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●江戸庶民の気質、治安、経済成長で文化が開花
 人々のお金の価値の置き方が面白いです。日常生活にはあまりお金をかけません。ところが江戸の四大娯楽と言われる歌舞伎、芝居、相撲、寄席という娯楽に対しては、平気で1年間の稼ぎ相当をつぎ込んだりします。
 彼らの生き方っていうのは、ものを持たず、その日暮らしていければ良いわけです。働く時間も非常に短く、商家の旦那衆などは1日3時間程度しか働きません。あと何するかと言うと、遊んだり、ボランティアをしたり、物見をしたりして時間を過ごします。つまり情報収集に時間をかけているのです。情報の集まるところは主に飲み屋と床屋です。そこで宵越しの金は持たないが、イベントの時は争って初鰹を食べてその時を楽しく暮らす、そんな文化になっていくわけです。江戸は武士と土木工事屋が多かったので、結局男の人口が大分多かったです。男の世界で男色も多かったようですが、数の少ない女性が強かったようです。吉原で働いている女性も含めて、女性は何度も再婚でき、武家に嫁ぐことも珍しくありませんでした。一方、男は一度離婚するともう再婚なんて絶対できませんでした。
 当時の旅行は大変な娯楽でした。近場の旅はたくさんしていましたし、お金を使うことが大好きな町人は平気で物見遊山をしていました。一生に一度は豪勢に、普通2週間ぐらいで行って来られるところを3ヶ月ぐらいかけてお伊勢参りをしました。庶民が娯楽として旅をすること、武士の入れ替えがあったことで文化が全国に伝わり、拡がりました。元禄時代は関西の文化が入って、江戸の町の文化に影響を与えています。各地域の特色が発揮されてきて江戸の町の文化をつくり、独特の江戸文化が花開きました。1つは、コスモポリタン、つまり言葉や文化が偏らないで混じったエネルギーが大きく開花しました。絵、芸術、地方独自の伝統文化が入ってきて影響されて、観る人たちの要求水準が強くて、ベースの知力や美意識が相当高い、粋なフロウを楽しむ仕掛けがあったわけだと思います。フロウにお金を使う時には、それなりの教養文化が身に付いてなければ楽しめません。日本橋や本町辺りの女子は男子よりもずっと勉強していて教養がありました。寺子屋や指南所は8時から午後2時くらいまでやっていて、弁当が持てないような貧乏な子供たちには出世払いで、周りが助けました。識字率が80%と非常に高かったというように、庶民の間に、教養に対する意欲を大切にする傾向がありました。もちろん武家は識字率100%ですから100万部のベストセラーが出現するわけです。
 商家では勉強が必要でした。帳簿付け、読み書き、お客に対する礼儀は商家の基本ですから、ちゃんと教育はしなければいけません。上から下まで努力次第で商売を大きくできる、非常に幅広いチャンスがあって、チャンスに恵まれればそこに行けるという窓口が開いていたことが、文化を育てる意味ですごく大きいと思います。そういう精神をベースに文化の香りを出すような仕掛け、例えば貸本屋とか出版が出現したわけです。貸本屋は700くらいあって、南総里見八犬伝などは凄い人気でたくさん置いたので100万冊のベストセラーになったのです。江戸後期最後になると貸本と合わせて錦絵のようなものもたくさん持ち歩いて売られ、そういう流通機構が整備をされて職業が成立しました。だから西洋に比べてコンパクトでありながらも流通機構が発達していて、隣の町では何が流行っているのか情報がたくさん流れ、すると切磋琢磨が生まれて、それぞれが独自に作ろうという話になって、文化がいろんな形に発展します。常磐津、小唄、浄瑠璃という多様なものに派生していくのが日本庶民文化の独自性です。
 こういうあり方は、まさに江戸時代に庶民の中で花開きました。これは書き物ですけれども、解説がいらない描写技法が江戸の中でたくさん出て、それが綿々と続く日本のマンガ・アニメヘの1つの導火線になったものと思います。歌麿、北斎は代表格で、コマ割りマンガみたいな感じがあるのかなと思います。切磋琢磨精神、抗争精神をさせるユーザーの需要がすごいです。ユーザーの要求に応えるプロデューサーの存在、例えば蔦谷重三郎の存在などは大きかったと思います。
