●コードの不確定性
次にコードの不確定性についてですが、ここではマンガの成分が何を伝えているかについてみていきたいと思います。
まず絵柄と描線があります。色々なジャンルのマンガの絵柄やペンの種類による描線のタッチによってギャグやシリアス、コメディなどのジャンルまで指定することができます。最近はニュートラルな線が増えていますので、昔ほどわかりやすくはなくなってきていますが。スピード線や集中線など、ものの描写を比ゆ的に描くことで状況を比喩的に表現し、状況を指定することができます。
コマやセリフの一部はセリフによって、それからコマ同士の省略・並び方によって時間の流れを指定できます。
次にふきだしの形状と竹熊健太郎さんの作った言葉で「漫符」があります。汗、怒りの表現としての青スジ、目に炎、額に入る縦線など、マンガの主人公の感情がどうなっているかということをあらわす記号です、ますます発達して、洗練されてきていますが、逆に言うと読み慣れない人には非常に読みづらいものです。
それから、モノローグと擬音語・擬態語ですが、擬音語も描き方ひとつで全く違う表現になってしまいます。
こういったものがポリゴニックな方向にバラけていくのではなく、むしろ1つの意味を否定する方向で、1つのコンテクストを、幾重にも重ねられてユニゾン的に作り出しているので速読可能性を高めるのだと思います。
さて、今度は最近のアニメーションの絵柄についてですが、いくつかの起源説がありますが、おそらく少女マンガ的な表現と少年マンガ的な表現の中間ぐらいのところに出てきたもので、どちらも表現できます。アニメというのは、経済的にも効率的にもよくできた表現で、目が大きくて口が小さくて髪の毛がカラフルで、透明感のある絵になります。この絵でマンガを描くとギャグもシリアスも何でも描けてしまうくらい融通のきく表現可能性としても貴重で、人気もあります。ある種の絵柄というのは、国民性との結びつきのようなものがあるのかと思わせるくらいかつては日本人と韓国の専売特許でした。最近は米国やカナダのオタクの中にも出現していますが、おそらくこういった絵柄がインターナショナルな広がりを示しているということは言えると思います。
これらのコードは、規範を定めるのでもない、お約束するのでもないのですが、どんどん進化しています。こういったコード部分も手塚治虫以前・以降と言っていいくらい断層があると思いますが、それ以降もさらに進化し続け、その中でマンガ文法というのが自然発生的に成立してきています。ある種の文法は開発されると瞬時に共有されていく流れが目に見える形で次々と起こっています。これはハイコンテクスト性に基づくところがあるように見受けられるので興味深く思っています。
基本的にマンガは言語的表現で、言語そのものは更新することはなかなか難しいのですが、言語をベースにして、流行語をつくるように新しい表現を作っていくことなら、女子高生でも普通にやっていることなので容易にできます。それは、取り決めをしなくても簡単に起用されてしまい、同時につくったコードも文脈性さえあれば何となく起用されてしまいます。S.I.ハヤカワという言語学者が、オーボエという言葉の意味を全くしらなくても、その言葉が出てくる文例をたくさん見ていくと、オーボエというのが楽器でどんな形をしているのか、誰でも分かってくるという例を挙げています。同じコードを繰り返し一定の文脈で使っていくとどういう意味を持っているのか同意できてしまう。何も確実なものがなくても、何かが確実に共用されている、それは奇跡的な出来事と言ってもいいくらい奇妙な現象だと言っていいと思います。
