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マンガ・アニメ学術的研究会 第2回 2005年6月14日
松谷孝征氏「手塚治虫について」
 
序 北京写楽のこと
 手塚プロは15年前に北京に『北京写楽』というスタジオを創りました。それまでいろいろなところからアトムの絵をTシャツやネクタイにつけて商品にするマーチャンダイジングの話がたくさん来ていましたが、これをやると翌日から9割ぐらいは偽物が出回るという話なのでずっと控えていました。『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』は25年程前に中国で放映してからさんざん無許可の本や商品が出回って、こちらがクレームをつけても当時は中国の国内事情優先で通用しなかったという事実もあります。しかし、最近中国もWTOに加わり、北京オリンピックも近づいてきたので少し様子が変わるのではないかと期待して、『北京写楽』を基盤に事業の展開をすることにしました。発表会見にはたくさんの報道関係者も取材に来て、用意した300席は満席でした。ちょうど、反日感情が高まって、反日デモが繰り返されていた時期でしたが、中国における日本のマンガ、アニメヘの興味が高いことを知らされました。中には「日本を取材したい、いま一番注目を浴びているものを見たい」という人もいて、日本の今のイメージは、「アニメ、マンガ、忍者」などで、「歌舞伎、能、生け花」といった伝統文化より興味があるようです。
 
1 「仕事への執念」
 手塚治虫は1989年2月9日に亡くなりました。癌のためげっそり痩せて、体力もなくなっているにも関わらず、亡くなる3週間前まで寝床でペンを取っていました。さすがにマンガは描けませんでしたが、マンガ以外の仕事に取り組んでいました。亡くなる10日ぐらい前に突然「頼むから仕事をさせてくれ」と起きあがろうとするのです。それが私が聞いた手塚の最期の言葉となったのですが、それほど仕事が頭から離れない人で、24時間ほとんど仕事をしていました。会社から週に1回か2回家へ帰れるかどうかという状況でした、家へ帰っても編集者が常についていました。隠れて映画や芝居を観に行くというのも、全部作品作りにつながりました。たまに飲むことがあっても、私か編集者がマークしていて、あまり飲ませないようにしていました。酒を飲んで寝られると困るからです。本人はみんなと飲むことが好きでしたが、なかなかそういう機会はありませんでした。
 生涯にマンガ原稿15万ページ、アニメーションは60タイトル以上作ったのですが、15万ページを40年間で割ると毎日10ページ描いていたことになります。旅行に行くときもあるし病気になる場合もあるでしょうから、一日描けなければ次の日は20ページ描かないといけない、そんな異常な状況なのに、晩年、少年マガジンかサンデーに描きたいと言いだすのです。後半は大人マンガばかり描いていたからだと思いますが「大人なんかどうでもいい。子どもマンガを描かないと駄目なんです」と言うんです。手塚はそれほど子どもに対してメッセージを送りたかった。もう仕事は飽和状態なのに本人はもっと描きたがりました。私がもう十分でしょうと言うと「あなたはさんざん見ていてわかりませんか。私は月産100ページのときでも、500ページのときでも、同じように締切りを守っていないじゃないですか。だから一緒です。」と言われました。
 私は担当の編集者さんたちには、手塚治虫と直接交渉しないようにお願いしていました。例えパーティーで会ってその場で、「描いてください」「はいわかりました」という会話があったとしても、約束は果たされないからです。テレビ局からの出演依頼もほとんど断っていました。一度こんなことがありました。受けた電話は全部メモしてありますので、あるときこっそりそれを見たらしく、次の日に内線がかかって来て「テレビ局から出演依頼が家のほうに来たんです。あれはどうしても私が出ないと話にならないんですよ」と言われたことがありました。マスメディアでマンガやアニメがテーマのときには、絶対に自分が出ないと駄目だと思っていたし、ほかにもマンガ批判などが起きたときなどにも、いつも矢表にたっていました。子供文化に関係する番組には出たがりましたが、それ以外の番組は断っていました。とても忙しかったのですが、テレビ出演するとむしろ仕事がはかどることもありました。テレビ局で部屋を用意してもらって仕事をするのですが、周りの目があるので熱心になるのです。
 デパートのイベントで展覧会会場にガラス張りの仕事場を再現したことがあります。これをやった時には編集者にどやしつけられましたが、本人は人が見ていると自分が速く描けるところを見せようとしたり、わざわざ原稿用紙を逆さまにして描くパフォーマンスをして見せたりしていたので仕事ははかどりました。根っから、人をおどろかせたり、楽しませることが好きだったんです。色紙は勿論下書きなしで直に描きました。そしてものすごく速い。マンガは一番多いときで、ひと月に600ページ描いた記録があります。雑誌も今は正月や夏休みには合併号を出すから少しは休めますが、30年近く前まではあまり合併号というのはなかったですし、暮れ正月には印刷所が休むので1月に出る号は少し繰り上げて刷らなくてはならず、そのしわ寄せがマンガ家のところにきていました。そのころ手塚は連載を、週刊誌3本、隔週刊誌1本、月刊誌2本持っていましたので、全部で600ページにもなりました。ちょうど昭和51年か52年の『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』などを描いていた頃です。
 そんな具合だから、忙しくていつも締め切りに間に合いません。ある編集者が、20ページの作品のうち16ページぐらいまで描き上げたところで、間に合わないということで持って行ってしまったことがありました。仕上がっていないあと4ページは、続きもので一話完結ではないので、残りのページには自社広告かナンセンスマンガでも入れて埋めたわけです。手塚が、そんな中途半端は嫌だといっても通りません。その後、対抗策として最初から8ページくらいまで描いたら、順番に描かずに最後のページから逆に描くようなこともありました。
 
