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[父と子の絆]
「健康と幸運に恵まれて」
山梨県 弘田 文範
 紹介されて訪れたお宅の部屋の中は、様々な物の下にその名前が書かれた紙片が沢山貼り付けられていた。
 学齢期を迎えたA君のお母さんは、子供さんに調度品の名前を答えさせたり、絵本を読ませたりしながら「この子達は教えなければ言葉を知りません。でも教えれば一つひとつ身につけてくれます。毎日の努力がはっきり現れて楽しいですよ」と私たちを励ましてくださった。
 また、NHK教育テレビで、テレビろう学校が放映されていることを教えてくださったのもこのときである。
 前日、東大病院で娘の高度難聴が判定されて、放心状態だった私たちの心に一筋の光明の灯をともしてくれたのである。
 四十年ほども前のことで娘がちょうど二歳の時であった。当時は難聴と診断されても病院通いに明け暮れ、なかなか勉強に取りかかれなかった方々が多かったことを思うと、私達は大変仕合わせだったと今も感謝している。
 特に、山梨の田舎に住む私達にとって、テレビろう学校が放映されていることを知ったのは大きい収穫だった。
 帰宅後しばらくして視聴したテレビろう学校はマッチング、呼吸訓練、読話、発語など私達にとってはじめて見聞きすることばかりだったが、参考文献も少なく市販されている絵カードもなく、他に頼るものとてないままに真剣だった。
 毎回の内容を記録し、私達に出来ることを工夫しながらの勉強だった。布切れをいろいろな形に切りとって入浴時に濡らして壁や窓に貼り付けてのマッチング、雑誌の写真や絵を切り抜いての枝カード作りなどはその一例である。
 共稼ぎであった私達は時間を取ることに苦心しながらも、実質的指導者である母親に家族みんながよく協力した。
 テレビろう学校で学ぶ子供達が、順調に成長していることに挫折感を覚えながらも努力を重ねた結果、三ヶ月ほどして漸く「ブルブル」(飛行機)の読話が理解できたときの感激は今でも鮮明に覚えている。その後も何度か壁に突き当たりながらも継続できたのは、家族みんなの執念ともいうべき想いの結果だったのでしょう。
 
 幸いなことに隣家に二歳年長の女の子(健常者)がいて、日頃からよく面倒を見てくれていた。四歳の時地元の普通保育園に一緒に通園してもらった。
 はじめての集団生活であったが本人も周囲の子供達も、まだ障害を意識することがなかったためか支障はなかったようである。
 翌年、山梨ろう学校幼稚部に入園したが、二年ほどしてインテグレーションの話が始まった。
 山梨では聴覚障害者が普通校で学んだ例はなかったが、熱心に推奨してくださる方々もあって大変迷った末、地元の穂坂小学校一年に三学期から転入することになった。
 転入後間もない一月中旬、県下の書初め大会で入選し、普通学校にも定着できたようである。何か特色を持っているとインテグレーションも比較的容易であると思われる。
 中学・高校は甲府市内の山梨英和学院にバスと電車で通学したが、卒業時には六ヵ年皆勤賞をいただいた。卒業後上京して工芸デザインを専攻する。
 はじめて親元を離れ、知らない土地での生活には不安も大きかったが、いずれは社会生活も逃れることは出来ないのだからと思い切って実行に踏み切ったのである。
 来客を知らせるフラッシュランプやファックスを整えながら、私達もかなり気を揉んだが、本人は上京している英和中・高時代の友人もいて、結構一人暮らしを楽しんだようである。
 「甲府は宝石の町だから」という恩師の勧めもあって、卒業後はUターンして宝飾関係の会社で、七年間研鑽したあと自立して現在に至ってる。
 
 何とか普通社会に適応できるように育てたいと、幼少時から出来る限り一般社会に馴染ませることに努力したこともあってか今も手話は不得手である。また、躾とともに様々な体験を積ませることにも気を配った。お使い、買い物、旅行など可能な限り参加させてきた。今では家族や親しい友人との国内旅行などの多くは、旅行社を利用せずインターネットを活用して自分で計画立案して実行している。ヨーロッパなど海外にも一度ならず出かけている。
 
 娘の成長を願って四十余年、振り返ってみると努力と忍耐と工夫の連続だったように思う。いま自分なりに生活を楽しんでいる姿を見て無駄ではなかったと思うこの頃である。
 これも健康と幸運に恵まれたことと、よき隣人や先生方そして素晴らしい友人達に支えられてのことと感謝している。また陰に陽にご支援ご協力をいただいた多くの方々に改めてあつくお礼を申し上げたい。数年前から娘は趣味として焼き物(陶芸)に凝っている。
 
