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母のマジック
東京都 菅原 あさみ
 私は昭和五十三年に北海道で生まれました。
 喃語も言葉もなかなか出ない私に母が異常を感じたのがきっかけで、聴覚障害が発覚しました。そのあと、札幌ろう学校乳幼児教育相談を経て幼稚部へ、母と通う毎日が始まりました。当然母は、私に聴覚障害があることがわかるまで、全く聴覚障害者について知識も、経験もありませんでした。しかし、このように「何もわからない」という一番心理的に不安な状態であったにもかかわらず、とにかくろう学校の先生から言われたことを信じて、そのままやり抜こう、と決心していたようです。
 それから、母は私との経験を通して概念形成と、ことばを結び付けようと努力してくれました。そのため、出来事は少しももらすまいと、すぐ私にわかりやすい言葉で語りかけ、自らの記録や絵日記を詳細に書きとめながら、言葉の訓練と、普通に考えれば気の遠くなるような努力の毎日でした。
 しかし母は、今でも幼稚部の時のことを、一番充実していたときだった、と言ってくれます。そんな前向きな母の姿に、そして母が私に与えてくれたいろいろな言葉が、今でも励みになっています。特に、一番印象に残っているのは、ろう学校へ向かう途中の私と母との会話内容です。通学途中に、道路のアスファルトの隙間から生えていた雑草を見て母は、こう言いました。
 「お母さんはね、この草、すごくえらいなと思うの」
 「こんなちっぽけな草だけど、硬い石の下からでも、頑張って生き続けようとしているでしょう。お母さんも、こうなりたいね。」
 そのとき、私はその意味が理解できませんでした。しかし、今思うと、母も私の教育に悩みに悩んで辛い気持ちで一杯だったのだな、と思います。それでも母は、そんな辛い表情を、子どもの私の前では決して見せませんでした。
 また、小学校からインテグレーションした私は、コミュニケーションのずれから友人関係が正直言ってうまくいっていませんでした。私自身のプライドもあって、学校での出来事をなかなか母に言えなかったのです。帰宅後は、すぐベッドにこもり、その場面を忘れようとすることがほとんどでした。
 そんなとき、母は、「お母さんだって、嫌なこともあって悩んだこともあった。確かに、そのときはどうしようかと思った。でも、気にしないでほっておいたら、自然となくなった。そんなことでも、今となれば小さなことにすぎないんだ。」と一生懸命私に語ってくれました。
 なるほど、今はただ辛いだけかもしれない。そのうち、あんなことがあったなあって小さいことで終わるのかもしれない。と、私はそう感じました。そして、母自身の経験から私に共感してくれたことが、何より私を勇気づけたのかもしれません。それから、もう十年以上たった今でも、何か辛いことがあっても、そのように思うようにしてきました。あとになれば単なる思い出にしかすぎない。そう思うように、いつも心がけています。
 最近知ったことですが、実はこのいじめは、母が裏で友達の母に聞いたり、実際に電話で事情を確かめていったりと、そっと解決してくれたのです。このことによって、いじめはすんなりと消えていってしまったのです。私は、母に心配をかけまいと、必死だったのですが、逆に母に負担をかけてしまったのかもしれません。このように私が気付かない間に、私の状況を察し、おのずといじめの問題を解決していってくれた母のマジックには驚かされます。
 その後、私は中学校に進み、高校は地元を離れて学費の高い私立高校へ進みました。
 高校卒業後は、実家を離れ、筑波技術短期大学へ進学しました。
 筑波技術短期大学を卒業した後も、大学に編入学、大学院まで進みましたが、どの進学についても、わがままな私の意見を尊重し、何一つ不満を言わず快く承諾してくれました。
 長くて険しい学生生活でしたが、ここまで支えてくれた母に、今は感謝することばかりです。
 一番人生の山場だった幼稚部での経験が、今ではあのときが充実していたよ、と言ってくれる、そんな前向きな母に
 
