日本財団 図書館


「ありがとう、お母さん」
埼玉県 井上 美登里
 幼稚部の時、毎週水曜か木曜日にクラスメートは家の近くの幼稚園へ行って勉強していたのですが、私はまだしゃべれなかったので、先輩たちと一緒に遊んだり一人で勉強を受けていた事に「どうして、私は?」と母に聞いたことを思い出します。
 小学一年のときに引っ越して家の目の前に小学校があり、近所の友達はそこへ行き、私はなぜ電車に乗っていくのか疑問を感じました。二分で行ける小学校へ隣に住んでいる親しくなった友人と一緒に行きたかった気持ちはありました。後になって分かったのですが、聴力のレベル、学力などの条件がある事、それに両親が話し合ってしっかりと学力を付けるためには、ろう学校でと決めたそうですが、その頃は疑問だらけでした。
 小学部二年の時、七歳下の弟が生まれ、しゃべり始めた頃、弟と私の話の接し方が違う事に不満を持ちました。弟の方は目を合わせなくてもいい、悪い事をしても注意して終わり、私の場合は目を合わせて、物事の良し悪しを区別する事が納得するまで接している。「うるさい」と思ったし、弟がうらやましく「弟を甘やかしてずるい」と感じました。母に「弟は聞こえるから話せばすぐ分かるの」と云われた時、ものすごく頭に来て悔しかったので、「何で弟も私と同じ様に生まれなかったの」、「なぜ私は聞こえないの」と、母を問いつめた事があります。母は今までまわった病院の診察券をならべ、手を尽くした事や、「あげられるものなら、お母さんの片方の耳をあげて音を聞かせたい」と泣きながら言われました。私も一緒に泣いた事、困らせた事を思い出します。
 小学五年の時、長崎県の対馬に一人で飛行機に乗っていった時、スチュワーデスに親切にしてもらったり、大好きなおばさんと一緒に海に行って泳いだり、磯遊びをしたり、トコロテンを作ったりして話をいっぱいしました。そのたび、嬉しそうに褒めてくれるのです。私の話を分かってくれた事が、とても嬉しかったです。
 そんな生活の中で一番嫌いだったのは、帰宅後の発音の練習、日記、宿題です。特に発音の練習は厳しく、うるさく、一つの課題をクリアするのに時間がかかりました。夜中遅くまでかかった事もあり、「何でこんな事しなければならないの。」「皆、遊んだりゲームを楽しんだりしているのに・・・」と思うことが度々でした。
 高校に入り、気の合う友人も出来て、あれこれやりたい時、「小遣いを上げて」とお願いした事があります。友人と遊びに行きたい時もチェックが入るし、帰宅時間もうるさく、親に反発しました。小学部の時、自分で見つけてきた書道の塾は最後までやり通すという事で通い始めたのですが、高校生になると遊ぶ事が楽しくて、時々サボりました。その時も、私を迎えに来て行かせる程、厳しかったです。「自分で決めた事、約束は守りなさい。」とうざく感じる程でした。私の気持ちが分かってくれない、悲しい、どうしてだろうかと思う事が何度かありました。書道が特選で入選した時や検定に合格した時に喜び、ごちそうを作ってくれたり、誕生日に手作りケーキも作ってくれました。私の為と考えてやってくれたのでしょうか?
 社会人となり、結婚し、親元を離れ、ここまで引っ張ってくれたそのありがたさ、これが親の愛情なんだと感動しました。今までは母もやりたい事、自分の好きな事はあったのに私の為に時間を削って色々と考え、導いて下さったと思います。
 これからは私の番、いろんな所へ一緒に遊びに行き少しでも楽しませてあげたいと思います。
 
