マンガアニメ学術的研究会 第4回(2005年8月8日)
布施英利「言語と空間・形と光」
私は、美術の研究が専門で、その方法論として解剖学とか脳科学といったものを美術の研究に使っています。
マンガについて、今まで何冊か本を書いてきました。去年『マンガを解剖する』を、その前は、『脳の中の美術館』『鉄腕アトム55の謎』『鉄腕アトムは電気羊の夢を見るか』といった本を書きました。今日は僕の専門分野から、マンガを美術として見た時にどういうメディアとして映るのか、マンガはどういう芸術なのか、ということについて身体と脳の角度を切り口としてお話したいと思います。
前回までの議論の中で、なぜマンガがこれほどたくさんの読者を得たのかということがポイントとしてあるかと思いますが、今日はとりあえずそこから離れて、まず、芸術としてマンガというのはどういうことなのかということをお話します。
ここまでの議論の中で柳田國男の民俗学、江戸時代の庶民文化の話をお聞きしてきて、キーワードで「素人」という言葉があると思います。一般に、芸術やクラッシックは玄人が世界を支えているみたいに思われています。たまたま、ある建築関係の本の中で、藤森照信氏と伊東豊雄氏が「素人の力」について対談しているのを読みました。藤森さんは自分がつくる作品の感覚として「素人」を意識していて、それに対して伊東さんも最近やっと「素人の力」に気づいたと言っています。伊東さんは自己批判も含めて、いままでは建築作品を作っても建築界の人にしか評価されず、建築界の人しか見向きもされなかったとおっしゃっている。一方では藤森さんは素人が振り返るような建築作品を目指しているのです。マンガの場合はやはりプロの世界だけの話ではなくて素人の力が大きいので、そういう議論も必要だとは思っています。
が、とりあえず、今日の話は、どちらかというと玄人っぽい感じを受けられるかもしれません。マンガというメディアの現実的な側面を、言語と空間・形と光の、この3つに即してお話していきます。
●言語
まず、言語についてですが、言語というのはマンガの中のセリフ、ストーリー、あるいはマンガの画面に書かれた文字などのことです。これまでの討論で既に触れた部分は、できるだけ重複を避けて簡単にお話します。資料の1番は、シャガールの絵と大友克洋のマンガ(イラスト)です。この話は吹き出しということについてです。吹き出しというのはマンガならではの技法で、絵画の中には吹き出しはありません。モナリザの肖像画の顔の横に吹き出しをつけたら、それはマンガになると思います。その吹き出しの中にどういうセリフが入るかということではなくて、画面に吹き出しをつけるとマンガというメディアになるのです。しかしこの吹き出しというのは紙の中のマンガ以外では普段見かけることがなくて、当たり前ですけども例えば電車に乗っていて向かいの席の人が話をしていて、どう目を凝らしてもそこに吹き出しは見えません。こういう現実の世界にはない吹き出し、しかしだれに教わることもなくマンガを読む人はその吹き出しというものを奇妙だとも思わずにその意味を会得して楽しんでいるのです。この吹き出しとは一体何かということから考えてみたいと思います。
吹き出しというものを考える上で、ひとつのヒントになったのが、1番にあるシャガールの『誕生日』という絵です。これは女の人とあと浮揚している男の人が、女の人も若干浮揚していますけど、接吻をしているシーンで、手に花束を持っていて、これは誕生日おめでとうということです。これだけ見ると接吻している心の、恋する心のふわふわした感じなんですが、例えばマンガを読んだあとにこれを目にすると、これがまるで吹き出しのように見えてきます。こういう人体が浮かんでいる技法は、シャガールの絵には欠かせないものです。
人体浮揚を意味する技法は、聖なる人の視覚の現れとして宗教画にも使われています。これが吹き出しのように見えてしまうのですが、では、何故、吹き出しのように見えてしまうのでしょうか。下にある大友克洋の絵にあるのは、吹き出しではなくて、女の子がチューインガムをプウッとふくらましている場面です。でもマンガ家の大友克洋が描くと、これが吹き出しのように見えてしまいます。こういったものを見ていると、吹き出しというものが持っている身体性、接吻という口と口を付ける行為、あるいはチューインガムの場合は呼吸をするということですが、そういう身体性というものを感じてきて、吹き出しというものの意味にはセリフが入るということ、それだけではなく、口という器官があって、その生理的な働き、主に呼吸ということが関係しているように思えます。呼吸はつまり声ということで、声を出している時は必ず同時に口から呼吸も出ていて、それを目に見えるビジュアルな表現として描いてしまう、これはマンガならではの発明だと思います。