 また、江戸人の気質や文化には、町の治安をどう守るかということも関係していると思います。基本的に犯罪が少なく、北町と南町を合わせて奉行所に最高で240名しか今でいう警察官がいませんでした。それでどう治安を保っているのか世界の謎です。江戸の庶民は、今をどうやって楽しんで生きていくかという文化的な勝負感をみんな持っていました。一生に一回しかない人生をどう選択するか、それから努力すると報われる機会均等な仕掛けが働いていて、1人1人が一生懸命やると何かそれなりに楽しく暮らせる社会があり、それがある種の治安維持システムみたいに機能していたと思います。別の言い方をすると、どこかでみんなが許しあっているという暗黙の了解があったかも知れません。取り締まりや牢屋や裁判の話をしますと、奉行所に警察官が240名、その他与力とか五人組とか取り締まる人がいて、小さな盗みや、ちょっとした詐欺、ケンカを取り締まって、番所に持っていって解き放します。それが度重なると、こいつは何回も繰り返すからダメだということで、留置所に大体3ヶ月ぐらい入れられます。そしてお白州(今で言えば簡易裁判所)でお裁きを受けます。普通は百叩きと、本人の反省があれば50叩いて100叩いたことにする裁量も与えられていたし、反省が足りなければきつく叩きました。殺人とか非常に重罪の場合は、最高は死刑ですが、まあ普通は遠島です。遠島となると八丈とか三宅という流刑地に行くのですが、生活費を持って行って現地で働くことが許されていました。その代わりまっとうになって帰ってらっしゃいということです。15歳未満は丈夫でないという理由で行かずに済みました。町の親分さんみたいなものが、事件の仲裁をしますが、ああいう人たちは2種類いまして、役人から任命されて同心からわずかな手当をもらって下働きをするものと、町の中で任命されて町与力みたいな格好で、お金ももらっていないのに町役人を称して、治安を守ったり、幕府からのお達し情報を庶民に伝えたりというものがありました。いまで言えば町会長みたいな存在です。
 女性の社会的、経済的地位は高かったです。前にも言いましたが、女性は少なく、男性が多いので、女性は離婚して2、3回結婚しました。三行半というには再婚する時に、正式に離婚していることを証明する書類として重要でした。専業主婦は少なくて何か働いていたし、給金は女性の方が高かったです。旦那より女房のほうが稼ぎ手だし、おばちゃんも稼いでいました。井戸端会議をして情報交換をしていました。3時間しか働かないけれど、家では縫い物をして稼いでいました。逆に言うと旦那がいばっていることはなく、子守もすれば、家事もして協力していました。そういう世情を書いた絵が多くあって、東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんなんかもそうです。あの2人は同性愛者同士でふたりとも結婚していたのですが、女房が死んでしまって二人で伊勢参りをする話です。当時、江戸では町内で仲間を作って積み立てをして、それを一年間貯めて皆でお参り旅行に行くというのが随分盛んでした。一番人気は大山講とか冨士講とかまた江ノ島にお参りに行くことでした。自分たちが使うための助け合い貯金の他に、町入用という貯金がありました。大店とか大家さんがお金を出し合って、公共目的の土木工事なんかに使います。一番大きいのは水道補修工事で、神田上水と多摩川上水ですが、大体3年に一回大補修工事が必要になっていました。お祭りの山車とか町の治安を守る木戸の建設、補修にも町入用貯金が使われています。また連帯責任制の5人組という制度が治安維持に、結構効果があったと思います。家光から家綱になるあたりには町人が増え、農業技術の進展で生産性が上がり、土地を買って小作農家から独立する農民が増える、という具合に色々な人口が増えて、経済が大きく伸びていきました。私はこの時期に、18世紀の後半のイギリスの産業革命に匹敵するような経済の躍進があったと思っています。経済のはずみがついて、地方も都会も、新しい消費者層、新しい嗜好がどんどん生まれました。