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第117回 靖国神社と国民の心
(二〇〇六年九月十四日)
靖国の問題は「(A+B)×C」
 こんな雨の中を、ありがとうございます。
 靖国神社についてを二回続けてテーマにします。
 国民の関心は八月十五日がピークで、あとはすっかり靖国から離れています。そのころつくった月刊雑誌が今ごろ出てきますが、こんな議論しかできないのかな、と思います。国民の関心は秋篠宮の男子ご出産(九月六日)のほうへ全部行ってしまいました。
 しかし、マグマというか、無意識の部分での国民の心は一緒だと思うのです。それをきちんと議論しなければいけません。日ごろ基礎から考えていない人が集まって新聞、雑誌で座談会をしても、論文を書いても、そこから出てきた対策はみんな空振りになってしまう。とはいえ、それでも済むのですから日本はほんとうに底力がある(笑)。やはり押しも押されもせぬ大国であって、多少転んでも平気だなと思っていますが。そういったことをもう少し整理してお話ししようと思います。
 まず靖国の問題を私は「(A+B)×C」と思っています。
 Aというのはマグマ的な国民の心です。俗信とか民間信仰、あるいは日本人はあまり深く考えない思想や情や常識です。「自分は無宗教だ」と言う人がたくさんいます。しかし、そう言いながら、何か持っているのが「A」なのです。Bは政治と法律です。これの決着がついていない。もう中曽根首相のときからずっと議論はしているが決着がついていない。そこへ「×C」と来た。Cはチャイナです。
 ここで問題なのは、まずAがはっきりしていない。「A+B」をきちんと中曽根さんのころから、例えば憲法、裁判、宗教法人法、あるいは首相とは何か、天皇とは何かという「A+B」が解決していれば、Cが来たときでも対応できました。
 しかしA+BがほったらかしになっていたところへCが入ってきた。実はCも正体不明のまま議論をしています。中国人自身は、はっきりしています。しかし日本人は中国の研究をしないで、勝手に「そうか。ではA級戦犯だけ分祀すればいいんでしょう」と、日本の常識で中国を解釈している。「これでいいはずだ」と思うが、実際はちっともよくならない。山崎拓さんが「十五日はいかんと向こうが言っているから、十三日にしたらどうですか」と小泉首相に進言した。ところがそうしても、火は全然鎮火しなかった。
 日本の中国対応は、中国に対して全然駄目だったし、かつ、日本国内に対しても駄目だった。それで議論沸騰です。
 
俗信、民間信仰の研究がない
 そもそもAとは何かから考えを始めると、Aが実は多種多様です。よく言われるジョークですが、結婚式のときはキリスト教で、死ぬときは仏教で、ハイキングしているとき神社があれば何かご利益があるだろうと拝む。多種多様過ぎます。
 それから俗信の研究がない。あるいは民間信仰と言ってもいいでしょう。そういったマグマ的な日本人の宗教心。これはおそらく「宗教」という名前をつけてはいけないものです。religionなんて英語で言ったら、ましていけない。何だかわからないけれども、自分や人間以上のものを想定する心ですが、それならある。「そんなものはない」と言うと無神論になるのですが、無神論になるほどの勇気は日本人にはありません。
 無神論についての分厚い本がありまして、読んでみると大変なものです。ヨーロッパ人が徹底するとこんなになってしまうのかと思わされます。徹底せざるを得ないほど、カソリックの圧迫がひどかったのです。
 カソリックというのは単なる宗教ではなく、もう世の中を全部支配していましたから、少しでも違うことを言うと宗教裁判にかけて火あぶりにする。しかもカソリックの教えは、けっこう変わるのです。中絶してはいけないと言っていたのが、このごろはしてもよいと変わったように。
 さて、「日本にいるカソリック教徒は靖国神社にお参りしてよろしい」とローマ法王は戦争中二回も三回も言っています。だから、教会と靖国と両方行けると言って喜んでいるカソリック教徒もいます。もし片方しか絶対にダメとなったら、これは大変です。それを逃げるには無神論という手がある。
 ところが無神論を唱えると、ヨーロッパでは周りにいる人とつきあいが全部切れてしまうのです。そんな生活は大変です。日本人は「ああ、私は無神論です」などと気安く言っています。アメリカに行って「宗教は?」と聞かれたら、「私は無宗教です」と平気で言う人がいる。「神を信じていない人」を、キリスト教ではどう考えるかについて全く知らない。ほんとうに危ないんですよ。キリスト教徒から見れば「犬畜生」と一緒にされます。近代的だと思って気安く「宗教はありません」などと言うと、古いタイプの欧米人からは「犬畜生か。それでは奴隷にしてもいいな」と見られます。
 神は理性によって見る。すなわち知性のある人だけ神が見える。こういうのがキリスト教の主流の考えです。だから「ああ、そうか。おまえは神を見る理性がないんだな、知性がないな」と言われますから、そういうときは必ず「私は生まれてこの方、一回も聖書を読んだことがなく、教会の中に入ったことがなく、牧師さんに会ったことがなくて、伝道されていない。だからしようがないでしょう」と言わなければいけないんです。「伝道されたけれども神は見えなかった」と言ったら、犬畜生にされてしまいます。これがキリスト教の根本的な教えなんです。
 「それがうるさいからもう無信仰」という日本の俗信は、極めて特殊なのです。しかし、そういう研究もない。正体の研究もない。ただし、それについて考える人がだんだん出てきました。
 
