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マンガアニメ学術的研究会 第6回(2005年10月11日)
斎藤環「漫画空間は『日本的』か?」
 
 私は精神科医ですので、最終的に病理という形で話さざるを得ないというのもありますが、それ以前に1人の愛好家としてマンガをどのように見るかというからはじめたいと思います。
 伊藤剛というマンガ研究者の著書で『テヅカ・イズ・デッド』という本をご紹介します。テヅカ・イズ・ゴット、テヅカ・イズ・デッドとかけたタイトルです。従来のマンガ批評が手塚起源論、つまり手塚治虫がすべてを生み出したというセオリーに乗っ取って進行した結果、マンガ批評はあるところまでは健康に機能しましたが、90年ぐらいからだんだんと機能しなくなってきました。面白いマンガはずいぶん作られているし、『少年ジャンプ』売り上げが若干落ちたり、子どもがマンガを読まなくなりゲームに行ったりはあるにしても、マンガそのものが衰退したとは言えません。が、手塚治虫に地軸をおいたマンガ批評の文法自体が90年代以降のマンガを語りきれなくなっているということに照準した、なかなか視点が面白い批評書だと思います。これから、いくつか引用しました。
 最初にマンガの特性みたいなものについて述べます。この特性というのは、今、この時点では果たしてこれが日本的特性なのか、あるいはある種の環境下ではどこでも生じ得る特性なのかについては保留にしたまま議論を進めたいと思いますが、ただある意味でちょっとした日本人論的なものがいくつも出てくるという持っていき方をしたいと思っています。
 
●無時間性
 アニメの無時間性についてですが、宮崎駿さんが日本アニメ、いわゆる営業アニメでは非常に「止め絵」が多いと批判しています。迫力のあるシーンやクライマックスでは画面を止めて延々とそこでセリフをかぶせる。宮崎さんが指摘するように日本のアニメは結局マンガの継子であって、マンガの文法をどんどん使っているのです。
 例えば、投手がボールを投げてミットに届くまでに、大変長い沢山ナレーションが入ります。1つの瞬間が引き伸ばされる傾向があって、『アストロ球団』というマンガは、その典型です。ものすごく迫力のある1つの球を投げるのに1話、1試合に3年半、2000ページも費やしてる。これを、私は「無時間」と言っていますが、非常にマンガ的表現とも言えます。アニメの「止め絵」の表現は、明らかにマンガから派生したもので、その1つとして無時間性が用いられています。
 宮崎さんはそういった「止め絵」に見られるでたらめな時間の引き延ばしに、非常に否定的で、彼のアニメでは一切画面は止まりません。背景にフラッシュが走り主人公がガーンとなったり、止まることは絶対しないでひたすら動きまくる。従来の一般的な日本のアニメ文法では止め絵を多用します。セル画を節約するといった制作上の事情や、迫力の演出もあるでしょうが、時間の流れを自在にコントロールする。さらに微分化して決定的瞬間を引き延ばして効果的に描写するのです。
 石ノ森章太郎さんは、マンガの時間描写の流れを洗練したという定評があります。映画好きな方ですから時計で計ったような映画時間の流れになっていて、クライマックスだからといってやたらと時間が延びたり、大ゴマでドカンとやったりしません。『サイボーグ009』を見ても、セリフとセリフの重なりの具合や対比が一定の時間の流れを演出する構造になっています。
 対照的な描写として、永井豪さんの『デビルマン』では大ゴマを使ったシーンの演出で迫力を出していく手法を取っています。劇的瞬間の微分化です。時間を細かく微分的に演出するようなルーツはヨーロッパにあると思っています。
 宮崎さんが取り上げている『寛永三馬術(かんえいさんばじゅつ)』という有名な講談の中で、愛宕神社の急階段を曲垣平九郎(まがきへいくろう)が馬で駆け上がるシーンを描写するときに、短い時間を詳細に論じて時間を延長していきます。そういう講談的な描写の流れのようなものがマンガには現れていて、迫力あるシーンや決定的瞬間等、物理時間にして数分の出来事かもしれないものを、引き延ばす。
 中井久夫さんという精神学者はクロノス時間とカイロス時間について述べています。クロノスは、ギリシャ神話に出て来る全能の神ゼウスの父で時の神で、クロノス時間は、時計で計測される物理時間のことです。石ノ森さんの時間というのはクロノス時間に近いと思います。カイロスとは「時熟」と訳されるギリシャ語で人間的な時間を意味します。例えば、退屈な授業を聞いていると永遠のごとく長く感じられたり、好きな彼女と過ごす、あっという間に過ぎる短い時間のような主観的時間のことです。主観的な状況における時間というのは延長されたり、縮んだりしますが、それをカイロス時間といいます。
