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逢えて有り難う
広島県 神邉 洋吾
 回顧すること、今から四十年余りになりますが、女の子が授かり一歳十ヶ月の頃でした。
 以前から脳裏を過ぎる不安を感じる日々、今日は明日はと子供が発する言葉をひたすら信じながらも、その不安がピークに達し、歳月は人を待たず、実感しました。時は無情にも過ぎ、二歳の誕生日を迎えました。
 前からそうですが、繰り返し呼び、手を叩けども、大きな音にも驚きもせず、その反応はいぜん見られず。
 いったいこの子の歩む道はどうなるのか、我が子だけがなぜ聴こえないのか、どうしてどうしてこの世の中に生まれ育って、この不公平に苛まれ沈痛でした、愛しい子供のためにも父親母親の責務として勇気を持って、小雪舞う寒い日でした。親子三人で専門病院に僅かな望みを信じ駆け回り、帰宅する頃には街の灯りがむしょうに輝いていた。それから二週間後であったと思います、最後の望みをかけ祈る気持ちで、早朝から確信ある聴力反応検査に大学病院に行きました。
 結果は、一番恐れていた事が現実になりました、深刻な聴覚障害診断でした。
 ただ一言でいい、お父さんお母さんと呼んでほしい、それも叶わぬ淡い夢と知りつつも悲嘆し胸迫る思いでした。ショックの大きさに、約一年余りは夫婦の会話も笑顔も無く暗い毎日で、いま思うにどん底でした。
 ご近所の同じ年頃の子供さんを見るにつけ、不幸な星の下に生まれたこの子を、神様仏様どうぞお助け下さい。この心情は聴覚障害者を持つ親は、些かも変らないものと感じます。
 そのうち、子供も成長し、ろう学校幼児相談日週二回程度通い、六歳には幼稚部方に入れて頂き、親もとを離れ寄宿舎生活となりますが、会うは別れの辛さ、の通りです。
 寄宿舎に子供を託し帰途の時間も迫り来る中、何となく子供心に感じたのでしょうか母親の裾を放さず、母を慕い涙をこぼし泣き叫ぶ我が子を振り切り、心を鬼にして逃げ帰りました。
 面会許可は月二回前後だったと思いますが、親子ともどもその日を一日千秋の思いで待ちに待った対面に、親の姿を見るなり嬉しさを体いっぱいに飛び掛り、涙の再会です。この辺は皆様方も既に体験済みと思います。
 親子楽しい一日も、既に陽は西に傾きお別れの時間も近づき、どのようにして子供の気をそらし、ごまかして離れるか複雑こもごもの心境であった。
 少し冷酷にも感じましたが、何としても親がここで強くたくましくならないとの思いを自分に言い聞かせ、幾歳を繰り返し、繰り返して親も子供も強く成長したように自負しております。
 その間少々飛びますが、小学部二年生の終わり頃から単独通学を、自宅から学校までバス、電車で約一時間二十分、自立性を身につける事でした。
 当初、それら交通網にかかる、乗り換え他間違いがないかの思いを胸に、忍者さながらの如く、後から見え隠れに物陰、電柱の陰から見届け冬の下校時は、それは大変でした。何分子供よりも先に家に帰り、そ知らぬ対応が続いた思い出があります。
 そして、家庭ではかなり大きな黒板と国語辞典大判を買い、その日の復習(読み書き)を遊び心を持って、好奇心を抱くように工夫し、私父親が慈悲心をもって接したものです。思いますに、子育ての要は家庭教育にあると思います。
 中学部になると、自我自立心旺盛で何でも挑戦して見たい年齢であり、そのまま高等部卒業まで続いたように見え、相変わらず親馬鹿を、私はやっております。
 卒業後、諸先生他みなさまのお陰で、NTTの子会社である某資料計算センター方に就職、その後結婚子育てのため退職し、現在地元食品メーカーで精励中、また一昨年には多くの方々のご協力を頂き、県雇用開発協会より障害者勤労優秀賞を受賞し、より一層日々何事にも、忍耐強く諦めず元気で頑張っております。
 親として今更のように感じます事は、貴方に、逢えて、ありがとう。そのもので有り人生は限り無いカリキュラムと自負、心情でございます。
 
「ろう学校の生活が現在の基礎をつくった」
東京都 小林 良廣
 亜由美は、今年三十五歳になった。
 今「たましろの郷」に入所し、日常生活でも仕事の面でも、安定した生活を送っている。
 ところが、新しい法律や制度のもとで、この生活もとりくずされようとしている。どのように対応したら良いのか、私と共に歩んできた親たちも、六十代から七十代になって、我が子を再び引き取り、新しい「地域での暮らし」を考えなくてはならないのか、と言う新しい課題に直面している。
 昭和四十六年十月、千八百六十グラムで誕生、保育器に入っての生活、正に箱入り娘となった。体重が二千五百グラムになるまで入院という事に、母親もという事であったが六歳と三歳のお姉ちゃんがいるので、母親は退院を希望し、父親である私が、勤めの帰りに必ず病院に立ち寄る事を条件に認められた。