2 編集者泣かせ
 私が編集者だったころは、先にネーム(ふき出しの台詞やナレーションの文字のこと)だけもらったものです。写植を打つのに時間がかかるし貼る手間もかかるという理由をつけて、全部の下描きをもらってネームだけ写植屋に頼むわけです。編集者としては、もう下描きができているから、あとは機械的作業のペン入れだけだなと思って安心できます。とにかく話は最後までできているのですから。ところが、出来上がってきた原稿はことごとく変わっていて、20ページのうち使えるネームがわずか3ページだったりしました。
 あるとき出張するというので、ネームだけ先にください、とお願いして、羽田空港までの車の中で画板に定規と鉛筆で下描きしてもらいました。今みたいにどこでもコピーができる時代ではないので、隣で私がトレーシングペーパーを使って吹き出しを写していくのですけれど、ただ写しているよりも手塚が考えながら描くほうが速かった。
 結局、下描きはあまりあてにならないし、むしろ順番に描いたほうが無駄な時間がいらないということで、いつの間にかネームを先行することはやらなくなりました。いくら速いといっても、20ページのネームに1時間半から2時間ぐらいはかかります。手塚の場合は、頭から絵を入れながら、同時にストーリーを考えるケースもあるでしょうし、最初から全部できている場合もあるでしょうが、たいていは後半まであまり考えずにスタートしているように思えました。話の展開が大きく広がって、これをどうやって収束するのかなと思う時も、描いているうちに本人の中で方向が時として変わっていく場合もあるようでした。
 『アドルフに告ぐ』を週刊文春に連載していたとき、突然、「この後、この女の人は殺したほうがいいですかね、自殺したほうがいいですかね、生かしたほうがいいですかね」と質問してくる。そんなことを言われたって困るのですが、担当の編集者がそれぞれの場合にストーリーはどうなるのか聞くと、Aはこういうストーリー、Bはこう、Cはこうなると言うので、それならBがいいですねと答えます。ところが続けて、Bだとこうなって話が行き詰まってしまうと言うのです。AにしろCにしろ同じことです。そのうちに「下手な考え、休むに似たりですね」と寝てしまう。要するに自分が寝るための口実なのです。その間、1時間ぐらいかかっていますからばかばかしいのですが、アイデアを借りようと相談しても駄目なんだから自分は悪くない、という事にしたいのです。真剣に対応した編集者や私はなんなんだ!
 「編集者は読者と僕の間にいて、読者の気持ちに近いですから、編集者の意見を聞かないと駄目なんです。」「僕だって、この雑誌に描くなら一番になりたいんです。一番になるためには、どういうマンガを描いたらいいか聞かないと意味ないでしょう。」と、新雑誌や初めての連載依頼を受けた時、よく言っていました。
 とにかく自分のやったことに対する反応を気にしていました。マンガを読んだ人、アニメを見た人、あるいはイベントに来た人が感激してくれたり、喜んでくれないと意味がない。さらに言えば、読んで自分からのメッセージが伝わらないといけない、それもできるだけ多くの人に、という思いだったのではないかと思います。
 
3 手塚治虫の闘争心
 手塚治虫はあれほどの巨匠なのに、新人に対していつ追い抜かれるかわからないという不安を抱いたとよく言われています。編集者は皆そう感じていて、もう人気なんて気にすることないじゃないかというわけです。しかし、負けてたまるかということは、雑誌は本当に過酷な世界で、ちょっと人気が落ちればすぐ切られてしまうからなのです。新しい雑誌を作るときに、ほかの描き手を口説くために手塚治虫が使われたことがありますが、当然本人にとって不本意なわけです。描く限りは多くの人に読まれ、喜んでもらえなければ何の意味もないという意識があったのです。だから、新人がどうして人気があるのか、どこがいいのかと、熱心にアシスタントに聞いたりしていました。
 手塚には「丸出し」というのがあって、すべての作業が終わって「丸」が出たら、その原稿は編集者に渡ります。ある時『ブラック・ジャック』の20ページのうち19ページまでが丸になって、編集者は印刷屋にもうすぐあがると電話したのに、本人が気に入らない。「これ、どう思う」と私や編集者に聞いてきました。こちらはノーと言うわけがなく、「おもしろいんじゃないですか」と答える。ところが顔や口調で見抜いて、今度はアシスタントの若い連中に聞くのですが、彼らは編集者のような切羽詰った状況は関係がないから「イマイチですね」などと平気で言います。それで、締めきり前の夜中の12時だというのに、新しく書き換えますから、朝7時まで待ってくれと言い出しました。担当の編集者はあっけにとられ、編集長は電話口で「7時間で上がるわけないだろう」と怒りだしましたが、ものの見事に新たな作品を7時間で上げたこともありました。
 
