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マンガアニメ学術的研究会 第1回(2005年5月31日)
谷川彰英「マンガ文化の原型としての『遠野物語』」
 
1 序
 
 民俗学者、柳田國男は日本文化に関する多様な業績を残しています。明治8年(1875年)兵庫県に生まれ、12、3歳のころに茨城県の布川に移り、明治33年(1900年)に東京帝国大学を卒業し、農商務省の官僚となりました。生まれは松岡家ですが、明治34年に信州飯田藩の柳田(やなぎた)家の養子に入り、20代は農業政策学や農政学(現在の農業経済学)をやっていましたが、30歳過ぎに九州の椎葉村に旅行して山人(やまびと、さんじん)と言われる人たちの生活を知ったのです。(『後狩詞記(のちのかりことばのき)』)。それがきっかけで遠野を訪れるようになり、明治43年に『遠野物語』を書きました。『後狩詞記』と『遠野物語』は民俗学の出発点と言われています。大正に入って、『郷土研究』という雑誌を創刊し、いろいろなペンネームで、多くの論文を書きました。昭和37年に亡くなるまで、数多くの著作を遺したのですが、『海上の道』の中では、日本文化のルーツを南方文化に据えていました。私は柳田國男の教育思想をずっと研究してきましたので、民俗学的な視点からマンガを見てみようと考え、遠野物語に代表される民間伝承がマンガ文化に深い関わりを持つ(原型)という仮説を立てています。以下『遠野物語』をその仮説に添って考察していきます。
 
2 『遠野物語』の成立過程と内容
 
 『遠野物語』は、岩手県遠野の佐々木喜善が語った話を、柳田自身が感じたままに筆記していったものです。喜善は遠野郷の山口の人で、幼いころから近隣の語り部から多くの伝承を聞いて育ち、文学を志して哲学館(東洋大学)や早稲田大学で学んだ文学青年でした。柳田は、1908年(大正7年)ll月から翌年の初夏に至るまで、この喜善に数回にわたって聞き取りをし、119の話を本にまとめたのです。代表的な話をいくつか紹介しましょう。
【資料7・神隠しの話を読む】
 こういう神隠しの話はいろいろなところで聞きます。私も長野県の山の中で育ちましたので、小さい頃に囲炉裏を囲んでこういう類の話を聞いた記憶があります。
【資料58・カッパの話を読む】
 遠野の土淵村に流れている川にカッパ淵というところがあり、観光客がたくさん来ます。全国のカッパ伝説のあるところが一堂に会して、そこでシンポジウムをやるそうです。
【資料56・カッパの話を読む】
 私は、カッパは障害者のイメージとダブっていると見ています。障害を持って生まれた子どもたちに対して、村人がどういう対応をしてきたかという感じが出ています。
【資料69・オシラサマの話を読む】
 オシラサマは遠野で一番よく知られている話です。養蚕、桑の木にも関係ありますが、東北では馬は家族と同じように住んでいて、そういう中での出来事です。遠野の伝承園に行くと、その一画にオシラサマが何千と吊してあります。
 
3 マンガ的性格
 
 『遠野物語』のマンガ的性格を解き明かすために、「マンガ的」であることの条件を次のように考えます。ストーリーマンガを前提に考えると、1)ストーリー、2)コマ割り、3)絵(イマジネーション)、4)セリフ(言語の簡潔性)。その他にもあると思いますが、とりあえずこの4つを中心に考えてみます。
 
1)遠野物語のストーリー性
 マンガのストーリーの特色は常識にとらわれないことです。常識をひっくり返すとんでもない話のほうがおもしろい。どんなに強い敵が現れても主人公は絶対死にません。
 オシラサマは遠野地方に限定されますが、神隠しやカッパの伝承は日本中いたるところに存在しています。現代の常識から見るとあり得ないような話ですが、その話が伝承されてきたことは事実です。日本の文化、常民生活はそういうものを手がかりにして解き明されてきました。これらの伝承話にはマンガ的ストーリーがあり、西欧の合理的思考とは異なる常識思考が、日本の常民に存在することを示しています。例えば異界との交流の手法は『デビルマン』と同じで、日本の文化では異界との交流が重要な意味を持っているように感じます。源義経は鞍馬山で天狗から武芸を教わったと言われていますが、天狗とは何か。伝承に出てくるような、人をさらって神隠しにするような人たちのことなのか。あるいは稲作文化を中心にしている人ではなくて、縄文の流れをくんでいる人なのか。
 何れにしても異なる世界の人たちとの交流が重要な意味を持っているのです。マンガ的発想の原型となっているのは、このような民間伝承ではないでしょうか。「遠野物語」に代表される、200〜300年前から伝わっている近代以前のイマジネーションではないでしょうか。
 
