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●光
 最後に光ということについてお話して終わりにします。目で見るものというのは色と光で、なおかつ色がない白黒の世界の場合はそれはすべて光と影だけを描いているわけです。絵画のデッサンの初歩においては、石膏デッサンやコップ、コーヒーカップを描いたりするのですが、空間を出すために光と影というものを描くのは、形に奥行を出すだけではなく、心に届く何かを出すのです。例示すると、光の画家レンブラントと略同じ時代の画家、カラバッチョの絵です。ここでは、意図して窓の向こうから光が差し込んで、テーブルに腰掛けている人たちに光が当たっているという場面です。この光の効果は、例えば舞台におけるスポットライトにも通じるのですが、ある種ドラマチックな感じを出す効果があります。
 手塚治虫のマンガ『ルードウィッヒB』では、非常にレンブラントとかカラバッチョ的な光と影の描写を表していて、卵を盗んで走っているシルエットには心の闇が表現されています。ここでは、逃げようとした時にドアの所に立っている人の影が落ちています。この影がなかったら、「ギョッ」っていう擬音の効果感がかなり弱まるといますが、その影というものが持っている意味を非常にうまく使っていると思います。
 マンガの光の表現で、一番連想するのはベタフラッシュですが、類似しているものに、びっくりした時とか困った時に「うわぁ」ってこう両手を広げるポーズがあります。これは、非常にベタフラッシュの効果と似ているように思います。2本の手と、合計で10本の指が広がっていて、やはりベタフラッシュと類似した、非常にびっくりした、困ったという、心のある状態を表現しております。ただ、最近はベタフラッシュというのが、あまりにも多用され過ぎていて、安易に用いられ過ぎていて、単に読者を飽きさせないためだけに、しかもスクリーントーンを貼って手抜きしたものだったりして、非常に軽いものになっているように思えて残念です。何かマンガとしては悪いことに感じます。昔ポケモンのテレビ画面の光の明滅を見て、大勢の子どもたちが、体に変調を来した事件がありましたけれども、非常にあれと似ている状況がマンガの中のベタフラッシュの多用によって引き起こされるのではないかと心配しています。ある種感覚の麻痺というか子どもが心を閉ざすというか、何かそういうようなことが起こっているような気がします。そういう意味ではベタフラッシュの多用というのは非常に危険なことで、またマンガとしてもボキャブラリーの貧困さを招くところがあるのではないかと感じます。ベタフラッシュというのは、本来そういうマイナスなものではありません。池田理代子の『聖徳太子』の中で、仏像を見た人が「え?」っと言って、その後ろでその心理状態を視覚化するベタフラッシュが使われています。片方はその「え?」っていうのがちょうど頭から、片方は心臓辺りからベタフラッシュが出ていて、非常にその心理描写に効果的に使われています。かつ仏像の背景があることから連想すると、これは観音の宝冠、仏像の頭にある光ですけれども、つまりベタフラッシュの発想は、仏教美術ですでにあったのではないかと感じます。キリスト教でも天使に輪っかありまが、仏像の場合はなぜか、ベタフラッシュのような放射状の広がりがあります。そこに何らかのつながりがあるような気がします。光という効果は、ある種このような日常を越えた何かというものを表すためのものとして使われています。
 さらに、マンガ版の『風の谷のナウシカ』で光の話を続けます。アニメ版の方は、輪郭が描かれていて、その内側が塗られています。まず輪郭差という形があるのに対して、マンガ版の方は、例えばギザギザのスカートが風になびいているところを、光と影で描いているのです。つまり簡単に言うと輪郭差がない。背景の山も、草も当然輪郭がなく、ほぼ全てが、線の組み合わせによる技法で、光と影の世界を表そうとしています。モネのパラソルをさす貴婦人の絵で比較してみましょう。草原に女の人が立っていて、スカートが風になびいて、その向こうで雲がたなびいていると、そういう構図の類似もあるんですけれども、どちらも輪郭線がない、言ってみれば、光と影をぼんやりと描いる、ということに非常に共通点を感じます。それにしてもマンガだって普通輪郭で描いたほうが作業としては簡単なのですが、それをあえてシャカシャカシャカシャカってたくさん線を描いてその集合体で形を浮かび上がらせるということは非常に作業として大変なわけで、あえて何でそんなことをやっているんだろうかというと、やはりそれは影が描きたかったのかなという気がします。