弘兼――なぜ、そんなに闘争心があるのでしょう。
松谷――本質的に自分が満足できないものをそのまま掲載されるのが嫌でした。一方で、ものすごく割り切ることもあって、アニメーションの原作だけ渡したものに関しては全く見ないし、勝手にしてくださいという態度でした。もちろん自分で作っているときは別ですが。ことマンガに関しては自我を通しました。自分の作品にたいへん愛着を持っていて、ましてや子どもだましを決してしたくなかったのだと思います。
布施――新人を気にするとは、具体的にどういうことですか。
松谷――マンガ家は新人もベテランもないんです。読者は子どもで作家の名前で読むのではなく、好きなものを読む。そして人気がなくなれば打ち切られ描く場はなくなるのです。新人もベテランもかわりはないのです。例えば、石ノ森章太郎さんは描く量でも手塚に負けませんが、それにもかかわらずマンガ家協会の理事会には必ず出席される。だから、「私が行けないのは、マネージャーの差ですよ」と言われたものです。石ノ森先生との年の差は10歳ぐらいですか。
タケカワ――手塚さんは年齢をサバよんでいたというのは。
松谷――手塚は、大正15年(昭和元年)生まれと言っていましたが、本当は昭和3年生まれで、2歳サバをよんでいました。
弘兼――たぶん、若くしてデビューしたときに、なめられるといけないので少し年上にしてそのまま通したのでは。
松谷――その通りだと思います。小島功先生は昭和3年、馬場のぼる先生は昭和2年生まれ。先輩後輩の関係が厳しい時代なので、対等に話すには年齢が結構問題だったのかもしれません。歳をごまかしていても、手塚の親父さんがずっと会社にいて、私たちには平気で喋っていましたから、私たちは知っていました。でも、知らないふりをしていました。海外旅行をするとき、私たちにパスポートを見せまいとして、「航空会社に渡してください」といって、封筒に入れてホッチキスでバチバチ止めている。紫綬褒章の話が来たのが57歳か58歳のときでした。紫綬褒章は60歳が一つの基準になっているようですが、年がばれるのではと断りました。これは冗談ですが。それだけが問題ではなく、ほかにもなにか理由があったのでしょう。勲章は、亡くなってから勲三等をいただきました。生きていたらどうされたかわかりません。当時であれば、マンガ界のためにはもらっておいてくれたほうがよかったかなと私なんかは思いますが。
 賞を欲しがらなかったわけではなく、アニメやマンガの賞は欲しがりました。『ブッダ』で初めて文春のマンガ賞をもらったのは40何歳かでしたが、すごく喜んでいました。そのときの取材で、「今さら手塚さんに賞なんて」と言われ、「賞はいくらもらってもうれしいもんです」と答えていました。逆に小学館や講談社の審査員を全部下りた時があります。「私はいつも(選ばれる)対象でいたい」と言って。もっともそれは虫プロがつぶれた後で、外に出たくないというか、もう一度マンガに専念したいという意味もあったようですが。
弘兼――手塚先生は原稿料を上げなくていいとおっしゃって、そのために、他の漫画家の原稿料が据え置きになっていた時期があったと聞いていますが。
松谷――同時期に少年チャンピオンで描いていた、どおくまんさんが、ある時パーティーで私に、「手塚先生の原稿料を上げてくださいよ。出版社に手塚治虫がこの金額だからって言われると何も言えなくなってしまう」といわれたことがあります。手塚は、原稿料を上げると「仕事が来なくなります」と言っていました。昭和50年代最初の頃だったか、『のたり松太郎』が始まるとき、ちば先生のスタジオに行ったビッグの編集局長が帰りがけにうちに寄って、「ページ5万円覚悟していたのが、3万円で済んだ」と言っていました。そのころ手塚は9000円ぐらいです。手塚にその話をして、5000円ぐらい上乗せしてもいいじゃないですかと言うと、「僕はちば氏の倍描きますから」という返答でした。
タケカワ――マンガとアニメの関係はどうだったのでしょうか。本当はアニメをやりたかったようなのですが。
松谷――確かにアニメーションはとても好きでした。今じゃあまりつかえないセリフですが「マンガが正妻で、アニメは愛人。愛人は金がかかるんですよ」と言っていました。所得番付に載ったとき、「手塚はケチで金ばっかり貯めている」という声に対して「アニメを作りたかったからです」と答えています。
 


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