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●キャラクターとキャラ
 伊藤剛さんがキャラクターとキャラの区別について気づいたのは、最近ヒットした少女マンガの一種『NANA』のファンの女の子が「『NANA』はキャラクターは立ってるんだけどキャラが立ってないね」と言ったことだそうで、言葉の違いがすごく如実に出ていると思います。このマンガは少女マンガから派生してきたものですが、昔のように星目タイプではないニューウェーブ的なマンガです。
 簡単に言うと、キャラクターはある種の身体性があって、実在感を伴うリアルな造形のものです。対して、キャラは『ドラえもん』や『たまごっち』のように簡単な線で描かれ、実在感やリアルな感じは無いのに、生き生きした生命感をどうしても感じてしまい、うそなんだけれど育てたい、と思わせる存在です。リアリズム的なリアリティというのは現実を背景として、それにどれだけ似せられるかというもので、私小説のように実体験を基にして細部まで細かく書き込んであればあるほどリアリティのある描写になる、これがキャラクター方向のリアリティです。
 『NANA』というのは、いまの若い女の子の実感に根ざしたところをターゲットとしていて、この需要層は通常のマンガを読む層ではありません。言うならば渋谷にいるようなギャル系の女の子、普通はマンガを読まないのですが、例外的に『NANA』だけは読むという人たちです。通常の少女マンガではキャラが立ちすぎていてリアルではないので受け付けません。お話の中ではリアルな存在だけれど実在感が乏しい。ストーリーはリアリティがあり、例えばドラえもんやアトムのようにリアルだと思わせてくれる存在がキャラなのです。
 マンガ評論家の宮本大人さんが指摘するのは、キャラクターとは、独自性があり、自立的で擬似的な実在性がある。例えば成長したりする可変性があり、人間のように多面性、あるいは葛藤を持っていること、複雑性があること、まだ全部語られ尽くしていない秘密があると思わせる不透明性があること、内面の重層性があることなどで、人に似たようなものを持っているのがキャラクターであると言っています。リアリティのある人物像が描けていると言ったらこちらではないでしょうか。
 伊藤さんは、『正ちゃんの冒険』というマンガを取り上げ、キャラクターとキャラの対比を上手く指摘しています。手前にリアル正ちゃんをリアリスティックな描写で描き、奥の額の中にキャラとしての正ちゃんを簡単な線画で描いています。これがまさにキャラクターとキャラの区別なのです。
 ×××さんという批評家は、「マンガにおいては二度と同じ顔は描かれないけれどもしかし同一の顔を際限なく描くことができる」とうまい表現を使っています。アトムならアトム、ドラえもんならドラえもんというキャラを受け入れてしまうと、厳密には同じ顔は描けませんが、このキャラだと分かると同一に見えてしまうというマジックが働きます。イコン的な融通無碍な変形性をはらんでいるところもキャラの1つの特性と言えるかもしれません。
 伊藤さんによるキャラの定義は比較的簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有の絵でなされる、あるいはそれを期待させることによって人格のようなものとして存在感を感じさせるものです。それから、人間のような身体性を欠いている。体がなくてもいい。それからストーリーとの密接な関係を欠いている。ストーリーは関係ない。
 キャラというのは独立した存在ですからパロディを作りやすい。特性さえ把握していればキャラ同士は互換性が高く、ある意味で物語の重要な要素として指摘できると思います。ミッキーマウスもキャラですから、必ずしも日本独自のものとは言い難いところもありますが、日本にはキャラを創造し、キャラで説得してきたキャラ文化が根強くあると思います。
 政府の各省庁には、シンボリックなキャラクターが必ずあります。NHKも、警察にも、また、地方の村おこしとか何かあるたびにキャラを立てる。これもある種の文化からの流れと考えていいと思います。キャラクターというのはシンボルやイコンに近いものがあるとも感じます。
 さらに言うとマンガの流れは、アニメは言うまでもなく様々な領域に影響を及ぼしています。ライトノベルでは、作家はまずキャラを立て、場合によってはイラストレーターによるイラストを元にして、どんな冒険をするのかということをイメージしていく。マンガの作り方みたいなものが色々な領域に流用されているということは、マンガ文化の融通無碍さの強味がずいぶん浸透し、発揮されているのだといえないでしょうか。
 
●ハイコンテクスト空間
 「ハイコンテクスト空間」ということについてです。コンテクストは文脈のことで、ある刺激を受けた時に、その刺激がどのような意味を持っているのかということを決定付けてくれるような背景情報のことで、ある種の連続性であり全体性です。その文脈があってはじめてその意味が一つに限定される。「バカ」という言葉でも文脈いかんでは罵りになったり愛情表現になったり、いろいろ多様な捉え方になります。そういう多様性のようなものが日本の特性であり、あるいはマンガの1つの特性であると言っていいと思うのです。
