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マンガ・アニメ学術的研究会 第8回(2005年12月13日)
高松巌「江戸庶民の生活文化とマンガ・アニメ」
 
 私は東京の八丁堀という地域に生まれ育ち、先祖をたどると8代目になります。ごく普通の人間で、初めて見て感動したアニメーションはディズニーの『ダンボ』、小学校の時は『鉄人28号』を夢中になって読んで、大学生になって『巨人の星』『あしたのジョー』等のマンガを夢中になって読んだ世代です。
 東京都で町つくりの仕事を専門にやってきたことと、自分の生い立ちのことを重ね合わせて見て、何か面白いことが提案できないか、今日は江戸の庶民文化をさぐりながらお話をしたいと思います。江戸文化についてはもう語り尽くされているようなところありますので、私なりの切り口でということで少し視点を変えてみたいと思います。
 
●江戸の町づくりと江戸庶民文化
 江戸という町の成立を考えてみます。江戸の町は歴史的な経緯で言うと、1450年代に太田道灌が、当時の足利幕府の命を受けて上杉家をおさえるために居城をつくったのが始まりです。江戸は湿地帯で、江戸湾があって、元々山際はいまの一番南で有楽町ぐらい、神田の山の先は湿地帯でドロドロして、いわゆる江戸湾の巣のような状況だったのに、なぜそこに何で町をつくろうとしたかというと、交通で水運の要所として使えるという理由でした。川もありましたし、水運を使うと北のほうへ行けますし、南に行くと武田氏に対する目配りもできる交通の要所なのでここを選んだわけです。
 一時はかなり栄えていましたが、太田道灌が滅ぼされ、北条氏がこの地域を支配するようになって、江戸は忘れられた町になりました。1590年、そこに秀吉の命を受けた家康が250万石の関東を統治することになり、江戸に入ってきました。そのころはまだ不安定な地域で、小さい豪族達がいました。そこで家康がまず何をやったかというと、平和な町を築いていく政策をとりました。地域でいざこざを起こさないという方針が家康の中にありました。その典型的な例が、元和(げんな)という元号です。元和偃武(げんなえんぶ)というのがあって、偃武の偃というのは「お櫃(おひつ)」ですから、武士をお櫃のなかに封じてもう出さないという韻があります。もうこれからは平和だということを強く言いたいための元号です。
 家康は、交通の要所をおさえて四方に睨みをきかせながら、この地域の平和と平穏な生活を実現するためには、裏付けとして経済的な発展が絶対に必要だと考えていたようです。戦争をやらないための一定のおもしとして自衛軍事で装備をする一方で、武士をちゃんと食わせる経済的な仕掛けを作り上げて、この地域を守っていく政策をとり、これが各大名を押さえつけていく形になったと思います。そのためには圧倒的な経済力を持つことが有効でした。日本全国の米の生産量の25%以上が幕府の石高に入ってくる仕掛けです。石高をどんどん増やしていく政策と、一極支配が全国の平和を維持するという政策がとられました。この時代、一般には鎖国といっても、実は鎖国ではなく、外に対しては壁を高くして一定の干渉からこの国を守っていく発想と、情報の出口と入口はきちっと作る発想があって、情報はたくさん入っていたようです。
 利根川は江戸に流れてきていたのですが、氾濫が多く治水工事で北の方へ持って行き、他の川は利用して水路の整備をしました。神田の山を開削した土砂で南を埋め立て、まっさらな町を作りました。豊臣の影響が残っていた西の大名を特に使って水路で石を運ばせて築城し、五街道を整備して後の参勤交代のインフラを作りました。こういう様々な土木工事に従事したのは地方の武士で、圧倒的な経済力を活かして、彼らをアゴアシ付きで雇っていました。それが各大名ににらみを利かせることにもなったのです。経済力の威力は大きくて、武田の武士も、北条の武士も、反骨精神旺盛なはずの伊達の武士も、従事しました。
 そういう町作りの過程で、武士たちがたくさん入ってきて、北方に武家の町をつくりました。一方、南の埋立地には真新しい町を作り、文化を発信する魅力的な商業、娯楽の町を作りました。だから経済的な勢力のさることながら、知的な部分も家康の持っているものは、すごかったという感じがします。
 当時の町つくりでは、基本的に海を埋め立てて区画整理をしました。私は都政で臨海開発部長をやっていましたが、海に向かって町を作るのは新しい文明を作る感じがしました。海に向かって何か行うというのは、町作りの上で大きなベクトルだと思います。1つの町の区画整理の規格は、縦横80間(けん)、約180mで、小区画が大体20間、36mです。江戸はすごく火事が多かったので火よけのために空き地や広場や、12m幅の大きな道路を作りました。土地の配分は武家屋敷が6割5分か7割ぐらい、寺社地が15から20%ぐらい、町人が住んだのは10%ぐらいでした。一方人口はというと、武家が50万人、町人が50万人超で、あとは人別帳以外の10万〜20万人で、江戸の人口は最高で120〜130万人でした。江戸の行政は、武家が住んで行政をする町という武家の町をつくろうとしました。都市計画の基本の考え方はゴチャゴチャにしないで純化する、住み分けるというものでした。変な人間が入り込まないで治安をよくして、それで取り締まりをやりやすくする目的だったのでしょう。
 ただ、実態としては町民文化や寺社文化の発達で、南に拡がってきたのが江戸の町の形成でした。資料の地図は1670年代ですからもうだいぶ埋め立てが進んだころです。こういう町づくりが進んできたのは町民文化の発展の中で大きな意味を持つと思います。
 もう1つ江戸の経済の観点から言うと、家康入城の時は15万人だった人口が、100年余りの間に増加し、享保の頃には120万人になっています。因みに大阪は25万人くらいの頃です。地方の武士が参勤交代で移住したこと、武士の生活を支えるために大店商人が移住したことが原因ですが、不思議なのは経済と治安をどう維持させていたかということです。関所が、南は箱根、北は白川しかなく、その間はどこへ行こうと構わないという出入り自由な情況でしたが、商家なり大家なり、家を持っている人たちが5人組という制度を作って、住民管理をしていました。また幕府から、あるいは奉行や与力から依頼を受けて、住民を管理した町役人という制度がありました。彼らは自分たちの町の治安を守るという誇りを持っていたし、そのために積立金の制度もやっていました。400〜450文の年間長屋家賃には積み立て部分が入っていて、大家さんがまとめて管理し、商家は所帯の大きさに合わせて、数倍の積立金を払いました。積立金は、防犯、清掃、看護、消火などのボランティアやお祭りの時に支出されることで管理されています。
 経済の活発化は、なんといっても参勤交代で莫大な金額が江戸に落ちたことが大きいです。参勤交代は各大名が将軍に挨拶することが建前ですが、実は地方と江戸幕府の経済的格差を広げるための仕掛けでもありました。何千人もの家来を連れて地方大名が江戸屋敷に1年、国許に1年交互に生活します。そのための往復の旅費、生活費、江戸屋敷詰めの諸費用を合わせると、莫大な費用になります。藩財政の3分の1ぐらいにあたります。50万石の大名でしたら15〜20万石ですから、大きな経費負担です。
 何故、そんな莫大な費用を負担してまで、参勤交代に従ったのかは、各大名も元々は地付きの大名でなく派遣されて治めていたり、江戸生活の楽しさを一度味わうと、田舎では暮らせないから、とか諸説あります。参勤交代の結果として、江戸の情報が色濃く地方に伝わり、地方の情報も色濃く江戸に伝わるということで、文化的に全国を平準化させる一番有効な制度でした。また日本の経済の活性化のためにこの消費が大きく貢献しました。
 このように江戸の町が作られていきますが、10%の土地に50万人が暮らしていた町人の暮らしぶりに、庶民文化が生まれてきます。大体20軒くらいが路地を隔てて一つの長屋に住んでいて、木戸、井戸、便所を共同で使用しています。奥行きが二間(3.6メートル)の狭い長屋生活から必然的に、生活の知恵が生まれます。1つは、町人はいろんな地方から集まってきて、地方文化同士の交流の中で共通化していきます。例えば言葉がそうで、下町言葉はいろんなものが混ざりあいながらも、共通するニュアンスを伝えたのがだんだん発達してきたので、結果的に標準化しました。それから、狭いところで気持ちよく住むための知恵ができていて、人間のありようというのを少しずつ変えていったと思います。間口2間の長屋では大きい声を出しますと隣に全部聞こえるのでプライバシーはないのですが、入る時に「ごめんよ」って声をかける、そういう礼儀が「あなたのプライバシーを守っています」っていうことを口に出して表現しているのです。そして、例えば病気の時とか、何か困った時とかは積極的にお助けに行きます。長屋、町ごとにそれぞれ分化をしていて、例えば職人の町、大工の町、商人の町というように、同じような職業の人が集まる場合が非常に多いです。そして例えば井戸もお便所も、何かをやるので共通なので、1つの協力体という意識です。地域の文化、連帯感というのがすごく強いわけです。それぞれ、みんな地方出身で、同じところに住んでいて、何もかも共通で、だから助け合って、同じ文化をつくって、連帯感が強くて、そういう町作りというものから江戸の文化のベースが生まれているのではないかと思います。
 
