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中華思想、華夷秩序とは何か
 じつは昨日もそういうことがあったのです。ある医者が「法輪功の信者を生きたまま臓器を取って、売買している」と、それを遠慮しながら言った。事実だと断言していましたが、やはり日本人だから話し方は遠慮がちです。
 しかし、そんなに遠慮することはない。中国人は「共産党はそれだけの実力を持っている」と内心で思っている。国際世論を気にするというのは中華思想では本来あり得ないことです。だから、中国で話すときは遠慮しても意味がありません。
 アメリカに対してもそうです。アメリカ人は実力主義です。理想主義は、ブッシュさんのような人が突然目覚めて言っているだけです。ほんとうは実力主義で、実力のないものは泣き寝入りしろという考えです。だからアメリカに行ってがんがん言っても、向こうは「ようやく話せるやつが来た。これからおまえと話をしよう」となる。
 そういう現実主義が常識として基盤にあるから、その上に立つ政治的指導者は、何か高尚なことを言わなければいけない。国内の現実主義論は各種各様ですから、それを統合するためには特別抽象的な論を言わなければいけない。途方もなく高いことを言わなければいけないんです。
 そのうちの一つが「皇帝は天の子供である。天子である」というものです。そもそも天があるというのが怪しい。そんなものがあるかどうかはわからない。けれども、天というものがあって、そこから辞令がおりてきて、だからこの人が皇帝をやっているということにしないとまとまらない。つまり、民主主義ではありません。そこで、天の下にあるものは、みなこの人の命に従わなければいけない。しかし遠方になるほどその影響力が減る、というのが「華夷秩序」です。
 遠くのほうは実力が及ばないからだんだん自治を認めたり、朝貢だけで許すといったように、支配力が低減する。こんなわかりきった話を大仰な言葉にすれば「華夷秩序」となる。
 これを具体的に言うと、もともと「主権の相互尊重」という考えはない。「内政不干渉」もない。「民族自立」もない。それから「外国人」というものもない――地球人はみんな中国人だとなります。その証拠をあげると、中国政府に相手を対等とみる「外務省」はありませんでした。窓口だけあった。明治時代になって英仏独米日の軍事力が北京、上海、香港、南京に入ってきたとき、初めて多少は交渉する「総理衙門」が設けられました。台湾独立の問題も、こう考えるとよくわかります。
 
易姓革命、放伐論とは何か
 しかし、その天の命令がどうも変わるらしい。実力がある部下が内乱を起こすと、やはり政権が変わる。結局実力ではないのか、軍事力ではないか、という疑問はもう二千年も三千年も前から、当然ある。そこで政治学者がつくった理屈が「易姓革命論」です。易姓革命では、天の命令が変わったから、この人が新しい帝王になるとした。
 そこで孔子が出てきた。孔子は政治学者です。役人になりたい人が集まる学校の校長です。君子というのは「高級役人志望者」という意味です。
 孔子は「君子はああせよ、こうせよ」と教えて、弟子を集めたり、あまり集まらなかったりした人です。孔子は今にして思えば性悪説なんです。民衆というのはだいたい程度が低い。心を直そうと思っても直らないから、せめて礼儀を教えて形だけでもよくしよう。治めやすい国民になれ、governabilityのある国民になれ。みんながそうなれば、むだな争いがなくなって君子も助かるし、国民も助かる。
 これを「修身斉家、治国平天下」と言った。これは孔子より前からある考え方ですが、それを教えた。
 ところがそれから百数十年ほど経って、孟子が生まれて、自分の考えをその上に一つ付け足しました。孟子が言ったのは、「帝王が国を治めるのには二種類ある。一つは軍事力で、実力で抑えてしまう。これを覇道と呼ぶ」。しかし覇道の政治を続けるのはコストがかかる。帝王もコストがかかるし、民衆のほうも苦しい。それで「人徳をもって治めよ。徳をもって治めるほうへ早く移らなければいけない。それが王道の政治である」と教えた。
 王道のほうが安定する。みんな幸せだ、と教えたわけです。
 すると、弟子がまた質問する。「王道だって長続きしない。それはなぜなのか。中国の今までの歴史を見れば、覇道、王道、覇道、王道としょっちゅう変わってきたではないか」と聞かれて、孟子が言った答は「民衆には立ち上がって内乱を起こす権利がある。覇も徳も両方ないときは、立ち上がって皇帝を取りかえる権利が国民にある」と言った。これを「放伐論」と言います。王様を追放してもよい。バツは征伐の伐ですから、伐ってもよい。「国民は立ち上がって、実力も徳もない皇帝は取りかえてよろしい」と孟子は答えた。それで孟子は性善説だとか、世界最古の民主主義者だと言われます。「帝王を決めるのは民衆だ」と言ったからです。
 
中国と韓国が、旧政権を徹底批判するのはなぜか
 その後また千年もたちます。儒教が儒学になってしまう。みんなで千年も議論をすると、学問になってしまうんです。大体「学」になると怪しいですね(笑)。ほんとうに。このごろ日本中に大学が増え過ぎたものだから、何でも「学」と言う。ライスカレー学とか、いろいろなことを言って楽しんでいます。まあ、それもまたいいことです。
 さて、儒教が儒学になって、いろいろな議論を重ねていきますと、極端なほうが勝つ。学はイデオロギーになり、イデオロギーはキッパリ断定するほうが勝つ。
 それがやがて朱子学になる。この朱子学は、いま帝王を続けている人は、実力か人徳か、どちらかがあるに違いない。と、原因と結果が逆になっていく。やめた人はどちらもない。では新しくなった人はあるんだろう、という理屈になる。
 そういう思想の下では、新政権は旧政権を否定する。これは全面否定です。それから今は自分が全権を把握していると誇示しなくてはいけない。そうしないと新政権の根拠がなくなる。ですから、新しく政権をとった人は、前の人を徹底的に悪く言う。それどころかお墓を暴いて捨てるといったことまでやる。その点日本は天皇が継続していますから、天皇からの辞令をもらったということですむ。
 こういうわかりやすい教えは、本家本元よりも周辺のほうへ広がって勢力をつけるものです。中国に行くと南宋、長江より南のほうですが、南宋というのはかわいそうな国で、北から南下した勢力に追い払われて、揚子江のあたりにいたから、心の中はコンプレックスだらけ。トラウマだらけです。我々はいったい何人なのか。中国人なら北京や開封にいなくてはいけない。追い払われてこんな、ベトナムのほうが近いところにいる。越人と言いますが、はるかに見下していた越人のほうに追い込まれている。はたして正統性を持っているのかどうか、という議論になる。
 同じように、朝鮮半島も中国に支配されている。せめて思想では先生よりも先生らしくなってやれ。それで、儒教国になり、儒教では唐よりももっと極端になる。それをやっているのが今の大統領です。前の大統領を徹底的に悪く言う。その昔、日本にごまをすった人の財産は全部没収するとか、むちゃくちゃです。しかしそれをすると、自分が正しいことになる。放伐論をやっています。


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