念ずれば花開く
青森県 成田 キミエ
娘達と出会って三十五年、思えば昭和三十八年、長女四歳、次女二歳、親、姉妹、親類、知人殆どの方達の反対を押し切って、後妻として右も左もわからないまま、ただまじめそうな夫を信じ結婚致しました。
長女は既に幼稚部に入り、小さいながらも寮生活をしているとの事、数日後夫と共におそるおそる面会に行きました。まだ四歳です。母を忘れたのか、間違ったのか、会った瞬間居室の隅から走ってきて、私の手土産に触り頂戴と言わんばかりに、嬉しそうな寂しそうな仕草をしたのが、私の涙を一層誘いました。
「この子に何の罪があろう」と思った時、若さも手伝い「これから先どんなつらいことがあろうと、この子の手となり足となり私は決して別れまい、そしていつかはきっと笑う日がきてくれる」と強く心に念じました。
それからは、毎日子供達の勉強やら衣類やら等の準備に追われ二年が過ぎ、長女は聾学校の一年、私も長男を生み、家族も九人となりとても賑やかな日々が続きました。
一方、次女も保育園にと誘われるも、聞こえが悪いのか言葉が出ないのです。とても不安でしたが「お客様でもいいですから」とお願いし、私立の保育園に通うことにしました。しかし、家庭教師をつけながらの二年でしたが就学時期を迎える時もやはり言葉が出ず、次女も聾学校へ入学となりました。ところが毎日通う中で私は音に対し時々振り向く姿に気づき、恥を忍んで先生に相談致しました。
校長先生に厳しい口調で「受け皿はどうなっているのか、また途中で断念しても二度とわが校では受けることはできない」と言われました。「教育ってこれでいいのか、何とか残っている機能を引き出せないものか」と素人の私はむっとなりましたが、長女が世話になっていることを思うと何も言えません。しかし、どうしても諦めることができず、言葉の教室と親学級の掛け持ち、又毎日付き添うことを条件でお願いしたところ、普通の小学校の入学が許可されたのです。不安の日々が六ヶ月過ぎたある日のこと、「この子はどこにも返さないからお母さん卒業までしっかり頑張ってください」と校長先生に言われた時は、本当に神様に見え家族全員で喜びました。
日ごとに言葉も多くなり、秋の学習発表会には、耳を傾けながらオルガンを演奏し、担任の先生と思いっきり泣いて喜んだことが昨日のように思い出されます。やがて、沢山の皆さんに支えられながら、難聴のため人数の少ない私立の中学校へ進みました。
毎日のセーラー服での通学は、楽しいことばかりではありませんでした。友達とうまく通じないため、スカートのホックがとれるくらいいじめられることもありました。子供の喧嘩とばかり思っていた矢先に「耳が痛い」と帰ってきた時には、「絶対耳だけは」と我を忘れて学校にお願いし「二度とこのようなことはないように」と手を合わせました。
やがて、沢山のドラマのあった中学生活も終わりとなり、美容師をめざし横須賀へと向かいました。ところがお客様とのコミュニケーションが上手くとれず五年間の修業とお世話になった皆さんに別れを告げることとなりました。
このように苦難の道が続いた数年後の昭和五十六年に、私達が以前から少しでも社会に恩返ししたいと思って計画しておりました特別養護老人ホームの認可を頂きました。早いものでホームも今年で十八年となります。
そして、長女も一児の母となり職員や老人達に支えられながら、五年間勉強した美容の仕事を無駄にせず、お年寄りの理美容に気を配り、感謝をいただきながら頑張っている今日です。
最後に欲張りと思いますが、娘達のこの小さな幸せが今日も明日もあさってもずうっと続くようにと「念ずれば花開く」を唱え、そして、本日拝聴してくださった皆様方に感謝申し上げ終わりとさせていただきます。
長野県 丸山 トシ子
私は、長野県穂高町に住んでおります。穂高町と言っても知らない方も多いかと思いますが、あづみ野と言えばおわかりでしょうか。松本からは車で三十分、オリンピックが開かれました白馬には、一時間半です。雄大な北アルプスを望み、ワサビと水の豊かな所です。冬には白鳥が飛来してきます。そんな自然の豊かなあづみ野に、これからお話し致します長男秀樹は昭和四十三年二月五日に誕生しました。