2)コマ割りできる簡潔性
 伝承話にはコマ割りできる簡潔性があります。オシラサマの話をコマ割りすると、(1)昔あるところに貧しい百姓がいた(2)妻はなく美しい娘がいた(3)1頭の馬がいたが、娘はこの馬を愛して夜になると厩に行って寝ていた(4)父親はこのことを知った(5)父親は馬を桑の木に吊り下げて殺してしまった(6)娘は夜、馬がいないことに気付いた(7)探してみると桑の木の下で死んでいた(8)娘は馬の首にすがりついて泣いた(9)父はそれを見て馬の首を切り落としてしまった(10)娘はその馬の首に乗って天に昇ってしまった。このようにオシラサマの話は見事にマンガのコマに割ることができる上に、情景をそのままイメージできるのです。このテンポはマンガのテンポと非常に近いものがあります。
 
3)絵になるイマジネーション
 伝承は口から口へと文字を介さずに伝えられます。そういう意味では、柳田の学問は、文字を介さないところに日本文化の底流があるという前提に立っています。音声で伝えるには、具体的なイメージが湧くように話をしなければ、聞く方は理解できません。昔話には「昔々、あるところに」という出だしがよくありますが、聞き手がそれはどのくらい昔のことなのか、どんなところなのか、具体的なイメージを持たないと話はリアルになりません。話し手は「それは、お前のじいちゃん、ばあちゃんの生まれたころだ」とか「あの峠にまだ桜の木が5本あったころのことだ」という言い方をします。逆に、聞き手も勝手な「昔」と「ところ」をイメージして聞けばよいのです。伝承されるイメージが、読み手によって自由にイメージされ、自由に変化するという原理はマンガの場合も同じではないでしょうか。例えば4コママンガの場合、人物と行動だけが描いてあるだけなので、あとは読み手が勝手に想像すればいい。そういう意味で、民間伝承とマンガのイマジネーションは共通の論理で支えられていると思います。
 
4)言語の簡潔性
 マンガは絵とコマによって展開されていて、言語による説明は排除されています。言語は原則としてコマ内の吹き出しに限定され、極めて簡潔に構成されています。この言語の簡潔性こそマンガの特徴と言えますが、常民生活上の言語もまた簡潔でありました。そのことを柳田は次の事例をもって説明しています。
 旅人が街道を歩いていると、突然の大雨が降り出した。急いで雨宿りの場所を探そうと走り始めると、目の前を悠然と歩いている農夫がいた。どうして走らないのかと旅人が問う。農夫は「先も降っとる」とだけ答える。
 この短い言葉の中にすべてが入っているのです。「ここでこれだけ雨が降っているのだから、先の先も同じだよ。(走ってもどうせ濡れるから無駄だよ。)」などと言わなくてもすべてがわかります。常民が極めて簡潔に意思の伝達をはかっていたことに、柳田は感嘆しました。和歌や俳句を見てもわかるように、簡潔に言語を使いこなす日本人の力は世界一だと思います。その力は、ぱっと見てわかるマンガの簡潔性につながっているのではないでしょうか。
 
