの三を案じて、学科としていっしよに赴けるよう別の機会に調査を組もう、といってくれた。しかし、わたしは秘かにひとりでいける幸運を喜んでいた。というのも、どうもインド側研究者のフィールドワークには納得できかねる部分が多すぎる。一度はおもうさま自分なりにやってみたい、と欲していた。不可触民だろうが、売春婦だろうが、手を握って質問し、回答を理解できるまで確かめてみなければならない。一〇月の祭りのために三泊四日の日程をつくった。教授は、マイラーラ村の村長宅への手紙を持たせてくれた。宿泊施設のないマイラーラでは、必須のものだ。わたしは、牛小屋に隣接した軒下で四日間を過ごした。身体を洗うのは、数百メートル歩いて畑の端の水汲み場へいった。クルバトウァやコマリとマイラーラの物語そのまんまだった。
 ホスペットからマイラーラまではバスで四時間。フィールドとしては長旅ではない。バスは超満員で、定期バスなのだが九割の乗客が祭礼参加者で、こういうとき運賃を払う者はほとんどいない。車掌は満員のなかをもみくちゃにされながら、何度となく請求するが乗客たちは取り合わない。言いあいになると「オーパール、オッパラー」と唱和して叫び誤魔化す。オーパール、とは降りきた、という意味で、神が降臨した、神の元へやってきた、といった意味に使う。神さまに会いにゆくのに、バス運賃ごときなにほどのことがあろう。車掌さんよ、おまえも祭りに参加しろ、といったところだ。正直に運賃を払ったわたしを車掌は、運転手の真うしろのギアボックスに座らせてくれた。乗客たちからひやかしの笑いに後押しされながら、それでもカメラバックの安全が確保されて、ほっとした。
豊かな穀倉地帯をマイラーラに近づくとバスの前後に幌を掛けた牛車が増えてくる。荷物袋を頭に乗せた人びとが街道の左右の端を一列に並んで行進している。
 幌牛車を避け、ひとの列を避けてゆくバスの運転は軽業並みだ。街道の混雑は一体何処から湧いてきたのかと、不思議だ。
 祭りの参詣人たちは、マイラーラヘはいると、まず寺と旅所の間に仮住まいの場所を確保する。なにしろ最低三日、長い人たちは一〇日以上滞在するのだ。幌付きの牛車は、それがそのまま住まいになり、徒歩やバスの人たちは布や毛布でテントを作る。竈を設え持参の鍋、窯をだして台所だ。頭の大きな荷物の中身はこういう諸道具に米、麦、雑穀なのだ。当然、家族総出でやってくる。参詣人、一日三〇万といわれているのは、こういう人びとなのだ。
 住まいができると、寺よりの旅所との間にある沼で沐浴をする。洗濯も兼ね、調理用水、飲料水もここから得る。よく赤痢やコレラがでるという。沐浴の後、はじめて寺へ参詣に赴く。供え物は、ココナツ、バナナ、ジャスミンなどの花、小銭などで、他の祭礼と変わらない。大低、自分の畑や庭でできるものをもってくるようだが、門前でも売っている。その後は、本尊の前庭に残る人たちと祭主ウォッデヤール師や管理者リンガエットに会いにゆくものなどに別れる。
 到着した日の午後と翌日の午前中、ウォッデヤール師の寺務所であり居所でもある本堂脇の建物に師を訪ね、ついでに長時間、観察させてもらった。門前、市をなす、の通り列をつくって挨拶にくる。師の前に額づき、額にプラサード、白檀の粉末をココナツ・オイルで練ったものを塗って貰う。自己紹介をする者が多く、時々、師が英語で耳打ちしてくれる。カンナダでも大体わかるが、バラリー地区からが圧倒的に多く、南部アンドラプラデッシュからの参詣人も多い。大抵、家族連れで、二、三○人の講中もある。村や隣組単位であったり、一族である場合も多い。階層は、リンガエット・ブラーミンから不可触民まで、幅広い。ただ、ゴーラは、ここへは挨拶にこない。師の出自でもある共同体だが、きっと、別の機会があるのであろう。特に高い階層や役人などの場合、師は必ず耳打ちする。そうした高い地位の家族などの場合、わたしを紹介することもあって、これには挨拶のしようがなくて困った。高位の人びとのなかには、多大な寄付行為もあって、恒常的なスポンサーもいる。金銭以外にもさまざまな祭礼器具などを寄進している。
 祭主であり寺主は、ゴロウァのなかから一代限りで選ばれるのだそうで、生涯独身、家族を持たない。しかし、彼の兄の一家が祭礼にきていて、参詣人への答礼の合間、奥から呼び立てて紹介してくれた。兄嫁は、ホスペットの出身で、ヴィジャヤナガラ王家の末裔だという。ということは、ヴィジャヤナガラ帝国は、ブラーミン家系ではなかったのだろうか。一家の長男、といっても四〇代だったが、ホスペットのヴィジャヤ・カレッジの数学の先生だという。彼はわたしを見知っていて、堪能な英語にずいぶん助けられた。
 わたしが居座っていた二日間、合計約五時間の間に、表敬訪問のグループは、七○組に及んだ。人数は、五○○人以上だろう。これが朝から晩まで一五日間続くのだ。