その時に、日本人がもっている多面性や精神性、八百万の神や霊性をキャッチするセンサーが働いて、江戸の新しい文化は花咲いたと思います。江戸の庶民文化は、もっぱらサブカルチャー中心でして、富裕層だけが楽しめるものではなく貧しくても大体のものは楽しめるものでした。最近出た三浦展さんの『下流社会』という著書があります。下流社会というのはネットがあって小銭があってそこそこいろんな文化を享受でき、それなりに豊かな楽しみがある、というものです。そういうところを見ていくと、当時もフリーターは多かったし、江戸庶民文化にサブカルチャーしかなかったというのは、マンガの文化の土壌とすごくつながる感じがします。
 そういうことが、犯罪率の低さに表れている気がします。ある意味では下流社会の若者たちがブログを書いたりとかネットを見たりとか、ネットでゲームをやったりとかほとんど金を使わずにウィニーでソフトを落としたりして、大体のことはできてしまいます。映画も見られる、ドラマも見られる、時間のいっぱいある彼らのほうがたくさんソフトを消費しているかもしれません。下層の人でも、ある程度の経済力と知識のレベルを持っていて、庶民文化という遊びソフトの消費が充足されていたところが多分にあって、それが犯罪抑止効果になっていたという考え方もあると思います。
 
●知識とイマジネーション
 庶民文化とはいえ、書き手は人間としての年齢を積んだ大人ですから、そのイマジネーションはすごいです。見立てするということはイマジネーションが相当ないと出来ないし、またリアリズムに執着しなければ出来ないとも言えると思います。リアリズムは追求しながら、一方では誇張省略のイマジネーションが働き、現実の方が芸術性が高いとかえらいとか言いません。つまり文化的な価値観のフラットさがあるということでしょう。正にデフォルメの極地みたいな北斎を観て、ヨーロッパの大変な芸術家が、すごい感動をして、アートとして大変高く評価するわけです。
 すごく不思議なのは、明治時代になって西洋から新しいものが入ってくると、もう浮世絵なんか古いなんて言って平気で捨ててしまえる、ということです。今で言ったら雑誌のグラビアみたいなもので、大事大事といっても、ぽいぽい捨てます。日本人は意外に何でも大事にしないところがあると思います。日本語なんか言葉をどんどん変えて平気です。何にこだわるかというと、面白いということ、娯楽、粋なんていうことにこだわります。
 
●農村にも立派な庶民文化
高橋―野沢温泉村を調べたことがあります。大体享保ぐらいから文書が残っています。村が1つの国みたいなもので、外交部とか財務部とかがあって野沢組という内閣みたいなものが毎年交代で組閣されていました。年貢(税金)は幾らにしましょうかという交渉を全部漢字の文書で領主とやり取りしています。要するに文字、数学、交渉力を始め立派な庶民文化が成熟していました。一種の逆差別で、武士は特別な検地の時以外は農村に入れないから、農村は農村だけで自立的にやっていました。しかも選挙で村方(議員)が選ばれて合議制をやっていました。一方で農作業をやりながら農村の領域を自治し、税金は申告して納めていたということで農民の自負は高かったです。外交部みたいな部署もあって村境の礎石を全部確認して、越境して何か騒動になることを防いでいました。隣村と喧嘩したなんていう記録は外交部に残っています。どういう条件になったら村八分にするというのも決められていました。
 日本は国法として奴隷制を禁止していたので、賃金をもらうとだめで、全部自分でやっていました。だから士農工商で商が一番下なのは賃金をもらう奴隷に近いからです。武士は領地を持っていて、米を作らせて一部をもっていった、それは賃金というものではなかったのです。今のサラリーマンは江戸時代からみれば奴隷制社会なのです。面白いのは奴隷解禁日があるのですね。災害とか飢饉なんかが起って農地がつぶれたりする時に、復興するまでの3年間とかは、賃金を払って雇っても良いという奴隷解放令がでるのです。そういうところで日本は、西洋やイスラムを含めて世界とは事情が違う訳です。


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