 光の裏返しである闇ということをお話します。マンガ版の『風の谷のナウシカ』は一方で闇を描くことにこだわっています。闇というものが生命体として、世界を食い尽くす何か恐ろしいものとしてやってくる、この闇に触れた時にドキドキと怖くなってしまう。光と闇という言い方でいく時にマンガというのはどちらかというと、闇のメディアだというふうに考えています。つまりアニメというのは、映画館のスクリーンやテレビの画面に映される光そのものですね。物理的な光をスクリーンに当てて、光というものを非常に美しく、かつ非常に存在感のあるものとして出していると思うんです。それに対してマンガというのはそれ自体が光ってなくて、紙の上にインクで付けられたシミであり、闇の世界なわけで、闇を描くならマンガ、光を描くならアニメなのだろうというふうに思います。
 最後に、この闇ということに関して最近考えた絵画的なひとつの起源に関してお話します。ラスコーやアルタミラの壁画という原始美術です。アルタミラの壁画には動物の絵が描いてあります。狩猟をするための呪術説、祈り説とかいろんな解釈があるんですけど、まず洞窟に入った時に、実は壁画というぐらいなんで、壁に描いてあると思ったら、天井に描いてあるんで、正確にはアルタミラ洞窟天井画なんですけど、現場に立って天井を見上げて、これは何なんだろうと思いました。2分ぐらい見て、直感的に分かったのですが、これは星座だと思いました。偶然その直前に、フィレンツェの寺院の天井にローマかギリシャの神話の星座が、青い天井に描いてあって、いろいろな動物を見ていたせいかも知れません。日本に帰って日本画家の千住博氏に聞いてみたら、あれは原始のプラネタリウムだっていうことを千住博も以前から考えていたそうです。あれがもし絵画の起源であるとしたら、絵画とは星座から始まって来たのです。星座には、獅子座とか大熊座とか牡牛座とか、いろんな動物の名前が付けられていますが、アルタミラの天井に描かれているのも不思議ですが、星空を見上げていて誰でも不思議に思うのは、例えば大熊座を見ていて、どう見ても大熊には見えない、どこが頭でどこが尻尾なのか、どこまで見ても見えない。もしかしたら、原始時代は真っ暗闇で空が明るくて、非常に弱い光の星も見えた。いまでもアフリカの人が非常に目が良くて、砂漠を歩いていて、地平線しかないけれど、その向こうにちゃんと町とか森とか見えるというくらい、原始人も目が良かった。そんなことで星座が絵画の起源なのかなと思いました。
 星座や星座に関する神話に対して、養老孟司氏が興味深いお考えを持っていらっしゃいます。養老先生はマンガのことが非常に好きな方です。つまり何千年に渡って文字がない社会があって、その時代に星座というものがあって、そこにどう見ても動物に見えないただの点点点のつながりの中に昔の人たちは、動物であり、神であり、いろいろな楽器やその他のたくさんのものを見て、そこに物語を読んでいた。それは実は脳の発達と非常に関係していて、人間が、言語を生み出す為のひとつの非常に大きな起源だったのではないか。つまり言語には、書き文字と話し言葉・声の2つがありますが、文字が出来たのは非常に最近で、それ以前の何千年にも渡って無文字社会で話し言葉の時代がずっとありました。そうであれば脳科学からいうと、脳の中で文字を司る部分は、多分退化している筈だろうと養老先生は考えて、それが何千年にも渡って文字を使わなかったのに文字担当の脳の部分が退化しなかったのはなぜか、それは星座を読んでいたからだろう、つまり星座というのが文字の起源ではないか、ということに行き当たりました。そういう捉え方は、マンガの起源ということを考えてみても非常につながるような気がします。つまりマンガというのは絵があってそこにセリフがあって、あるいは擬音語とかという音があって、あるいは時にはそこに宇宙を感じたり光を感じたりという世界がありますが、それはまさに星座を見てそこに物語を読み取るということに非常に似ています。