マンガアニメ学術的研究会 第5回(2005年9月13日)
タケカワユキヒデ「マンガ文化の特質」
今回の発表は、まず第1に、今のマンガ文化自身がどのような要素を持っているか、そして、マンガのどういうところにそれが見られるかをピックアップして、次に、その特徴が、日本古来の文化の、どこから来たのか、つまり、日本人だからこそこれだけのマンガ文化を作ることができたのではないか、というところへ話を持って行きたいと思います。3つ目に、ずっと気になってきたことですが、日本人の想像力はとても大きなものだという話をCMを例にとって検証したいと思っています。
話をするのにあたって、まず、マンガにとっての過去・現在・未来をはっきりさせようと考えました。もちろん、過去から未来へはつながっているものなのですが、今回は、とりあえず手塚治虫以降、現在までをマンガ文化として捉えます。それ以前、縄文まで遡った全てを過去とします。それから、マンガがこれからどうなるか、諸外国との関係はどうなのかというところも含めて未来という形で捉えて、話をしたいと思います。
●マンガ文化の要素
・懐の深さ
では、第1番目のマンガの特質についてです。数え切れないほど色々な要素があるのではないかと思いますが、日本人論につながりそうな、事柄を5つぐらいにまとめました。
その中での第1番目は懐の深さです。あらゆるエンターテインメントの要素を吸収して新しい形にして吐き出していく。このことはマンガだけに限ったことではなく、その時代時代のメインなメディアは大体そうして大きくなり、姿を変え、生き延びて行くのですが、マンガを捉えるときにも、大きな特徴の一つとして考えられると思います。
まず、その懐が深くなった理由としては、マンガというメディアとしての様式が元々、そうなる要素を持っていたのではないかと考えてみました。例えばテレビというメディアは、何かを伝えるためにできたのではなく、まず、機械を作ってしまい、どのように使おうか、ということから始まっているわけです。つまり、ハードが先にあって、ソフトが後から考えられているメディアなわけです。マンガの場合も、絵と言葉を紙に印刷する、という様式は、単純で、経費も安いので、懐が深くなる可能性に満ちていたといえると思います。
しかし、ある意味で手塚さんが現れる以前、マンガは、まだ、懐の深いメディアと呼べるようなものではありませんでした。一応商業的な位置というのは統一されていたものの、ポンチ絵だったり風刺絵だったり、簡単な物語だったりで、マンガの様式がいかされる方向がはっきりとしていなかったのであろうと思います。つまり、まだ、すぐれたソフトが作成されていなかったということだと思います。
そして、娯楽が必要とされた戦後に、手塚さんの出現と同時に、ソフトが広がりをみせて、需要も広がって行ったのだと思われます。
さらに、これも結構重要なことではないかと思いますが、マンガが元々、子供のためのメディアでしたので、作品が男女関係の話だけに終始せずに、あらゆる方向に広がりを持って行ったということも、そのメディアの様式をいかすことができる大きな要因だった思います。
そこで、この現代の特色を古来のものと付き合わせて検証したいのですが、マンガ以前に民衆が育てた懐の深い芸能と言えば、やはり歌舞伎が日本で最初で最大なのではないかと思われます。そういう意味で歌舞伎の発達の仕方とか編成の仕方というのは、マンガを考える上でとても参考になるのではないでしょうか。と同時に、歌舞伎の記憶が、日本人の中にとても大きな形で残っていることも、重要なファクターだと思います。どれほど多くの庶民が夢中になっていたのか、もしかしたら江戸の人々だけなのか、それとも参勤交代のおかげで日本中が夢中だったのかなどはよくわかりませんが、かなり深く日本文化の中に浸透していると思います。
マンガにおいて、手塚さんは作品の幅の広さ、マンガの世界のジャンルを、どんどん広げて行きました。それは、手塚さんには、そうすれば、絶対に日本人が喜ぶはずだという自信があったからに違いないと思いますが、その自信の元になったのは、何百年の間、日本人が、幅の広いメディアである歌舞伎に夢中になってきたという事実であり、また、歌舞伎を支えてきた庶民の深い感性を信じていたからではなかったでしょうか。ですから、歌舞伎を支えた江戸の庶民が百万人だとしたら、マンガの場合は、一億人分、江戸の百倍の人たちが後押しをした結果、いまの反映につながっているのだと僕は考えています。そういう意味では、マンガの背景は、直接的に歌舞伎とつながっている感じがします。
続いて、マンガと同じく、幅の広いメディア、テレビの話をしたいと思います。マンガとテレビは比べてみると非常に面白い。お金を払って見るマンガと、お金を払わないでも見られるテレビという好対照。お金を払って見るものという点では、マンガは映画、歌舞伎に近く、お金を払わないでも見られるテレビは特殊なものだと思います。