 本堂前では、多くの信者たちが、マイラーラ祭の特徴である自らへの鞭打ちをおこなっている。羊や牛を追う道具といわれている革の鞭で自らを打つのだ。この自己供犠の行為は、本堂前がメインだが、マイラーラ祭のあらゆる場面でおこなわれる。ひゅーひゅーと鳴る鞭を自らの身体に巻き付けるように打ちつける。ときには裸足の足や臑から出血する。何百という男たちが飽きることなく続ける光景は、感動的だ。概ね、朝、昼、晩のプージャ、リンガエットによる本堂内での礼拝に合わせておこなわれるのだが、寺内での儀礼が終わっても、鞭打ちはなかなか終わらない。ゴロウァ、クルバが中心で、他の階層の男性も加わる。ゴロウァは彼らの正装、黒い羊毛のマントを纏い、マイラーラゆかりのズタ袋を提げておこなう。
 この彼らのパフォーマンスは、マイラーラに自らを捧げ、見せつけ、マイラーラと自らの対面を確認する行為ともいえる。マイラーラは彼らにとってどのような「神」なのだろうか。自らが依って立つ祖師であり、自らの実在を曝けだし、その誇りを分かちあえるものであることは確かだ。階級、部族・共同体、氏族、あらゆる緊縛を、その緊縛から出自したマイラーラの現前で、対個として収斂する。ここではけして鞭打つ彼のもつ緊縛から開放されることはなく、いわば「行」なのだ。さきに記した「マイラーラ物語」のトリッキーで軽やかなあかるさとはそぐわない。厳粛さと愚直な、敢えていえば暗い。しかし彼らには、暗い、その向こうが見えているに違いない。自らの内なるマイラーラとの対峙、対象化への行なのだ。
 この自らの内へ籠もる営みは、長い者で一五日間、短い者でも三日は続ける。彼らの内なる熱量はイデオロギーとともに、鬱勃と極限まで圧力を蓄えているに違いない。
 寺門からまっすぐの道筋、約二.五キロ先に旅所がある。その途中の沿道、左右の小高い丘に人びとは滞在する。門から一キロほどの所に沐浴場である沼があり、そこまでが繁華だ。まさしく軒を連ねて、幌車が並び、解き放たれた牛たちが背後にたむろしている。 喧噪、この上ない。沿道の端には、布の上になにがしかの食物が置かれている。施しものだ。砂糖菓子であったり、ご飯、チャバティ、米のポプコーンなどが行儀よく、埃にまみれて置かれている。滞留の人びとが、炊飯の残りを恵んでいるのだ。喜捨は祭りに集う人びとにとって、当然おこなわなければならないことなのだ。
 沼から先には、出店が並んでいる。祭礼の必需品、バンダーラのための粉屋が赤、黄、青など色とりどりの粉を積みあげている。バンダーラ聖粉の店は全体で、百軒はでているだろう。人毛で作る払子屋、髪の毛の焦げる匂いと漆の香りが混じって、そこ一帯には異様な風が吹いている。多くの女たちが並んで待っていて、いちばんの繁盛店だ。自分の髪の毛を持ってきて、作って貰う女も多い。その背後には芝居小屋が三軒でている。テントを筵で補強した掛け小屋だ。マイラーラの像を売る店、腕輪屋、牛の置物屋、指輸やペンダントを作る銀や銅の細工屋、セキセイインコやオームに引かせる辻占い、子どもを当て込んだ覗きからくり、玩具屋、射的屋、縁日に集まるありとあらゆる商いが集まっている。
 その往還の行き交いに、頭上に神を奉ったジョーガンマと呼ばれる巫女、あるいは女装の覡(かんなぎ)、道端にハヌマンタ、猿神やシヴァを描いた行者、祭文語りなどが鈴や楽を奏し唱えごとをして喜捨を乞う。入り交じって講中が、楽を奏でバンダーラを撒きつつやってくる。どれが芸人で、どれが参詣人なのか識別不能だ。ここでは、すべてが芸人であり、行人でもあるのだ。最後の三日間、演し物のふれ歩きにも一層気合いが入って、芝居小屋は活況を極める。日が暮れると楽隊つきの行列が、籠もりの参道周辺から集落、バスターミナルヘと練り歩く。中心は、馬に乗った男と従うおなじく馬上の女ふたり、演ぜられるのはマイラーラと二番目と三番目のふたりの妻の物語だ。三つの小屋掛けの内、ここがやはりいちばん人気がある。馬の仕掛けは、二人羽織のように、下半身が馬の足で、馬の頭を腰のあたりにつけた日本でいえば「春駒」などとおなじだ。中国にもこの仕掛けはある。芝居にけしかけられるように、祭りは最後の昂まりに導かれてゆく。同時多発のこの喧噪が、ひとつの秩序を見出して祭礼の次第になってゆく。その約三〇時間を時系列に従って追ってみる。
1. マイラーラ像、開帳
 最終日の前日。午後三時頃より、本堂内でいつもより念入りなプージャ(礼 拝)。その後、マイラーラの像を本堂内から担ぎだし、輿に乗せて境内を三度巡る。マイラーラ像が参詣人の前にはじめて姿を見せる。境内は興奮に包まれる。 本堂脇に像を安置すると、ゴロウァたちが像に光背を設え、花で飾る。
2. 宵祭り
 ゴロウァを中心に、自らを鞭打つおこないが続く。その他に境内では、マイラーラ物語をゴロウァやクルバたちが参詣人を集め、唱導する。境内にはそうした唱導を囲むいくつかの集団ができる。寺の外では、ジョーガンマの語りは最高潮に達し、芝居は最も活況の時を迎える。騒ぎは夜中の一二時くらいまで続く。
3. 暗闇祀り