例で言うと、大友克洋さんはそういった意味で斬新なコード表現を取り入れたといえるでしょう。例えば目に基点といって白い点を描き込むのですが、人物が動いた時にこの基点が流れる。流れる軌跡を白く残すというような描き方です。これは大友さんが開発して以降ポピュラーになった表現と言えます。高野文子さんはジーンズの表現として横にシャッシャッと線を引いて、ジーパンだよとやって出したら定着しました。こういうジーパンのようなものも1つのコード表現としてすぐに起用されていく。こういうコードの不確定性というのは、ルーマンの言葉で「二重の偶有性」で成り立っています。つまり作者は読者の要求をよく聞きますし、読者は作者の要求を予期しますが一切確実なものは何もない。そういう意味での二重の偶有性、ダブル・コンティンジェンシーといいますが、こういう記号を解読していく楽しみに、マンガの一種のコミュニケーション的な快楽があるのではないかと私は思います。
一方で、私の考えではハイコンテクストよりも、実は「制約」があって、マンガ表現は小説なんかに比べてはるかに自由度が低く、この「制約」が縛りになっているのではないか。自由な表現と言われながらも、ある種の不自由さを持っているのではないかということを強く感じます。1つにはキャラクター依存性が高くて物語よりはキャラが突出しまうというところがまずあるでしょう。マンガは作家による文体の多様な表現で、文体を無限に作り出せるというところが、マンガの特性と言えます。これがマンガの自在さ、自由さの印象に寄与していると思いますが、ただ、マンガと言うのは果たしてそれほど自由な表現なのか、結構形式に縛り付けられているのではないかということは、一応、軽く疑問を呈しておきます。
●倒錯性
私の著書『戦闘美少女の精神分析』の中で、日本のキャラクター文化の1つのあり方として、「闘う女の子」という世界に類例のないキャラクター文化を日本のマンガ・アニメが作り出したことを指摘しています。アニメ『ほしのこえ』では、中学生のカップルのなぜか女の子だけが闘って男は勝手に成長していくという情けない話ですが、そこではなぜ彼女が闘うのかはよくわかりません。日本のアニメ文化というのは女の子が闘う文化と言ってもほぼ過言ではないくらい戦闘美少女がやたらに出てきます。
『白蛇伝』のヒロインで、宮崎駿が『萌え』に開眼したと言われているのが白娘(パイニャン)です。高校生だった宮崎さんはこの白娘に出会って以降闘う女の子を中心に置かないと物語が書けなくなってしまったというくらい強烈なヒロインです。
『リボンの騎士』は戦闘美少女の走りと言ってもいいでしょう。まだ、両性具有性があるとか宝塚の影響が濃厚に出ているなどと言っていいのではないでしょうか。『バーバララ』では、面白いことにアメリカだと、トウの立ったお姉さんになってしまう。永井豪の『キュティーハニー』はピチピチです。松本零士の『宇宙戦艦ヤマト』の森雪ヒロインはオタクをたくさん作り出しました。『ゴレンジャー』は30年くらい前の戦隊もので、モモレンジャーが女の子です。紅一点ものというジャンルはここから出てきたと言ってもいいと思います。その他にも『うる星やつら』のラムちゃん、電撃を発するので闘うヒロインとしてみました。他にも『ああっ女神さまっ』『ルパン三世』の峰不二子、『機動戦士ガンダム』のセイラ・マスは非常にエポック・メイキングなイコンでありまして、ガンダムというのはすごくセクシャリティな表現が豊かで、セイラさんがシャワーを浴びるシーンで、たくさんのオタクたちが一斉にフラッシュをたいたそうです。そこにいた業界人が、そこから発案したのが『くりいむれもん』というアダルトアニメシリーズだったという伝説があります。アニメのセクシャリティ表現というものが商売になるということを見出すきっかけになりました。『魔法のプリンセスミンキーモモ』は明らかにロリコン向けということを意識して作られたアニメで、これ以降は確信犯的に作られています。