質、幅の広さという意味では、マンガもテレビも同じようなことが要求されると思いますが、マンガが質の良し悪しを判断する時に、マンガを買った読者のアンケートを判断材料にするのに対し、テレビは視聴率という、その番組に対して、なんの金銭も払っていない人たちが見たかどうかが基準になります。テレビの関係者の人たちは、これ以外に判断の基準を誰も考えようとしないし、信じようとしないところが不思議ですが。とにかく、金銭授受の関係が全くない人たちが全体の良し悪しを決めているために、作品の基準がどんどんずれていってしまうことが多いのがテレビの特徴です。
日本の人口は1億3千万ですけど、未成年者のうち10歳20歳までの人は1500万しかいないのですが、ところがその10歳から20歳までの人たちをターゲットに70%以上の番組が作られています。この層はお金を持っていませんが、テレビをよく見るので視聴率に深くかかわってきてしまうのです。視聴率のおかげで、お金をもっている人たちが見る番組が少なくなってしまう、というおかしな現象がおこっています。そのくらい、今の日本のテレビ業界は、少し歪んだ形になっています。
アメリカと比べても、日本のテレビ番組はアイデアの良いものがいっぱいあるのですが、アイディアが斬新だったり、内容が深いものに限って、なかなか番組が続かないのは、こういう変なシステムがあるからなのだと思います。
CMと日本人の感性については別途検証しますが、ここでは、CMの良し悪しの基準について、少し触れます。日本のCMは世界的にも評価が高いものが多いのですが、それには、是非の評価のシステムが単純だということが関係していると思います。評価の是非を、実際にお金を払っている人、つまりスポンサーが決定しているからです。もちろん、いい作品ばかりではないのですが。基本的には、誰が作品の是非を決定しているのか、それが番組とCMの違いではないかと思います。
ともあれ、スポンサーの場合はお金を持っている人がえらい、という価値基準はあるかもしれませんが、基本的には、スポンサーも一般庶民です。やはり、日本の中に根付いている庶民の力がマンガや、歌舞伎や、CMを現在の優れたレベルにまで引き上げてきたといってもいいのではないでしょうか。
マンガがどのくらいの世界観をあらわすことができるか、ということについては、いちいち、ここであげるまでもないことですが、少しだけ例をあげましょう。何といってもすごいのはSF作品です。少年マンガは今も昔も変わらず超能力者が好きで、例えば少年サンデーに掲載されている20作品中5作品くらいあります。いまだに子供たちが、こういったとんでもないもの、自分ではないものになれるシチュエイションに憧れるのだということがわかって安心します。
それから、やはり歴史劇です。マンガの黎明期の頃は、歴史劇というよりは、ややおとぎ話的なものが多かったのですが、だんだんと本来の歴史劇に近い形になってきました。蛇足ですが、ここで日本の若い女性の嗜好は400年間変わらない、という話をしたいと思います。
『リボンの騎士』が宝塚をヒントにつくられたという話は有名で、そのおかげで、少女マンガそのもののルーツが宝塚にあるというイメージさえあります。ただ、一口に「少女マンガ」といっても、もう少し大きな設定で考えてみないといけないのですが。その「少女マンガ」の中で、現代ではない設定でストーリーが展開して行くということになると、非常に宝塚の影響を受けているものが多いというように考えていいのではないかと思います。
次に、宝塚の原点をさぐってみると、女性が男役を演じるという意味では、宝塚は阿国歌舞伎までたどれるのではないかとも考えられます。
宝塚の創始者の小林一三は、ウィーン少年合唱団に対抗して、宝塚少女合唱団を編成したと云われています。その後に声楽だけでなく当時一流の講師陣を招いて楽器、舞踏、歌劇も学ばせて、いまの宝塚になっているわけです。しかし、小林一三は元々小説家志望ということもあって、知識が豊富だった方だと聞いています。上方に、江戸時代の初め頃に女歌舞伎というものがあり、しかもたいへんな人気だったということを知っていて、その現代版として宝塚をつくったとしても不思議ではないと思います。
さらに、歌舞伎には、ある時代、若衆歌舞伎と呼ばれた、若い役者が曲芸や女形をして客を楽しませるものもありました。いってみれば江戸時代版ジャニーズ事務所ともいえると思います。女歌舞伎、それから、宝塚、少女マンガ、そして若衆歌舞伎、言ってみれば日本の女性が熱狂するものは400年間変わってないと言えるかもしれません。
・ほのめかし
2つ目のマンガの特質を説明します。マンガのすべてを語らない、ほのめかすという表現方法です。もちろん、ほのめかす日本的表現は他の日本文化にもありますが、マンガには、特にどうしても何かをほのめかさなければいけない理由が沢山あります。コマ、ページめくり、吹き出し、などのマンガの技法のせいで、ほのめかしがどうしても必要になるのです。
