ハンピー大遺跡は、ロバート・スウェルの「忘れられた帝国」によって世に喧伝されたわけだが、一九○○年に初版されたこの本の成り立ちは、ふたりの西欧人によるヴィジャヤナガラ王朝の見聞を元にしている。ドミンゴ・パエスとフェルナーオ・ヌニズというふたりのポルトガル人が、それぞれ王朝末期のヴィジャヤナガラ域を訪ねた、というものだ。ふたりは、当時、植民地化がようやく本格的になったゴアに赴任、滞在していた植民知事と商人のようで、交易のより大きな利益追求のために、新たな市場を求めて北部カルナータカヘの長く厳しい旅程に挑んだのであろう。当時、どのようなルートを辿ったか、正確に明らかにすることは至難だが、おおまかな推測は、残された書簡によって許される。ゴアとハンピーは、緯度線上ではほぼ一直線で、しかし、三五〇キロほどある。途中、デカンの尻尾のような東ガーツ山系をどう辿っても越えねばならず、容易な旅ではなかったはずだ。ヌニズは、どうやら馬商人だったらしい。馬は、象とならんで、重要な戦略物資だった。王国の各藩王、すなわち大名にとっては、馬の保有数は、戦争抑止力でもあったはずだ。しかも、多くがアラブ域からの輸入品だったのだ。アラブ中近東から、アラビア海を南下して、インド亜大陸の南西部沿岸に至るルートは、モスリム教徒たちのインド移住の道筋でもあり、当時、すでに知悉された航路であった。事実、ヌニズも、カルナータカ最南部のマンガロール港、そして、北部ケララの良港の所在を語っている。さらに、ヨーロッパでは、ようやくスパイス多用の料理世界が、拓かれようとする時代であり、まさに、シェイクスピアの「ベニスの商人」最前線に、このふたりはいたのである。ヨーロッパ、アラブ、そしてヴィジャヤナガラを結びつける世界ビジネス戦略が、ふたりのポルトガル人が担った、東インド会社以前の責務だったのだ。
といっても、ふたりが同時期にいっしょに旅をしたわけではなく、それぞれ時代を隔てている。そして、ひとりは談話書簡を遺し、ひとりは、手紙を遺している。ロバート・スウェルは、このアルケオロジー(掘り起こし)からはじめて、主としてマドラス(チェンナイ)で、行政機関から資料を収集したようだ。これによって、ヴィジャヤナガラ王朝の解明に当たっている。
ふたりが旅した当時のインドには、英語は勿論、ヒンディという「全国区共通語」はなかった。出発したゴアは、マラーティ・コンカニ、そしてカルナータカ語、すなわちカンナダ地域に入り、カンナダ、テルグ混合域に至る言語帯を歩んだことになる。とても従えなかっただろう。そうしたギャップとともに、正確な西暦年月日が記されていないなど、史的資料としての確度を問う声があるのは理解できる。
しかし、それでも、ダサラとおぼしき祭礼に出会ったり、当時は遺跡ではなかった寺院の壁面彫刻、トムトムダンス(スティックダンス)のそれに関心を示し、わたしが夢想した参道のバザールにはルビーやサファイヤ、金銀の宝飾が売られている記述など、読み応えのある、たのしい見聞記ではあるのだ。
ダサラは、ナウァ・ラトリとも呼ぶ、雨期がようやく空ける見通しのついた季節、太陽暦で大体、一〇月初旬におこなわれる女神の祭礼だ。カルナータカ、北部ケララ、そして南カルナータカの古都マイソールで特に盛んな、一〇日間に及ぶもので、ハンピー、ヴィジャヤナガラが、この祭礼の発祥の地ともいわれている。神話にある女神ドゥルガーと魔王マヒーシャとの戦いに由来している。ナウァは九、もしくは一○日目、ラトリは、戦い、戦争、ということで、勝利した一〇日目が結縁のハイライトで、巨大な、ビル三階分もあろうかというご神体を祀った山車が町へ練り出す。続いてドゥルガー戦いの様子を活人した花車が数台、従ったりする。
また、トムトムダンスは、アンドラ・プラデッシュ南部からカルナータカ全城に伝わる女性舞踊で、三、四〇センチほどの棒を打ち合いながら踊る群舞で、どうも、養蚕や機織りの風俗と、農耕の舞曲が習合したもののように見える。というのも、中央に柱を立て、その高みから細長い布を踊り手の数だけ垂らして、各々、先端を持ち、激しく棒を打ち鳴らしつつ、組み紐のように編みあげてゆく。演目によって編みあがりが違い、それをまた解くまでが一曲になっている。激しく、そして素朴に優雅である。祭礼、特に女神の祭礼には、地域の若い女性たちによって、奉ぜられることが多い。
参考文献
by Robert SWELL:A Forgotten Empire (VIJAYANAGAR)
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by B.Suryanarain ROW:A History of VIJAYANAGAR
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South Indian Society Under Vijayanagar Rule
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:Peasant State and Society in Medieval South lndia
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by A.H.Longhurst:Hampi Ruins
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by K.R.Basavaraja:History and Culture of Karnataka
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by K.V.Ramesh:A History of South Karnataka
Karnataka University,Dharwar 1970
by Nilakanta Sastri :A History of South India
Oxford University Press 1975 twelfth impression 1994
by N. Venkata Ramanayya:VIJAYANAGARA Origin of City and the Empire
イスラムの墳墓 現在も子孫によって参拝されている。
帝国、東の門 遥かベンガル湾まで道であった。
巨岩上の祀堂 堂宇の下には石積みが。この世とあの世の結界
寺院内の演舞場 カラリと呼ぶ。巫女たちが歌い踊った。
クリシュナ寺
地域特産の御影石造り。今は日本に輸入され、墓石になる。
モンタッパと呼ばれる石組。川原に信仰者が建てる。モガリであろう。
この世とあの世の結界に死者を一定期間、安置する。現在はこの地方でも、する者はない。
下部の石積みは、簡易なもの。