最後に、コマ割りということによって何を表現しているのかということです。言うまでもなくひとつはストーリー、つまり時間の流れというものを表現しています。ジョットのスクロベーニ礼拝堂の絵でも、キリストの誕生から死までの何十年という時間の流れをコマからコマに進むことによって表現しています。つまり、ひとつのコマ自体は写真のようにストップモーションの世界ですけれど、全体として動きを表現しています。もっとも、ひとつのコマの中にも動きを表現しているマンガは当然あります。例えば、高橋留美子の『うる星やつら』ですね。何か人工未来的な、変な草が茂っているところを歩いていて、足が引っかかって転ぶシーンを描いています。20世紀の美術に未来派と呼ばれる動きがあります。例えば、マルセル・デュシャンですが、彼の描いた『階段を下りる裸体』では、動きそのものを絵画にしようとしています。20世紀の絵画とは、それまでの2次元平面の絵画という限界を乗り越えようと様々な試みをしてきました。ピカソは、3次元空間あるいは4次元空間みたいなものを画面の中に描くのにはどうしたらいいかということで苦労しました。動きということで未来派以降、マルセル・デュシャンも含めていろいろチャレンジされてきました。しかし冷静に考えてみるとそんなことはもうマンガでやっている、あるいはマンガでひとつ完成しているということが出来ると思います。
ここで少し脳科学の話をしたいと思います。実はコマ割りという時間の進行あるいは空間の移動は、空間の移動というのもカメラが動いているように、ある意味では時間に置き換えることができるのです。それは、脳の中で起こっていることと非常に似ています。脳は、全ての感覚をつかさどる不思議な神経の固まりですが、それ自体には感覚はなく、突っついても、えぐっても痛く感じません。うまいこと脳みそをパカッと出してしまえばあとは何しても、痛くも何ともない、針刺したりして、いろいろな感覚実験ができて面白いと思うのですが、今日はマンガ研究会なので、視覚の働きを取り上げて、説明します。
目玉があって、脳があって、脳の一番後ろの部分に視覚をつかさどる視覚野があります。目で見たものがまずここに送られてきます。目が見ているものは光と色で、点で認識されています。テレビのモニターみたいなもので、近づいて見ると光の3原色の情報の点が敷き詰められています。
そういう情報が、言ってみればそういうペラペラのシートの情報みたいなものですが、まずここに送られてきて、いろいろ計算をされて2つの経路に分かれて行きます。ひとつの方は「Whatの経路」、つまり「何」を見ているかということで、リンゴを見ているとかそういう意味が生まれてきます。
もうひとつの方は「Whereの経路」、つまり「どこに」ということなので、空間という意味が生まれてきます。ここでわかるのは、最初の視覚野のところを取ってしまうともう世界が何も見えなくなってしまいます。見るという働き自体が消えてなくなってしまいます。
次に例えば、こことここというふうに限定して、取ってみます。生体実験ではなく、ある事故とかあるいは脳出血とかでその部分だけダメになるということがあり得ますね。そうするとどうなるかというと、空間や動きだけ見えなくなります。動きだけ見えなくなるという実例があります。ドイツのある脳外科医が自分のところに来た患者でほとんど普通の人と同じなのですけれども、動きだけが見えないのです。それは日常生活ではどういう現象になるのかというと、例えば道に立っていて向こうから車が来ると、音としてはまず小さな車のエンジンの音がしてブーンと大きくなってヒューンと行く、音だけはそのまま連続なのですけれどビジュアル的に見ると動きがない。まず最初に小さな車が見えて、何秒かすると突然大きな車が見えて何秒かすると車が行ってしまってというコマ落としみたいな状態になってしまうのです。
この脳の病気の事例を見て思ったのは、これが消えた状態、つまり、マンガのコマの世界に近いのではないか。マンガのコマを発明した人っていうのは、乱暴な言い方すれば、ある意味でこれ(動き認知欠落)ではなかったか。当然日常の感覚の中では動きは見えたと思いますが、ただこれを非常に省略する能力というか、省略して世界が組み立てられる能力を持っている。逆に運動認知能力が非常に豊かで、その部分はマンガの中に描かなくてもコマからコマに飛ぶことができる、そのコマ間にあるマンガの画面に描かれていない何かを脳の中でもう自由自在に生み出して感じ取るとことができる、そういう能力があるのかなと思います。そういう意味でマンガというコマというメディアが実は脳の働きと非常に似ているというか何か対応しているということが非常に不思議に思いました。
そしてマンガというのは結構、声または音の感覚、つまり右の側頭葉、ここら辺は聴覚の働きをするのがあるのですが、そこを使ったメディアだと思います。ビジュアルの世界と聴覚の世界の間にあるということです。マンガは確かにそうです。絵画というのが純粋な視覚の世界にあるのだとしたらマンガの中には吹き出しがあって、ある意味で音の世界にあり、擬音語があって、「ガタッ」とか「ゴトッ」等の音の世界ですし、つまり視覚の世界にあるものが聴覚の世界にいった時に見えてくるもが多いのだと思います。つまり視覚の世界にあるものが、聴覚の世界に読んでいる人の感覚を引っ張っていった時に見えてくるものというべきものが非常に豊かな人が、マンガを作りまたかつマンガを味わうという気がします。