4 マンガの精神的ルーツは民間伝承にあった
 
 柳田國男の創始した日本民俗学は、日本の民俗資料を収集し民俗研究を深めたと共に、近代学問のあり方を批判しました。近代学問の多くは西洋の学問のコピーでしかなく、日本の風土に根ざしたものでないことを常に批判し続けました。戦後においても、例えば政治学の丸山真男や経済学の大塚久雄など、西洋学問偏重の傾向はあったのですが、柳田國男や南方熊楠など日本の風土に根ざした学問は、今でも変わらず読まれています。が、丸山真男や大塚久雄を読む人はほとんどいなくなったと言っていいでしょう。基本的に外国の学問を裏づけにしているからです。
 これはマンガでも同じで、日本の風土に根ざしたオリジナルなマンガは読まれ続けると思います。柳田は、文字や書物による学問が真に日本の風土に根ざすためには、常民の生活のレベルまでいって、1つ1つ検証していかなければならないと主張しました。同じようなことは、多くの民俗学者、多くの文化人も言っています。例えば梅棹忠夫も、すべての学問は1回民俗学のフィルターを通すべきだと言っているのです。
 大胆な説ですが、20世紀にマンガ文化が大躍進した事由の一つに、近代の学問に裏付けられた書物や教科書とは違って、マンガが大衆・庶民文化の集大成を行ったのではないかと考えます。かつて私はマンガと教科書はシンボリックに対峙させたことがありました。教科書は、学問の背景を持ったもの、国家的レベルで要請されるもので、それとは違うものとしてマンガがあります。マンガと教科書は両方とも人間を成長させるために必要だと主張しておりました。けれども、いまはもうちょっと広げて、マンガというのは近代の学問とか何かというものとは違った、大衆とか庶民とか民衆レベルでの文化の集大成じゃなかったかと思うんです。
 特にストーリーマンガが出てきてからの日本のマンガ文化というのは決定的に違うように思います。手塚先生もいろいろ始められ、いまちょうど50代、60代になる先生たちが手塚先生の業績を受け継ぎ、様々なジャンルに分野を広げていきました。石ノ森先生あたりがある種の集大成だと僕は見ています。その日本のマンガ文化のジャンルは圧倒的に広く、近代の学問とか書物や教科書には載っていないすべての文化があるように思います。
 ですから、文字や書物で伝えられる文化ももちろん重要な文化ですが、口承文芸に代表される多様な情報はマンガという特色がある様式に集大成されてきた。その歴史が20世紀のマンガ史だったというふうに私はみたいですね。
 『遠野物語』が出た1910年というのは明治の末のことで、しかしここに収録された話はたぶん江戸時代から伝承されてきた話です。言うなればこの物語はほんの一部の学者や有識者が占有してきた文字による文化以外の歴史を集大成したものでしょう。
 
5 近代の学校教育批判
 
 柳田は近代(明治以降)の学校教育を次のように批判しています。近代の学校は「前代(江戸時代まで)の教育法」を無視ないし軽視していると考えていて、明治に始まった学校教育は欧米の教育内容を取り入れることのみに集中し、日本という国の実態や風土を著しく軽視した教育を行った。もし明治以降の学校教育だけが教育だとすると、明治より前に教育は存在しなかったことになるが、そんなことはない、と。
 明治5年の学制によって全国に小学校が建設されましたが、それ以前にも教育は存在しました。学校の前身的なものとして寺子屋があります。また常民生活の中にも教育機能が組み込まれていました。謎や諺などの遊びの中に国語教育が自然に組み込まれていたのです。
 しりとり遊びは語彙能力をふやす教育でした。例えば「一つ目小僧に足一本何ゾ」という謎々は何を比喩しているのかというと、答えは縫い針。これは二段謎で、三段謎は「何々とかけて何ととく、その心は」といいます。例えば「葬式とかけて何ととく」「ウグイスととく」葬式とウグイスはどう関係するのか。「その心は、泣き泣き埋めに行く(鳴き鳴き梅に行く)」です。こうした遊びの中で国語の能力が鍛えられました。「這っても黒豆」という諺がありますが、黒い物体があって、ある子は虫だといい、ある子は豆だと言っている。そのうち這い始めたにもかかわらず、まだ豆だと言い張る非合理性を揶揄した諺で、道徳教育にもなっています。農作業などに役立つ情報を的確に伝える諺もあります。「秋の夕焼け鎌を研げ」というのは、秋の夕焼けは翌日の晴れの前兆だから、鎌を研いで稲刈りの準備をしようという話です。
 職業教育の場合は大人の仕事を見ながら手伝いながら覚えたものです。柳田は「傍観傍聴主義の教育」という言葉を使いましたが、子どもたちは大人のやっていることを、傍らで見聞きしながら覚えたという意味で、回りくどい説明は不要な教育だということです。時としては常民にとって多くの言語を駆使することはむしろ害ですらありました。ある「状況」の中でどのように判断し、どのように行動するかが問題であって、他人にどのように説明するかはむしろ不要だったといえます。現代のように「現場」を文字や説明でレポートすることが重要なのではなく、昔は「現場」で行動することが重視されていました。農作業などはまさに傍観傍聴主義でしたが、これがもともとの教育の姿でした。日本のマンガ家には、先輩の仕事を手伝いながらノウハウを学ぶという「傍観傍聴主義の教育」があったのです。
 マンガの内容も同じく現場主義です。スポーツもの、恋愛もの、ドラマもの等すべては、基本的にはある状況で起こっていることをそのまま描いています。文字や説明で伝達しないという意味で現場直結主義であるし、マンガは現場しか描かないとも思います。いまの日本文化の中では、メディアが二重三重に介在してきているのですが、そういう中でマンガはそういうメディアの構造に乗っからずに、まず現場の生の姿をそのまま描いている。それがマンガの本質なのです。私の専門の教育学では近年、「正統的周辺参加論」が注目されています。学習はある一定の「状況」の中で行われるもので、教師が教室の中で教科書を説明するものではないという主張です。これはイギリス人が言い出したもので、具体的には徒弟制度による職業生活の中で行われて来た教育方法を再び注目すべきだと主張しているのです。そういう考えは、日本文化の中にもともとあったもので、柳田の言う前代教育論に通じています。一方で20世紀にここまで発展してきたマンガ文化には、現場主義教育が色濃く残っていて、ある意味で近代の学校教育に不足する部分を補い、教育の一翼を担ってきたと言えるでしょう。
 