聴覚障害の娘を育てて、今思うこと
千葉県 木内 弘司
 昭和三十八年娘が生まれて三ヶ月が過ぎた頃、音や呼びかけに全く反応が無く、寝ているベットにちょっと触れただけで「ピクッとして」目を醒ます様子を見て、もしかしたら耳が聞こえていないのではないかと不安に駆られた。
 しかし目は「きらきら輝いていた」ので、他に大きな問題があるとは思えなかった。
 五ヶ月が過ぎた頃二つの大学病院に「何でも無い」事を祈る思いで検査に通った。
 生後十ヶ月になった時、医師から「耳が聞こえていない、救う道は教育しか無い」と言われた時の驚きと悲しみは、覚悟はしていたとは言え大きな衝撃だった。
 これは障害児を持った親が誰しも通り過ぎて来た厳しい試練だったと思う。
 当時、幼い娘の寝顔を一時間も二時間も見つめながら、「この子の将来はどうなるんだろう、話が出来るようになるのだろうか、学校へ行けるだろうか、友達が出来るだろうか、社会へ出られるだろうか、結婚する事が出来るだろうか」と毎日思い悩んでいた事が、ついこの間のような気がする。発見が早かった為、教育も生まれて十ヶ月から始める事ができた。
 しかし、当時は零歳の乳幼児の教育を受けてくれる聾学校は無く、指導書も教材教具もあまり無い時代だった。それでも同じ子供を持った親や、聾学校から情報を集めては、家内が乳児を連れて教育相談に行き、帰って家で教えると言う生活が続いた。
 日本聾話学校の夏期、冬期講習に参加し、又個人指導をしてくれる先生を探しては訪ねた。
 学齢二歳の時、当時のテレビ聾学校に一年間出演し学ぶことが出来た。その時の私達夫婦はまだ若く、悲しむよりも「日本一の聴覚障害児を育てよう」と挑戦心に燃えていた。娘が三歳になり今までの家庭での模索の教育から、当時の教育大付属聾学校幼稚部に入り、ようやく聾児の教育に慣れて来た頃、私はどうしても子供の障害の原因が知りたく、幾つかの大学病院で原因追求の検査を依頼した。
 ある時、検査の中で五歳の娘の眼球に針を刺し、電極を入れ眼筋の力をグラフに取るのを恐怖で震えながら耐えているのを見て「可哀そうな事をしてしまった」と反省し、その後一切その為の検査はしない事にした。
 娘が八歳の時、西独のレンツ博士が来日の折、耳の聞こえない障害児の中にサリドマイドに依るものがあると新聞などで報道された。幾つかのサリドマイド障害の特徴が発表されたが、そのほとんどの特徴が娘に当てはまるものだった。私も妻も睡眠薬や胃腸薬を飲んだ記憶は無く、家内の体調の不調を訴えた妊娠初期に訪ねた、内科か婦人科で投与された薬の中に、サリドマイド剤が入っていたのではないかと思った。
 当時は、睡眠薬イソミン、胃腸薬プロパンMのサリドマイド剤は妊婦でも安全と売り出されていた。第一回の厚生省の発掘調査に申請し、サリドマイドに依る障害であると認定された。
 この認定にあたって、過去の原因追及で受け取っていた検査資料を添付した。資料の多さに厚生省の担当者が驚いていたのを覚えている。
 娘は付属聾学校で小学部一年を終えた後、近くの普通小学校へもう一度一年生からインテグレーションした。インテグレーションにあたっては聾学校、地元教育委員会、受け入れ小学校の温かな指導があった。
 普通小学校の六年間の生活は少々のいじめには遇ったが、先生や友達に恵まれ、楽しい小学生の時を過ごした。学習面では学校だけで吸収するのは難しく、担任と相談し先生が使う指導書を手に入れ家内が家で補った。高学年になると家内では難しくなり、家庭教師をお願いした。家庭教師の助けは高校を卒業するまで続いた。
 小学校時代、娘は走るのが早かった事と絵が得意だった事が、適応するのに多いに役立った。
 緑化ポスターや節水ポスターなどで娘の絵が印刷され、市内に貼り出された時は、担任の先生や校長先生からも喜んでいただいた。この経験から、インテグレーションをするお子さんは何か一つ得意なものを持っていると、適応しやすいように思う。
 中学進学については夫婦で早くから考えていた。
 市内に幼稚部から高等部まで持った男女共学の私学があり、生徒数も少なく最適の学校だと思っていた。学園長とは以前から親しかった為、早くから事情を話し受験させてくれるようお願いしていた。
 「入試に受かれば障害は問わない」と言ってくれていたが、判定委員会では「前例が無いから」と否定的な意見が多かったと聞いた。入学が厳しい状況だったが、最後にベテランの女性の先生が「私が面接したが、この子は食い入るような目で、私を見つめていた、入学させてみたい」と話され、入学出来たと後日学園長から聞いた。
 高校の三年間はこの女性の先生に、担任として温かく指導していただいた。
 この学校での中学、高校での生活は本人に取って毎日が楽しく素晴らしいものだったと思う。沢山の友達に恵まれ、知らない世界を見、初めての経験をし、行動範囲を大きく広げていった時期でもあった。
 子供には幼い時より、善悪ときちんとした挨拶が出来るよう厳しく躾てきた。この事が友達や先生に恵まれた要因の一つだと思っている。
 高校を卒業し美術学校へ通いだした頃、それまで知らなかった手話を覚える為、地元市川市の手話サークルに入った。
 その中で知り合った健聴者のサークル仲間の男性と卒業後まもなく結婚した。その娘も既に四十三歳、大学生の男の子と高校生の女の子の母親として、甲斐がいしく夫や子供の世話をしている姿を見ると、障害の子供を育て上げた安堵の気持ちと共に、改めて娘にとって聴覚障害とは何だっただろう、我々家族にとっては何だったろうかと思い直してみる時がある。
 私達夫婦にとって最初の子供が障害であった為、その後の家族計画や人生設計に大きな変化を余儀なくされた。今振り返ってみると随分遠回りな教育をして来たと思う事もある。
 しかし、障害を持っていても子供の成長する力は、親が思っている以上に強く大きく無限なものが有ると、つくづく感じている。
 障害児を持った事により、私達夫婦はどれ程多くの事を学び成長する事が出来たか、計り知れない。他人の痛みを感じ、思いやりや優しさ、相手の立場で考える事が多少出来るのも、娘の障害によって学ぶ事が出来たからだと思っている。
 親は老いて行き助ける事は出来なくなって行く。
 これからは自立した社会人として、自分自身で生きて行かなければならない。
 いやでも障害の有る事を思い知らされるであろう。
 それを一つひとつ乗り越えた時、障害を忘れた世界が待っているように思う。


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