 いったん収まった騒ぎは、今度は様子を変えて午前三時頃から、境内に続々と集まりはじめる。男ばかりで、しかも声をたてない。異様な熱気だ。堂内でプージャがおこなわれ、本堂脇のマイラーラ像が輿に乗せられ、境内を巡った後、寺の外にでる。人びとは無言で、声を発する者を叱責し長蛇の行進をはじめる。行進は無言のまま、小一時間をかけて暗闇のなか、旅所までゆく。そしてマイラーラ像を旅所に安置すると、はじけたように雄叫びが起こる。同時に、人びとは旅所の周りを叫びながら三度巡る。「オーパッラー、オーパッラッ」あるい「エルコティ、エルコット」とめいめいが叫ぶ。
 これは、マイラーラがゴウダ一族のマニアスラ、マラアスラの兄弟をゲリラ戦で殲滅した伝承譚に倣っておこなわれている。暗闇、沈黙、勝利の叫びと筋立てられて、鞭打ちの長い自己供犠から解き放たれ、身内に蓄えられたエネルギーを発散する。
 やがてうっすらと明るみの訪れのなか、旅所からマイラーラ像が降ろされ、往路とは違う緊張感の解けた足取りで寺へ戻る。多くはそのまま、宿所へ戻る。
4. 旅所への巡行
 朝、一〇頃から人びとは寺へ参集しはじめる。寺内でプージャがはじまる一〇時半、境内は熱気にあふれる。一一時過ぎ、マイラーラ像の輿を先頭に司祭ウォッデヤールの輿が続いて旅所へ向かう。行進、というよりふたつの輿を取り囲むように群衆が旅所へ赴く。ここからはウォッデヤール司祭は、参加しないがデヴァダグッダ寺の一○月祭もおなじ次第だ。
 旅所では、先を争って司祭から聖水を受ける。信女たちは払子を振って唱文し、ゴロウァは鞭打ちをおこなう。クルバによる針を頬に射す行は、この日、マイラーラ寺の祭礼では少ないが、ときにおこなわれる。
5. 柱登り
 午後二時、俄に旅所の周りは慌ただしくなる。行列をつくった人びとの拝礼を受けていた司祭が旅所をでて輿に乗り、移動をはじめる。司祭の輿を真ん中にひとかたまりといった形の群衆が移動をはじめる。やがてかたまりは、自然に秩序を発見して、寺の方向へ戻り、それから左へ折れてゆく。大きな広場には仮設のゲートができていて通路は細く、おのずと縦長の列になる。広場は篠竹の矢来で囲まれているが、ほとんど役に立っていない。選ばれたゴロウァ、二〇名ほどが彼らの正装で威儀を正し、中央近くに円座をつくって司祭を迎える。司祭が座につくと、ゴロウァたちにミルクが配られる。彼らの正装には金属製の弁当箱のような器が腰につけられている。飲み干すと、柱立てがはじまる。一〇メートルほどの丸材を立てて支える。ときには複数立つこともある。群衆はうぉーっ、と歓声をあげる。ゴロウァの長老が、支えるゴロウァの肩に乗りかけ、柱を登る。てっぺんに登り着くと、呪文のような唱えを叫ぶ。
 「柱の先に小鳥(セキセイインコ)が止まった。神が降りきたった。」
 ふたたび群衆は歓喜の歓声をあげる。長老は柱のてっぺんで意識を失い、失神したまま墜落する。ゴロウァたちが柱の元で受け止め、抱えて詰め所へ運ぶ。
 ここまでは、デヴァラグッタ寺による一○月の祭礼もおなじである。
 見届けた群衆は、極めてあっけなく散会する。司祭の興も、寺へ戻る。
 というのも、この後寸刻をおかずおこなわれる寺内での行事に、よい席を得るため急ぎ戻るのだ。
6. ゴロウァの自己供犠
 マイラーラ像は堂内に、司祭の輿は寺務所にいったん落ち着く。境内は、しかしいっこうに収まらず次の催しを待っている。やがて、堂宇の脇で輪になった踊りが奉納される。境内で芸能がおこなわれるのは、このときだけで、クルバによるマイラーラヘのオマージュだ。平たい太鼓と足につけた鈴だけの、単純だが優雅な踊りだ。田楽系の念仏躍りに似ている。
 その後、ゴロウァのある氏族による鎖切りがおこなわれる。太い鎖の先を石垣に打ちつけ、片方の先を掴んだ男が、気合いとともに鎖の中程を牽き切る。これは、近年おこなわれるようになったとのことで、全く人気がない。
 人びとは、クルバの踊りが終わると、ぞろぞろと堂の裏へ向かう。本来のファイナルイベントは、こちらなのだ。
 午後四時、司祭がふたたび輿に乗って、人びとが取り囲む堂裏へやってくる。席を定めた司祭に一五人のゴロウァが恭しく拝礼する。
 三人、四人と順に、長い針を両頬に突き刺す。ひとりが終わる毎に司祭に額づいて拝礼する。司祭は、針を抜いた頬にたっぷりと鬱金(ターメリック)の粉を塗りこんで、肩を叩き、勇気を讃える。
 最後に選ばれたひとりが、太い針、というより円筒の槍の穂といったほうが適切な鉄棒を、投げだした足の脹ら脛の骨際に射し込み、貫く。なかなか通らず、絶叫とともに両手で押し込み、皮膚を抜く。異様な興奮が辺りを包み、取り囲んだ、普段は行儀の悪い群衆も流石に声も立てずじっと見つめる。抜けた。そして貫通した鉄捧をしごくように二度、三度と上下させると、やっと、うぉーっと歓声があがる。鉄棒を抜き、立ち上がる。花や米が見物から投げかけられる。数歩、歩んで司祭の元に額づく。額に鬱金粉をたっぷりいただき、臑にも念入りに塗り込められる。
