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第118回 日本精神は宗教を超える
(二〇〇六年十月十九日)
マンガが伝える日本人のセンス
 ほんとうに日本は、このごろ事件が多いですね。その事件をめぐって新聞やテレビで人が解説しているのを聞くと、「ああ、この人は日本人だな」と感じます。純日本風に考えているから、と。日本国内で話している分にはそれで通るが、世界の人は聞いていてチンプンカンプンでしょう。
 どうも日本の心というのは、世界の中でも特別上等で、上等過ぎるから相当丁寧に言ってあげてもわからない。どうすればわかるのかなと振り返ってみますと、明治、大正の頃、日本に住んだ外国人はわかったのです。一年ぐらい住みつくと、「これは特別だ」とわかって、それを書いた本がいくつかある。しかし彼らの本国には伝わっていない。日本人が喜んでいるぐらい。
 それから、戦後はマンガだと思います。日本のマンガやアニメを世界の子供が読んで、これで日本人の精神、常識、センスが相当子供には伝わった。何で子供たちにわかるかというと、絵とストーリーがあるからです。言葉で言いかえたのではない。外務省などがやっている広報は言葉で言いかえているだけだから浸透していない。
 しかしマンガやアニメは絵があって、キャラクターがあり、その上ストーリーがある。これが日本マンガの最大の特徴で、ストーリーがあり有為転変、紆余曲折があって、それをじっくりやってくれれば、「カワイイとはそういうことなのか」とわかる。「お互いさま」とか「あっさりすます」とか「大目に見る」とか「手加減」だとか、そういう日本語が山ほどあるが、向こうの人にはなかなかわかりません。マンガのようにストーリーがあって、物語があれば、ようやく向こうもわかる。わかった子供が使い始める。
 中国でもアメリカでも、「カワイイ」がそのまま向こうの言葉になりました。これを英語にするとlovelyが一番近いのでしょうか。しかし、カワイイという概念とは少し異なる。
 ディズニーの白雪姫を見ると、中年女性みたいです(笑)。白雪姫は愛らしく魅力的だというのを一生懸命描き込むと、日本人から見ると「なんだ、これは。中年女性がしなをつくっているみたいじゃないか。少女のかわいさは、こんなものではない」と思うわけですね。
 そういう違いをマンガは教えている。向こうもだんだんわかってきて、わかった人はしようがなく「カワイイ」という言葉をそのまま使う。Lovely、pretty、cute、beautiful、innocent、みんなちょっとずつ違うからです。Innocentといったら、ほとんどバカという意味で、向こうではマイナスの表現になる。無邪気とは違います。
 こちらは、バカとはむしろ神様仏様に近いと考える。そういう違いがだんだんわかって、カワイイという日本語をそのまま向こうも使うようになってきた。日本の心をちょっと理解したというわけです。
 国際活動をこれからやっていく上で、ただ言葉を翻訳してもだめだから、マンガ、アニメを外国に出さなければと思い、東京財団でもずっとやってきました。
 たまたま麻生太郎さんが外務大臣になり、部下を集めて「海外広報戦略にはマンガを使え、アニメを使え。本格的に使うから、その議論ができる人を集めろ」という命令がいま下っているそうです。ですから、ようやく文章によるコミュニケーションには限界があると気付いた。それ以上のコミュニケーションにはどうすればいいか。まあ、日本に来て住んでもらうのが一番です。その次にはマンガでも読んでくださいということに今なってきました。「でも、なるべく言葉でも言ってあげたいな」と私は思っています。そういう努力もしたいなと思っております。
 江戸時代や明治大正時代に日本に来た欧米人は、実際の日本人を見て日本の心を理解した。しかし、今は日本の表面は欧米化しているし、英語を話す日本人がいるので簡単に理解完了と思うようになりました。ですから、欧米思想と対比されるべき日本の心は、我々が解明しなくてはいけません。我々も欧米理解に努力した上でです。
 