 中井さんは、病気によって時間の流れが違うのではないかということを言いたいのです。例えばうつ病の方は時間が経つのをゆっくりに感じられたり、あるいは逆に統合失調症、いわゆる分裂病の方だと時間の流れを主観的にコントロールできない。これは仮説ですが、短くもならず、ただ単に物理時間的にしか感じられなかったりするのではないでしょうか。これをカイロス時間が崩壊してクロノス時間が保たれるという言い方をしています。
 手塚治虫さんの『きりひと賛歌』の一場面を、ある種の無時間性の表現として取り上げます。主人公がショックを受けて葛藤するシーンでは抽象的な絵で表現されていますが、時間の延長法としては非常に有効だと思います。内面描写というのは、アメコミなどではあまり見られません。講談的時間というのがこれに該当するのかなと感じます。
 次に、クロノス時間が後退してカイロス時間への移行が起こっているヒステリー的時間についてですが、つまり主観的に延長された無時間の中に没頭している感じですね。ヒステリー的時間の極端な絵が『アストロ球団』と言えます。70年代当時は、非常に人気があったので出来た冒険で、日本人はこういった表現に対する評価が高いのかなという気がします。
 最近は極端な表現は減り、コマがだんだん大きくなる傾向にあります。『ブラックジャックによろしく』というマンガでは、大ゴマの連続で時間もゆっくりしているように見えますが、ストーリーはトントン進んでいる。その辺の優秀でテクニカルな発達はすごいと感じます。これはある意味では想像的な無時間であり、読者が主観的な動きを呼び込みやすい。マンガの速読がなぜ可能かというと、1つはこういう無時間性の演出によって非常に高密度な集中力や没入性などを呼び込み得るというところがあるのだと思います。
 ただ、それが一方ではマンガの限界になっているのではないかという疑問を提示しておきます。1つは過剰な「今ここ性」があって、「今ここ」の迫力を前面に押し出してすぎて、ストーリー性や歴史性などが瞬時に押し流されてしまい、ストーリー性の弱さにつながってしまってはいないでしょうか。
 『サザエさん』に見られるように、なかなか加齢を描きにくいのはマンガが連載という形式を持っていて、読者の現実的な物理的時間と話の中の時間がズレていってしまうことと関係します。それから学生生活を主題にしがちな日本マンガの多くは学年が上がったり卒業したりすると物語が破綻してしまうという事情もあるので、なかなか年を取らせにくいのです。
 もう1つはヒーローと戦う敵が次から次へと無限に強くなっていくことがあります。これも一種の無時間的みたいなところにつながっていきます。これも商業的な制約とも言えますが、手法はいくつか開発されているようですが、面白いのでこのサイクルから逃げ出すのは難しいようです。ただ手塚さんも『鉄腕アトム』の『地上最大のロボット』で敵キャラを強くしたのですが、それはよろしくなかったということをあとでおっしゃっていたようです。キャラクターのインフレーションが起こりやすいのはマンガの無時間性と必ずしも無縁ではないでしょう。
 
●フレームの不確実性
 フレームの不確定性についてです。マンガにはコマがあって、言うならば映画のフレームのようなものですが、映画のフレームが固定されていて横に流れたり縦に展開したりしないのに対して、コマは紙の上で展開されフレームが並ぶことになります。そうすると複雑なことが起こると同時に、マンガの可能性も出てきます。コマの存在というのは時間の流れを演出するのに大変役に立ちます。フレームを飛ばすことで省略の効いた表現が、あるいは省略をしないことでスローモーション的な演出ができます。例えば高野文子さんのマンガでは、人物の格好が変わらないので時間がゆっくり流れているのかと思うと、実は5時間ぐらい流れている。マンガの可能性というのはフレームとその中に描かれる絵のギャップみたいなところをうまく利用して成り立っていると思います。
 フレームというのは融通無碍なもので、手塚さん、吾妻ひでおさんは、登場人物がコマとコマの間の枠にぶら下がったり、突破したり、枠自体にもたれかかったりします。実験映画は別にして、通常の映画だと考えにくいと言えるでしょう。