呼吸には、単に酸素を肺に取り込んで二酸化炭素とガス交換をする、という生理的な働き、それだけではなく、心や精神に関する働きがあるのではないかと考えています。リラックスする時には、深呼吸をしますけど、大きく息を吸って大きく息を吐いてというのは単に酸素、ガス交換をいっぱいしましょうというのではなく、心の状態を落ち着けることなのです。マンガに吹き出しがいっぱい出て来るのは、何か深呼吸の勧めというか呼吸を吐くことの勧めということではないかと。
つまり息詰まるとかあるいは笑った時にふっと吹き出すということも関係していて、マンガは呼吸のメディアであり、呼吸を視覚化したメディアということができると考えています。これについては、前回お話したのでこれぐらいで省略します。(第三回目報告書の発言部分●吹き出し、せりふ、音、呼吸との関係 参照)
次に、これも言語についてなんですが、擬音語について考えてみたいと思います。大友克洋の『童夢』の中のワンシーンです。まずラジオをベンチの置いた時に「カタッ」という音があって、次にセリフがあって、ラジオが割れる時に「バンッ」という音があってという一連の擬音語があります。擬音語は、非常にマンガメディア的なものなんじゃないかという気がします。例えば、ここにコップをこういうふうに置くとコンッていう音がする、その時にコップの横にコンッていう文字を書くと、それはよりマンガ的になるでしょう。いろんなメディアがあってそれぞれのメディアに浸っていると、そのメディアに染まってくるというところがあって、皆さんいろんな経験なさった方もいると思います。それは例えばビデオだったりゲームだったりしますが。マンガならば、マンガというメディアに染まるということがあって、本来耳で聞くはずの音や声を、目で聞いてしまうようになるということです。いろんなメディアがあってそれぞれのメディアに浸っていると、そのメディアに染まってくるということがあります。僕が大学生のころにビデオというものが登場し、普段から非常にビデオを観るようになり、そうして毎日毎日ビデオばかり観ていると、ビデオメディアに染まっていきました。テレビを観ていても何か聞き逃しをすると思わずビデオの逆戻しのボタンを押してもう一度聞こうと思ったりしてしまう。いまのメディアですとゲームというメディアがありますけれど、小学生の息子がゲームに染まってきて、ちょっとヤバイと思ったことがあります。それはある時朝起きたら僕に「お父さん、こんな夢を見たんだよ」と言って、ゲームの夢を見たと言うんです。ゲームの中の主人公になるとか単純なものではなくて声を出そうと思うと声が出ない。「うーん」って無理して声出したら画面の下に、自分の言葉が文字になってパカパカパカパカッと出てきて、友だちが何か言っているのを聞いたら、友だちが言っているのも文字で出てきて、そういう夢なのです。マンガならではの世界に染まるということがあって、そのひとつが擬音語というものだと思います。それも文字としての擬音語、画面の中に描かれる文字としての擬音語なのです。私自身がマンガに染まっていた時期はありますけれど、幸い日常空間の中で、音が文字として見えたことはいままでありません。そういう風に音や声を目で聞くという、マンガならではの描き文字というのがあると思います。
これは『ドラゴンボール』の中国語版、たぶん海賊版だと思いますが、中国へ行った時にどこかの広場で売っていたのを買ってきたものです。僕は中国語が全然分かりませんが、例えば「ヒューッ」て飛んでいくところに「何とかーっ」って伸びて、最後が「っ」になっていて、ここだけが日本語なのですが、ただニュアンスは非常によく分かります。飛んでいってしまうスピード感とか、心の叫びみたいなものを非常によく表しています。文字が文字としてだけではなくて絵として機能しています。吹き出しの中のセリフというのは大抵活字になっていますが、吹き出しの外側では手書きの文字になっていたりします。つまりこれは活字では表せない微妙なニュアンスを絵的に示していると思うのです。
もう1つはムンクの『叫び』です。ムンクの『叫び』の場合は、絵画なので吹き出しも疑音語もありませんが、「キャー」とか「ヒー」とか「アー」とか何かそういう非常に生々しい叫び声が聞こえそうな感じが出ています。人が叫んでいるので、呼吸でもあるわけですね。そこには、絵画というものとマンガというメディアのギリギリの境目が、あるような気がします。
