誇りに思う母
ロンドン在住 南村 千里
私の母は、きこえない子どもとその両親を援助する教育に携わっています。
家の中での母は、不規則な生活をする私と違って、酉年なので太陽の出と共に朝早く起き、太陽の没とともにまではいきませんが、夜早く寝ます。とても綺麗好きで、家の中をぴかぴかにするのが好きな人です。我が家の猫の額ほどの庭には、薄い紅色の四季咲きの薔薇が咲き誇っています。その薔薇の世話をする母の顔はとても生き生きしています。その薔薇からつくったポプリを知人友人に差し上げるのを喜びにしています。
私は、生後七ヶ月目できこえない世界に入りました。その私をこれまで導いてくれたのが、父と母でした。
母は、大学時代に特殊教育学科を受講していました。特殊教育の知識があったからこそ、教育がきこえない私を光の道へ導く方法と悟り、早期教育を受けさせました。非常に貧しくて大変な状況にありながらも、私のためにと東奔西走してくれたのです。
当時の早期教育の理念は「健聴者に近づくこと」でした。きこえないこととは何かを知らなかった母は、その理念を正しいことと信じ、私もその母についていったのです。
泣く思いをしながらの発声練習の日々。
情報保障のない地域での学校生活。
授業の内容が全く理解できず、友達が教科書をめくるタイミングに合わせて、自分の教科書をめくる、友達が動き始めたら、その動きについていくなど抑圧された自主性。
集団での会話は出来ない。マンツーマンでのコミュニケーションが当たり前。
話の経過が分からず、結果のみ伝えられること。
きこえる世界に合わせることを、当然のこととして私は受け入れていました。
しかし、その反面、何かがおかしいことを感じていたことは否めません。
ずれたままピースをはめていくパズルは、いずれ歪みが生じるものです。
そして、私が大学生になったとき。
私は、はじめて手話に出会いました。
このとき、マンツーマンではなく集団でコミュニケーションができること、結果だけでなく話の経過にも重要な意味があること、きこえる人が日常生活の中で常に耳で取得している膨大な情報量に比べて、いかに自分が今まで取得してきた情報量がないかを実感させられました。
ある時、家族での食事に行くことを結果のみで知らされたのを機に、今までの不満を家族にぶちまけました。
どうして、私には結果のみしか知らせないのか?
どうして、私も一緒に話し合い、経過を共有することができないのか?
母は、まだきこえない世界をよく理解していなかったため、「健聴者に近づく」ことがわたくしにとって良いことだと確信していたのでしょう。私の起こした嵐に当惑したと思います。
(参考:「たんぽぽの道」共著 南村洋子+南村千里)
また、私は大学時代から始めたダンスを通してきこえないだけでなく、メンタル面障害者、フィジカル面障害者、障害のない人などの友達の幅が広がりました。彼らと出会い、更にコミュニケーションがいかに人と人が関わる上で重要なことであると教わりました。私たちのコミュニケーションは、さまざまなコミュニケーション手段を用いることで成立し、音声言語にこだわる必要性がなかったのです。私は発声訓練を受けたおかげで、発声することができますが、相手の音声言語をスムーズに受けとめることができません。読唇力を持ってしても理解度は約二十%に満ちません。それでも、手話を知るまで、私は読唇力で八十%理解していると思い込んでいたのです。
なんと、当時の私は若くあさはかであったことでしょう。
更に英国留学で、私は目から鱗が落ちる思いを体感しました。
英語の発声、読唇ができない私は、英国手話を取得し、英国手話と筆談をコミュニケーション手段としました。私が通っていた学校には、英国人だけでなくアフリカ人、アジア人、オセアニア人など様々な国の人が留学していました。つまり、英語を第一言語としない人たちが多かったのです。彼らは私が依頼した英国手話通訳者を見たほうが、講義の内容が理解しやすいと主である教師よりも通訳者を見ていました。更に、私とコミュニケーションしたいからと自発的に手話を習得しました。従って、二学期末にはクラスメートの六十%が手話をマスターしたのです。更に、私の下宿先の六十歳になるおばあさんが、私とコミュニケーションするために必要だからと、当たり前のことのように手話をマスターしてくれました。従って、私は英国でのコミュニケーションに困りませんでした。
英国に遊びにきた母は、私が下宿先のおばあさんと英国手話でコミュニケーションしていると、また友達の歓迎ディナーで、友達の両親の話を友達が英国手話で私に通訳し、私が日本語で母に通訳する、母が話したことを私が英国手話で友達に通訳し、友達が英語で友達の両親に通訳するという会話が交わされたことに驚いていました。そんなコミュニケーションが英国では自然に当然のことのように行われたのです。
多民族が同居している英国では、自分と異なる民族を受け入れることが「是」となされているから、このようなコミュニケーション方法が受け入れられたのだと思います。
母は、それを英国で体感することで、「きこえない世界」に近づく必要性を、なお一層感じたことだと思います。
ここで、みなさんに尋ねます。
一体、きこえない世界に近づくこととは、どんなことでしょう。
母は私を育てた教育は、きこえる立場で考えたものであり、きこえない私たちにとっては最適なものではないと理解しました。そして、それを反面教師として未来のきこえない子ども達のために、きこえない立場からより良き教育を実施しようとしています。
私が受けたインテグレーション教育、すなわち統合教育の「統合」とは、個人の独自性と、社会的な結合との調和といわれています。しかし、私が受けた統合教育は、健聴者に合わせること、すなわち、理想からかなり隔たりのあるものでした。画一的で序列的な教育だったと思います。見逃された個人の独自性とは何か?
