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[母を語る]
母の人差し指
秋田県 金子 義償
 画家はひたすら水というものに見いっている。その見入り方に独特のリアリティがある。見入ることにより一つの造形ができるという不思議な作品である。こういう見方はなかなかできない。見ているうちに、自然とひとつの秩序が現れて、水の中に画家が自分自身を託しきったようなところが面白い。ここ十数年、上野美術館で秋の日展、春の日洋展に水面の作品、あるいは、水郷の作品を出品すると、翌々月、ある美術誌に似たような内容の展評が毎年掲載されるのである。ありがたいことで励みになることもある。幼少の頃から家の前は、琵琶湖に次ぐ広大な八郎潟。裏は荒い日本海。こういう環境に恵まれた僕は、水を描くことは自然といえる。いつのころか、水面を凝視する。ひたすら水を見入る。とにかく黙って熱視する。この行為はいったいどこから来たのだろうか、と考えるようになっていた。
 ところがこの八月、はからずも「母を語る」という原稿の依頼が届いたのである。なんとなくどこかでつながっている。胸さわぎがした。一週間も、もんもんとしていると突然、母の手の指を思い出したのである。記憶から遠ざかっていた。母と僕とのはじめての、あのコミュニケーション。
 母は、僕の左の手首をしっかりにぎって、腕の上から下へ手のひらでなでるように、さするように二回繰り返す。そして少々汚れた棒のような太い人差し指を出して、文字を書き始める。僕の皮膚には、まるで生き物がうねうねと動いているような感覚と、妙なあたたかい心地よさが伝わって来るのだが、何を書いているのか、初めてのことで、あっけにとられている小学生の僕にはすぐには読みとれない。弱ったことに、目の位置からして、さかさまの字を目にするようなものだからむずかしいのである。顔を上げると、母は目に涙をためている。おかまいなしに皮膚の中、血管の中にも字を埋めようとするように、ゆっくりと指を動かす。が、それでもわからない。首をふると、母は再び同じ行動をはじめる。指の押す力が前より少し強く、丁寧になって来ている。僕はいつしか見逃すまいと真剣になっている。何回か繰り返すうちに、よ・・・く・・・が・・・ん・・・ば・・・っ・・・た、と。僕はうれしかった。はじめて誉められた。
 小学四年の時の春休み、秋田市にある秋田県立ろう学校の寄宿舎から父に連れられて、三時間もかかって実家に戻っていた僕は、通信簿を母に渡した。通信簿をじっと見ていた母がいきなり、このようなドラマをもたらしたのであるが、通信簿が母に何かの喜びを与えたに違いなかった。九歳になっても正確な発音が出来ていない。絵日記ですらいまだに文章を書くことも出来ないのであるから、母は僕の将来を悲観していたのだろう。それが明日の希望に変えさせたのが小学二年生、新しい受持になった畠山レツ先生とのめぐりあいである。後になって解った事だが、口話指導にかけては教育界に知られた先生であると言うのだから、母にとっても天からの贈り物である。クラスが三つに分かれていて、僕はB組で生徒は九人、コの字に木製の椅子、一人か二人を除いて、僕を含めて入学が二年か三年も遅れているのがほとんどで、小柄な先生より背が高いのがいた。その当時は、世間でいじめられてはとの不安と、心配から一部の親たちは子供を家の奥の一室か、裏の蔵か、小屋に閉じ込めていたようである。障害者に対するいやがらせや、差別が根強い社会的背景があったから、多くの不安と悲劇がひそんでいたのであるが、僕はどこに行ってもガキ大将の後ろに付く程友達には恵まれていた。冬は氷上スケート、裏山でスキーと凧揚げ、夏は湖と海、夜の湖に潜ったことも、春と秋は人間馬乗り、かくれんぼ、パッチごっこなど暗くなるまで遊びに明け暮れていた。
 二本の指を口の前に出して、まんま(ご飯)を食べるしぐさを示しながら母がたまに迎えに来たこともあった。「母さんがね。心配で心配で、義償を学校にね、一年遅れてしまった。ごめんね。」
 近くの浜口小学校一年を経て、役場の計らいで秋田県立ろう学校小学部一年に入学したのが昭和二十三年、八歳である。教室の黒板の上には、ひらがな五十音表。朝の授業開始と共に僕たちは五十音のヨコ行とタテ行を交互に、声を出しながら何回も繰り返して読む。そして午後に続く、先生は生徒の手首をとって口を大きく開け、声を出しながら自分の顔と体に触れさせる。触れた手に先生の声の響きが伝わり、その響きのア行とカ行との微妙な違いを、僕たちは感じ取ることに神経を集中しなければならない。手の感覚が研かれればおのずと発声出来るようになり、人の口も読めるようになる。最も重要で基本的なことである。例えば、ア行のあである。腹の底からあ〜と声を発すると同時に胸にも音の響きが通るから、その胸辺りに、又は喉辺りに手を置くと、大陸的感触に感動を覚えるはずである。五十音のすべてを、海とも山ともわからない僕たちに感じ取らせるために、先生にとっては、はかりしれない過酷な肉体重労働であったに違いない。