 この場の興奮を語り合うこともなく、見物たちは素っ気なく散ってゆく。帰路の街道が異常に混雑するので、できるだけ早く出立しなければならないのは事実で、しかし同時に、祭礼の余韻はそれぞれが秘めて持ち帰る、という心意も汲み取れる。異様に寡黙なのだ。きっと帰郷の後、再現のパフォーマンスとともに饒舌に語り明かされるのであろう。
 芝居小屋も出店も、すでに片づけがほぼ終わっている。素早い。幌馬車も陸続と列をなして街道を目指している。大移動だ。自分も、臨時バスの時間に急がなければいけないことを、ようやく憶いだした。牛小屋隣接の下屋にとって返すと、リュックを担いだ。この三日で、よく懐いてくれた若い雌牛にたっぷり頬摺りをして別れを借しんだ。数頭の牛の内、若いこの雌牛が妙に懐いて、毎朝出掛けるとき、後を従いてきて困った。旅所などで取材をしていると、遠くからじっと見つめていたりして、なんだかあたらしい友人がひとりできたようにおもえていた。
マイラーラ第三の妻コマリの母牛のようだ。
 バスは超満員で、屋根の上まで溢れている。これに乗らなければ翌日になってしまうので、リュックとカメラバッグを庇いながら、やはりもみくちゃになっている車掌を見つけ、切符を手にした。するとどうしたことか、車掌は乗客を怒鳴り散らして道を空けさせ、わたしを運転席の背後、巨大なギアボックスに座らせてくれた。往路とおなじ待遇を得た。そして混沌のバススタンドを振り切るように発進した。
 が、街道へでてすぐ、バスは急停車してしまった。車掌が道端に飛び降りると、なにか喚きだした。乗客は、応じて指笛を鳴らし、足踏みをしてブーイング。何が起きたのか。隣に立っていた警官に英語で訪ねた。嫌みな苦笑混じりに、伝えてくれた。車掌は、ほとんどの乗客が料金を払っていない。払わないのならここで止める。屋根の上の者も払え。と叫んだのだ。客たちは、聖なるマイラーラの祭礼に参加して威徳を讃えてきた者たちに金を払えとは何事だ。連れて帰るのが、ガバメント・バス(州政府直営バス) の仕事だろう。と反論している。一触即発、暴動でも起きそうな緊張感が漲る。車掌は、バスを見上げて震えている。乗客たちは、おのおのマイラーラの威光をいただいて、マイラーラそのものになってしまっている。早速、乗り合わせている祭礼警備に赴いていた警官数人が、竹の警棒で声を挙げている乗客の頭を叩きながら、道をつくり下車して車掌の背後に整列した。わたしの隣にいたのが上級者と見えて、噛んで含めるようなカンナダで、車掌は正しい。料金を払え、と命じた。一瞬、お上の威厳に気圧された乗客は、こんどは無言で、抵抗する。なおも、警官は嵩にかかって叱咤する。やがて、バスが走らないのじゃ仕方がない。これ以上遅れるのはかなわない。といった態の数人が、車掌の元に降って、切符を買った。それが口火となって、二、三〇人が従った。ようやく再発進。車掌は、車内でもみくちゃになりながら営業を続けた。
 もう暗くなった街道を、バスは幌場車隊を縫うように、警笛を鳴らし続けて疾駆した。やがて、幌場車も姿を消し、闇の街道をフロントランプが照らしだすだけという荒涼の風景がやってきた。と、とつぜんバスは急停車。今度は車内にあーっというどよめきが起こって、わたしも、うとうとしていた身体は危うく運転手の背中に抱きつくところだった。事故か。ライトに照らされた前方に、真新しい荷車が道路を塞ぐようにおいてある。ひとりの少年が、大の字に両手両足を拡げて示威し、それからバスを指さして喚きはじめた。運転手が車掌を従えて降りてゆく。
 前日の朝、ホスペット発のバスが少年の友だちをひき逃げした。バス公社に電話し、通過するバスの運転手にも訴えた。それなのに詫びにもこない。死体を焼く薪代もないし、葬式もだせない。ホスペットからのバスは、ここを通さない、というのだ。
 少年の瞳はきらきらとひかり、地に足をしっかりとつけ、その確信は命にも替えるものであろうことが窺える。うつくしい。
 ここでもまた、警官たちが降りていって、恫喝混じりに少年を説得しはじめた。
しかし警官たちの説得は功を奏せず、バスに引きあげてきた。結局、運転手は個人として謝罪し、車掌はなにがしかのお金を与えた。薪代、ということだろう。そして、追って公社からしかるべく処置するように計らう、ということになった。少年はいささかの憤懣を残しながら、荷車を道の片側に寄せた。そうか。この急造の車は、死骸を焼き場へ運ぶためのものだったのだ。やるなあ。
 エンジンが始動してライトが闇に走る。と、その余光で、道端の樹陰に顔を覆うこともなく泣いているサリー姿が浮かびあがった。母親だ、きっと。片膝立ちで、大樹の根方に座す悲しみの女の姿は、薪代を得たことで、息子の死をより強く現実のものにしたに違いない。
 少年との交渉の間、ひそひそと情報交換していた車内は、パスが発進した途端、がらっと明るいざわめきに変わった。いままでの鬱積が一気にはじけた。少年の行動を讃える声が圧倒的だ。
 同乗する警官たちにとっては、面子がつぶれたということなのだろうか、車内のざわめきは極めて不快のようで、運転手に車内灯を消せ、と命じ、わたしの席に座り込んできた。
