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・未完成
 3つ目は、マンガが未完成なアートだととらえたらどうなるか。マンガは基本的に映画の絵コンテみたいに、つまりそれを見ながら頭の中で現実を想像していくもの、と私は考えています。絵をリアルに完全に描きあげて読者をうならせるというものよりも、ストーリーや何か他の要素で、読者の頭の中にあることを想像させてうならせる。そういうメディアではなかったかという思いがあります。弘兼さんのように、完全に描き上げる方と全く描き上げない方ともちろん2つに分かれますが、どちらでも構わない、世界でも希少なメディアじゃないかと思っています。
 極端な例として『HUNTER×HUNTER(富樫義博)』を見て下さい。こんな言い方すると悪いというか、誤解されそうですが、ネームのまんまの未完成さ、手抜きをしている原稿ですが、読者が待っていて間に合わないから載せている。これは、ジャンプじゃなかったら多分ボツでしょう。もちろん簡略化という技法もあるのでしょうが、最近は顔がなかったり、目が点だったり、ありますよね。
 あくまでも作品の読み手が次を読みたくなれば成功だということです。絵の完成度や話の成熟度や登場人物のリアリティなどには、実はとらわれないということです。その辺も含めて未完成さ、例えば未完成の持つのびのびとした感じがマンガメディアがいつまでも隆盛を続けていられる力になっていると思います。
 音楽の世界で未完成さといえば、ロックは、正にそのものだと思います。一時期、みんな技術的に上手になって、音楽的にしっかりしてきて、ロック自体が力を失いそうになった時がありました。そこに音楽的に成熟しようとしないパンクが出てきました。ところが、実際、これがロックを救ったことになります。音楽的なことばかり見ている人、成熟度ではかろうとする人にとっては、パンクを評価することは難しいかもしれませんが、パンクはロックというフィールドに力を加えたということについて、私は評価しています。
 パンクの出現で全てがOKになったんです。それ以前には、ギターや歌は、やっぱり上手な人、評価の高い人がやるもの、という感覚が音楽を目指す人間にはありましたが、その時点から、そういったこだわりがなくなったんです。伝えたいことがある、気持ちが抑えられない、というようなところにモチベーションが向けられました。このエモーションの力というのはものすごい大きなものがあって、まさしく大衆文化ということだと思いますね。それまでの権威なんか関係ない、というものすごいパワーがあそこのところで出てきたなという感じがします。そういう意味では、マンガ文化は、絵が多少壊れていようが何だろうが、勢いがあればいいんだっていう世界をちゃんと最初から持っていたような気がします。
 少し音楽の未完成の魅力をお話します。ローリングストーンズのファンには怒られるかも知れませんが、この人たちのおかげで世界中のアーティストが救われた。手塚さんは、マンガをこれだけ幅広いメディアにしたという話がありましたが、ビートルズは音楽でそれと同じことをやったんで、その後に続く人たちは何をやっていいのかわからなかった。そこに、一点突破型でこういうすごい人たちが出てきました。
 ローリングストーンズの初期はポップスに近くて、ある程度ブルーステイストは持っているんですけれども、その後、どんどん形式を崩していきます。彼らの特徴は、楽器はうまくないということ、歌が、メロディがわからない。ということは、この人たちは何をやってもこの人たちになる。それが一番強い。当時、ビートルズと並んで一緒にされていて本当にお互い同じようなことをやっていました。だからフラワームーブメントが流行ると同じようなことをやるし、ビートルズがブラスを入れると、ブラスを入れた曲を作ったり、同じことをやっていく。ところが、ビートルズが、いなくなった時、何をやったらいいか分からなくて、その結果選んだのがこの一点突破です。
 音程は分からない、けれどもの凄くおしゃれなバンドだったのです。それが、もっと泥臭いところヘカーンと行ったら、その後出す曲は全てこの形で行って、いまに至るまで王様として君臨するわけです。