母の決断
埼玉県 松島 敏一
 ただ今、ご紹介いただきました、補聴器の会社でありますリオン株式会社のリオネットセンターに勤めております、松島敏一と申します。
 また、月に不定期に、聴力障害者情報文化センターヘ出向して、きこえの相談事業の補聴器相談担当をしております。ここでは補聴器の調整でなく、補聴器にまつわる問題の悩みの相談をしています。
 今回、たくさんのお母様方が受賞されましたことを心からお祝いを申し上げます。
 ここまで育てられた色々な苦労話は、尽きないものだと思います。私も三人の子供を育てましたが、親の責任は重大で大変だったと言っても、まして耳の障害を持った子供さんを育てることは言葉に言い尽くせないものがあったことだろうと思います。
 私の母も、二十五年前にこの場で賞を頂きました。あれから、何百何千人のお母様方が受賞されたことは喜ばしいことだと思います。
 
 私の母について述べさせていただきます。
 私の母は、私にとって非常に尊敬する存在だと思います。毎日の生活の中で聞きなれない音があったときは、その都度教えてくれました。そして、私の人生で大きな転機となった、普通校へ転校させてくれたことに対して、心から感謝すると同時に、ここまで育ててくれたことに誇りを感じています。
 その思い出をいくつかお話したいと思います。
 「あなたのお子さんは耳が聞こえませんよ」と言われたのは、昭和二十五年のこと。何も知識がなかった時にどうしたらいいか、母はどんなにかつらかったことでしょう。今のような情報が無かった時代ではなおさらだったでしょう。
 「聞こえない子供は、ろう学校で教育を受けられる。」と言われた時は安堵感があって、教育大附属聾学校の幼稚部に入学しました。毎日が言葉の勉強の繰り返しで、補聴器をつけて、家の中、学校への行き帰りの電車の中など、場所を選ばずにやらされたものでした。
 鼻の先に紙テープを貼って鼻息でひらひらさせたり、ちり紙を小さくちぎって皿に載せ思い切り息を吹きかけたり、飛び散る紙吹雪を楽しんだり、それをかきあつめて同じことを繰り返しました。それからコップに甘い色水をストローで吸ったり吐いたりする息の練習、のどに手をあてて音を感じながら発音する、そういうことをみっちりさせられました。しかし、手まねをするとたたいて怒られました。
 母は、そういう訓練は勉強のひとつとせず、普段の生活や遊びの中で自然に行うように工夫してくれました。それから言葉がわかってくると母との会話が始められました。
 母ばかりでなく、父の応援もありました。絵を書くのが得意で、仕事の合間に絵カードを書いてくれ、私が言葉を覚えるたびに作り、それを品物と結びつけて言葉を覚えていきました。
 ろう学校までの通学時間は一時間半でしたので、その往復の電車の中で予習、復習をさせられたものです。その内容を今でも覚えているのですが、行きの電車では、「今日は何月何日何曜日ですか?」「来週の今日は何月何日何曜日ですか?」のカレンダーの話し、帰りの電車では「今日、学校で誰とどんなことをしたのか?」一日の出来事の話でした。私がわからないと母はヒントを与えながら私がわかるまで答えさせられ、また、発音が悪いと「もういっぺん。もういっぺん」と何度も耳だこならぬ目だこが出来るほど教えられたのです。さらに話す力をつけるために絵本を買ってきて、その絵の話より、もっと詳しく物語を作るために母と話し合いながら別の白い紙に書き綴り、それを字の書いてあるところに貼り付けました。このようにひとつの物語が出来ると、私は声を出して読み、発音を聞いてくれました。発音が悪いと何度も繰り返しそれでも直らないと母の焦りが現れ、何としても口の形、舌を動かすこと、また、手で舌の仕草をあらわしながら、徐々に直してくれました。言葉を知らない私に一言でも多くの言葉を覚えさせようと、体験したことを通して、母は血眼になって教えてくれました。
 いろいろな言葉を知るようになると、補聴器を買い求めました。当時の補聴器は、まだ真空管時代で、大きさはタバコの箱より一回り大きくした位でした。それでも小型と言われていましたが、遊び盛りの幼い私に大きく重たいものをどう付けるか、母にとって悩みの種だったと聞いています。耳栓、イヤホン、コード、補聴器本体、音を聞くことを一つ一つ慣れさせるために、負担を軽減する方法を母は考えました。補聴器の命というか電池の寿命が一日しかもたない、それを一ヶ月分まとめて購入していました。毎日のお米を買うよりも電池を買うほうが大事だと言うのが両親の考えでした。そのおかげで、補聴器は体の一部だと考えるようになって、起きている間は装用する習慣がつきました。
 