 自分より大きい生徒を背負って、背中に流れる音の響き具合を解らせようとする、あの圧倒される場面がなまなましく頭に浮かぶ。身震いがするほどである。こうして先生と生徒が、手や肉体とのふれあいをこえて一体の血となり、カモの行列のように僕たちはついて行けたのであった。声を出して話すことが出来るようになり、言葉も覚えられ、ちぐはぐながら文章も書けるようになった。小学四年に上がると、真新しい小学一年用の教科書が渡された。きれいな字、きれいな絵。こわごわとページをめくったりした。
 母が涙を流したのは、おそらく通信簿の保護者欄に僕のこれまでの頑張りと、上達が書かれてあったと思われる。
 夏休み、冬休みを母は待ちこがれるようになった。帰るやいなや、通信簿を手にして店に買いに来る近所の人たちや親類に自慢げに見せるのである。店は果物屋、雑貨屋、文房具屋を一つにしたような雑な小さな店である。その隣に、のちに田舎にしては場違いの公衆浴場を建て増しした。畑や田んぼもあった。母はたんたんと動き回り、どこに行っているのか不明といって良い位、一人五色の働き者であった。
 父は村の自治体か仕入れに出かけるばかりで、話す機会はあまりなかったように思う。
 三歳で聴こえなくなり、重症だったためか六歳までの記憶が全く無いからである。病気、治った。呼んでも呼んでも義償は振り返らない。もしや、あわてて病院へ。失聴。目の前が真っ暗。南に東に西に駆け回った。だめだった。絶望。義償を抱いて自殺を何度も考えた。風呂上りの裸で寝たのが元。母の不注意。ごめん。ごめんな。母は涙ながらに、僕の腕の内に書くなり話したりするのだった。僕は母の口を読めるようになっていたので、自分の生い立ちが、霧の中から輪郭が見えてきた気がした。
 なにげなく、青筋が通る皮膚の表面を見ているうちに、青筋が細い糸に見え、短編「蜘蛛の糸」の一節を思い巡らすことがある。確かに、僕の左の腕の内は見た目にはただの皮膚である。けれど、目に見えない、母の魂と血が込められている。いったい、これまでの母の書いた文字は皮膚の中に、どれ位埋められているのだろうか。僕と母と、言葉を覚えてからの暮らした日数は春休みと夏休み、冬休みに限られる。しかし、毎日コミュニケーションしている訳でないから、もっともっと、さらにもっと少ないことになる。この少ない中で親と子の交わった血が、三十年後に種となり、その十年後に芽となり、その十年後に花となった。言うまでもない。凝視する。ひたすら見入るという行為が僕に開花をもたらしたのである。思うに目の前に鉛筆と紙があるのにである。指で腕に文字を書くこと自体、母にとっては心が通じやすいと考えたのかも知れないが、一つのことにじっとみるくせが、絵を描く上で貴重な感性となって現在に生かされている。母の愛はすごい。血より濃い。あらためてすごい。
 母は現在九十六歳、病院で静かに眠っている。危篤からもちなおして、もう一年を過ぎている。父は十数年前に星のかなたに旅たった。おかげさまで今も長生きしていられるのは、働き者で、丈夫な体が母を支えているからだと思う。額に太古の木の根のように、しわが刻まれている。生涯商売人の人生であった。借金の人生でもあった。成功、失敗、成功、失敗。成功、失敗。借金がふくらんだ。にもかかわらず父に従った。忍耐強い母である。六人の子供を育て上げた母である。僕はしばらくぶりに、効かないと思われる母の左手を軽くたたいた。すると母は目を開けた。しだいに僕と妻であることに気付いたようである。少し口元がゆるみ、喜んでいるように思えた。妻がしきりに母の耳元に、頑張っている。元気ですと話すと、お前たちも・・・大口・・・よろしく・・・、かすかに聞えたと妻は言う。大口か。母も大口を。僕と母の人差し指で心が通い合った。あの八竜町大口。体にサーッと炎が走った。母の細くなった腕の中に、僕は僕の人指し指で書いた。
 ありがとう、かあさん。
 この日は八月二十七日。気温三十三度。酷暑。スケッチ母の顔二枚。
合掌
(注 合併 三種町大口)
 
母あっての私
神奈川県 岡田 和子
 私は就職して二十八年間、藤沢市役所で働いております。
 今、振りかえると母との思い出がよみがえってきます。山梨県の田舎で長女として生まれて、初孫でしたので祖父、祖母、みんなが喜んでくれました。
 一歳の検診で健康優良児にも選ばれました。
 その頃は片言でマンマとかウマウマとか言っていましたが、百日咳にかかり高熱が下がらず、何度もストレプトマイシンの注射を受け、熱も下がり元気になりました。
 しかし、二歳が過ぎても片言の言葉も進まないので、医者にかかるようになりました。