 日本ではサザンオールスターズ、欧米ではローリングストーンズ、同じですね。サザンがストーンズを意識している可能性は高いと思います。同じような曲をいっぱい書いて、それがちゃんと売れるっていう一点突破型という意味ではすごいものがあります。一番のヒット曲は『いとしのエリー』と『TSUNAMI』。ほとんど同じ曲です。
 
●日本人の古来の文化
 未完成さにこそ、ものの成熟を感じるという考え方や芸術、芸能が日本古来のものとしてあるかどうかについて、皆さんのご意見をお聞きしたいと思います。
・マンガには約束事が多い
 マンガに約束事が多いというのは、庶民の中にある程度の知能の高さが要求されるのではないかなとは思いました。元々マンガは子ども向けに始まったものなのにどんどんどんどん約束事が複雑になっていって、それも面白さの1つになったので子どもたちが大学生になってもずっとマンガを読み続けてこられた。これは、江戸時代の庶民文化が歌舞伎や狂歌の本を持っていたということと無関係ではないだろうと思います。
・かたちがかわらない
 マンガは、ほとんど技術革新が行われませんでした。もちろんCGが導入されて時間節約にはなりましたけど、基本的にあまり変わらない。つまり、素人もプロもあまり変わらない条件で作品作りができる。これはものすごくマンガの世界にとっては良かったことなのではないかと思います。作家の裾野を広げるのにものすごく役立つということです。音楽の場合は、最近まで商業的なしっかりしたレコーディングをするのにとてもお金がかかったので、何かチャンスがないといつまで経っても素人とプロの壁は取り払われませんでした。
 今はデジタル技術革新の恩恵で、機材や楽器はどんどん安くなる一方なんです。今は楽器もキーボードやコンピュータになっているのでテクニックは要らないですね。普通の高校生に小室哲哉さんと同じものが作れます。素人とプロの間の壁が、長い間ずっと取り払われなかったことが、ちょっと前まで、日本の音楽業界が、今ひとつ盛んとは言えなかった理由の1つだと思います。それに比べて、素人とプロの間の壁があまりなかったマンガの世界は、ものすごく栄えたわけです。
 
●日本人の感覚、想像力
 日本人が、古来からもっている素朴なスタイルが何かあって、マンガ文化が支持されたのかもしれません。それらの文化もマンガも取り込んで、鍛えられた日本人の想像力がどのぐらいのものか検証するために、日米のテレビCM比較をしてみたいと思います。
 アメリカと日本のテレビ番組を各2時間づつ収録してアットランダムに、各28種類、合計56種類のCMを取り出して見ました。私の娘2人が英語ができることと、また若い世代は偏見がないというので彼女たちに分類させてみました。彼女たちは、CMを三つのグループにわけました。まず第1に、直接的に製品のアピールをしているCM、つまりだれが見ても何のCMかわかって、効果があるというもの。これは見る側に何の想像力も要求しません。2番目は、これは何のCMなのかなと最初のうちにちょっと考えるもので、直接的というわけではないという程度のもの。3番目は、ほとんど製品の説明もしなければ、何が何だかよく分からない、一体これは何のCMなのかというもの、つまり想像力を相当必要とするもの。そうすると日米の間で歴然とした違いが出てきました。アメリカのCMは、一つ目のタイプが21、二つ目が5、三つ目が2。それに比べると、日本のCMは、一つ目のタイプが13、二つ目が4、三つ目が11。です。
 例えば、アメリカのCMを3つほど、見て下さい。まず最初はマカロニチーズのCMです。これは100%リアルチーズ、100%リアルチーズばっかり言い続けるチーズマカロニのCMです。2つ目が、今度はシェビーだから車ですけれども、これはもう何をやるとこれだけ安くなる、金利がどうだ、キャッシュバックがどうだこうだ、そういうことばかり言っているCMです。3つ目は、何かわからないけど冗談を言う変なサイトのCMです。ここまでみただけでも、いかにもアメリカっぽい直接的なCMが多いなということがわかります。さらに、なんでもかんでも数字で説得しに来るし、ともかく数字が好きな国民だという感じもします。