星座というのは闇の中にある光ですが、光と闇、それが作り出す点の世界があって、しかも星座の世界には音がないわけですけれども、そこに物語あるいは物を語るということは声が出てきます。ですから、マンガの起源をアルタミラ洞窟や星座や神話が非常に豊かだった時代にまで遡っていって、何かマンガとか絵とか文学とかそういったもの全部を越えた総合的なものとして考えても良いのではないかと思います。そういう考えはマンガ的な構造に非常に似ているような気がします。今回の研究会は比較的日本ということがテーマであって、私の今日の発表は、それを越えた人類の共通起源みたいな話ではありますが、マンガのルーツを思いっきり遡れば、そこまで行くという風に思いました。ありがとうございました。
 
〔以下、第3回議事録より抜粋〕
●吹き出し、せりふ、音、呼吸との関係
布施―吹き出しの中のセリフは、大体ひらがなと漢字ですが、漢字にはふりがなが振ってあります。それは難しい漢字だから読みやすいように配慮されている以外に、吹き出しの中は音にしたいということだと思います。音というのは呼吸であって身体なんです。吹き出しは、呼吸、声、音という身体の働きを意味すると思うのです。これは、本居宣長とも関係していると私は考えています。
 大ざっぱな理解ですが、『古事記』の研究を通じて、話し言葉であった日本語と日本古来の精神性を説いているのですが、裏を返して言えば、稗田阿礼(ひえだのあれい)という人が、『古事記』の全部を暗記していた。暗記は文字ではなく言葉、声によるものです。何であんな長いものを暗記できたのかは、記憶力の問題の他に、声だからということではないでしょうか。お経を暗記することに似ています。
 『古事記』という本ができた時に、声が『古事記』という文字に変わったわけです。それ以降は、もしかしたら記憶力、あるいは声の力というものが、弱くなって文字の力に移り変わってきた。そこで本居宣長は、文字が生まれる前に持っていた声の力、それは大和言葉の力、言霊の力かはわかりませんが、そういったものをもう一度復権させようと説いたのでしょう。
 このことは小林秀雄が本居宣長研究で触れていて、小林秀雄は本居宣長を書いた時に、論理的に理解しようとしたのではなく、とにかく何度も何度も繰り返し読みました、だれよりも読んだのです。そうすると頭の中に本居宣長の、あるいは稗田阿礼の声が聞こえてきます。それは実際の肉声ではないのですが、それがつまり本居宣長が分かる、あるいは『古事記』が分かる、あるいは小林秀雄が分かるということにつながる。つまり文字よりも声というものによって、心を伝えるのが1つの日本文化の流れだとすると、『古事記』と類似して、マンガというメディアも、キャラクターと絵の世界と、吹き出しの中の声の世界があって、その組み合わせで日本文化の流れを伝えていると思えてきます。中国語だったら声の世界がなくて絵だけの世界かもしれないし、アルファベットの文化だったら吹き出しの中だけかもしれないし、その両方がバランス良くできているマンガ文化は、日本独自のものかも知れません。
 なおかつ、その声というのは呼吸に関係しているのです。人間の進化で言うと呼吸器は非常にできが悪い、つまり何億年も海の中にいて、心臓の循環とかそれ以外の臓器は水中でもありましたが、陸に上がって新しくできたものが呼吸器です。つまり後から突貫工事でくっつけたみたいなもので、呼吸というのはある意味やっかいです。例えば心臓を止めろと言っても止められないけど、呼吸を止めろと言うと止められます。筋肉を意思でコントロールして、横隔膜を引っ張るのが呼吸という生理現象ですから、意思が忙しい時は呼吸がうまくいかないこともある。例えば、緊張すると息詰まるって言いますけど、息詰まるというのは吸ってばっかりいるということなのです。吸って吸って吸っていると息詰まる。リラックスするにはどうするかと言うと、吐くということです。吐くというのは、声を出すということ、笑うということです。マンガの効能である笑うという現象は、笑うことでふっと息を吐くということで、リラックスすることができます。
 つまり、絵の中に呼吸があって吐く吐く吐くという、マンガ文化は、単なる日本文化の流れ、という意味だけじゃなくて、よく出来ているのです。


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