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記録には出ないさまざまな姿
 そういうことをなぜ自信を持って言うかというと、当時私は中学校三年生です。身の回りには、自分たちもそろそろ海軍航空隊や陸軍航空隊へ志願しなくては、という人がいた。十五歳なのに、ほんとうに志願した友人がいた。入る資格がまだ二年ぐらい早いのですが、体が大きかったから通ってしまった。
 その頃は戸籍抄本が結構いいかげんだったようです。例えば子供が生まれて届ける。当時はよく赤ん坊が死ぬ。だから死んでも届けない。「弟が生まれたらまた使おう」と置いておくんです。ほんとうですよ。すると生まれてきた弟が兄貴になってしまう。戸籍抄本を取り寄せると、一歳か二歳増えてしまうんです。だから六歳ぐらいで小学校に入ってしまったとか、そういうのがほんとうにあったんです。
 そういう時代ですから、ともかくみんなより早く海軍予科練に入って土浦で演習をしていた。すると一年ぐらい経ったらばれて、教官から「間違いだから家に帰れ」と言われた。しかし、そこにいれば飯が出るが、家に帰ったら食えない。そのときはもう昭和二十年の特攻隊が行くころでしたが、「お願いします、置いておいてください」と言って置いてもらったという友達がいます。
 そういう友人や先輩関係の中で耳に入った話を言えば、特攻隊になった若者が前の晩、「自分は明日司令部に突っ込む。アメリカよりも司令部のほうが憎い。司令部の無責任参謀を殺さなければ死ねない。だから爆弾は司令部に落っことして、それから沖縄へ行ってアメリカ軍に突っ込んで命はささげる」という話をしていたというのです。本当にやったという話は聞きませんが、もしかしたらあったかもわからない。あってもこういう話は記録には出ないでしょう。爆弾を機体に固着して出発させたというのは、この用心かもしれません。
 そういう話を聞くと、ああ、自分も同じ立場ならそう言ったかもしれないなと思います。その頃は、ほんとうにでたらめな上官がいましたからね。
 それから「天皇のために死ぬのではない。妻や母を守るために死ぬんだ」と思っていたという。それはそうでしょう。当たり前ですね。特攻隊の遺書にも、天皇のことに触れていないのがたくさんあります。触れていないのは、やはりその気がなかったのではないかと思います。
 それから、特攻隊にも結構逃げる人がいたんです。エンジンの調子が悪いと言って帰ってくればいいのですからね。それがあまり増えるものだから、三回帰ってきたら刑務所に入れるぞとなって、そういう刑務所もどきが久留米のあたりにあった。そこに入れられた人の手記もあります。けれども、もちろんその手記には「ほんとうにエンジンのぐあいが悪かったのに、信じてくれず刑務所に入れられて、腹が立ってしようがなかった」と書いてあります。
 あるいは、被爆炎上してかどうかは不明ながら、進撃途上の島に不時着したというのもあります。そこの島の人が親切にしてくれた。しかし後輩が空を次々と飛んで沖縄へ行くのを見て「いつまでもこんなことはしておられん。やはり鹿児島に帰らないと」と思っているうちに、戦争が終わったという話を書いている人もいます。地上の整備兵が書いた手記ですが、わざとエンジンを不調にする方法があって、それを好きなパイロットには教えたと書いてありました。教わったパイロットはそれを使うかどうか悩んだことでしょう。不調にする方法は、普通は燃料系統をいじるのですが、その話は電気系統の話でしたからナルホドと思いました。
 
戦記物の最後がハッピーエンドになる理由
 戦記物というのは、みんな最後はハッピーエンドになるのです。それはそうです。死んでしまった人は書けないのですから。書いている人はみんな生きている。だから、戦記物は何百、何千冊と読みましたが、兵士は何となく死なないものだという気になってしまうんです。
 これは金刀比羅さんと同じです。四国の金刀比羅さんに行きますと、「この金刀比羅さんに祈ったら船がひっくり返ったけれども命が助かりました」というお礼の額がたくさんかかっている。何とか丸乗組員一同。それを見ると、ああ、金刀比羅さんにお参りしようと思いますよ。しかし、死んだ人の札はあるはずがない。帰ってきた人のだけあるのですから、データには偏りがある(笑)。
 遺書に話を戻せば、先のような事情で逃げたときの不名誉が怖い。だから、きれいごとになっている。しかし、もちろん批判する気はありません。あまりにもかわいそうな人たちです。「この人たちはかわいそうだ。その人たちのことを悪くは言うまい」と思うと、結局どうなるか。平和への誓いになる。「二度と戦いません」になる。「戦争は起こすまい」という誓いになる、祈りになる。
 祈りになってはいけないのです。祈っても戦争は起きるのですからね。
 ほんとうに戦争をもう起こさせないためにはどうするか。それは、圧倒的な攻撃力や反撃力を持つことです。こんなことは当たり前のことです。そうした抑止力を持つということにすら反対する人がいるが、その人たちは何を考えているのか。何だと思いますか?
 まず穏やかなほうから言えば、日本人を信用していない日本人です。日本が再軍備すれば、その兵隊を使ってまた侵略を起こすであろう、と考えるのは、日本人を信用していない。「日本が原子爆弾を持つと、それを使うのではないか」と書いて、「昔なら使うかもわからないが、もう今は使わないだろう」とは書かない。「心配がある、おそれがある。だから反対だ」と書く。
 なぜ、おそれがあるかを、もっとしっかり書いてくれと言いたいのです。
 今はもう民主主義で、政治家も国民が投票して決まった人ばかりです。原爆を持ったら、よし使ってやろうなんていう人が今いますか。そんな顔をした人は一人もいません。朝日新聞の中にはいるらしい(笑)。国民は口に出しては言わなかったが、長い間そう思ってきた。そんなマグマの常識がだんだん通るようになってきました。
 