6 地名研究とリアリズム
 
 私が目下、最も力を入れているのは、地名研究とマンガ論を結びつけて考えることです。一見何も関係ないように見えるものが結びつくのが面白い。私の地名研究は柳田國男や戦後の谷川健一の影響を受けて展開してきましたが、一貫して追求してきたのは現場主義です。文献だけで調べてみても地名の本質は分かりません。地名の持っている情報のうち、文献に載っているのはほんの一部にすぎず、現地に行って、その場所に立ち、そこの音に耳を傾け、そこの風を受けてみなければ分かりません。柳田は、民俗学研究の対象として3つ挙げています。1つは、目によるもの。つまり目に見えるもので、有形文化とか生活諸相などです。ある地域に入った時に、お宮とかお寺とか石仏という有形文化、あるいはどういう農業をしているかという生活諸相に関する情報をキャッチする。2つめは、耳によるもの。これは言語芸術や鳥の鳴き声とか川の音とか村人の話とかを聞くことです。3つめは、心によるもので、一番難しい心意現象を捉えるものです。見えない、触ることもできない、聞くこともできない、しかし、民俗学研究としてはそれが一番大事だというのです。これは「信仰」と言ってもいいと思いますが、特定の宗教でなく、山に対する信仰、海に対する信仰などであって、人々の「思い」と解釈してもいいと思います。土地の人々がどんな思いで暮らしているかが、一番重要なのです。私の取材も同じような論理で展開されています。絵は描けないので写真でまかなっています。東京財団で2年前にやったマンガのシンポジウムで、風景画とマンガの違いが問題になったことがあります。山が描いてある絵と、1コママンガとどこが違うのかが議論になって、風景画はなるべく実態に添って描くけれども、マンガは作者の強烈な主張をもって描くという違いを勉強しました。何か言いたいこと、強い主張がないとマンガは成立しません。現実に寄り添っただけではマンガは成立しないのです。文章を書くという作業も基本的に同じではないかと思います。現地の情報から何を切り取ってくるかがカギなんです。だから私が取材に行って何を書くかといえば、自分が感じた思いを書くしかない。自分がその地域に対して何を思っているか、何を問いかけるかを書くだけであって、客観的にその地域のことを書くつもりはまったくありません。そこには、マンガ家の描き方と近いものがあるのではないかと感じています。文化はいくつかの層があって、民俗は日本文化の底流をなしていると考えてもいい。『遠野物語』に出てくるものは、日本人の持っている心に通じます。物語りの事実があったかどうかは分かりません。でもその事実を作ったのは人間の心なのです。同じものが日本のマンガ文化の根底にあるのではないでしょうか。以上が私の仮説です。


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