「朱子学」で固まっていた官軍
さて、「A級戦犯論議」が盛んですが、もともとは中国が持ち込んできた問題だから、正しい対応というなら、答える必要は全くない。「知らない」と言えばいいことです。
しかし、なぜ中国がA級戦犯論を言い出したか。そこが理解されていません。
まずは儒教にさかのぼり、孟子にさかのぼってご説明します。そこまでの教養がない人たちの説明ばかりですから、新聞やマスコミをいくら読んでいてもわからないわけです。
まず話の第一は、靖国神社には官軍の人しか祀っていない。会津若松は賊軍だから祀られていない。福島県では「それが気に入らない。だから靖国神社は行かない」と言っている人が少なからずいます。賊軍を祀ってくれないとは何事だということですね。
たしかにワシントンの墓地へ行くと、南軍も北軍も両方祀ってある。ただし「アメリカではこうなっている」と言って結論にするのは早計です。靖国神社との類似性は「国家統一戦争だ」と理解すれば共通しています。けれど、奴隷制度をやめた戦争だと言ったら、南軍の人は祀る必要はないのに祀ってあることになる。ではなぜなのか。「奴隷解放戦争だ」というのは北軍の政治的解釈で、法的には国家統一戦争のようです。だが、それも当時の憲法に照らせば合法とは簡単に言えないのです。結局、政治的配慮による合祀のようですから、簡単に「アメリカではこうだ」と言ってもらっては困ります。
という話は別としまして、咸臨丸はご存知だと思います。徳川幕府が持っていた船で、勝海舟や福沢諭吉が太平洋の荒波を乗り切って、サンフランシスコヘ行ったという自慢の船です。
ただし、そのとき乗っていたアメリカ人が書いた日記がありまして、日本人は全部船酔いしてごろごろ寝ていただけで、勝海舟も福沢諭吉も半病人で何の役にも立たなかったと書いてあるそうです。日本人が書いたものには、それは知っていても出しませんね。どちらが本当かはともかく、そういう船が最後には賊軍になり、駿河湾で座礁します。それで死体が駿河湾の沼津のあたりに一〇〇人ぐらい流れ着きます。このとき、官軍は「あれは賊軍の死骸だからほうっておけ。一切手を触れるな、野ざらしにしておけ」と命令をします。
白虎隊のときでもそうなんですね。会津の白虎隊の少年が、「城が落ちた。殿様の後を追って殉死する」と切腹して死んだ。それを官軍は野ざらしにして、捨ておけと言った。それが恨みの一つになっています。
しかし、咸臨丸のときは清水の次郎長が「死んでしまったら仏さまだ。仏さまには官軍も賊軍もない。自分が責任を持つから、みんな集めてこい。丁重に葬ろう」と言って葬ったんですね。それで清水の次郎長は男を上げた。官軍のほうは、やくざのすることだからと見逃したのかも知れません。その辺はよくわかりませんが、だんだん時がたてば「清水の次郎長は偉い人物だ」という話になりました。これは国民の仏教と官軍の儒教の違いです。
さて、こういったエピソードを靖国神社の話と重ねて解説すると、こうなります。
官軍は「朱子学」で固まっていた。儒教が始まったのは二千五百年も前のことですが、その後に弟子が続くと、学説がだんだん進歩して過激になる。先鋭になる。理屈で固まってくる。すると非常識になっていく。これはすべての学説がそうだと思っておりますが、孔子・孟子の教えがとうとう朱子学にまでなる。南宋の時代です。
南宋の次は明で普及し、明は清に滅ぼされます。そのとき朱子学の学者が失業して、政治難民なのか学問難民なのかはともかく日本へ逃げてきます。有名なのが朱瞬水。この学者を水戸黄門が歓迎して引き取り、自分の先生にして朱子学を習います。
するとまた徳川二百五十年の間に、その水戸学がますます過激なものになる。余計なエピソードを言えば、朱瞬水は水戸黄門にラーメンを教えて食べさせたらしい。当時は支那そばですが、それで日本で一番初めにラーメンを食べたのは水戸黄門だということになっています。
さて水戸学という学問は、「何が正しいか」を立てようとする。
無理やり立てようとする。水戸の殿様から見ると、徳川幕府体制はあまり好きではない。御三家筆頭は尾張で、その次は紀伊。水戸は補欠のまた補欠でめったに将軍にはなれない。だから心の中が屈折してしまう・・・というのは私の想像ですが。
いつの日か、天皇陛下が偉くなって、征夷大将軍の任命を取り上げたら、徳川幕府は没落するかもしれない。そうなったら案外チャンスかもわからない。水戸のほうへ大命が降下するように、・・・ということまで考えたかどうかはわかりませんが、ともかく水戸は江戸より上、京都があると考えました。水戸学は幕末には尊王攘夷論になりましたが、これには朱子学が入っている。
