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明治天皇の御製を詠んだ昭和天皇
 さて、そこで、英霊の希望は何か。どういうふうにしたら鎮まるのかです。
 その点を言えば、お国のために死んだのだから、国から認めてもらいたい。当たり前ですね。それをするのは、命令した人のけじめです。行って戦って死ねと命じた人の負うべきことです。すると、明治二十三年に施行された明治憲法をつくるまでは天皇の責任です。しかし、明治憲法をつくってからは、首相及び大臣の責任です。明治憲法のときから天皇は独裁者ではありません。補弼の責任を内閣は負うことになっている。「内閣全体で決めましたからお願いします」と言われて、天皇が反対したことはない。あるといえば、二・二六事件のときと、戦争をやめるときの二つです。それ以外は、天皇は反対したことがない。内閣が崩壊したときだけ天皇は発言しました。立憲君主制ですからね。
 ですから、天皇としてみれば、A級戦犯とされた人たちが決めて戦争を始めたおかげで、自分はどれだけ迷惑したかわからないと思っているはずです。天皇は思っていないかもしれませんが、普通の人ならそう思うところです。
 皆さんご存じですよね。昭和十六年ですが、日米交渉が行き詰まっていたときの御前会議で、陛下は明治天皇御製を詠んだと言われています。「四方の海 みな同胞(はらから)と思う世になど波風の立ちさわぐらむ」という御製です。地球の上にいるのはみんな同胞だと思うのに、何でこんなに波風が立つのか、と明治天皇が詠んだ有名な歌がある。それを昭和天皇は立ち上がって二回も詠んだ。東条英機はそのとき、たいへん興奮して「大御心は平和であるぞ」と、宮中から帰ってきてから市ヶ谷の参謀本部の中を大きな声で言って歩いたのを聞いたという人から、私は直接聞きました。
 というのは、その人は陸上自衛隊で陸将補になり、それから私のいた銀行へ来て顧問をされた。
 なんとこの人は、陸軍参謀本部の作戦部のロシア課にいた。それはもう最高の秀才です。昭和十六年頃、ロシア作戦といえば一番頭がいいと思われた人があてられる仕事です。当時はロシアが主敵ですからね。その彼が言ったのは、自分がどんなに知恵を絞っても、なかなかソ連には勝てない。瞬間的には勝てる。しかし死力を尽くしても、バイカル湖までだ。そう言うので「えっ、モスクワまで行けないんですか」と聞いたら、「とんでもない。バイカル湖まで行けたら御の字だ。そのぐらいソ連は強かった。日本という国はまだ力がなかった」と教えてくれました。
 その人から、東条が御前会議を終えて皇居から帰ってくると、「大御心は平和であるぞ」と廊下を歩きながら大きな声で言って、自分の部屋へ入っていったという話を聞きました。
 
ハルノートで戦争を始める必要はなかった
 この話はいろいろな文章に出てきます。東条が一週間ぐらいは、平和、平和、なんとかアメリカと話をまとめろと言って歩いていた。しかし、なかなか進まなかったところへハルノートが出たわけですね。
 ハルノートのハルさんというのは、そんなに悪い人ではなく、実際にこれを書いたのはハリー・ホワイト財務次官補というソ連のスパイだそうです。つまりソ連のスパイが、アメリカ政府の中にいて、日本がカッとなって立ち上がるようなことを書くわけですが、ルーズベルトは「それもよかろう。立ち上がってくれたらちょうどいい」と思い、そのワナに日本は見事にはまったのです。
 これについて山本七平さんが戦後書いているのは、「ハルノートをもっとよく読め」ということでした。何も絶望して戦争を始めることはない。文章を読む力がないのか、ということでした。文章を読む力の前に、日本人には心がある。日本人の心は穏やかで、こんなことを言われるとは心外であるとか、こんなことを言うなら相手はよほど邪悪な心を持っているに違いないとか、日本人はすぐそういうふうに考える。
 しかし、ここでもう少しリテラシーのある山本七平さんのような、半分はユダヤ人のような人が読めば、「まだ逃げ道がいっぱいある。何もここで、すぐカッカすることはない」と読むことができる。
 ハルノートには「中国から兵隊を全部引け」と書いてある。今まで交渉してきた中に、そんな話はないのです。日本からお願いしているのは、石油を売ってくれ、鉄を売ってくれ、そのためにはこのぐらいは譲りましょうという話を押したり引いたりしているうちに、いきなりハルノートが来て、中国から全面撤兵せよと書いてある。それで「アメリカは話をまとめる気はないんだ」と即断した。しかし山本七平さんは「そんなことはない。いつまでに撤兵をせよと書いてないじゃないか」と書いた。いつまでに全部兵を引き揚げろという、期日が書いてないのは、中身がないのと一緒である。こんなことはユダヤ人なら常識だ(笑)。日本人はまじめだから、と山本さんは書いていました。
 それはその通りなのです。ハルノートには、「はいはい、承知しました」と言ってもよかった。約束しますと言って、やっているふりだけすればいい。なんと言っても、中国は広いところですから、奥地のほうから少しずつ引き揚げてきて、港へ全部集まるまでには、まあ一年か二年かかります。それでいいんだという話ですね。
 あるいは、満州から引き揚げろとは書いてない。中国から撤兵せよと書いてあるが、満州からも撤兵せよとは書いてない。「そういうことを気がつかないとは」と山本さんが書いていました。
 山本さんほどの国語力のある人が、やっぱり今でもまだいないみたいですね。こんなことでは、国際社会を生きていけません。
 というわけで、もし東条さんに国語力があれば、ハルノートをもらっても別に絶望しないで「よかった。これでまた一年ぐらい時間稼ぎをしてやれ」と思ったでしょう。大御心は平和なのですから、なにも慌ててやけっぱちの戦争をしなくてもよかったのでした。
 
