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(3)「風景描写」「フォント」「コマ割り」「オノマトペ」
 日本のマンガ原論のようなものという形でお聞きになっていますが、風景描写、それからひらがな、カタカナ、漢字混じり、吹き出しのフォントを変えるのはなぜか、ということですね。
 風景描写は、ストーリーマンガには特有のものがあります。1ページに8つのコマ割りがあるとするとその中の3つぐらいは顔を入れないようにする。その風景の上にポンと吹き出しだけを重ねるとか、あるいは時間経過が経っている時に足下にたばこの吸い殻がだんだん積み重なっていくとか、演出効果の風景描写をします。
 吹き出しのフォントを変えるのはなぜか。普通の会話の時はアンティーク、モノローグの時はナール、丸ゴシ、明朝を使ったりします。その状況説明とかキャプションとかという時も違う書体を使います。悪魔とかゲイの声をする時は怪しげなフォント、ぐしゃぐしゃっとした文字を使います。意味があるから変えています。
 コマ割りの妙ということについて説明しますと、見開きの流れで決めていきます。雑誌を開いた時の見方の流れをまず見るわけです。日本の場合は、S字型の目線に行くようにまず吹き出しの位置を決めます。読者の目をきっちりカバーするためにはちゃんとS字型に吹き出しが並んでいるはずです。同じようなコマ割りをしていると非常に単調になりますので、この見開きでここに大ゴマがあったら今度はこの辺に大ゴマを入れるとか、ある種のコマ割りのデザインというのは、見開きでまず考えます。それから人間の顔ばっかり来るとまた単調になりますので、読みやすいように僕ら捨てゴマって言っていますが、風景描写を入れたり吹き出しだけを入れたり、ベタの中に吹き出し入れたりとかいろんな形で読みやすさを考えて考えます。
 最後のコマがポイントになります。最後のページに次のページをめくりたいなと思わせるような結構いいポイントを持ってこなきゃいけない。つまりマンガというのは本当にスムーズに読ませなくてはいけないので、そういうコマ割りの工夫ともやっているのです。
 オノマトペの開発について説明します。日本にもアメリカにもマンガ特有の擬態と擬音とがあります。最近は複雑化して疑情もあります。典型的なものだけでも例示するのが大変なので省略しますが、最近では「ズモモモモ」とか訳の分からないアナーキーな表現をする人もいまして、新たな開発という形では無限にあります。教科書には日本のオノマトペは496種類と書いてあります。新しい日本語、記号、表情を開発するような感覚があるということですね。こういうことは他の表現分野、例えば映画とか絵画、文学、音楽と比較して普遍、相違、合致がどのようにあるのかを言えば、似ているのは映画表現と音楽表現です。
 
●伝承教育と庶民文化がマンガ文化を開花させた
 
谷川―日本人論の話にもつながっていきますが、タケカワさんの「教育水準と江戸の庶民文化がマンガ文化を開花させた」というご意見に関して議論したいと思います。弘兼さんの提案の中にも平和安定と、柔ら頭というポイントがありました。
 
タケカワ―庶民は、外来文化だけでは到底理解し得ないような知識を無意の内に知っています。これらの知識は、親や先祖から受け継がれてきているだけでなく、テレビ等のメディアの中からも再三伝わってきます。それがミームなのかコモンセンスなのか分かりませんが、そういう知識が僕らの中に随分たくさんあることに、年中気付いて驚いています。
 柔ら頭の人たちは、伝承された文化が先にあって、後で外来文明を入れたわけです。僕らは戦後教育を受けたせいで、外来文化、明治維新以降の西洋文化、戦後のアメリカ文化という風に、二重三重に西洋化された文化に慣らされていますが、そこに隠された江戸時代から伝承された教育や庶民文化を知らないうちに頭の中で見つけだしているという感じがします。自分達の頭の中が、外来文化と伝承文化の両方が基盤になっていることを、もうちょっと考えないといけないという感じがします。
 
谷川―日本の文化のことを、例えば昔は梅棹忠夫さんがよく教えていましたけれど、凹凸でいうと凹型の文化であって、凸型は出るほうだから、中国とか西洋は凸型文化で、日本は受け入れる方だから凹型文化だと。その典型の宗教を例示すれば、6世紀に仏教が伝来して、それ以前からあった神道と融合しています。全国で人々が信仰の対象にしてきた修験道は全部仏教と神教が一緒になっています。日本人は、受け入れること、それを融合することに関して、天才的な能力を元来から持っていたのではないかと思います。
 さらに、実は日本の庶民の能力は非常に高かった、特に江戸時代の後半には、寺子屋ができて、読み書きそろばんを教育したことは大きいと思います。寺子屋で様々な往来物(教科書)が作られていました。いろいろな物を教たり、手紙のやりとりを教えたりするのですが、そこに見事な絵が登場します。非常に実証的な絵が教科書に描かれています。日本の庶民は、絵を取り入れて物を学ぶことを、うまく活かしていたと思いました。不思議なのは、日本では運慶(絵画)や快慶(彫刻)を除けば、あまり写実的とはいえない。何故なのか考えています。
 