弟と妹がおりまして、兼業農家をしておりますので子供たちには小学校の時から種まき・田植え・稲刈りの手伝いをさせました。親が忙しく働いているのを横目で見ながら遊んでいる子供たちには、育ってほしくなかったからです。今では時期になると、いつごろするのと聞きそれに合わせて自分たちの予定を立てています。なくてはならない頼もしい戦力です。私は家族に頼っている面も大いにあります。やってもらった事に対しては素直にありがとうと感謝の気持ちを伝えています。
秀樹は途中からの障害でして、話すことは普通です。早く自立してほしいと願い甘やかす事なく、他の子供と区別することもなく、厳しく叱り土蔵の中に入れることもあります。お小遣いは必要に応じてあげていました。愛のムチも時には必要です。でも夏には能登半島でキャンプをしたり、冬にはスキーに行くなどの家族旅行も楽しい思い出です。
親子で本当に困り壁に突き当たるような事もなく、今まで来たように思います。苦労を苦労とも思わない子育てでした。今は医学も進み、頭の中に機械を埋め込み聞こえるようになったとの事を知り、もう一度検査を受けてほしいと勧めたのですが、僕は今のままでいいからと言われた時には親としての責任の重さと申し訳ない気持ちで胸が痛みました。
これからお話いたしますことは、聞きにくいところもあるかと思いますが、どうぞお聞きください。
外で遊ぶことの大好きな元気な子でした。四歳のときテレビを見ていましたら音を大きくしたので、どうしたのと聞くと、このくらいの音がよく聞こえるといったんです。その時は、余り気にしませんでしたが時々大きくするので近くの耳鼻科に行き検査をした所、心配はないとのことでした。それでもと思い、信州大学病院にも行ったのですが、少し聞こえは悪いけれど大丈夫とのことでした。
小学校に二年生の夏にこんなことがありました。田んぼで仕事をしていると、ごはんだよといって呼びに来てくれ、家に帰ってみると万能鍋でごはんを炊いていてくれました。ビックリしました。教えたこともないのに、どうしてこんなに上手に炊けたのと聞くと、お母さんのやる所を見ていたと言ったんです。その時、親はバカな事は出来ないと感じました。
三年生の時に、アデノイドがあるので手術とすれば聞こえもよくなるといわれまして手術をしました。しばらくは聞こえも良く、安心しておりましたが、六年生の頃にはだいぶ聴力も落ち中学からは、松本ろう学校へ入学することになりました。他に通学していた二人と一緒に電車とバスを乗り継いでの通学で、今までとはガラリと変わった雰囲気の中での学校生活に大分戸惑いと苦労があったはずですが、もうイヤだと泣き言を言ったことは一度もありませんでした。高等部では鳥取県の国体に水泳部で出場しましたが成績はあと一歩でした。家族で応援にも行きました。信州アマチュア美術展にも入選し、車の免許を取るなど青春を楽しんでおりました。
卒業後は先生の勧めもありまして、名古屋の学校へ進学することになりました。知らない土地での学生生活が始まり私たち夫婦も度々訪れまして生活ぶりを見てきました。土木関係の仕事が好きで僕の卒業記念に何か作ってあげるよと言ってくれましたので、食器棚がほしいねと言ったところ大きな立派な物を作ってくれました。この器用さっていったい誰に似たのと思うと我が子ながら感心しました。親バカですよね。世界に一つしかない我が家の宝物です。
就職は愛知県の西尾市にありますデンソーに入社することが出来ました。ほとんどのメーカーの車の部品を作っています大手の会社です。そして難しい技能検定試験の一級にも見事合格をして、隔週で夜勤をしているがんばり屋です。本人が言いますには、超難しかったが最後までやり遂げたと満足そうな顔でした。