 しばらくお尻で押しあいをしていたが、そのうちフロントガラスの下の窪み、工具などがおいてある片隅に折り重なるように乗り込んでいた母子三人に、後ろの席へいけ、と怒鳴りだした。なんて奴だ。おまえたちはどうせ無賃乗車だろう、あっちへいって立て、というのだ。自分だって無賃乗車じゃないか、と苦々しくそれでも我慢していたのだが、五歳ばかりの女児の二の腕を掴んで穴蔵のような窪みからひきずりだそうとするに及んで、遂にきれてしまった。ドン、タッチ、ハーっ。あんたのやってることは暴力行為だ。ボクは日本から派遣されてこの国にきている。だから、大学から照会されてホスペット警察の署長も知っている。帰ったら署長にあんたのことを報告して、正否を訊ねてみる。名前を名乗りなさいっ。あーあっ、やっちゃった、とおもいながら怒鳴った。周りは、しらーっ、としている。そうなんだ。こういうときは、誰も味方してくれないものなんだ。警官は、途中から英語がわからない振りをし、撫然として狸寝入りをはじめた。深夜、ホスペットに到着するまで、自己嫌悪にとりつかれていた。
 祭りの後のできごとを細々と記してきたのは 、「マイラーラ」はどんな人びととに支えられているのかを知るよすがとしたかったからだ。
 マイラーラの祭礼は、その伝承説話のトリッキーな明るさと諧謔とは無縁のようにシリアスにおこなわれている。ゴロウァやクルバたちの祭礼での行動は、自らを苛み傷つけ、被虐的にさえ映る。これもまた、観るものの感性を逆撫で、侵犯するともいえないことはない。しかし、説話とはもうひとつすっきりとした線で結びつかない。
唱導の遊芸人ゴロウァ
 遊芸ゴロウァのマイラーラ物語はどんな芸風なのだろう。それがなんとも無愛想で、門口に棒立ちで、でんでん太鼓をぱらぱら、ぱらと打ち鳴らして、さっきの続きをはじめました、とばかり平たいよく通る声で唱う。リズムは加速されて、聴く耳に快いのがめっけもの、といった態だ。家人がでて、なにがしかの施しをすると、待ってましたとばかり、オッパラー、と呟いていってしまう。そして隣でまた続き、といった具合だ。大道をゆくときは、黒いマントの内側から細く短い尺八のような竹笛を取りだして吹く。哀調を帯びて、しかも巧みな技量だ。道行きにはぴったりの技だ。
 すっとぼけた親爺、上方の古いどつき漫才のボケ(才蔵)、肥ったおかあさんにどつかれる相方、それがひとりで芸を売っている。存在としておかしいが、サービス精神、ゼロ。もしかしたらプロ中のプロなのだ。
 きっと彼らが演ずるマイラーラは、マイラーラそのものなのだ。マイラーラとは、上方漫才のボケなのだ。門口に立つマイラーラは英雄でもなければ、神格を問えるような代物ではない。マイラーラのボケおっさんにつっこむと、きっとおっさんは答えるだろう。「さいでんねん、わしがマイラーラ、そのものでんねん。あきまへんか。」「あかんことはないでしょうけど、あきれてます。神さまの威光もありがたみも感じません。」「はあ。まあ、しゃあないな。あきれられたら、かないまへんわ。」
 あきれられたって、どうということもないのだが、あきれてそっぽをむかれると営業にならない。笑いにも、蔑みにも哀れみにも繋がらない。いやいや、気温四○の炎暑に羊毛の黒マントとでんでん太鼓のいでたちは、まずぎょっとする。そして、そのふてぶてしさと飄逸に惹きつけられる。演技として紡ぎだされたマイラーラ像は、まさしくマイラーラそのものなのだ。マイラーラは、そういうひとだったのだ、きっと。だから、それがいかに速やかに緻密に、現象として顕れるかを、彼らは生存を賭けて産みだしていく。マイラーラの思想を教宣流布するためにやっている、などというものではなく、マイラーラそのものになりきっているのであり、それを仕事としているのだ。
 演技者にとって演ずるとは、筋や物語が虚構であるかどうか、などということは問題ではない。実際の事実だとか、現実だ、といわれたって、ちょっとだけ一瞬、退いちゃうかも知れないが、懼れるものではないはずだ。どれほどのリアリティを持って演ずることができるか、命題はそれだけだ。
 この貧相な旅するマイラーラは、書かれた筋や物語を貰うより、もっと空恐ろしい責務を与えられている。マイラーラはおまえである、というドグマだ。でも、彼らはこのドグマ、もしかしたら意識することもなく超えてしまう。ゴーラという氏姓族における受苦のすべてが彼に架けられているからだ。しかもそれはパッシブで薄暗いものではなく、飄逸で秘かに攻撃的な様相を湛えたものだ。彼らにモラトリアムな青春はなく、すぐにもボケ親爺になれるのだ。俳優という職能、あるいは芸術家とは違っている点がここにある。ゴロウァは、自らの生存そのものをマイラーラとして現象するという、怪しげでいかがわしく、しかもちょっと油断すると実存自体が崩壊してしまう危うい小径を歩んでいる。それは俳優たちが、自らと演ずる対象を論理と技術で賄っている距離感とは決定的に違うものだ。それでも彼らを言語を伴い、そして超える「演技者」として見つめなければならない。