野崎―質問です。写実的な美や価値の追求よりも、精神的や観念的なものを重要視しているのでしょうか?ところで写実主義を採らないところはマンガっぽいですね。
 
谷川―田舎の実家に、江戸時代ぐらいの本があって、その中に必ず武士の戦っている絵がありますが、あれはすごくマンガっぽいですね。
 
弘兼―中国や西洋に対して、日本は辺境の地だという意識が歴史的に強かったので、結構都会へのコンプレックスがあって真似をしてきたのだと思います。高尚だと思っていた中国や西洋の文化をどんどん受け入れ、しかもその当時から受け入れることに対しては非常に柔軟性がある、いわゆる柔らか頭で、規制しないでこれはいいものと思えばどんどん受け入れた、ということかも知れません。ただし、鎖国という不思議な制度によって、外来文化をシャットアウトした時期は、日本文化はある種独特な方向に醸成されていった不思議な時代だともいえます。
 基礎工学には非常に弱くて、応用工学はすごく強いというのもその辺りに原点があるのかもしれません。大元になるものを考えるよりも先にあったものから応用していろいろ作るということです。魂は日本でスキルは西洋からというのを非常に上手にやって近代化したのは日本だけです。創意工夫の工業化で輸出大国化し、それは日本型マンガ・アニメのスキルを開発していったことと相通ずるものがあると思います。
 
●吹き出し、せりふ、音、呼吸との関係
布施―吹き出しの中のセリフは、大体ひらがなと漢字ですが、漢字にはふりがなが振ってあります。それは難しい漢字だから読みやすいように配慮されている以外に、吹き出しの中は音にしたいということだと思います。音というのは呼吸であって身体なんです。吹き出しは、呼吸、声、音という身体の働きを意味すると思うのです。これは、本居宣長とも関係していると私は考えています。
 大ざっぱな理解ですが、『古事記』の研究を通じて、話し言葉であった日本語と日本古来の精神性を説いているのですが、裏を返して言えば、稗田阿礼(ひえだのあれい)という人が、『古事記』の全部を暗記していた。暗記は文字ではなく言葉、声によるものです。何であんな長いものを暗記できたのかは、記憶力の問題の他に、声だからということではないでしょうか。お経を暗記することに似ています。
 『古事記』という本ができた時に、声が『古事記』という文字に変わったわけです。それ以降は、もしかしたら記憶力、あるいは声の力というものが、弱くなって文字の力に移り変わってきた。そこで本居宣長は、文字が生まれる前に持っていた声の力、それは大和言葉の力、言霊の力かはわかりませんが、そういったものをもう一度復権させようと説いたのでしょう。
 このことは小林秀雄が本居宣長研究で触れていて、小林秀雄は本居宣長を書いた時に、論理的に理解しようとしたのではなく、とにかく何度も何度も繰り返し読みました、だれよりも読んだのです。そうすると頭の中に本居宣長の、あるいは稗田阿礼の声が聞こえてきます。それは実際の肉声ではないのですが、それがつまり本居宣長が分かる、あるいは『古事記』が分かる、あるいは小林秀雄が分かるということにつながる。つまり文字よりも声というものによって、心を伝えるのが1つの日本文化の流れだとすると、『古事記』と類似して、マンガというメディアも、キャラクターと絵の世界と、吹き出しの中の声の世界があって、その組み合わせで日本文化の流れを伝えていると思えてきます。中国語だったら声の世界がなくて絵だけの世界かもしれないし、アルファベットの文化だったら吹き出しの中だけかもしれないし、その両方がバランス良くできているマンガ文化は、日本独自のものかも知れません。
 なおかつ、その声というのは呼吸に関係しているのです。人間の進化で言うと呼吸器は非常にできが悪い、つまり何億年も海の中にいて、心臓の循環とかそれ以外の臓器は水中でもありましたが、陸に上がって新しくできたものが呼吸器です。つまり後から突貫工事でくっつけたみたいなもので、呼吸というのはある意味やっかいです。例えば心臓を止めろと言っても止められないけど、呼吸を止めろと言うと止められます。筋肉を意思でコントロールして、横隔膜を引っ張るのが呼吸という生理現象ですから、意思が忙しい時は呼吸がうまくいかないこともある。例えば、緊張すると息詰まるって言いますけど、息詰まるというのは吸ってばっかりいるということなのです。吸って吸って吸っていると息詰まる。リラックスするにはどうするかと言うと、吐くということです。吐くというのは、声を出すということ、笑うということです。マンガの効能である笑うという現象は、笑うことでふっと息を吐くということで、リラックスすることができます。
 つまり、絵の中に呼吸があって吐く吐く吐くという、マンガ文化は、単なる日本文化の流れ、という意味だけじゃなくて、よく出来ているのです。
 
谷川―面白いお話でした。お聞きしていて感じましたのは、柳田國男は戦後、70歳過ぎてから、小学校の国語の教科書を作っています。普通僕らが覚えている、戦前の国語の教科書では、1年生だと、「サクラサイタ」ですが、その教科書はすごく面白くて、最初の10ページぐらい何も音がないのです。絵だけです。10ページを過ぎたころからようやく音、言葉が出てきます。彼の意図はどこにあったのでしょう。柳田國男の考えの根本は、人間の言語活動は自分の思いを相手に伝えることであり、だから自分の言いたいことを充分に言えることが一番大事であるということです。ある絵を見ながらその状況の中でその子は何て発言するかということが一番大事なことだと言いたいのです。
 今のお話をお聞きしていると、日本人の言語感覚をおっしゃっていると思いましたが、吹き出しの意味と、その中のセリフと、柳田國男の国語の教科書が結びつきました。
 ありがとうございました。


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