 たくさんの言葉のシャワーを懲りずにあびさせてくれた母に
 
 つらい思いをしている私に共感し、勇気付けてくれた母に
 
 長い学生生活にもかかわらず、支えてくれた母に
 
 ありがとう。
 
母とのコミュニケーション
東京都 奥泉 浩美
 旅行会社の営業企画の仕事をしています。営業先でたまたまご縁があって知り合った、森先生より、突然、「母を語る」を書いて、ここまで育ててくれたお母さんに感謝の気持ちを表してみたらどうですか?とのお言葉をいただいたことをきっかけに、素直ではない私のことですから、どこか照れくさいながらも、これまでのことを思い出しながら、母について書いてみたいと思います。
 自分の中では、聴覚障害であることの意識があまり強くなく普通の人と同じような感覚で生活してきたようにも思います。ただ、自分だけが補聴器を付けていること、音が聴こえても言葉がはっきりと聴き取れないことが周りのみんなとちょっと違うんだなぁという気持ちぐらいでのんびりと学校生活を送っていたように思います。学校から帰ると、近所の子と夕方遅くまで遊んだり、母と毎日話をしたり、とにかく学校以外では毎日誰かとコミュニケーションを交わしていたように記憶しています。のんびりと過ごした子ども時代の記憶はあまりないのですが、遡って、ひとつひとつのシーンを思い出してみます。
 私が生まれたのは群馬県。生後すぐに高熱の影響で聴こえなくなったようです。二歳になったばかりの時に、日本にひとつしかない私立の日本聾話学校に入園するために、わざわざ群馬県から家族で上京してきました。父も当時、働いていた仕事を退職して東京で一からスタートしたとのことです。こんな話を大きくなってから聞かされて、私ひとりのために、大変な決意をしたのだろうなぁとしみじみとすまない気持ちになります。
 幼稚部の頃はまだ小さい子どもだったので、特にこれといった出来事や思い出はあまり記憶にないのですが、毎朝、家から学校まで、竹やぶの中を通って粘土山(遊び場だった山が粘土のような感触の土だったのでこう名付けていました)を通り過ぎ、長い長い坂道を十五分ほど母と一緒に上ったことを覚えています。あの急傾斜な坂道の上り下りは結構きついものでした。この試練がのちのち自分の気持ちを強くしてくれるものだったようにも感じられます。幼稚部では母の話を聞いていると、朝起きてから寝るまでに同じ言葉を何度も言い聞かせていたそう。私は母のそんな苦労もあったことは少しも覚えていないぐらいののんびり屋さん。また、かなりの引っ込み思案で人見知りだったとか。なぜこうだったのか自分でもよく分からないのですが、一人っ子だったせいか他人との共同生活に慣れない部分があったのでしょうか。
 小学校からは普通校に通い始めました。
 地元の市立小学校でしたが、入学する前に、母と一緒に校長先生に会いに、こげ茶色の木の柱が印象的だった校長室へ入ったことを今でもよく覚えています。背が高くて背筋がきりっとした優しそうな雰囲気の校長先生。その時に、私はここの学校に通うのだなぁというのと優しそうなこの校長先生と会えるのだという楽しみと未知の世界に入るという期待と不安を抱えながら入学しました。日本聾話学校に入った時から両耳ともに必ず補聴器を付けていましたが、言葉を聴き取ることが難しかったため、クラスでは席替えがあっても私の席だけは一番前の席にして、担任の先生なりに配慮してくれたのでしょうが、そんな特別な配慮から初めて、自分は他のみんなとは違うのだという意識を持つようになりました。小学校三年生から六年生まで同じクラスメートだった子がいます。後から母から聞いたところ「浩美ちゃんを守る会」というものがあったそう。そういえば、何人かの女の子グループ内で交換日記をしたり、お誕生日会に招かれたり、休み時間に「花いちもんめ」に誘われて歌を教えてくれたり、いろいろ声をかけてくれたクラスメートがいました。現在のような学校でのいじめ問題が大きな社会問題として取り上げられていますが、私の頃は特にいじめというものがなかったように思います。その頃はあまり感じませんでしたが、今思うと、そのクラスメートには随分とお世話になったんだなぁと改めて気づかされます。
 中学校は当時、校風が荒れていた地元の中学校では心配ということで、これまでとは環境を変えて、私立の和光学園に入学しました。まるで別世界に入ったような自分にはない個性豊かな人達に会ってびっくりしたものです。
 毎年恒例の「館山遠泳合宿」がとてもつらい行事でした。中学一年生が三キロ、二年生が六キロをクラス全員で完泳させよう!という目標をもって、桟橋から飛び降りて「エンヤコーラ!」と時間をかけながらゆっくりと海岸まで何が何でも泳ぎまくりました。目標を達成できた時の嬉しさや体で感じたあの感動は一生忘れることがないでしょう。私にとって自分を変えた原点でもあります。そのかいあってか「やってみなければ分からない」というチャレンジ精神を植えつけてくれたのだと思います。
 自分で言うのもなんですが、仕事などで壁にぶつかることがあっても前向きな気持ちになれるのも、小さい頃、学校までの長い長い坂道を登ったり、遠泳で体験した苦しみと喜びを体で感じることができたからこそ、今の自分があるのかなとも思います。こういうのを新しく作ってみたいなぁと夢に思っていた企画を会社のアイデアコンテストに応募してみたら入選して、実際に、自分が今その仕事をやっております。
 私は両耳とも百デジベルを超えていますが、時々、話(言葉)がよく分かる、聴力が軽いのではと言われることがあります。そんな風に言われるたびに、改めて、母に感謝すべきなんだなぁとふと思います。
 小さい時から補聴器を身に付けて、毎日、母とコミュニケーションを取っていたからではないのだろうかと私は思います。朝から夜まで同じ言葉を何度も何度も言い聞かせていたなんて(母の苦労も知らないのんびり屋ですみませんが)私には少しもその記憶がないのですが、その事が知らず知らずのうちに私の体の中に植えつけられていったのではないでしょうか?今でも時々、言葉のアクセントがおかしいなど指摘を受けたり直されたりすることもありますが、こういった毎日のコミユニケーションあったからこそ、嬉しいお言葉をいただいたりすることがあるのかなぁとも思います。母をはじめ、父、祖父母、親戚のみなさんが温かく見守ってくれたこと、応援があったからこそ、聴覚障害であることのコンプレックスは感じないし、自分は自分という自信を持たせてくれたこと、「母を語る」を書いていていろいろなことを思い起こします。
 普段はあまり言わない言葉ですが、「ありがとう」をお手紙にて託します。
 