 それから、普通校へ転校したのは母の大決断でした。地元の教育委員会は、はじめ、なかなか受け入れてくれませんでした。ろう学校は、普通校への移籍については前例がないので、承諾してくれませんでした。そのような決断は、当時としては到底、無理なことはわかっていましたが、母の一途な思いが通じました。ろう学校からの返事は「戻ってくることは出来ません」教育委員会は「しばらく様子を見ましょう。」とのことでした。それから、母と一緒に普通校へ通い、毎日が戦いでした。
 
 今は、障害児の普通学級移籍が認められ、両者の壁が取り除かれるようになりましたが、それは母の行動がきっかけで、この流れの草分けだと思い、誇りに思っています。このインテグレーションが、私の人生の大きな転機となりました。
 聞こえない子供さんを持つお母さんは、自分の子供が健聴の人のようになれたら良いと思うことでしょう。しかし健聴のようになれない、それでも近づくことは出来ると母は信じていたと思います。日頃の発音が悪いとその場でちゃんと発音が出来るように繰り返したり、また補聴器の音を聞いているかどうか、その効果を確認してくれ、私と一緒にいる時間が多かった母でした。その分、二つ違いの姉はさびしい思いをさせられたようです。
 
 大学二年の時までは、同じ聞こえない人(聴障者)との交流は全くありませんでした。それは、はっきりと言わなかったけれど、母の希望でもあったようです。しかし、ろう学校の幼稚部の時の同級生に会ったら、同じ立場ですから、何でも言い合あえて、健聴者の世界とはまた違った新鮮な気持ちになりました。それをきっかけに関東ろう学生懇談会に入り、その活動にのめり込み、聞こえない(聴障)友人と過ごしていくうちに、今まで知らなかった聞こえない人(聴障者)の世界を知りました。そのおかげで視野が広がって良かったと思います。
 その反面、聞こえない人(聴障者)との付き合いは、母を喜ばせなかったばかりか、あくまでも健聴者になって欲しいと願っていた母の夢を壊してしまいました。何のために普通校へ行かせたのかと、母は苛立ちと焦りがあったと思います。でも、結局は諦めたのか口にださず、黙って見守ってくれました。
 かっての私は、耳が聞こえない人は誰でも補聴器をかけているものだと思っていたのですが、実はそうではなかったのです。彼らの話では、補聴器はうるさいし、頭がいたいから、役に立たないと言われて、非常にショックを受けました。なぜだろうと思ったのがきっかけで、今の補聴器の仕事に携わるようになりました。
 
 聴覚障害者のコミュニケーション方法は手話、指文字、口話、筆談、聴覚の活用での補聴器、人工内耳と多種多様ですが、それぞれの環境にあわせて使い分けないと、お互いのコミュニケーションがとれなくて混乱がおきてしまうことがあります。どれが良いかと言う前に、基本的にお互いに話し合う気持ちはみな共通しているのですから、歩み寄る気持ちをいつまでも持って欲しいと思います。
 
 最近はパソコン要約、デジタル補聴器、人工内耳など、目覚しい進歩を遂げています。ありがたいことですが、性能が良くなったからといって、聞こえにくさが解決できるものではありません。ただ大事なことは、耳の聞こえない子供さんを持つお母さんの役割は、子供さんが自立するまで必要であり、またいつの世にも必要なことだと思います。
 
 自分のこと、家族のことは二の次にして、私の教育に力を注いできた母には、頭が下がります。たくさんの勇気を与えてくれた、むしろ、たくさんの耳をくれた母に報いたいと思っています。今は、年老いた母ですが、お蔭様で、一人で元気に暮らしています。隣に住んでいるので何かあれば顔を出して、話を聞くようにしています。まだまだ、私を暖かく見守ってくれています。
 最後になりましたが、母への感謝を捧げるとともに、今日ここに出席されていらっしゃる多くのお母様にも捧げたいと思います。
 有り難うございました。
 