ここまでが、簡単ですが、マンガにおける言語ということについてです。
●空間と形
次に空間と形ということについて考えてみます。空間と形はコマ割りの話と動きの話になります。動きの話は遠近法、奥行き、構図などについて話します。
・コマ割り
まずコマ割りということについて考えてみます。なぜマンガにはコマ割りというものがあるのでしょうか。ひとつのルーツとして、ジョット(ネッサンスの初期の画家)の、スクロベーニ礼拝堂の壁画を例示します。上下3段で横に数十コマに分けて、キリストの生涯が描かれています。ここでは、四角の場面が連続していく技法がとられていますが、直接マンガということではありませんが、コマ割りのひとつの起源ではないかと考えます。それが建築の内側の壁であるということにヒントがあるように思えるのです。つまり建築というのは、基本的には直方体、四角の壁と四角の天井と四角の床で出来上がっていて、そこに四角の窓が出来る。建築というものには色々な形がありますが、基本的には全て四角の壁と天井と床で、あるいはそこに四角い窓ができるのです。そこに絵画を描く、その壁に描くということは、ある意味でその建築の持っている四角という形を縮小していって、それを複数並べていくことではないか。四角の枠で区切るというコマ割りは、建築の空間や形などと切り離せないものではないかと考えてみました。
建築というのは、すべての造形の母体といえるところがあり、絵画の歴史でも、最初に絵画が描かれたのは、建物の壁です。絵画の起源で原始の洞窟壁画であるラスコーとかアルタミラとかの住居壁に描かれたことにつながります。例えば、ベッドで何日も横になっている時にしばしば体験するのは、天井をずっと見ていると、最初は天井を見ているだけですけれど、あまりにも暇でだんだんと天井のシミに何かの絵を見出す、さらに暇だとその絵と別の絵との組み合わせで物語を作り出す、そういうことがあります。昔の人が、壁を見つめていて、白い壁で終わらず、そこに何らかの物語や現れてくる絵画を見出し、作り出していったら、それが絵の起源となり、それがさらに建築物の窓や柱などの四角く区切られた額縁みたいなもので囲まれてきて、コマ割りのひとつの起源になっているのではないかと思いました。
カメラのファインダーから覗いた四角の場面や、あるいはフィルムの四角の画面をコマ割りのルーツと考えるというのは良いと思いますが、それ以前にすでに四角い画面の絵画があったということが映画や写真の成立に影響しているので、その意味でひとつの起源としてジョットの絵を考えてみました。
コマ割りの進化の例として、竹宮惠子『風と木の詩』の中の一場面を例示してみます。ジョトの場合には同じ大きさのコマが連なっていて、そこにキリストの生涯の物語が語られます。が、少女マンガに多いのだと思いますが、そこにデフォルメが加えられ、ここで過激なのは人物が意味もなく右と左のコマに分けられています。間にコマの線があるが故に何かを確かに感じるという、空間の視点の移動とか、奥行き、時間の流れなど、何か感じる不思議なところがあります。コマというのがここまで進化している例としてあげました。
もうひとつ、ポップアートをみてみます。あまりよく知らないのですが、シークレットハートというマンガがあります。ロイ・リキテンシュタインというアメリカのポップアートのアーティストが、その一コマをモチーフにして作品を描きました。マンガをアートにした、ということでポップアートの1つのスタイルがこの絵にあります。この作品は1メートル×1.5メートルという巨大なものですが、マンガを非常に大きく拡大してそれが絵画として通用するということをやった、方法論として刺激的なものでした。もちろん単純に拡大コピーをしていったわけではなくて、セリフの位置とかあるいは構図、トリミングの仕方を微妙に、あるいは大胆に変えています。リキテンシュタインはマンガそのものを単に拡大コピーしたのではなくて、あくまでもマンガというものを元にしてひとつの芸術作品を作っている。それは例えばセザンヌがリンゴをモチーフにして絵を描いたときに、リンゴの絵とリンゴが違うように、やはりマンガとマンガの絵は違うものなのです。が、ともかく、ここではマンガがひとつのコマ割りというか額縁で区切られたものだということを示しています。
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