 彼らは、歩く街、そして村、どの家の門口にでも無差別に立つ、というわけではない。わたしは、ホスペットの商店街を行く彼らをなんどか見かけたが、クリスチャンやモスリムが主人の店は大抵とび越してゆく。どうしてわかるのだろう。また、市場の八百屋やスパイス屋など入り組んだ露地には入らない。どうやらリンガエットを含んだブラーミンやバンツなど、北部カルナータカ上位層、あるいは多数派を照準にして喜捨を乞うている。マイラーラ伝承譚と遊芸ゴロアの営みは、ここで合致している。第一の妻ガンガンマをシェッティ家から奪う物語は、遊芸ゴロウァによってなぞられている。
 もしかしたら遊芸者たちが物語をこしらえたのではないか、とすぐにも問いが発せられることだろう。そうかも知れない。しかし神格の物語をたどる普遍化への営みか、物語・虚構を創造する演技行為かは、いまここで回答を得ることはしない。ここでは言語性を跳び超えるボケ(才蔵)親爺を、もうすこし執拗に、ひたすら追ってみたいからだ。結果としてどうであれ、パラダイムに蹂躙されて結論を急ぐのは、ボケ親爺に失礼な気がしている。
 遊芸ゴロウァに門口に立たれる人びととは、祭礼帰路のバスの騒動でいえば無賃乗車騒動で揉めたとき、暫しの沈黙の後、周囲を憚りながら車掌の元に降って支払いをした者たちだ。速やかに帰れなければ困る。この混乱のなかに身をおくことは、これ以上、耐えられない。自分らの階層社会が内なる秩序としているものは外側にもあるべきだ。これらの標語的常識と葛藤しての行動であろう。しかし彼らは二重に自らを費消してしまった。
 自分(たち)には帰すべき秩序があり、混乱を起こす者たちとは明らかに違う。違うことを維持するためならば、たとえ自ら自身にさえ合意、納得できなくとも「代価」は支払う。道徳とか倫理ではなく、善い、悪いでもない。彼らの現実なのだ。シェッティは娘を奪われ、彼らはバス賃を払った。もしかしたらバスに乗ったとき、すでに払っていたのかも知れない。だとしたら二重支払いでもある。
 ボケ親爺は、車掌のように怒りはしない。のほほんと唱っているだけだ。だけど、彼の負う受苦、パッションが透かし見える。透かし見せている。それで充分、脅しなのだ。
 唱導する遊芸ゴロウァと祭りを運ぶゴロウァが同一人物たちによっておこなわれているのかを知ることは非常にむつかしい。というのも、遊芸ゴロウァはすでにみてきたように無名性の演技に支えられている。彼らはそれぞれがマイラーラそのもので、そこに特権的身体性を得ているからだ。個的識別を拒否している。祭礼におけるゴロウァも特権的には違いない。が、遊芸のそれとは根本的に異なっている。少なくとも、祭礼の次第を運ぶ時間軸を担うことを、ゴロウァ選良として任務にしている。彼らはマイラーラと一体なのであって、マイラーラそのもの、といった思考へは向かわない。マイラーラに憑き従い、マイラーラを再現し、参加者の先頭に立つ。それが彼らの生命の燃焼だ。といっても、運営のゴロウァとてけしてひと通りではない。観察していると、暗闇祭り、柱登り、自己供犠とそれぞれ主役の顔が違う。彼らに尋ねると、ファミリーは違うが、ゴロウァだ、という。そして街をゆく遊芸ゴロウァは、と問うと、答えは一様でない。極端な回答は、彼らは芸人で、遠い昔のゴーラ族出身だけれどもゴロウァではない。何処に住んでいるか、どういう家系なのか、まったくわからない、とにべもない。穏当なのは、仕事(農業・牧羊牛)の端境期(農閑期)に街を歩く。一部は祭礼時にも参画している。境内で唱っていたでしょ、とまるで違う。ゴーラという氏姓族の一面ではないあり方が見えてくる。と同時に、ゴロウァが階級制度としてのカーストの枠組みには納まらない存在であることも見えてくる。すでに記したが、インドの研究者はゴロウァをサンスクリット・ヒンディのグル(Guru・師、宗祖)の訛からきて、マイラーラ信仰者共同体(Devotee's Comunity)というが、これもなにか苦し紛れのこじつけ規定の感を否めない。
 祭りを運ぶゴロウァの輪にもうひと周りの円が描かれている。祭礼参加者であるゴーラとクルバ、そしてコマリだ。彼らこそ、最もシリアスにマイラーラに身を捧げ、傅いている。彼らの演技性、パフォーマンスは鞭打ち、暗闇の無言の行進、そして見物と一体となった歓声、乱舞、マイラーラヘの賛嘆、称賛に終始している。いささか窮屈だ。彼らの行動こそ、遊芸ゴロウァのボケ(才蔵)振りにそぐわないし、マイラーラ物語にも直線的に繋がらない。なぜだろう。ひと言でいえば、彼らは「観客」てもなければ「見物」てもないからだ。実は、祭礼の内なる秩序を担っているのは彼らなのだ。彼らは、信仰者であると同時に、いや、それ以上にマイラーラに仮託して、自らを発揮しなければならない人びとなのだ。この祭礼に蝟集することによってアイデンティティを獲得するのだ。「行」のように自らを苛み験(ため)すことによって、マイラーラに近づき、マイラーラの同族たり得るのだ。祭りを運ぶ選良ゴロウァがプログラムを時間軸に従って、彼らそれぞれの氏族(親族)単位で繰りだすのを受けて、無秩序な混沌の騒擾をマイラーラヘ向かう一線に収斂していくのは参画者である彼らなのだ。そこにはクルバがいる。コマリもその他の低階層の氏姓族がいる。