『風の谷のナウシカ』は、戦闘美少女のど真ん中です。『美少女戦士セーラームーン』は90年代前半にアニメ界を席巻したアニメで、大量のオタクを作り出したという点と、この辺から日本のアニメは新しいジャンルを作らなくなるという点で象徴的です。ここから以降はほとんどミックスチュア作品ばかりで、ジャンルを組み合わせるという発想しか出てこなくなりました。この作品自体も魔法少女ものと戦隊もののミックスチュアです。『ゴースト・イン・ザ・シェル 攻殻機動隊』押井守さん監督士郎正宗さん原作で、原作はやや美少女系に近い絵柄ですが、映画はちょっとアメリカ向けになっています。日本人が作ったアニメでは初めてビルボードのでナンバーワンになったアニメということで有名な作品です。『サクラ大戦』からは、日本刀を持った美少女。『新世紀エヴァンゲリオン』もロボットアニメとか学園ものとかいろんなものが混じったアニメなんですが、これがヒットしたのは私小説をアニメでやったというところだと思います。ヒロインの綾波レイが非常に暗いヒロインを好きな男の子を動員したという点でもエポックな作品だったと思います。それから、アメコミのヒロインでも、あまり可愛くありませんがちっちゃい女の子が闘うマンガというのが出てきています。最近では日本のアニメの影響を受けて、少しずつ可愛い女の子が出てきています。
次は「ヤオイ」というジャンルについてですが、実はマンガの表現というのはセクシャリティを描けるということがわかってからとても進化しました。まずコミックマーケットで進化しました。男性は美少女萌えのほうに進化し、女性はこういうヤオイ萌えのほうに進化したのです。今のオタク業界は、ヤオイと美少女がだいたい半々ぐらいと考えて間違いないでしょう。ヤオイというのは「ヤマなし・オチなし・イミなし」と言いましてストーリー性がない男同士の絡みしか描かれていないマンガというのが語源です。ヤオイの簡単な定義は女性が女性のためだけに描く男同士の恋愛物語ということです。よしながふみ作の『西洋骨董洋菓子店』は大変有名で、よくできたホモセクシャルマンガです。これを作家自身が自分のパロディで描いてしまいました。しかも同人で作っていますので容赦のない性描写が展開します。もちろん商業的に流通しているものには描かれませんが、こういう描写が随所に展開するので、ヤオイ好きの人にはたまらないのです。こういう文化がしっかりとコミケで根付いてしまいました。その中から大変評価の高いマンガ家さんが出てきています。×××さんはグルメマンガを描いても定評がありますがヤオイというジャンルの人です。このジャンル自体が既に作家を養育するのにすごく強力なシステムになっていて、そこから素晴らしい作家さんがいっぱい出てきていることを考えるとヤオイを気持ち悪いと言って。これもマンガの1つの進化系と言えるのではないでしょうか。
一方、別の異形な進化系で、「ショタ」というジャンルがあります。ショタというのは簡単に言うとペドファイル(小さい男の子を愛好する趣味嗜好)です。鉄人28号に出てくる正太郎少年が半ズボンをはいていた、その半ズボンがすてきだということで正太郎(しょうたろう→ショタ)コンプレックスといいます。正太郎的な年齢の男の子にセクシャリティを感じまくるというジャンルです。
ショタからさらに発展して小さい男の子の体がイモ虫になってしまい、このイモ虫少年をテーマにしたマンガがあります。あまりにもグロテスクなのでそのシーンは割愛しますが、こういったキャラで絡みのシーンが描かれるとなってくると、精神分析的にもこれはどういうセクシャリティかと分類できません。獣姦と言っていいのかペドと言っていいのか、何だかよくわからないものになっているという感じがします。
これらの例を出したのは、いかにオタクたちの欲望というのが現実のセクシャリティと関係ないかということを理解していただきたいためです。ヤオイ好きの女性だって現実生活では夫がいたり子どもがいたりします。でも虚構空間ではそういったことに萌えて、だからこそ、コミックマーケットでジャンルが成立するのです。一方ではこういった画像も、あるジャンルの愛好者には消費されている。だけど現実にこういう生活はないわけですよね。男の子の顔をしているイモムシは存在しませんから、そういう意味では現実にセクシャリティな対象がないけれど、でも虚構空間には欲情できるというふうな特殊なセクシャリティの形式、これがマンガ空間のもたらした1つの異形な進化系で、こういう図像は決して特異なものではなくて、既にありふれたものになっています。
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