「特攻隊がうらやましいと思った少年がいる」
 遺書に話を戻せば、「自分は死にがいを見つけた」と書いてあります。遺書は全部そうです。そんなはずはないだろうと思うから、こちらは同情するのです。「死にがいは探したけれども見つからなかった、やけくそだ」なんて書いたものはありません。自分でも美しくないと思うのでしょうね。
 それからもう一つ言いたいのは、私は中学校三年のとき大都市の真ん中にいて、週に一度くらいB29の空襲があって、周辺の町が次々に丸焼けになる。夕べはあそこが丸焼けになった、というのをずっと見ていた。それでも逃げるところがないから、そこにいたのです。
 いずれここにも来る。そのときは一生懸命走って逃げてもだめだろうと思っていました。B29の焼夷弾攻撃はだんだん進歩して、絶対逃げられないように落とすのです。ご承知のように、まず周りに火をつける。それから中に落とすのです。
 だから東京裁判では「空襲のほうがよほど残虐だ」と弁護団は資料を出した。富山の町でこう、高松の町でこう、岡山の町でこうという資料が幾らでも出てきます。それを全部ウェッブ裁判長が却下した。その却下された日本側弁護団提出資料を日本財団が印刷しました。だから今でも読めば読めるようです。しかしそんな面倒くさいものを読む人はなかなかいないから、みんな知らない。
 私は小学校時代ずっと高松の町にいましたから、一番知っているのは高松の町です。それから空襲を受けたときは神戸にいた。夜の焼夷弾攻撃が終わったら、翌朝早く親戚の家は大丈夫かと思って見に行くと、どういうふうに焼夷弾が落ちたのかを目の当たりにします。これは野坂昭如さんが書いています。彼もそのとき火の雨の中を逃げた。妹の手を引っ張って一生懸命山のほうへ逃げて、「ああ助かった」と思ったら山に降ってきた。神戸の町は海際にある町ですから、海側から火をつけてだんだん山のほうに追い上げていって、最後に山に逃げて固まっている人のところに落とした。野坂さんはそういう書き方はしていないのですが、それを神戸の人はみんな知っています。
 そういうふうに、追い込み方がどんどん進歩していることは当時知っていましたから、自分のところもいずれそうなるだろうと思いました。逃げようと思っても逃げるところはない。妹だけでも田舎に帰したいが、日ごろ親戚、親戚と言っていたのに、空襲の真っ最中に妹を送り返してきた。しようがないから我々はここで、一家固まって焼け死ぬことにしようと決心した。
 そういう状況にあったときの気持ちですが、空を見上げて、自分にも飛行機を一台くれと思いました。敵に一矢報いて死にたいと思いました。「だから、神風特攻隊の人を気の毒だとばかりは思っていなかった。むしろうらやましかった。自分は家族を守ることもできず、ただ虫けらみたいに焼け死ぬのだと思いながら、四月、五月、六月、七月と空を見上げ、ラジオを聞き、特攻隊のことを新聞で読んでいた」と、あるとき自衛隊で話したことがあります。「全然知られない話をしましょう。特攻隊がうらやましいと思った少年がいる」という話をしたら、深く感動しましたという手紙をくれた人がいます。
 「自分はまだ特攻ができるだけ幸せだ。焼け死ぬのをただ待っている国民は気の毒だ」と書いた遺書はない。それはまだ二十歳ぐらいだから、しようがない。なくていいのです。でも誰かが、遺書には書かれていない国民の心を言っておかなければいけないと思う。マグマみたいなものです。


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