見送りと出迎えは、上に立つ人の大事な仕事
 そんな政府の思い込みもありまして、十二月八日に戦争を始めてしまった、その命令者は誰かというと、当時の憲法により首相と内閣です。首相は独裁者ではありませんで、内閣全員一致でないといけない。それを天皇は反対できない。憲法どおりにすれば、そうなります。
 ですからここで英霊の希望を言うなら、「日本国として開戦の責任者を裁判にかけてもらいたい。東条英機以下の大臣は、我々が許さん」と言うでしょう。
 ですから、靖国神社に祀られている人の声として、開戦責任者は一緒にしてもらいたくないというならわかります。しかし、A級戦犯として中国に言われる問題ではありません。
 そこで思い出すのは、宮沢総理です。総理大臣のとき、警官にカンボジアヘ行けと命令した。そして見送りに行った。見送りには行ったが、カンボジアで一人亡くなりました。高田警視という方です。その棺が帰ってきたとき、宮沢総理は出迎えに行っていない。あれが首相か、と、いまだに怒っている人がいます。
 死んだ人及びその仲間から言えば、やはり出迎えてもらいたいわけですね。今、サマーワから一人も死なずに帰ってきたと喜んでいますが、危険なことをする人に対しては、礼儀を尽くさないといけない。見送りと出迎えと挨拶は、上に立つ人の大事な仕事です。
 それが日本国内における首相の参拝問題です。こそこそと参拝してはいけません。
 
五十年以上たったいま、靖国に霊はいないはず?
 ここで、神道というのはどういう考えなのか。霊魂とは何なのか。死者とは何なのかという話をしてみましょう。
 神道の解釈を、私はひろさちやさんに聞いたことがあります。ひろさちやさんは仏教の本をたくさん書いていますが、神道のことも詳しい。二人の対談で本をつくったとき、「神道では、人間が死んだら霊魂はどうなるのですか」と聞いてみた。すると「死んだら部屋の天井にいて、それから家の周りの低いところに魂はいるんです」ということでした。家の近いところの地べたにしばらく霊魂はいる。岩波全書の『民間信仰』(堀一郎著)にもそう書いてありました。
 私が思いつくのは、黄泉(よみ)の国です。死んだ人が行く黄泉の国は地下にある。これは道教です。それが日本にも入ってきて、天照大神とかスサノオノミコトという、あの神話の中に出てきます。自分の死んだ奥さんが恋しくて、追いかけて地下の国まで行くというのがありますね。死んだ奥さんは地下の国にいたというから、死んだ霊魂と、黄泉の国へ行く入り口の話がつながります。
 ああ、そうか。草葉の陰からおまえを見ているぞというのは、そういうことなんだと思いました。草葉の陰とは低いところですね。
 それからどうなるんですかと聞いたら、いつの間にか少しずつ動いて山のほうへ行く。山のふもとへ集まる。山のふもとに集合するのだそうです。なるほどそういえば、神社とはみんなそういうところにある。
 それから年月が経つと、少しずつ山を登っていく。なるほど、そういえば神社は階段がある。「階段を上がって本殿にいるんですか」と聞くと、「いません」という返事でした。では、どうなのか。山の頂へ行って、そこで霞(かすみ)のように漂っている。それを産土神(うぶすながみ)というのかなと思いました。日本の村はだいたい谷あいにありますね。谷あいに数百人が住んでいる。そこで死んだ人の霊魂は、山の上から子孫の家々を見下ろしている。守ってくださっている。「ご先祖様は我々を守ってくださっている」と考えるのは自然なことですし、日本の山にはいつも雲がたなびいていますから、「あれが霊魂かな」と自然にそう思うでしょうね。この辺が地下に来世を想定する中国と違います。
 「では、山の上にたなびくあたりは何年経ったころですか」と聞くと、「それはわからないが、まあ十年ぐらいだ」と言っていました。要するに、みんなのそういう感じなんです。それはそうです。だんだん忘れていきますからね。親が死んだときは、まだ隣の部屋にいるような気がします。ふっと出てくるような気がします。それがだんだんあきらめて、山のてっぺんに漂っているのかな、と思うわけです。
 「それからどうなるんですか」と聞くと、「そこから先はどんどん宇宙の果てへ上がっていくが、そのときは集合霊になる」。個人個人の名前は消えていく。「全部まとまって、名前のない霊魂の塊になって、はるか宇宙の向こうへ行ってしまうんです」ということでした。
 「それは何年後ですか」と言ったら、「五十年です」とやけにはっきり言った(笑)。その理由がよくわからないのですが、ともかく五十年ですという教えが神道の世界では何かあるのかもしれません。仏教の四十九回忌の淵源はそういう日本の俗信かもしれません。
 そこで私が聞いたのは「では、靖国神社はもう、もぬけの殻ではないですか」ということです。戦後五十年以上経っていますからね。あそこは空っぽで何もないんですかと聞いたら、「そうです」と言われた(笑)。


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