 伊藤剛さんは、映画とマンガの違いは映画的リアリティの追求、写実性を抑圧したところにあると指摘します。マンガは映画文法を応用したと言われますが、逆に映画的リアリティのほうが不自由、マンガにおけるフレームの不確定性であるとか、それからキャラの持つリアリズムみたいなもの、これを抑圧して、つまり切り捨てて成立しているともいえる映画のほうが、不自由な表現ではないかと言っていたそうです。
 マンガの物語はフレームの中だけでは起こりませんし、少女マンガに見られるようにフレームをあえてかっちり使いません。レイヤーを重ね合わせたり、奥行きを作ったり、複数のレイヤーを用いることによってパッと見開きで、ストーリー性をいきなり演出してしまうというトリッキーなことができるのもマンガならではのテクニックです。映画と違ってフレームがいろんな意味を背負うことができ、コンテクストとして融通無碍なものを持っているといえます。
 コマは単一のフレームだけではなく、コマ同士の構図が重要で、視線誘導をうまくやる必要があります。マンガを読めない人は、コマを目でどう追って読むかよくわからないということが1つの壁になります。このコマの誘導の機能と、コマ同士の構図、1ページの中のコマとコマとの置き方は、コマの中の構図と共にしばしば問題になります。大ゴマの配置、三角形のコマを入れるなどのトリッキーな使い方があり、融通無碍なコマの演出効果を利用する重要なマンガの特性とフレームは、非常に特異な表現形式で、マンガの特性といえます。しかし、わからない人には非常にわかりにくいのです。
 批評家の大塚英志さんによれば、モノローグを多用するのが少女マンガの特長です。通常のマンガと同様に吹き出し、擬音語、擬態語が普通にあって、その他に背景の白いところに誰の言葉かわからない言葉が書いてあります。時には作者の言葉だったりしますが、これは文脈から判断するしかない。このことからもマンガというのは、文脈依存性が高い表現であると言えます。日本語もそういう文脈依存性が高い言語として知られていますが、そう考えるとマンガは日本語的表現の特性に近いところに位置付けられるのではないかと思います。
 それからカメラアイの複数化ということがあります。これも映画では撮りにくいことです。映画のフレームの中で我々は知らず知らずにカメラの視線に同一化し、時には登場人物の視線に同一化して見て、自在に切り分けていています。マンガというのはもっと自由です。映画のテクニックで定説では手塚さんが開発されたといわれる技法で、「同一化技法」というのがあります。まず最初に主人公の顔が描かれて次に風景が描かれます。主人公の顔の次に風景が描かれるとその風景は主人公が見ている風景と読者は自然に解釈しています。ただ、最近復刻した大城のぼるさんのマンガにも当時から同一化技法が使われていますので、手塚さんの場合は大衆的な文脈で使われた歴史的な意味をこめて、ということになります。この技法では、カメラを切り替えるのでまだカメラアイの位置がぎこちない。最近のマンガになるともっと渾然一体となり、見ている主人公の顔と見ているその風景が、同じ画面に置かれていても違和感がない。これは映画的文法というところからさらに一歩先に進んだ表現と言えると思います。ご参考までに精神分析の言葉では、キャラクターに同一化する方を「想像的同一化」と言い、カメラに同一化する方を「象徴的同一化」という言い方をします。
 それから物語のエリアでは、少女マンガのところで触れたように、重層的な描写が可能な表現で、これも融通無碍です。言葉についても、擬音語のレベル、擬態語のレベル、吹き出しの中の言葉のレベル、モノローグのレベル、それから場合によってはこれらの外に書かれる言葉のレベルがあり、さらにそこに絵のレベルが加わります。
 絵のレベルにおいても描かれる主人公の絵、その中の回想シーン、あるいは主人公が見ているテレビやマンガの登場人物が描かれ、1つの画面の中にいろんな層が同時に描き込まれているところが違和感なく広がっています。映画ではお約束に縛られていて、どういう映画かということをまず提示し、こういうふうに表現しますよ、というような流れを作り込まないと理解されにくいものが、マンガを読み親しんでくるとすんなり理解できます。私が、少女マンガを苦手としますが、好きな人は自然に読めるということがありますので、そういう文法になじめないということかもしれません。レイヤーをいくつも貼り込める、読み込める、そのことが、独特の空間を生み出すのではないでしょうか。


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