あとがき
 本書には、ハマナスのうた第六集刊行以降に発表された体験手記と全国からご応募いただいた手記合計五十六編が収録されています。
 編纂作業で原稿に改めて目を通すと、障害発見時のショックやその後のご苦労の様子が赤裸々に語られており、読むほどに胸をうたれます。しかし、一人一人障害の程度やその克服の過程は異なっても、いずれも障害を肯定的に前向きに捉え、社会自立・参加に結びつく生き方を創造的に構築していっていることに感銘を覚えます。その道筋を支えているお母さん方に「母は強し」という感動をさせられるのは編集子だけではないでしょう。
 第七集には、父と子の絆の項に、お父さんの手記を載せました。また、「母を語る」の項に、聴覚障害者本人の母親への思いを発表した稿も掲載いたしました。いずれも家庭教育を中心に据え、成育の過程での親子の関わりの重要性を述べています。
 昨今、家庭虐待やいじめが社会問題化している中であればこそ、一般の方々も含め多くの方々に本書に接していただき、感銘と読後の爽快感を味わっていただければ幸いに存じます。
 なお、できるだけ原文を損なわないように努めましたが、話し言葉と書き言葉の違いで表現に違和感がある部分もございます。また、紙面の都合や全国的に広く配布する関係で一部割愛したり手直しさせていただいた箇所もあることをお許しいただきたいと思います。
編集子


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