●ジャポンチからマンガヘ
幕末になると、これまでお話ししてきたことが集約されながら、そこにヨーロッパ文化が入ってきます。近代ヨーロッパのメディアが最初に上陸したのが横浜でした。安政6年(1859)に海を埋め立てて開港され、クリークで仕切られた外国人居留地を設け、その入口の関所の内側が関内と呼ばれて、今も地名として残されています。この外国人居留地は東京の築地に移され、そこに日欧混交文化が発生します。
この横浜、築地に現れた文明転換期を描いた浮世絵師の一人、三代広重はいわゆる「開化画」で名声を博しした。ガス灯・電信・鉄道、散髪店・写真店・洋式競馬、アイスクリーム・牛鍋屋・牛乳店など、何でも珍しいわけです。三代広重は号の立斎を冠した「立斎漫画」を出版しています。そこには明治の開花風物を浮世絵風に描き、段組みや数枚の絵の組み合わせで、開化の雰囲気が表現されています。
こうした世情を絵画で伝えたのが錦絵新聞です。幕末維新期に英字新聞をまねた活版の新聞が出るのですが、漢字が多い翻訳文でルビもなく、読者は限られました。当時は漢字は男文字、平仮名は女文字と分かれていて、女性の支持がほとんどなかった。そこに錦絵新聞が台頭したわけです。それは浮世絵の技術を使った木版印刷のニュース絵を主体とした新聞で、日本近代初のポピュラー・ジャーナリズムとなったのです。
明治7年、一面のトップニュースを錦絵で飾る『東京日日新聞』が売り出されました。これに対抗して刊行された『郵便報知新聞』を挙げておきます。これは浮世絵最後の鬼才、月岡芳年を迎えて絶大な人気を博しました。この錦絵新聞のトップの錦絵は庶民の生活に起こった悲喜こもごもや椿事を取り上げ、庶民の目線で時代の変動が描き出しています。この錦絵新聞も明治14年ころから、総ルビで情報の速さを身上とする小新聞にとって変わられていきます。
こうした日本伝統の時事表現に対して、ポンチ絵が現れます。幕末の横浜に住んだチャールズ・ワーグマンはイギリスの絵入新聞『ロンドン・イラストレテッド・ニューズ』に、日本の出来事をイラスト化し、記事を添えて配信する特派員でした。ワーグマンは横浜での日本人とヨーロッパ人の出会い、文化の相違が引き起こす珍妙な出来事を戯画化し、「ジャパンパンチ」という絵入り雑誌を発行して発表したのです。これが人気炸裂して、来日外人はこれを読まなきや日本が分からないというほどになりました。
風刺あり、機械の組み立てる手順あり、象のおかしな曲芸ありで、ペン画で即座に描き、面白おかしくユーモアを込めて表現してみせたのです。この「ジャパンパンチ」の「パンチ」が、「ポンチ」、「ポンチ絵」という言葉に定着します。明治維新の和洋が混交した庶民の風俗や娯楽や生活を、皮肉や批判、風刺を込めて描いたり、未知な機械や建物などを簡略図で示す「ポンチ絵」がいろいろ出回ります。
ポンチ絵はワーグマンの弟子の一人、小林清親が文明開化の滑稽な生活を風刺した「清親ポンチ」やそれを駄洒落化した「清親保ん知」、「清親放痴」などによって広まり、「内地雑居ポンチ寿語録」のような庶民娯楽の双六の中に東西文化の違いを教えるポンチ絵が描かれたりしています。明治7年(1874)、河鍋暁斎と仮名垣魯文が「ジャパンパンチ」をまねたマンガ雑誌『絵新聞日本地』を刊行します。
「日本地」は「ジャポンチ」で、「ジャパンパンチ」の駄洒落でもじりです。このポンチ絵がマンガヘと発展していきます。「日本地」のタイトルは、明治22年(1889)、『風俗画報』の臨時増刊号として発行された「日ポン地」に引き継がれます。これは日本的ポンチ感覚を編集しようとしたもので、ポンチ絵はもとより、川柳、都々逸、替え歌、小咄などとともに時事評論も交えた面白雑誌でした。ここにポンチ感覚は、江戸時代いらいの洒落や粋などの感覚をも糾合していったのです。
その世俗やニュースをもじったポンチ絵を挙げておきます。明治39年(1906)の1月発刊「日ポン地」の30編の「臀肉大安売」の3コマのポンチ絵です。明治35年(1902)に東京麹町で少年が殺害され臀肉を切り取られる事件がおこり、3年後に容疑者が捕まって人肉売買の猟奇的様相を帯びたのです。その事件をもじった3コマのポンチ絵は、女学生が臀肉が多いので売りましょう」、客がくると山師が「百目千円です」と売っていたら、女学生のお尻がなくなったので豚のお尻を継ぎ足した。そしたらお尻が毛だらけになって尻尾も生えた、オヤオヤオヤと人肉売買騒動を揶揄しています。
明治期には錦絵やポンチ絵の流れの他にも、多くのマンガ的潮流がおこり、それらが縒り合わされながら、マンガが成立していきます。20世紀初頭のころから、プロのマンガ家が現れ、現在のマンガヘの発展がはじまります。今や日本のマンガは批判やユーモアばかりでなく、理想、戦争、闘争、国家、恋愛、希望、努力、生死、悲惨、セックス、謀略、笑い、怪奇、極道、異説、恐怖、機知、タブー、無意味など、学校で教えない知識のほとんどを担う媒体となってきました。国際的にも“manga”と称され、英語圏のコミックやフランス語圏のバンド・デシネなどとは異なる感性が横溢し、特異な知識領域を占めています。それは日本の“マンガ的なるもの”が、長きに渡ってヴィジュアル情報編集技術を積み重ねながら、社会システムによって排除されがちな知識をカバーしつづけてきた実績が、今に及んでいるからにちがいないということで、発表を終わらせていただきます。
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