「ありがとう、お母さん」
岩手県 樋下 光夫
母が岩手山の麓から嫁に来た家は田圃が七反と少しの山の畑がある農家でした。
百姓では生活できないので父は出稼ぎです。
五人の子供達の世話と農作業は母の肩に重く食い込んでいたのです。
兄弟の四番目の私は「えじこ」と言われる箱のようなものに一日中入れられて育ったようです。
日光に当たる機会も少なく食べ物も好き嫌いが激しかったためか、一人で歩く事も困難でいろんな病院へ連れて行かれましたが、病名は判りませんでした。
岩手県で一番大きい病院でセキズイカリエスだと判明した時は、脇腹が大きく腫れて膿がたまっていました。
小学校も歩いて三十分以上かかるのでたまにしか行けませんでした。
家の中で朝早くから井戸から水を汲む母、畑仕事の母、草を取る母、リンゴの木を手入れして集荷する母、針仕事の母・母の後ろ姿を見つめつつ暮らしていたようです。
小学校五年の新学期が始まるころ頭が痛くてたまらず、入院しました。
脳膜炎ではないか?意識不明になり気がついた時には、親類の皆さんが集まっていました。
秋になっても耳の奥でセミが鳴いている。唇が動いているのに音が聞こえない。
医師もあわてて耳鼻科へ行って診てくださいと。
「これは、ストマイシンの副作用ですね」耳鼻科の先生。
母は子供が障害者になってどのような思いだったろうか?
カリエスの上、耳まで失うとはなんたる運命だろうか?
子供でもいろいろ悩みがございました。
ろう学校へ転校しても体が丈夫でないので木工科での勉強もついていけない。
ろう学校で無理してカリエスが再発したのを機会として徹底的に病気を治そうと決心してギブスベッドに一年半、食事は出されたものは全部眼を閉じて食べるようにしました。
お陰様で体は健康体になりました。
病院生活が長く母との暮らしはわずかでしたが、六十四歳となった私は莱園の草取りが日課です。
草取りしている母の姿を重ねて小さい庭の手入れして綺麗な花を咲かせています。
今、九十歳になる母は施設にいて面会に行くと嬉しそうな笑顔を見せてくれます。
私は次男坊ですので母の面倒はすべて実家でやっていますが、母は障害を持つ次男坊の私を一番心配してくれました。
私がろうあ運動に力をいれて同じ障害者の福祉向上のため活躍できたのも、何も言わずへそくりを手に握らせて「がんばれ」と手のひらに字を書いてくれた母の愛です。
今、考えてみますと私の母は、過保護ではありませんでした。
自分で考えて何でもやれる自立する人間になるには「自分でやれ」と経験させることであると感じております。
母の笑顔を見るに施設通いが長く続くと、息子の私の方が早く父のところへ行く心配がありますが、母を見送るのが息子の責任と思い健康に注意して長生きします。
母の日ではないけど、ありがとうお母さん。
東京都 十島 典弘
皆さん こんにちは!
司会から紹介いただきましたトシマと申します。
よろしくお願いします。
仕事はマジック販売とマジシャンとしてやっております。
私は生まれたとき両耳とも九十デシベルで、感音性難聴のため音の聞き分けができませんでした。また生まれつきの口唇裂があり、生後三ヶ月で手術をしました。兄弟は四人ですが、なぜか四人のうち上の三人がろうで、一番下だけが健聴です。三対一でメンデルの法則ですか。今は結婚していて娘がいます。その娘は中学一年生と小学四年生で聞こえます。
私の両親は二人とも聞こえます。皆から親戚かいとこか?と言われていますが、まったく関係がありません。
父は七十六歳で仕事は元海上保安庁の航路標識事務所所長です。
母は主婦。いいわけかもしれませんが、戦争のため、小学校まで。
そのため、教育ママはあまりやっていませんでした。
コミュニケーションは父とは筆談、母とはゆっくりした口話か身振りで伝えます。
皆さんはどのようなコミュケーションをしていますか?
手話を使っている人はいますか?