私たちは「きこえない」あるいは「きこえる」人である前に、個人であり、各自の見方、考え、気持ち、感情があります。そして様々な差異を持っています。この差異が刺激となって、社会的意識あるいは個人の相互関係を発達させます。つまり、「きこえない」ことに価値があるのです。
それを母は理解し得ました。
現在、我が家では夕食の時や団欒の時には、居間に集まります。各自がテレビを見る、雑誌や新聞を読む、編み物をするなど、異なったことをしていますが、ほのぼのとした雰囲気が漂っています。このような家庭に生まれてよかったと、心から思います。
母は、模索しながらきこえない私を育て、我を捨てて、あるがままの私に接し、フレキシブルに受容し、今後のきこえない子ども達のために、より良き教育を実施しようとしています。人間として当たり前のことですが、そんなことがなかなか出来ないことを、経験上、私は知りました。だから、そんな母を私は誇りに思っています。
埼玉県 杉 正則
平成十四年秋、桜内義雄賞牌、授賞式で母について、話すように言われました。
私は話下手で手話で話しました。その時の内容に加筆しました。
私は九州の筑豊の山で生まれました。
父は炭鉱で働いておりました。
戦前の苦しい時代で、貧乏で、子供が六人もいる家で、母は大変に苦労しました。
私は三歳の時、高熱で失聴しました。
更に五歳の時、いじめっ子に石を投げられ左の目を失いました。
戦前の田舎の事で、充分に手当てが受けられなくて、町の病院にも行ったがダメでした。
長男が五歳にして、耳と目の障害者になってしまったので、若い母の心は、いかばかりであったろうか。
もっとしっかり、治療を受けさせてやりたかったが、次々と弟妹が生まれて、どうにもならなかったのです。
母は苦難の毎日だったが笑顔を絶やすことなく、明るく、のんびりした人でした。
小学校入学も障害を理由に断られた。
友達も無く、毎日好きな絵を描いていた。
物資不足で紙もクレヨンも手に入らない。
仕方なく、山の石の中から、ロウ石を探して道路や塀、はては線路にまで絵を描いて遊んだ。
ある時、汽車が近づいているのに、気付かず間一髪、母が駆け寄って助けてくれたことがあった。
終戦、そして、ろう学校へ入学したが、私が十四歳の大きな一年生だった。
生まれて初めて、家を離れて、寮生活がはじまた。
職業科はどれも身が入らなかった。
唯一、日本画の先生から絵を厳しく指導された。
コンクールの入賞もした。
中学校を卒業して、家でブラブラしていた時、東京の、ろうあセンターに入所しないかと、役場から進められた。
上京して一年間、職業科で学んだ後、電気会社に就職しました。
当時、手話も知られてなくて聴覚障害者に理解が無く、差別も酷かった。
給料も安いし、差別で一緒に入社した人は皆、やめてしまった。
私一人が残った。昼は電気の仕事、夜は絵画研究所へ通った。
苦しくても頑張るしかなかった。
油絵をしたが、絵と言うものは基礎のデッサンが大切。
一にも二にも、デッサン、デッサンに励んだ。
母はずっと田舎で暮らしていた。
心配だったらしいが、自立し、好きな絵に励んでいる息子に、ほっとしたに違いない。
昼は仕事をし、夜は絵を描く生活が何十年と続いた。
その内、埼玉県展や一水会に入選するようになった。
日展もぼちぼち入選するようになった。
絵を通じ、友人知己も増えて行った。
絵の師と仰ぐ塗師祥一郎先生に巡り合えたのは嬉しい事だった。
平成十三年秋、日展特選に選ばれる。
嬉しかった。長年の努力が認められたのだ。
いろんな方から、お祝いを受けた。
ろうあセンターでお世話になった、今西孝雄先生も喜んで下さった。
故郷の母は大変喜んでくれた。
八十八歳の高齢にもかかわらず、巡回展が福岡であった時、車にゆられて観に来てくれた。
目も悪くなっているが、たどたどしい字で、体に気をつけろと便りをよこす。
お盆には里帰りした、孫やひ孫に、囲まれて幸せそうです。
私は一番遠く離れているので、気がかりのようです。
目が不自由なのに、若い頃の丸髷姿の従妹の横顔を描いたりします。
東京は寒かろうと、不自由な手で綿入れ半天を縫って送って来ます。
つくづく思います。
母の愛は海よりも深し。
明治の女は強し。
残念なことに母は本年五月永眠いたしました。
享年九十三歳でした。
ここに母の冥福を祈ります。
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