学生の頃からお付き合いをしておりました、みゆきさんと言う素敵な女性との結婚の運びとなりまして、その嬉しさに知人に話しました所、なんだ耳の聞こえる人ではないんだとの言葉にショックを受けました。世間では、障害を持った人には冷ややかな目で見る人が多い日本ですよね。自分だっていつ何時障害者になるかもしれないと思うことはないのでしょうか。
みゆきさんもデンソーに勤めるかたわら、一年がかりでシルクのウエディングドレスを手作りするほど、とても器用な女性ですが、肝っ玉母さんでもあります。秀樹は、短気な所もあるのでピッタリの方です。そして二人揃って二月五日の誕生日です。きっと太い赤い糸で固く結ばれていたことでしょうね。式の打ち合わせには両家で何度も名古屋に出かけました。会社には式場がありまして、六十名ほどの和やかな結婚式でした。式にかかりました費用と新婚旅行の旅費はすべて秀樹が自分で払ってくれまして親の出る幕はありませんでした。
新婚旅行で行ったニュージーランドではバンジージャンプをやり記念にと、お土産用の太いロープをもらってきました。その後四年間はアメリカ アラスカにはオーロラを見に行くなど八回もの海外旅行を楽しみました。しばらくは社宅暮らしでした。赤ちゃんが出来たよと聞いた時には、嬉しさの反面二人だけでどうやって子育てをするかと心配の方がまず先に頭をよぎりました。夜泣きしても聞こえないし、人より何倍もの苦労もあるしと、かぎりない心配をしましたが泣き声がするとライトがつく物があるとのことでした。出産してからは話しかけや本を読んであげたり、歌を歌ったり、寝かしつける時には、いやし系の音楽をきかせるなどして見事な子育てをしてくれています。子供は四歳の長女未桜ちゃん、四月生まれなので未来の桜と書きます。長男で二歳の永遠君、次女で一歳の璃々ちゃんの三人です。
四年前からみゆきさんの両親との二世帯住宅を建て蒲郡市に住んでいます。近くには山や公園児童館もありまして、三階の屋根からは海が見える住みよいところです。今も共働きなので七時三十分には家を出て三人を保育園に預けその足でみゆきさんは職場に向かい、一日働いて夕方六時ごろには親子で帰ってきます。秀樹は、夜勤の時には夕食を作っています。家事全般を手際よくやっている姿をみまして、小さい時から男女に関係なくなんでも自分で出来るようにと育てたことが今になって役に立っていることを実感しました。きれいずきで、整理整頓の上手な二人です。お互いに助け合って暮らしている姿は立派です。健康面のことや、食事、栄養のことなど私が健康教室で勉強したことはファクスをしてあげ、治療より予防が大切と念を押します。又、洗濯機の層内のカビはアレルギーの素なんだってと話すと、月に一度は専用洗剤できれいにしているとのことで私より、まめにやっています。
そしてポツリと言った一言が、お母さんのときは、紙おむつが無かったから大変だったなーと、子供を持って知る親のありがたさでしょうか、胸がジーンと熱くなりました。子供たちの誕生日には、必ず旅行をしています。こちらに帰省した時は二人だけの時間も大切にと送り出してあげます。孫から見まして、おじいちゃん・おばあちゃんと呼ぶ人は四人いますので、考えて名前がいいと考えました。はじめは「おばあちょん」と呼ばれたので、返事をしないでいると、しばらくして『トシちゃん』と呼んでくれたので、「ハーイ未桜ちゃん」と言って抱きしめてあげるとニッコリ笑ってくれました。主人のことも、やっちゃんと呼んでくれます。年齢の差は大きいのですが、友達感覚で遊ぶことが出来ます。時々未桜ちゃんから電話があり、今何をしていたのと聞くのでご飯を食べていたと話すと、未桜ちゃんは栗ご飯をたべたとのことで、忙しいのに季節の料理を作り味わっているのだと思うと嬉しくなります。
二人からはメールや写真つきのファクスが送信されてきまして、遠く離れていても、孫の成長振りがわかりますのでありがたいことです。三人の子供たちがパパママの耳になってくれまして、未桜ちゃんは少し手話が出来ます。これからますます楽しみな孫たちです。私もこれから先の人生は、周りの人たちに好かれてかわいく年を重ねていきたいと心がけています。