 東京の大学病院で検査の結果、ストレプトマイシンの副作用とわかり治療を続けました。
 三歳児保育の頃、急に歩行ができなくなり病院に入院しました。その結果、小児麻痺と診断され、東京の新宿にある都立障害者センターに通い、重い赤い靴を作ってそれを履いて足を引きずりながら、辛いリハビリの訓練をしました。おかげで上手に歩くことが出来るようになりました。
 小さい頃の記憶に、母と一緒に朝早くから険しい山道を歩いてバスに乗り、それから電車に乗って山梨ろう学校の幼稚部に通う毎日でした。私はまだ小さくて、三歳だったので歩くのが大変で帰りは母におんぶされて眠ってしまったので、母は疲れたに違いないと思います。
 遊び好きな私は、遠くまで遊びに行って暗くなり父や母が心配して探し回ったこと、近所の友人と蜂の巣を捕って蜂の子を炒めて食べその時、蜂に刺されて痛かったことなどを覚えています。随分、祖母と母を困らせたり心配させたりしました。
 アニメの「隣のトトロ」のように、自然の中でのびのびと育てられた記憶があります。
 祖父や祖母から勧められて六歳の頃、両親と一緒に上京して東京の品川ろう学校に転校しました。品川ろう学校の幼稚部では五十音の口形文字の絵を模造紙に書いて壁に貼って、それを見て声の出し方や、体にさわったり喉にさわったりして、読話口話を覚え練習しました。
 名詞を覚えるのに家中に紙に言葉を書いて貼り、鏡を見て口形で言葉を覚えることなど苦労しました。学校だけではなく家でも発音を随分練習したことも覚えています。小学校二年生のとき掛け算九九を書いて壁に貼って覚えましたが、家中紙だらけになりました。
 耳から言葉が入らないので、目で見て覚えさせるために必要だったのです。
 よく叱られて、よく泣いたのも覚えています。そのおかげで完全には出来ませんが、健聴者と会話が出来るようになりました。
 東京に越してからは田舎のような遊びが出来ないので、家で本を読んだり母の洋裁の真似をして人形の服を作ったりしました。近所の友人と遊ぶと、いじめられたりしたことが多々ありました。小さい頃から負けず嫌いで勉強もスポーツも大好きで、運動会の時かけっこでいつも一番、リレーのアンカーとして走って一番でテープを切り、誇らしく思ったものです。
 中学生になった頃、私の右足の発達が遅く膝が痛くなりました。父や母が心配して、横浜市立大学病院に行って手術して治るかどうか、診察を受けましたが治らないことがわかりました。それでもバレー、卓球、陸上大会で優勝してメダルや賞状を沢山頂きました。
 大田ろう学校(高校・専攻科)に入学しましたが、ある人から「健聴者と比べるとかなわない。聾者が夢を追うのは無理だ」と言われ、健聴者なんかに負けないと心に決めました。
 普通高校に入るため、遅れた勉強を取り戻すのに必死でした。
 十八歳の時、普通高校に合格し入学することが出来ました。
 高校に入学してから試験勉強の時、深夜に母はお菓子や飲み物を持って来て、頑張るように肩をたたいてくれました。勉強はろう学校と違って難しくわからないことだらけでした。友達からノートを借りて勉強し、家庭教師の先生に英語を教わり四苦八苦しながら、無事に卒業できました。
 卒業の時、私がクラス代表で卒業証書を頂いた時、母は嬉しくて涙をこぼしました。
 卒業するまで就職が決まらず、私は母と一緒に職を探しに安定所に行きました。先生に相談して松下通信株式会社の面接試験を受け、内定したのですが、市役所で募集していたので試験を受けました。
 見事に合格した時は本当に嬉しく努力が報われたこと、母をはじめ家族や先生、全ての人のおかげと感謝しました。
 藤沢市民病院総務課に配属されましたが、色々と意志が通じないことがあったりしたため、辞めようかと思い悩みました。母に話すと戸惑いそして励ましてくれ、障害者代表の人に会って相談してくれました。私もここでくじけてはならない、辞めることは出来ないと思い頑張りました。
 しかし、ストレスのため眠れない状態(病名「自律神経失調症」)が続き、辞めようとしましたが、上司から辞めないで休養して戻って来なさい、と勧められて又、母にもそのようにアドバイスされ休養したおかげで回復ができて、今はおかげ様で元気で働き続けています。
 今思えば、母は幼い頃から障害を持つ私のために病院を方々回ったり、家族で上京して勉強させてくれたり、私の我儘を許してくれたり落ち込んでいた時、力づけて励ましたり応援してくれました。
 お母さん、私を厳しくそして、あたたかく育ててくださり見守ってくださって、本当にありがとうございました。
 私にとって人生の師であり、友でもあるお母さん!これからも、元気で長生きしてください。そしていつまでも、しっかりと見守っていてください。ありがとう!お母さん!


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