そう思うと日本人は、頭の横のほうが大きくて横長型で、ヨーロッパ人って頭が長頭型ですが、そういった特徴と何か関係しているのかという気もいたします。そういうことで、コマというものが持っている刺激は、何か脳と、人間の認識と決して無関係ではないというお話をさせていただきました。
・動き
次は遠近法、奥行き、構図の話をします。マンガというのはある時間の流れに沿って進んでいくメディアで、例えば、マンガによっては、逆からも読めるというのがあるかもしれませんが、一般的にはマンガを後ろから読むと、何だかわかりません。ビデオの映像とかだったら走っているシーンを逆回ししてもただ後ろに走っていくだけで何となく意味はわかるし逆にまた面白いしというところがありますが、マンガの場合は意味が破たんしてしまって成立しないと思います。一方、文字の場合は逆さにして読めませんが、マンガは絵ですから逆さにして読もうと思えばこれだったら読める筈なのですが、ところが実際に見た時には読めないのです。マンガには上下という非常に確固とした軸があるからです。
逆さにして読むと非常に不安定になり、天井からぶら下がっているような感じで、バラバラ落ちて来るという感じがします。
その上下というのは、つまりは重力ということですが、しかしその中で、上下の軸を越えているものもあります。例えば『AKIRA』の中の宇宙遊泳しているシーンですね。これは逆さにしても変わりません。ここは重力のない世界だからです。マンガはこういう重力の束縛の中で実は描かれているのです。
その話と関係してきますが、ここにあるしりあがり寿さんの絵に観られるように、しばしばマンガの中では三角形の構図が多いのです。この絵もお相撲さんが真ん中に立っていて、それを頂点にして自動車の屋根が斜線になって、片方が行司の頭から左の肩に至る、三角形でできています。絵画においても構図の一番基本形というのは実は三角形で、ピカソの『ゲルニカ』というのは、非常に混とんとしたグチャグチャな絵のようですけれど、全体が三角形のピラミッド型の構図でまとめられています。マンガも非常にダイナミックな描かれ方をしますが、その中である種外さない安定したものとして三角形というのが使われているかと思います。ピラミッド型の法則です。鉄腕アトムが富士山の上を飛んでいるシーンがあって、これも三角形の構図です。ピラミッド型の富士山が非常に安定していますが、この場合面白いのは、逆にするとやはり富士山が空からぶら下がっているなんてあり得ないとは言いながら、アトムは空を飛んでいるので、地球の重力の圏内から開放されたものという印象を与え、逆にしてもそれ程違和感はありません。現実世界を越えている何か、というものの表現として、重力による上下というのがあるかなという気がします。
それから、つながってくるのかどうかわからないのですが、構図の基本には遠近法があります。ダビンチの『最後の晩餐』は、遠近法で画面の全体がキリストの額に向かって収斂するように描かれていて、この線もある意味でピラミッドと言えます。これは絵画の1つの構図です。
こういった遠近法というのはマンガの中で当然使われていて、例えば、『キリン』(東本昌平)の中で高速道路をバイクがブーンと走っていって、その後にゴーっていう音だけが残っているシーンです。ここでは、バイクが遠く遙か彼方に行ってしまったという、空間的な奥行きを表すために遠近法が使われていますが、それだけではない何か厳かな感じがあります。これは僕の遠近法論なんですけれども、遠近法というのは一体何のために開発されてきたかというと、ひとつは平面である絵画の中に空間的な奥行きを生み出すために描かれてきましたが、それだけではありません。もうひとつは、神を感じ取るということだと思っています。
単に画面に奥行きが出れば良いのではなく、ことにルネッサンスの時代には、中世の宗教的な世界や宇宙的な世界を引きずっていて、『最後の晩餐』もそうですけど、神の世界を描いています。パノフスキーが書いている『〈象徴形式〉としての遠近法』という本には、何かを象徴するためのものとして遠近法があると書いてあります。単に空間を描写するために遠近法があるのではなくて、何かを象徴するためにも用いられたのです。何かというのは、言うまでもなくヨーロッパですから神です。神を描くために遠近法というのがあります。
ダビンチの『最後の晩餐』の絵もそうですが、描かれている世界がひとつの遠近法という秩序のもとに配置され、非常に整然と整っている。何者かによって世界が整えられているとすると、その遠近法を見ている人が必然的にそこに神を感じ取ります。
マンガの中でもしばしば遠近法というものが用いられていますが、そこにも何か神的なものがあるのではないでしょうか。この場合はオートバイがゴーっと行ったあとに音だけゴーっと残って、そのオートバイの走った軌跡が道路に放射状の線として残っています。ここの何も見えない中に、オートバイが去ったという単純な事実を語っているだけではなく、ある不思議な気分というか、神的な厳かな感じがあると思います。遠近法というのは何かそういうものだと考えております。つまり空間や形を描くというのは、単純にそれだけではなく、その向こう側にある宇宙とか神とかそういったものにもつながる、本来そういうものであってマンガにおいてもそれが生きていて、それを読む人が感じていると思っています。
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