最後になりましたが、このような素晴らしい機会を与えていただきましたみなさま方に感謝致しますと共に、この数日間は一寸した作家気分も味わうことが出来まして、私の心の宝物が又、一つふえました。今日は、本当にありがとうございました。
千葉県 五十嵐 和恵
我が子、優太は、ろう学校で学んだことで、豊かな感性と自発的なコミュニケーションを身につけることができるようになりました。本日体験発表をさせて頂くのは、その感謝の気持ちを、今まで支えてくださった先生方にお伝えしたいのと、同じようなお子さんを持って悩んでいる仲間にエールを送りたいからです。
十一月で二十歳になった息子は、ろう重複障害者です。聴覚障害に加え身体障害・精神障害・視覚障害・知的障害などを併せ持つ人たちをろう重複障害者といいます。彼の場合は、重度の知的障害を持ち、身体的にも大きな遅れを伴ったこともあります。
生まれて直ぐ発達障害のあることを知らされ、心臓疾患を持つことで生きている事さえ危ぶまれた時期もありました。一歳半で無事心臓手術が済み、体力的にも落ち着いてきましたが、それでも一日の大半を寝ていました。笑わない、泣くこともない、目を合わせる事も、音に反応する事も全くない。その事が、ただの発達の遅れからではない事を知ったのが二歳半のときでした。病院での聴覚検査では、測定不能。ドクターから紹介されて行った『母と子の教室』に月一度の相談に通う事から聴覚障害への私の認識が始まりました。聞こえているが反応しないのか、全く聞こえていないのか、音を見せる、感じさせる訓練から始まりました。彼の目の動きを観察し喜ぶことを見つけながら優しく一生懸命接して下さる田中先生の姿は、聞こえない上に、読み書きも出来るかどうかもわからない子にどうやって物事を教えていけるのか不安と絶望感でいっぱいだった私の支えとなりました。
当時、口話教育、インテグレーションヘの傾向の強い時期でしたので、息子のような重度の知的障害をもつ聴覚障害児には相談場所も少なかったようですが、薦められるまま、当たり前のようにろう学校の幼稚部に入学してしまいました。しかし、歩けない子、反応のない子、まだ一日の半分を寝ているような弱々しい子を連れて、車で片道一時間以上の通学は大変でした。
優太を受け入れてくれた足立ろう学校はトータルコミュニケーションを取り入れていましたので、知的遅れのある子でも一緒に生活できる環境でした。でも息子が、学校でみんなと一緒に活動する事は難しい事でした。私は、先生方の、全身で感情を表現し語りかける姿を見て、聞こえない子への情報の与え方を学びました。しかし、どう語りかけても反応も無く、目もあわすことの出来ない、見てくれない我が子に空しさを感じ、あきらめの思いとの戦いの日々を送ったこともありました。そこでも、子供を大切に諦めず指導してくださる先生方の姿に支えられ、通い続ける事ができました。少しずつ目を合わせることができ、ニヤッと笑うようになり共感することを覚えてくれました。好きな言葉を一つでも獲得させようと、大好きだった「アイス」、「肩車」のサインを繰り返しました。この言葉の獲得が、彼の言語表現の始まりとなりました。
小学部もやっと歩けるようになったばかりで椅子に腰掛けて学習のできるような状態ではありませんでしたが、簡単に入学は許されました。手探りながらも一生懸命、言語獲得に力を注いで下さり、重複の子供だからという差別も無く、学校生活を送れたことは幸運なことでした。先生とマンツーマンで二年生まで指導して頂けたおかげで、生活に必要なサインのほとんどを身につけることができ、三年生からは重複の仲間と一緒に椅子を並べて生活することも出来るようになりました。手話を許された学校でしたので、普通クラスの子供達も弱い息子のお世話をしてくれたり、授業以外の時間は一緒に活動するような環境が許されました。彼にとって、いつでも聞こえないこの集団の中にいられたことは、多くの情報を得られる機会となったのです。健聴者にはできない表現力を持っている彼らによって、感情の読み取り、伝え方を教えられたようです。先生や親では、いつでも指示的だったり、物分りが良すぎるため、彼自身の葛藤が乏しくなったと思います。その経験で会話にはなりませんが、豊かなコミュニケーションを持つことができました。