●『花・川・小路・粋・華・連』
 江戸の町を評価する基準です。
 「花」江戸の人は非常に花を好み、園芸がものすごく盛んでした。季節の花を路地前に置くのが典型的な町民のたたずまいでした。西洋ではベランダに鉢を置く、ああいう感じです。幕末に西洋人が「江戸の人たちは、あんな狭いところに住んでいて食うにも困っているような状況だけど、何故こんなに花を愛でているの?ヨーロッパにはこんなのはない」と不思議がり、感動していたという話があります。
 「川」江戸は運河が網の目のように整備された水運交通の要所でした。また蚊の発生を防ぐ、衛生管理を良くする必要性からも、川や運河をきれいに維持するのが非常に重要でした。だから糞尿をたれ流さず、北関東まで運んで肥料として野菜や米と交換しました。
 「小路」自分たちの家の前をきれいにすると同時に、花の鉢を並べて町の景観をきれいにします。小路がきれいだということは文化で、家の前の道を毎日掃くのですが、真ん中のちょっと先まで掃く、向かいの家の前まで掃いたら無粋でいけません。向かいの家も同じ事をして、真ん中は人様が歩く、それが粋で豊かな感性でした
 「粋」粋というのは、勢いがあるとか元気がいいとか、活気があるという意味ですが、生活に必要なものだけじゃなくて、プラスアルファーの何か、無駄かもしれないもの、余裕みたいなものを持っている、そこに価値を見出すことが粋であるということです。
 「華」あの人には何か華があるよという、華やかさのことです。何か個性とか特徴とかをいうことです。
 「連」というのは趣味でのお付き合いとか、つながりです。1つは皆さんが一緒になって何かお稽古ことをやるというのが連、もう1つは複数の連が、江戸の町々にあって、それぞれの連が競争しあうというものです。
 そういうものを持っているような町がよくて、そういうものをどれだけ持っているかというのがその町の評価基準になったということです。


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