昔のろう学校は今と違い手話は禁止でした。学芸会の時など、口話が下手な人はしゃべらせてもらえません。発声ができる人を選ぶんです。差別ですよね。発声が下手な人は先生の顔を見て、言われるとおりに真似をします。セリフなどは全然覚えませんでした。
小学部になると、毎朝「あいうえお」から「わをん」まで、発音練習をしていました。先生方は誰も手話ができませんでしたので、口の動きを見てまねをするわけです。とても目が疲れました。筆談のほうがはるかに楽しく正しく伝えることができました。
生徒の中には口形を読むのが上手な人もいます。でも、それってすごいことなんでしょうか?口を読むと時々間違うことがありますよね。「たまご」「たばこ」「なまこ」は同じ口形で区別できない。その点、手話が一番正確です。つい最近、ろう学校の同窓会が東京であり、恩師も来てくださいましたが、その席で先生は「手話は必要だ。」と認めておられました。聞こえない人間にとって、手話は本当に大切です。
私は社会人になってから本や新聞を読んで文章力をつけました。
皆さんはどんな時に、聞こえなくて不便だと感じますか?レストランでカレーを食べるとき、スプーンがお皿に当たって音を立てても分かりませんよね。こういうマナー違反は母からよく注意されたので、食べるときには自分で気をつけるようになりました。また、聞こえない人間は「危ないから」という理由で、長い間車の運転免許を取ることが出来ませんでした。けれどもろうの先輩たちの運動のお陰で、昭和四十八年に法が改正になりました。早速私は翌四十九年に、十九歳でとりました。ろう学校を卒業してすぐのことです。
卒業後は上京して仕事を探しました。今と違って昔は職探しも大変。職業安定所(今のハローワーク)に行っても、職員が「聞こえないのなら、手に技術がないと無理だよ」と、何もサポートもしてくれません。普通なら求人票をもとに、職員が会社に電話して探すのを手伝ってくれるはずです。それなのに聞こえないと、この段階で断られてしまう。仕方がないので、すべて自分でやって、小さな印刷関係の会社に就職しました。
そこに四年ほど勤めて独立し、「写植専業」の会社を起こしました。写真植字機や文字盤などに六百万円をかけてスタートしましたが、やがてパソコンの時代になると売り上げが落ちていき、会社は閉じることになりました。高価だった機械も、処分したときは百二十万円に下がっていました。援助してくれた父親には、本当に申し訳なかったと思っています。
その後また会社勤めをしましたが、ちょうどその頃、第六回世界ろう者奇術フェスティバルがアメリカで開かれたのです。千九百九十六年(平成八年)のことです。これに参加するため二週間の休暇をもらいたかったのですが、会社に理解してもらえず、「退職届」を出して渡米してしまいました。考えてみたら二週間も休暇をくれる会社なんてありませんよね。でも、それほどこの集いは、私にとって特別なものだったのです。
勝手なことをして、妻からは当然文句を言われました。ところが私、フェスティバルでステージ部門の二位になったのです。「迷惑かけたけど、妻は喜んでくれるだろうか。それとも怒ったままだろうか・・・」恐る恐る「ただいま。お陰さまで二位になりました」と報告をしたら、「おめでとう!」と、とても喜んでくれました。ほっとしました。
私とマジックの出会いは、鹿児島聾学校に通っていた頃にさかのぼります。通学途中にはデパートがあり、そこの手品コーナーに足を運ぶうちに、次第にマジックのとりこになっていったのです。東京に出てからは、日本奇術連盟の「マジック教室」で三年間学び、腕を磨きました。それ以降は本を読んだり、ショーを参考に、自分で研究しています。
現在は日本奇術協会の会員です。ここはプロ中心のマジシャンの集まりで、会員は皆ステージで活動しているほか、「プロのマジシャンはあまりテレビでタネ明かしをしないように」というような意見を出したりします。
「マジック」を表す手話は分かりますか?手話表現は三つあります。人差し指の上に指を重ねて忍術の格好をするのが普通ですが、最近は片方の手で指をさすと反対側の手が広報でぱっと開くという表現も使っています。アメリカ手話では、ぐるっと手、指を回して「マジック」とやります。皆さん覚えて帰ってくださいね。
以上
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