こうして、ろう学校で高等部まで過ごすことができたのには、その時々に必要な指導をしてくださった先生方のおかげだと思って感謝しています。特に中学部から高等部の思春期の時期にその年齢にふさわしい対応で、個人を認め、自発性を促してくださったおかげで大きな成長が見られました。普通クラスの同級生にも恵まれ、一緒に活動するために誉めたり、叱ったり、仲間として認めてくれました。彼ら自身も重複障害者と活動することによって豊かな感情を身に付けたと思います。これも、かげで導いて下さった先生方の力が大きかったと思います。
重複障害児の教育については、手探りで進められています。そのため、いつも養護学校との比較が余儀なくされ、将来の集団を考えて薦められることも多々あります。私も進学の際に、いつも養護学校も考えました。しかし、そのたびごとに、ろう教育の必要性を感じました。養護学校は聞こえることが当たり前なために、いつも音があり、どこでも音楽が飛んできます。反応しなかったり、しゃべらないのは知的遅れのためと判断されてしまいがちです。
親でさえ聴覚障害が理解できず、そう思って諦めてしまっているのです。小さなろう重複の子を持つお母さんは、自分の子供と優太を比較してうらやましく思うようですが、その子の方が同じ時期の優太より発達状態が良い場合が多いです。ただ、聞こえないことに重点を置いた指導の仕方、環境を作ることが難しいためコミュニケーション不足となってしまいます。知的遅れがあるために、しゃべれない、解らないと解釈され、伝わってないから、反応できないということに気付かない。情報不足によって障害を大きくします。そしてそれが本人のストレスとなります。養護学校で、丁寧に言葉の指導をしたら充分ではないか、と思った時期もありました。しかし、聞こえない集団というのは、ろう重複児にとっては、とても大切なのです。
息子は、幸運にもろう学校という環境の中ですごすことができ、適切な指導をしていただいたおかげで、今日聞こえる人の多い、地域の知的障害通所更生施設でも、自分を殺すことなく伸び伸びと生活できています。今だからこんな風に自信を持って、これまでの選択肢に間違えが無かったと言えますが、無駄なことをしてるのではないか、もっとよい指導方法はあるのではないかと常に悩んでいたのも事実です。
今、住んでいる千葉県にも「たましろの郷」、「ふれあいの里・どんぐり」のようなろう重複施設を作りたいと活動しています。こうした施設は、親が健聴であるために、聴覚障害の不自由さを理解し得なかったり、一生懸命に育てようという親の思いが強すぎるため、本人のストレスを大きくしたり、子離れできずに自立させられないといった間違いから救う場にもなります。安心して預けられる場としても大切な意味を持ちます。そして何よりも、大人になった彼らが、聴覚障害をもつ仲間と自立して生活してゆく場としての重要性を感じます。建設に向けて、難しい問題は沢山あるのですが、聴覚障害者の理解を深めるためにも拠点となる大切な施設です。以上が、沢山の先生方に支えられ子育てをし、多くのお母さんと子供の幸せを祈り活動してきた思いです。
最後に、聴覚に障害をもった子は、どんなに重度の障害を併せ持っていても、赤ちゃんが自然に言葉を聞いているのと同じ状況をつくること。反応があっても無くても、目から言葉や情報を入れてあげる必要性を、経験から強く訴え、体験発表を終わらせて頂きます。
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