 帰路のバスの乗客でいえば、無賃の正当性をぶちあげた多数派が彼らだ。高倉建の任侠映画を観ての帰り、盛り場を肩怒らせてうろつく、建さんになっちゃったオジン少年たちだ。彼らの昂揚した開放感は、車掌、シェッティ、コマリの主人ゴウダ、そして警官たちにたちまち潰されてしまうのだが、とつぜん顕れたシリアスな「こども十字軍」によって厳粛なかきまぜ(異化)が起こる。ベルト・ブレヒトには望外の僥倖だろうが、ブレヒトの思想性とは裏腹だ。
 祭りを巡るもうひとつの輪は、帰路の乗客ではすでに種明かしが済んでいるがカルナータカ最大多数派のバンツ階層シェッティとウァッカリガ階層ゴウダ氏族だ。とはいってもこの階層が最も複雑で、多くはカースト上シュードラということになっているが、リンガエット・ブラーミン、ジャイナと振幅が激しい。
 ジャイナには大きくふたつの流れがあって、北インドの各地と、南ではマハラシュトラ、アンドラプラデッシュ、カルナータカの三州が中心地だ。ジャイナ教のカルナータカでの活動については、すでに記した。ここではこれ以上の言及は煩雑に過ぎるので控えるが、各地域で寺院を拠点に強力なコミュニティを形成し、荘園を開発、商業活動を活発におこない、地域土豪となっていった。すでに記したダルマシュトラのヘガデ家もそうしたひとつの氏族だ。シェッティはそうした時代の影響のなかで、ある氏族はジャイナに帰依し、またある氏族は、後の一二世紀、リンガエット運動に乗じてブラーミン階層をも手中に納める。また、これもすでに記したが、ジャイナに伺侯した近衛兵団だったという伝えもあって、カースト第二階層ウァイシャにも比肩するが、現代では農業民シュードラでありながらゴウダとともにカルナータカ多数派の土地所有者であり経済的中流階級を誇っている。ゴウダもまたバンツに伍する階層共同体ウァッカリガを拠り所としてカルナータカ全域に分布している。大きく北部ゴウダと南部では基本的に系統が違うといわれている。バンツが母系制で職業も多様なのに比べてウァッカリガは父系で農業民、もともとは土地所有を許されない農業従事者がほとんどだった。氏族は三〇数余があり、これはほぼバンツに匹敵する。バンツとウァッカリガは一部特殊な地域(チックマガルール郡)を除いて通婚を含む交渉はない。コマリ氏族の創世にまつわるゴウダの役割は、より低い層、一般に賤視される層をも受容し農業活動を拡充していく有様を寓意している。同時に、それを阻害するものには破れても対抗するということも、マニアスラ、マラアスラのゴウダ兄弟とマイラーラの戦いに表れている。
 そもそもヒンドゥイズムと不即不離の形で進展してきたカースト身分制度は、南インドに至って流動し続けるのである。し続けている。水平線上の氏姓族を縦(鉛直)の上下に組み込む論理は文化圏の異質な地域に適合するはずがなかった。カルナータカでは、バンツ・シェッティ、ウァッカリガ・ゴウダは流動の因で、南進してきたブラーミズムに受容と抵抗、そして懐柔を繰り返してきている。現在、マイラーラ信仰圏であるバラリー、ダルワール、ハッサンなどの北部カルナータカでは、リンガエット・ブラーミンが六割を越すといわれている。一二世紀に起こった地域民の奪権闘争は、九○○年を経て、少数指導層であるべきブラーミンを多数派に替えてしまった。まさにヒンドウイズムヘの懐柔と空洞化だ。この書の冒頭に記述したガネーシャ(象神)の祭りをはじめ、民俗的な信仰や祭礼をヒンドゥ教義に習合したのも、双方の政治的な意図が働いているのだ。インド人はけしていわないし、そうした視座をもたないのだが、…。なぜなら、新たな階層意識がここに芽生えているからだ。土地所有を果たし自己増殖し続ける常民となった多数派は、議会政治のなかでも当然多数派となり、彼らなりの権利を権力にとり変える。それが、バンツ、ウァッカリガ以下の少数派階層に「無縁の自由」を放棄せざるを得ない抑圧となっているのだ。現代インドの秘かで深刻な事態だ。
 そしてだからこそ、一部シェッティを含む彼らリンガエットは、バンツ、ウァッカリガと共通の問題意識を持つ。定住し耕作地を持ち、農業労働者を擁する彼らは、非定住で生産手段の違う氏族を絶えず侵入者のように懼れている。しかも、クルバなどとは交渉をもたなければならない。ゴーラだって牛飼い労働者として擁することもある。こうした関係の文脈がマイラーラとシェッティ、ゴウダの物語には生きている。彼らは「敵」とされるアイデンティティを保つことによって彼らの同族内「法と秩序」を維持している。マイラーラの祭礼にやつてきて、ウォッデヤール司祭に寄進し、始終を見物する。異質な共同体との社会的融和を確認し安心を得る。災いを転ずるには与えるに如かず。そしていささかの優位を味わう。先に採集した門前の農家のマイラーラ寺に籠もって託宣を得た、という挿話もクルバやゴーラと交渉(交換)関係を成立して(農業)生産基盤を確立した、とも読めるのである。