英霊の心が入っていない
 それからもう一つは、Aの話で英霊の心が入っていないのはおかしい。
 一番大切なのは、死んだ人がどう思っていたかということです。それへの同情とか共感が話の始まりです。ただし、もうそれを知っている人は今八十歳以上です。八十歳以下の人は、ほんとうのことは知らない。私は多少かいま見ました。想像で言えるのも、もう私の世代が最後。これからその世代が死んでいけば、英霊の心はもう伝わらないで、字になったものしか残らない状態になります。もうすでに、そうなっています。
 ですからこの前も申し上げましたが、靖国神社はほうっておけば消えてなくなるところでした。遺族会は橋本龍太郎さんや中曽根さんが気にしていたときは、会員が一五〇万人いたんです。一五〇万人いれば、これは一大政治勢力ですから気をつかいます。だが、今は一五万人しかいない。一五万人になると、政治からは無視されてしまう。この一五万人も、あと五年もしたらだいたい死んでしまうのです。
 この遺族の定義ですが、たぶん遺族年金をもらっている人の数だと思います。遺族であると厚生省が認定して、名簿に載せ、それでお金をもらっている人の数だと思います。これはどんどん減る。当たり前ですね。これがゼロになったら法的、行政的、政治的な遺族はない。
 では、戦友会もないし、遺族もない靖国神社を誰が支えるのかと思っていたところへ、江沢民や胡錦濤が火をつけてくださって、この八月十五日には二五万人という空前絶後の参拝がありました。一番喜んでいるのは靖国神社かなと思います。「胡錦濤のみこと」というのをつくって感謝のお祀りするといいですね。イギリス人の祭神もあるのですから。消えそうな運命だったところへこの「×C」が登場したので、議論が盛んになっています。
 B、つまりは政治ですが立法が進んでいない。これはAをつかんでいないからです。つかみようがないというのが答なのですが、それでもつかむ努力をして一応字に書き上げてみたらどうだと言いたいのです。誰もやっていない。
 しかも政治のほう、立法あるいは行政、司法も、Aに遠慮する気持ちだけはあるのです。しかしAは正体不明ですから、正体不明のままでほうってきた。それから中国に遠慮する気持ちもある。日本人は何もかも遠慮で動いているというのがよくないですね。英霊は遠慮ばかりする国家のために死んだのでしょうか。
 
「日本教」が揺るがないという不思議
 しかし、何もかも遠慮であいまいに動いていくのもいいことだ、とも思っています。それが日本的だと思っているからです。しかし「あいまいなのがよい」と断じて言う学者はいない。あるいは法律家もいない。だけど国民はそう思っている。
 そういうものに、山本七平さんは「日本教」という名前をつけた。得体の知れない日本教というのがある。これは矛盾だらけだが、変わらない、揺るがない。
 そこが不思議なんです。得体は知れない、説明はできない。だから違う考えとぶつかったときは「はい、さようでございますね。それもごもっとも」と言ってへこむ。しかし、へこんだかと思うとへこんでいない。マグマはきちんと健在である。これはいったい何だというわけで、山本七平さんは「日本教」と名前をつけたが、その正体をきっちりは書いていない。まあ、そもそもが書けないのですけれども、「書けない」とも書いていない。
 あの方は、一九四二年に青山学院専門部高等商業部を二十一歳で繰上げ卒業しました。戦争中でしたから、繰上げというのがあった。青山学院大学はもともと神学校で、米国メソジスト監督教会が日本へ伝道したいと思い、その牧師をつくるための神学部が始まりです。それがだんだん手を広げて、今から二十年ぐらい前に神学部を廃止してしまった。何だそれは、という話です。
 青山学院の隅っこに、アメリカ人の立派な銅像が建っている。正面を入ったところに小さいけれどもギリシア建築みたいなのがある。これが神学部の一番最初の建物ですという、そこが元祖です。「神学部を廃止してケシカランじゃないか」と言ったら、「生徒が来ないんだからしようがない」と言う。「神様はちっともご利益がないんだね。いや、神様がないのか、あなたがたがないのか、どっちだろう」などと話をした。
 そんな話はともかく、言いたいことは「日本教」というのがあるのだから、これをもうちょっと努力して書き上げてみたらどうか、ということです。日本人の教授や牧師にとっては自分自身の研究です。あるいはマグマの研究ですね。


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