 さて、日本の方はいかがでしょう。まず最初は、日本の車のダイハツのCMですが、第一印象で、同じ車のコマーシャルなのに何でこんなに違うのかと思います。ダイハツのCMには2種類あって、1つはナンセンスものです。プロサッカーの大黒選手がでてきているのですが、彼がサッカーとは全く関係のない質問をインタビューされて、困っている、わけのわからないCMです。その次は、ちょっとおしゃれな映像と音楽の仕上げになっているCMですが、これも車のCMなのかどうなのか非常にあいまいで、直接的にダイハツ車を買えとは言っていません。次に缶入りコーヒーのCMです。性格俳優の竹中直人とアメリカメジャーリーグの野茂選手と、流行の訴訟番組でタレント化している丸山弁護士が出てきて、それぞれ勝手なことを言っています。いったい何のCMかと思った瞬間に、最後に別の脈絡でジョージアと言うので、初めて缶入りコーヒーのCMだったことに気づくというものです。その次が、今度はボイラーのCMです。関西系のダジャレで、テンポの良い口調で、庶民相手にボイラーのCM?という不自然さを打ち出して視聴者にある種の文化ショックを与えます。これはもう植木等風のナンセンスもので製品説明も性能も、一切アピールしないCMです。これに関しては、娘たちも訳が分からないと言っていました。
 度が過ぎている例としては、富士ゼロックスの新シリーズアピオス(Apeos)のCMなんか、すごいと思います。知的経営資源のソリューションとか何とかに悩む経営者が、イングランドのプロサッカーのロナウド選手とドラマを展開します。ゼロックス関係のCMというのは分かるけど、具体的に何のCMなのかがよく分かりません。ゼロックスが、会社のソフトを何とかすると言っている、でも何のCMなのか分からない。こんなにわからないと、もはやCMの意味はないのではないかと思ってしまうほどです。
 イメージでものの良し悪しを決めるのは日本人らしいですが、CMのイメージでアピールしようとしても観る側が想像力を持っていないと、ただの分からないアピオスになってしまいます。でも、日本でイメージCM、つまり三番目のタイプのことですが、そのタイプがテレビからなくならない理由は、観る側がイメージCMを良しとしている、またはお金を出すスポンサーがそれを良しとしているからです。そういう力が日本にはあるのだと思います。
 CMソングでも、アメリカでは直接的に製品のアピールをするCMソングがほとんどなのに対して日本でのCMは製品と何の関係もない曲を流します。今、とっさに頭に浮かんだのが、たぶん利休の言った言葉で、「無作為の作為」という言葉です。本当は、文化の勘違い説というのが、私の一番好きな考え方なんですが。というのも、実は、日本のCMソングで製品と関係のない曲が流れるというのは、日本人の勘違いから始まったことなのです。アメリカのCMで、かっこいい英語の歌が流れていて、かっこよかったので、日本のCMにもかっこいい曲を入れようと思ったわけです。その場合、歌詞が英語でどうせわからなかったので、CMソングは、別に直接的な歌詞にこだわらなくてもいい、という考え方ができたわけです。
 アメリカのCMは、一生懸命、製品のアピールをしていたのにもかかわらず、英語がわからなかったので、そうだと思わなかったわけです。
 無作為の作為ほどかっこよくないですが、CMソングの作り手の勘違いが、受け手には、かっこよく受け取られたり、さらに勘違いされたりするようなことがあって、日本では、製品のアピールをしないイメージCMソングが市民権を得たわけです。
 ここ10年くらいは、いかにもヒット曲のようなふりをして曲を作っています。しかも全部は書かない。サビだけしか使わない、だからサビしか作らない。あたかもその前から曲が始まっていて、全部の曲があるところのサビだけ使いましたというように作っています。こうなると作為の無作為の作為なのかなという感じがします。
 私のお話はこれで終わります。この後の討論で続きをお願いします。
 
 


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