 一ヶ月ちょっとで、体重が二千五百グラムを超え、退院できる事になったが、その時の診察で、染色体の異常による知恵遅れ、俗に言うダウン症候群であるが、染色体の数ではなく形状が8の字型と言う非常に稀な例で、ほとんど死産だそうである。
 その他には、心房中隔欠損、腎臓が骨盤の間に落ち込んでいて、更に股関節脱臼と診断された。とにかく知恵遅れがあるので、早期に訓練を始める必要があるとの助言があった。
 耳が聞こえないという事が判ったのは、かなり後である。
 知恵遅れのせいで言葉の出るのが遅いのだろう位に思っていたが、テレビで耳鼻科の医師が発語の遅い子の訓練をしているのを見て、早速尋ねる事にしたが、見ていただいた結果、「このお子さんは聴こえないのではありませんか」と言われ、担当の小児科医のところへ戻り、紹介を得て聴力の検査を受けたところ、聴覚障害と判定された。
 この子を出産した時の妻は、かなりショックを受けたと思うが、三人目という事もあってか、気丈に立ち直り、子育てに力を入れた。子育てに一生懸命になることで、何かしかの希望を見出そうとしていたようだ。
 用便、衣類の着脱、食事など二人の姉と全く同じようにやらせていた。身長が伸びないとか腕の長さ、指の長さが少し短いなど、外見的にも少し他の子供とはちがった面も目立ち始めたが、教わった事は器用に真似て、覚えていったようだ。
 幼稚園へ行くような年齢になり、姉二人が通った幼稚園に行ってみたり、学区の小学校の特殊学級の担任教師に相談したりしたが、このとき、亜由美を見たこの教師の一言、「このお子さんはろう学校が良い」の一言で、ろう学校へ行く事に決め、杉並ろう学校(現在の大塚ろう学校杉並分教室)の教育相談へ行き、ここで他にも同じような友達がいる、同じ立場の母親がいる、と言うことを目にして、新たな希望を持ったことと思われる。
 亜由美は始めて先生や同じ年齢の子供が珍しく、馴れるのも早かったように見える。
 母子でろう学校へ通うようになり、母親はいろいろ宿題をもらい教材作りを、一生懸命にやっていた。
 ここで始めて「ろう重複」と言う言葉と出会い、ろう重複学級の一員となり親も又、ろう重複児を持つ親の会の一員になり、活動に加わることになる。
 今考えると、二人の姉たちが良く母親の言うことを聞き、素直に成長したものだと感心する。
 その母親も心労が重なり、亜由美が小学部三年の時、肝臓がんになり四十六歳という若さで他界した。一転父子家庭となったが、今に及ぶまで家庭内に大きな問題も起きず過ごせた事は、母親の幼少時の子育てと、亜由美にとって寄宿舎が有った事が、大きく幸いしていると思う。
 最初に寄宿舎を勧められた時、亜由美にできるかな、と言う疑問もあったが事前に寄宿舎に行き舎内をいろいろ案内された時、職員室の戸棚を見て自分のカップはどれだ、などと聞いたりしていたので、興味はあったようだ。母親が亡くなったのが八月の初めなので、夏休みが終わり二学期から立川ろう学校へ替わり、立川ろう学校の寄宿舎に入った。
 最初は授業が終っても誰も迎えに来ない、という事が一寸寂しかったようだ。土曜日の授業が終ると自宅へ、月曜日は早朝に家を出て寄宿舎へ、という事を二、三度繰り返すうち自分の生活のリズムが判り、家族と会えるという安心感もあり、舎の生活にも慣れてきた。
 秋の舎祭りに行ったときは、すっかり落ち着いているのでこちらがびっくり、子供の順応力はすごいと思った。
 当時の立川では、先生方にも恵まれろう重複の仲間も多く、振り返ると卒業までの十年間、無事に過ごす事が出来たのは、本当に皆さんのお陰と言わざるを得ない。
 在学中に親の会も発展し、新たに子供達の将来を見すえて、施設づくりを目指す「めざす会」ができ「かたつむり」作業所も開所できる事になった。亜由美には、ここまで毎日通うのは厳しい事もあり、自宅付近の福祉作業所を利用する事になったが、多くの友人が中心になっている「かたつむり」の行事にはいつも参加するようにしていた。
 福祉作業所時代は、コミュニケーションに難があり友人関係は大変だったが、仕事そのものは持ち前の器用さで何とかこなす事ができ、ここも十年間大過なく過ごす事ができた。
 これまでの経験が生きてか、「たましろ」入所後もスムーズに生活の流れに乗る事ができたのだが、新しい法律や制度のもとでは、ろう重複で障害の重い子供達に、もう一度試練が待っているような気がする。


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