 「ハイコンテクスト」という言葉はエドワード・ホールというアメリカの文化人類学者が持ってきた概念です。彼は日本文化が好きで日本文化というのはハイコンテクストであるということを強く提唱しました。アメリカは他民族であることもあり、ローコンテクストである、文化の中で共有されるコードが少ないので、コミュニケーションする際には、明らかにコード化され、意味付けされた言い方で情報伝達しないと伝わらない。イエス・ノーをはっきり言わないと伝わらない。その意味でローコンテクストである。一方、日本はハイコンテクストなので文化的コードが暗黙に皆に共有されている。だからこそ以心伝心、あるいは内輪受けのように、背景情報は承知していて、ちょっとほのめかし、口調みたいなものだけで、1を知れば10を知る的に大きな情報量を交換できる。情報量の効率化という意味で、ハイコンテクスト文化というのはすごく良い文化ではないかと、エドワード・ホールさんは、言いたかったのです。
 反対の見解もありまして、伊丹十三さんという映画監督は、逆の指摘をしています。日本の映画がなぜダメかという話をする際、この理論を出して、ハリウッド映画というのは万人がわかるようなコードで表現しないとわからないので、クリアでわかりやすい表現となり、インターナショナルな支持を獲得する。邦画はハイコンテクスト文化の中にあったので、四畳半を画面に出せば要所がパッと伝わるというようなことになり、とてもわかりにくくて痩せた表現になるのではないかという言い方をされています。私はこれにはとても異があって、ハイテクストのほうがインターナショナル性が高いと思っています。
 ともあれ、コンテクスト表現では、アニメ・マンガ・テレビ・映画・写真という順番でのジャンルにおける序列があると考えます。写真の側がローコンテクスト、マンガの側に近づくとハイコンテクストです。例えば「きのうアニメ見た」というと何となく伝わるものがある。しかし「きのう写真見た」と言っても何の写真だかわかりません、情報量が非常に少ない。言ってみれば大衆型の表現ほどハイコンテクストにしやすい。断片を聞いただけ、見ただけでジャンルが分かるというのはどちらかと言うとポピュラー系の音楽やマンガで、クラッシックや美術ではなかなか難しいと思います。
 もう1つには画面当たりの情報量が少ないほどコンテクスト性は高まります。例えばアニメの情報量というのは、セル画一枚に線が1本しか描いてないシーンだってあるのですが、それでも成り立ってしまう。アニメという背景のコンテクストがしっかりと濃密に成立しているからですね。杉本博司さんの写真のようなのもありますが、一般的には写真は情報量が濃厚な方が高級だという評価になるという傾向があると言えると思います。
 テレビと映画の対比といもいえますが、マクルーハンの言葉クールメディアというのは情報量が少いことだと、ここでは言えると思いますが、クールメディアほどハイコンテクストに傾くと言ってよいと思います。日本のマンガとアメコミを対比してもそうです。アメコミというのは十分鑑賞に堪えるぐらい濃厚な描き込みがあって、1つの画面を取り出しても何が描かれているかわかる、まさにローコンテクストです。日本のマンガというのは最近は例外もありますが、コマ1つではわからない、表現としてはなかなか成立しないところがあります。
 結果的にマンガのハイコンテクスト性というのは速読可能性、内容と絵の非常に密接に結びつきます。日本のマンガだけの特徴でギャグとシリアスの転調がありますが、一瞬にして転調する。既にコンテクストが成立しているのでシリアスな顔の主人公が次の画面で急に2頭身キャラになっていても全く違和感がない。この切り替えは本当にマンガの特性と言ってもいいでしょう。アニメはマンガ的文法から引用しています。映画でも無理ですし小説でも無理です。そういう転調ができるのもコンテクストあっての話なのです。
 集中的に没頭することを可能にし、論理よりも感情の伝達を容易にしたというところがマンガ表現の大きな功績ではないかと私は考えます。言って見れば感情論理と言っていいロジックが働いているといえます。それは通常のクロノス的な論理ともまたちょっと違う意味でのロジックで、これはだれも十分に解析していない部分ではないかと思います。ある種の感情の文脈の表現みたいなものを徹底してきたというところがあります。
 次にコードの不確定性という話になりますけれども、これはちょっと見慣れない言語が続きます。同人出身の、少女マンガ系の方で高河ゆんさんという方のマンガの1シーンでは、フレームがそれこそ奥行きが付けてあってセリフもだれが言ったかよくわからない。モノローグも混じっていて吹き出しの形も全部違っていて、いろんなつぶやきが交錯して1つの物語を作っていくという構成になっていますけれども、これが1つのマンガの典型的な描き方と言っていいと思います。
 『サルでも描けるまんが教室』という面白いマンガがあります。マンガのハイコンテクスト性を説明していくのによく取り上げるマンガです。マンガ雑誌はそれぞれ絵柄がいます。それをパロディ的に表現したものです。例えば桃太郎というマンガを描いた時にジャンプだったら『サイバー戦士モモ』のように筋肉ムキムキのヒーローが敵を次々倒していくような展開になります。マガジンだったらラブコメ的テイストの入ったスポ根もの、サンデーなら洗練された軽いタッチ、チャンピオンだったらヤンキーと極道の世界で、『ヤンキー、桃太郎組』になってしまうという予測ですね。
 マンガのハイコンテクスト性というのはご覧の通り一瞬絵を見ただけで、掲載誌からジャンル、ひょっとしたらストーリー展開あるいはその作家名まで見当がついてしまうぐらい過剰なコンテクスト性にあふれています。1コマだけで瞬時に察することができる。こういうことは特異な文体を持っている作家さんとか映画監督とかのケース以外には、他の表現媒体では非常に難しいのです。これもそのハイコンテクスト性ならではというところがあると言っていいと思います。


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