そもそもを孟子から話せば、中国の二千年前は乱世でやたら国家が変わる。北から勢力が南下してくるとまた戦争。そして結局強い国が勝つ。強いから勝つということは明々白々なのですが、しかし、そこに何か理屈をつけたい。ここが面白いところですね。強いから勝ったというのでは国が安定しないのです。「自分のほうがもっと強い」と誰かがチャレンジしてくるから、戦争がいつまでたっても終わらない。
これをやめるには、「今度なった君主はもう本決まりである。もはや交代はないのである」と本人も言いたいし、戦乱に苦しめられた国民もそう思いたいわけですね。「安定したいものだ」と上も下もほとんどが思っている。「今度できた国はもう滅びない、今度の君主は特別である」と言いたい。
では何が特別かというと、そこで彼らが発明した架空の論理は「天というのがある」ということです。そして「天命が下る」ということです。天命が立派な人に下って、「おまえがここを統治しろ」と言う。だから天子――天の子供である。天子の言うことは、天の声である。だから、みんな従え、と、このぐらいの建前を立てないと分裂してまとまらない。無理に統一しなくてもいいと思うのですが、まあ統一しようと思えば何か途方もないことを言ってみんなを従わせなければいけません。
これがレジティマシー、正統性がどこにあるかという議論です。
なるべく「軍事力だ」と言いたくない。それで「天」。しかし天と言ったって、誰も天の神を見たことないから、それを目に見えるようにするために、ご承知の天壇という丸い礼拝所がありますね。観光名所ですが、ああいう石でつくった礼拝所をつくって、その真ん中で天子がお祈りをする。「すると天の声が聞こえるのである」ということにした。途方もない儀式をすると、人々は「そうかもしれない」と思うものです。
これがそのまま日本にも入ってきて、天皇はそれをやっています。しかし国民はあまり天の声が聞こえると思わない。福田元首相は「天の声にも時々変なのがある」という名台詞を言いましたが、日本人は天命を中国のようには本気にしません。だから健全で暮らせるのですが、水戸学の人だけはちょっと違っていた。
そもそもで言えば儒教は、孔子が一人で発明したわけではない。その前に昔からの言い伝えがあり、みんなが思っていることがあって、それを教えにして文章にして残したというところがある。その一つが「易姓革命」という考えですね。天の命令が変わったから支配者が代わるという考え方です。新政権が誕生したのは、前の政権に「もうやめろ」という天の声が下った。「お前が新しい君主だ」と天命が下ったから、私が君主になる。そういう、天のせいにする考えですね。
これに対して、孟子が「放伐論」を唱えました。「ほう」は解放の放で、「ばつ」は「征伐する」の伐です。これは、民衆が主役で立ち上がって君主を放伐する。「民衆はそういうことをする権利がある」という革命礼賛論です。テロ、ゲリラ、内乱礼賛論を孟子が唱えている。孟子は世界最初の民主主義者だとも言われます。
なぜそうなるかというと、孟子は性善説だからでしょう。人々の性は善であるという考え方で、それに対し孔子は性悪論的です。人間の本性は少し悪だから礼儀を守らせる。人間の悪の心を直すことは至難のわざである。直そうといったって直らないから、せめて形だけでも立派にせよ、というのが礼儀の教えです。
これは会社経営でも軍隊でも、永遠の問題です。学校でも「心からそう思わせるように教育する」と教育者は言いますが、そんなことは大体できませんから、せめて形だけでもきちんとせよになる。子供が小さくてまだ理屈を言わないうちに、先生を見たら敬礼せよとか、教室に入るときは靴を脱げとか、ともかく形だけ一生懸命教え込む。形だけ教えていると、何か不思議に心もそうなる。わりとなるんですね。
形から入って心をつくるのか、それとも心さえあれば形はどうでもよいのか。
これはサービス産業論の根本です。ホテル経営学とかサービス産業論とかで、いろいろ言っていますが、この問いへの答はありません。アメリカは性悪説だから、何でもみんなに形を守らせればいい。守ってくれれば給料を払う。守らないときはすぐクビにすればいい。心が入れかわったかどうかは判定不可能だが、形はすぐ判定できますからね。これがアメリカの労使関係です。このほうが、すっきりしていて気持ちがいいとも言えるんです。
日本は「心がけが悪い」とか「目つきが悪い」とか、人の心の内面にまで手を突っ込みます。田舎の会社や学校に入ると、おまえは心が曲がっているから姿勢も曲がっているんだ、となる。そのように正社員は心の持ち方を問われるが、ハートは問われない、仕事だけすればよいというのも、わかりやすくてよい。日本は両方あって選べるのがよい。
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