コマ割りは、動かないものを動かさなければいけないので時間経過をほのめかしています。それぞれのコマの間に、どのくらいの時間が経過したのかは、くわしくは説明がありません。読者が想像することになります。
次に、ページめくりは、期待感をほのめかしています。つまり、マンガは本という形態を使うのでどうしてもページをめくるのですが、その時に読者には物理的に余計な時間ができるわけです。手を動かさなければいけない。その時にはマンガを見ていないので、見ていない間に何を想像させるかが、ほのめかしなわけです。最近のマンガではこれが非常に重用しされます。読者に何も想像させることができなかったら失敗です。
吹き出しは文学上の表現力として、また制限されたページ数に押さえるために、たくさんのことをほのめかします。必要なことを全部そこへ描き込めないので、必ず暗示なり、ほのめかしを入れる。そういえば、俳句や映画の字幕も、たくさんほのめかしを入れます。戸田奈津子さんが、セリフでは言ってないことをわざと書いたりできるのは、英語の勉強を沢山した方ではありますが、それこそ日本文化の下地があったからなのではないかと感じます。
俳句に至っては、そのほのめかしを理解するためには、相当な想像力と知識が、必要になってくるのではないでしょうか。短歌は、貴族の趣味娯楽、政治の手法、手紙、教養でした。それに対して俳句、川柳、狂歌というのは、庶民生活の中の、いろいろな気持ちを表すという意味合いが強い文化です。日本中の人々が楽しむことができたという意味で、俳句が初めての日本人の庶民の詩作文化なのではないかなと思います。
庶民は俳句の中に何かを覚え、感じ、ほのめかしを理解しながら、教養を高めて行ったのだと思います。さらに俳句の限られた文字数の中で、色々ほのめかされると、一体これは何だろうと考え、でもそれを納得してしまうとそれで良いのだという自己的な強さになる。
俳句は、ものを理解する時に個人が中心になって解釈して良いというある種の、日本民族的な強さを育んだと思います。10,000年前ならともかく、この1,500年間は限りなく単一民族に近かったという条件の中で、相通ずることができるという土壌の中でも、庶民の間には少しずつ違った考えが成立して、そこに想像力と思考力が育ち、理解力の自信になったのだと思います。俳句の文化を支えたのが庶民であったこと、なぜなら庶民は高い想像力と思考力を備えていたこと、いろんなもので証明されている日本古来の庶民文化の高さは、地球規模的で見て誇れるものだと思います。それは、ほのめかしも含めて、現在のマンガ文化を支えるものの1つに間違いなくなっていると思っています。
いま世界中に蔓延しているのはアメリカ文化だという意味で、具体的にわかりやすい、直接的なものとしてはアメリカ文化があると思います。世界中から多民族の人たちが集まって作っているお国柄だということですね。それとは真逆なところにあるのが日本文化だと考えていいのではないかと思います。
でも最近のマンガのコマとコマの間には、ほのめかしが少なくなってきています。もし、マンガ文化が停滞期に差し掛かってしまっているとすると、その理由の1つは、コマ割りにあんまり冒険をしなくなったことかも知れません。何かギョッとさせてくれる作品が少なくなってきた、コマ割りの間をいっぱい想像して楽しかった、昔のマンガというのはもう減ってきた気がしています。本当にアメリカ映画のような、直接的なものばかりになっているなという感じです。
一方で、ページめくりは、年々上手になっていますね。マンガ家も、編集者も、そこに命をかけているっていう感じがします。『絶対可憐チルドレン(椎名高志)』という作品で、ページめくりを見てみたいと思います。10歳の小学生3人の、レベル7という地球を壊してしまうくらいの超能力を持っている女の子3人がいて、政府の男がお守り役になっていて、それでいろいろな難事件を解決しながら、めちゃめちゃになっていくという話です。超能力者の悩みというのは鉄腕アトムの時からずっとあるものですが、力があり過ぎる人間の心がどのように、苦しんで悩んでいるのかを、まさかの、お決まりの鉄塔の上に昇って、お守役に相談するシーンです。お守役の男の人が、周りの人がお前のことを嫌っているわけじゃない、お前のほうも少し大人になればいいと、シンミリして、そしてページをめくると、シンミリからパロディーに変わっていて、大人になるという意味が、ボインになればいいんだというオチになっている。ちょっとアメリカンジョークっぽいなという感じですけど、ほのめかしという意味も少しは入っているし、ページめくりは上手いなと思いました。
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