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1. クロアチア造船業の発展の経緯
 クロアチアにおける近代造船業の起源は18世紀半ばに遡ることができる。もっとも、この地域の造船業の発祥自体はそれからさらに数世紀前となる。現在運営されているクロアチア造船企業のほとんどは、19世紀終盤から20世紀初期に設立された(添付資料A参照)。主力4造船所は、商船建造を中心としており、また、この他に古くから艦艇建造に特化した造船所がひとつ存在している。これらの造船所は、ユーゴスラビア連邦からクロアチアが分離する以前の1990年代初めから民営化の計画を有していたが、今なお国有造船所のままである。この他に、改造、修繕、オフショアを手がける民営の造船所が存在しており、この造船所は新造船分野への参入を考えているとされている。
 
 第二次世界大戦後、全スラブ民族国家のユーゴスラビアが、異なる国籍、宗教グループを統合して建国された。クロアチアもこの中に含まれていた。ユーゴスラビアはソ連圏の一部ではなかったものの、経済相互援助会議(CEMA)注2のオブザーバーであり、チトー大統領の統治下で計画経済国家であった。ユーゴスラビア政府はソ連圏とも西欧諸国とも貿易関係を有しない方針を維持していた。
 
 1960年代、1970年代にユーゴスラビア経済は、雇用維持と外貨獲得の手段として、農業、観光及び造船の三大産業に大きく依存することとなった。特に造船業については、輸出市場を強く指向しており、前ユーゴスラビア時代の後年は同国で建造される船舶の約90%が外国の顧客向けであった。1989年にユーゴスラビアは、建造量ベースで世界第4位の造船国となった。その建造能力の大部分(80〜90%)はクロアチアに集中していた。様々な造船所がセルビアにも存在していたが、これらは小規模で外航船を建造するものではなかった。
 
 1970年代にクロアチア造船業の建造する船種は、VLCC、超大型兼用船、客船、フェリー、パナマックスバルカーに及んだ。超大型船の建造はUljanik造船所でブロックの海上接合により行われた。1970年代以降は、パナマックス以上の大型船指向は低下し、建造船種がさらに多様化した。
 
 1980年代には、ユーゴスラビア造船業は、北欧船主の発注に支えられてプロダクトタンカー市場で確固たる地位を築くに至った。これらのプロダクトタンカーは、長距離の石油製品輸送の増大で従来のハンディサイズより大型の船型の需要が見込まれたことから、貨物容積を最大化するためにディープウェル貨物タンクを備えるものであった。
 1990年代に入る前に、クロアチア造船業は国内船主からの発注の欠乏に加え生産コストの上昇、外貨不足で苦境に陥っていた。クロアチア造船業は、納期どおりの引渡しに関して増大する問題にも直面していた。さらに、非常に低船価の契約で大幅な赤字が発生し、船価の再交渉を求める事態に至った。
 
 1991年のユーゴスラビア崩壊による激変は、新造船受注量の大幅な減少を引き起こし、クロアチア造船業に大きなダメージを与えた。交戦状態の間、いずれの造船所もダメージを受けなかったが、交戦状態前に発注された船舶は、キャンセルされたり、履行されなかったりした。注3 1992年には、国内からも国外からも1隻の受注も無かった。
 
 戦争によって当初は以下のような問題が造船業に発生した。
 
◆ 交戦状態が続いている間、多くの外国銀行が信用リスクが高いとされた国の企業に融資を渋ったため、銀行融資の利用可能性が減少した。
 
◆ 労働者の一部が軍隊に徴兵されたため、熟練労働者が不足した。この問題は、多数の人材がイタリア、ドイツなど賃金がより高く経済状態が良好な国へ移住したことも拍車をかけた。
 
◆ マケドニア及びボスニアヘルツェゴビナの下請け業者からの部品の配送が中断された (一般に、機器の20〜25%がこの影響を受けたとされ、残りはクロアチア内の企業から調達された。)。また、造船所は、戦争保険による追加コストや部品の代替供給先からの調達にかかる高額の輸送費用を被ることとなった。さらに、部品供給事業者は、クロアチアとの取引に伴うリスクをカバーするため、高額の前払いを求めた。
 
 このため、建造量は、独立共和国としてのクロアチア建国1年目である1992年の22万総トンから、1995年に交戦状態が終結したにもかかわらず、1997年には11万トンまで減少した。クロアチア造船業は以下の理由から、1990年代終盤まで様々な問題を負うこととなった。
 
◆ クロアチア金融業界の継続的な脆弱性。1998年まで金融危機が繰り返された。この問題は、国内資本市場の未発達、政府の民営化計画の失速により一層深刻さをますこととなった。
 
◆ 高インフレを抑制するとともに国の対外負債を削減するための戦後の緊縮政策。
 
◆ 経営難による国内船主からの新造船発注の低迷。
 
◆ 経済問題を抱える旧ソ連圏の国々からの発注の減少。1992年のソ連崩壊前は、これらの国々は主要な新造船発注国であった。注4
 
◆ 中欧計画政策の下での仕組みに慣れ親しんだ造船所経営者の自由市場経済の導入の失敗。注5 (Brodosplitや3 Majなどいくつかの造船所は、直面する商業上の圧力から、他の造船所よりも早く新しい経営方式を導入した。)
 
◆ 船新造船国の競合相手に比べて低水準の生産性。雇用維持のためのユーゴスラビアの社会主義体制による過剰雇用の解消に失敗したことも一部の原因となった。また、適切でない機械化、生産手法最適化の失敗、コンピュータ化、自動生産技術などの近代技術の導入の不十分さもその原因であった。
 
◆ 造船設備の大幅な近代化への資金調達難。
 
◆ 収益性の欠如の継続。この問題は大幅な赤字をもたらすこととなった低船価での外国船主との大量の契約締結が行われた1980年代末から1990年代初めに顕在化した。注6 独立後、クロアチア造船企業のリストラの遅れが赤字体質を持続することとなった。注7
 
◆ 特定業種の造船労働者の欠如。政府では労働者の東欧からの採用を検討している。
 
 しかしながら、クロアチア造船業の建造量は、内外からの発注の回復で1997年以降回復を見せている。2000年には、内戦後の建造量のピーク34万cgtを記録し、クロアチアは世界第7位の造船国となった。この2000年の建造量は1980年代のユーゴスラビアの平均年間建造量29万cgtを上回るものともなっている。(添付資料B参照)








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