日本が発明した普遍的な世界思想
 ところで、その日本人の常識、センス、あるいは心得、教えというのは、お配りした資料の一番下の行を見ていただきたいのですが「神道+道教+仏教+儒教+景教+アカデミー教」です。明治維新以後は「アカデミー、サイエンスならよい」という、新しい“宗教”が入ってきました。戦後は“国連教”というのが入ってきて、国際社会のすることにはついていかなければいけない、逆らってはいけないとなった。
 こんなものを全部足したのが「民間信仰」なんですね。
 もう少し穏やかに言えば、これが普通の日本人の共通の常識、共通のセンスであって、「宗教」というべきかどうかはまた問題がある。しかしまあとにかく、大切なことは世界を見てもこんなものはない。新宗教と呼ぶか普遍的な教えと呼ぶかはともかく、日本が発明した最も普遍的な世界思想である。なぜ世界思想かといえば、材料は全部入っているからです。世界中の思想を全部輸入して、全部混ぜて、しかも二千年間咀嚼し続けたわけです。それも同じ民族が二千年間、ああでもない、こうでもないと吟味し、味わったわけですね。
 こういうのは世界中にないと思います。
 特にないのは一神教の地域で、一神教は他を絶滅させますからね。我が神だけが尊いという教えですから、一度一神教のウイルスに襲われたところは、昔からの思い出は全部消されてしまいます。そのあとまた昔の思想が復活する場合もあるが、復活しない場合が多い。
 ところが、日本は一神教の侵略を受けても大したことがなかった。これは外来思想が軍事力を伴っていなかったからです。軍事力を伴った一神教に占領され、政治的にも支配されるということが起こると、その民族は心が変わってしまうわけですね。伝統がなくなってしまうわけです。特に経済や文化まで支配されると属国や植民地になりますが、日本にはそんな過去がありません。一部に「国際親善教徒」がいますが、親善にとどまっている限りは安心です。
 
いいものをとり、嫌なものは無視した
 同化についてわかりやすい例を言えば、今我々が言っているフランス人はいつどこで誕生したのか。シーザーの『ガリア戦記』には、あの辺はガリア地方と呼ばれて未開な野蛮人がいるんだと書かれている。ローマ人はそう思っていた。そこへ軍事力をもってシーザーが攻め込み、その後、ラテン語を強制してしまう。
 それ以前はケルト人がケルト語を話していたが、ケルト語はガリア地方から消えてなくなってしまう。しかしイギリスのほうに逃げた人たちがいるから、ケルト語は残りました。
 ガリア地方に住んでいる人はもうケルト語を忘れ、宗教ものちにカソリック教になり、フランス思想、フランス歴史はそこから始まるのですね。その後もいろいろなことがありました。だから、フランスに憧れる人はたくさんいますが、憧れて調べてみると底が浅いと言い出します。ほんとうにフランス語を勉強した人は「底が浅い」と言います。
 ほんとうに中国語を勉強した人も「中国の歴史は底が浅い」と言います。遺物がほとんど残っていない。どんどん壊してしまうからです。お墓しか残っていない。だから、中国から古いものが出てきたと言って喜んでいるが、それはお墓の副葬品ばかり。中国文明で生き残って世界にいろいろ影響を与えているものはほとんどない。ギョーザぐらいしかない(笑)。これは、京都大学の宮崎市定さんが言っていることです。
 一方、日本は世界思想として、何階建てという高さになっているわけですね。
 しかも日本人が全部日本語に直して、生活の中に取り入れた。良いものを取り、嫌なものは無視した。その自由があった。要するに支配者として入って来ていないということです。時々天皇がかぶれると、役人はそれにくっついていく。だからカソリックでも仏教でも、天皇に取り入ろうとする。しかし天皇を信者にすれば、国民全部が信者になると考えたのは、彼らの国は底が浅いからです。日本人は別にそういうふうにはなりませんでした。キリスト教の教えには、日本人の心にしみるのもあるし、全然しみないのもある。
 例えば「山上の垂訓」です。キリストが「あくせくするな。明日は何を食べよう、何を着ようと思って悩むな。今日一日苦労したら、もうそれでいい。明日はまた明日になってから悩めばよい。神様が何とかしてくれる。野のユリを見よ」と言う。野のユリは自分で働いていない。しかしあんなにきれいな格好をしている。神様がそうしてくれているんだ。ましてやあなたがた人間は、神様がきちんとしてくれるからあくせくしなくてもいいとキリストが言っている。
 これは日本人が一番好きな文句です。なんで好きかといえば、そういうのは前から聞いたことがあるからです。「仏教にもあったな。儒教でも何かそういうのがあったな。神道でもそういうのがあったな」と、つまり我々日本人がもともと思っていることに合ったところだけ、キリスト教が残っている。
 だから日本人の牧師の卵は、神学校で「学」を教えられると反発するんですね。信仰というのは「学」ではない、清らかにすれば祈らずとも神は護ってくれる。そういう気持ちがみんなにあるものだから、日本では神学校というのは成り立っているようで成り立っていない。しようがないから、ギリシア語ばかり教えている。ギリシア語は教えられれば覚えるけれども、キリスト教の神の心はギリシア語ではないから、それではなかなか日本には入らないし、入っていないと思います。


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