 バンツやウァッカリガがカーストの枠組みのなかへ手練手管で入り込み、自分たちなりの位置を獲得してしまった、といういい方をするなら、ゴーラやクルバは徹底的に逃亡し続けている、ともいえる。対手にしていない。コマリはそこに救済と浄化を求めていく。実は祭礼、という社会的催事では、コマリのような少数派で差別された存在(アンタッチャブル)は見えないのである。しかし、いるのだ。ゴーラのすぐ隣にいるのだ。遊芸ゴロア、ジョーガンマ、唱導の信女、芝居者たち、彼らは祭礼という氏姓族にとっての公的な場に、身をやつして存在しているのだ。ここまで、祭りを運ぶゴロアと遊芸ゴロアとを注意深く書き分けてきたのは、このやつしの輩(やから)どもにたどりつきたかったからだ。
 リンガエット、バンツ、ウァッカリガたちは与える者であり、もっともよく享受する者たちはやつしの者たちなのだ。
 マイラーラ物語を唱導する女性たちを、デバダシともジョーガンマ、信女とも記してきたが、マイラーラ第二の妻、クルバ・ムラウァ KURBA MULAVVA
の物語を採集した、と称する本がわたしたちの調査以後に上梓されているN。カンナダで詞章集になっている。ムラウァという呼称については、すでに物語の項で解説した。クルバに伝えられ、クルバによって語られている、という意味にもとれるが、採集対象者についてはなんの注釈もない。編著者に会って確かめたいところだが、九八年に、突然亡くなったとのことだ。
 こういった詮索は執拗におこなわれるべきだろうが、現在的には不可能として、それよもりもクルバの女性が講を仕立ててジョーガンマとともに身をやつしてクルバの女の物語を語る、ということは充分にあり得る。ジョーガンマこそ階層を規定する共同体、バンツやウァッカリガといった秩序の基盤を跳び越え、どの層へも浸潤することのできる無縁の輩(ともがら)なのだから。ゴーラとクルバの近親性をも伝えている。ゴーラは階層外の共同体であり、クルバは最下層に位置する階層という位相を変えた存在基盤にありながら、ジョーガンマという無縁の共同体を介在することによって、クルバのアイデンテティを発揮するというのはいかにもマイラーラにふさわしい。
 祭礼と芸能は重奏しながら、ズレを生じている。芸能は祭礼の内側に組み込まれつつ、逸脱する起爆を常に秘めているのだ。
 これでやっと、夕闇の街路を往く遊芸ゴロア、ボケ才蔵のおっさんの背中を潔くもすっきりと見送ることができる。
蛇足を憚りながら付け加えなければならない。現代インドでは、主だった寺院主催の祭礼には州政府の補助金がでている。マイラーラも例外ではなく、ウォッデヤール司祭をはじめリンガエット司祭たちも庇護を受けている。官許の祈祷であり、祭礼なのだ。だから、主賓は州政府関係者になる。このときは州政府地方行政長官M.P.プラカッシュだった。そして、各地の警官が警備に派遣されたりもするのだ。帰路のバスでの警官にしてみれば、超過勤務の上、変な外人に怒鳴られ、泣きっ面に蜂ということだ。もとより、警官たちにとって、マイラーラの祭礼などどうでもよいものなのだ。彼、警察官の出自が譬えクルバやコマリ、バンツであったとしても、それこそ「無縁」でいなければならない。
 だが一方では、はじめてジョーガンマからマイラーラ物語を採集したとき、二時間分ほどの謝礼を支払いに助手といっしょに寺外の家へ出向いた。なんと五〇ルピー(一五〇円)だったのには吃驚したが、講師の後に従いて、年嵩のジョーガンマがビルマール教授のもとにやってきた。教授はジョーガンマの家を訪ねるのが嫌で、控えていたのだ。彼女は掻き口説くようになにごとか、教授の耳に口を寄せて訴えていた。後で教授に訊ねると、州政府の庇護を受けられるよう、口添えしてくれ、ということだった。彼女たちの存在自体が法的に認められていないからなあ、と教授は憂鬱に呟いていた。官許と無縁が近接している。彼女たちを、売春婦呼ばわりするリンガエットの自己欺瞞には、こんな背景があるのだ。
 ホスペットの自宅に戻った翌日は、さすがにぐったりしていた。失ったもの、体重ニキロと小型カメラ。ちょっと油断して牛小屋隣を離れた隙に盗まれてしまった。なにより、撮ったフィルムが装填したままだったのが悔しい。そして得たもの、限りなく重く大きい。
 
参照
MYLAARALINGA KAVYA-Folk Epic
 Edited and Selected by Dr.M.B. Neginahala
 Published by Kannada Sahitya Academy 1997.
 
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伝統的装束の遊牧民クルヴァ








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