私の財産
千葉県 山口 香里
 千葉県市川市在住の山口里香と申します。
 私が、母のお腹の中にいた時、病院で出された薬に「サリドマイド剤」がありました。この薬は日本で昭和三十三年一月から昭和三十七年九月までの間、妊婦でも安全として睡眠薬や胃腸薬として発売されました。私はこの薬が元で生まれた時から両耳が全く聞こえません。
 昭和三十八年若葉の芽が吹く頃、千葉県市川市でハンドバック製造を営んでいる両親の元、一人娘として生まれました。体重は二千五百グラムとやや小さめで、母乳を吸う力が弱く、最初から哺乳ビンを使ってミルクを飲んでいたと聞いています。
 生まれて間もない頃、父が、私が音にまったく反応しないのを不審に思い、直ぐにいくつかの大学病院で検査を受けました。医師から「耳が聞こえない、救う道は教育しかない」と言われました。その時、私は生後十ヶ月でした。両親は赤ん坊の私を連れて、教育相談を受けて下さるところを探しては、色々尋ね歩いたそうです。
 日本聾話学校の夏期講習や冬期講習を受け、口話教育が始まりました。学齢二歳の時、当時「NHKテレビろう学校」に出演し、一年間学びました。相手の口の動きや形を読み取るといった「読話」の勉強や「発音」の勉強をしました。帰宅後も母と夜遅くまで勉強が続きました。
 母はとても厳しく、それは「猛スパルタ教育」でした。家の中の至る所に、母が使った「物の名前を示す名札やカード」が、壁を埋め尽くすほどびつしりと貼られていました。母は私が寝た後も、絵カードを作ったり、絵日記を書いたりしていました。当時母はまだ若く、遊びたい時だったにもかかわらず、自分を犠牲にしてきたと思います。
 私にとって、これまで指導に当たってくださった先生方のお陰はもちろんですが、母が何よりも最高の先生でもありました。私の隣にはいつも母がいました。本来なら、私が普通の子だったら他にも兄弟がいて、このように母を一人占めすることなんて出来なかったでしょう。そういう意味では幸せだなと思いました。
 両親が早く教育を始めてくれた甲斐があって、三歳になる頃には声を出して話すことができるようになりました。幼稚部と小学部一年までを当時の教育大附属聾学校で学び、それ以降は両親の強い希望で普通小学校へ進みました。本来なら小学一年から普通小学校に入学する予定でしたが、当時はまだ「障害」の壁が厚く、聴覚障害児を受け入れてくれる学校があまりありませんでした。しかし、次の年にようやく入学が認められ、普通小学校で、もう一度一年生からスタートしました。少々のいじめはありましたが、すぐにたくさんのお友達ができました。中学と高校は地元の私立の男女共学校へ通いました。当時は耳の聞こえない子が、普通学校で学ぶことはまだ珍しく、両親は受け入れてくれる学校を探すのに大変な思いをしたようです。
 私の普通校での生活は、すばらしい先生、すばらしい友達に恵まれ楽しいものでした。高校卒業後は美術学校に進みました。その後、今まで知らなかった手話を覚えるため、地元の手話サークルに入りました。そこで知り合った健聴者と結婚しました。今では家庭を持ち、二十歳の息子と十六歳の娘が居ります。家族のコミュニケーションは口話を使っています。二人の子どもを育てるに当たって、私も子供たちからたくさんのことを教えられました。これからも子供たちとともに学び、成長していきたいと思っています。
 今振り返ってみると、小さい時の母の厳しい教育や、厳しく躾けられたことが、社会人になった今の私の大きな財産です。両親の、何でも見せてやろう、何でも経験させてやろうと、いろいろなところへ連れて行ってくれ、見せてくれたことが、今の自分を作ってくれたと思っています。
 母も今では二人の孫のおばあちゃんになり、孫にはとても甘いです。なんだか「母を語る」という話が、私の生い立ちの話になってしまいました。最後に、この場をお借りして「お母さん、ここまで私を育ててくれて有難う、そして、お疲れ様でした。これからは父と余生をゆっくり謳歌して下さい。」


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