日本財団 図書館


「夢を追いかけて」
東京都 奥泉 玉枝
 「どうも変じゃない」姉の言ったことがきっかけで思い切って大学病院へ行きましたが、小さい子なので専門の先生のいる病院をと、紹介して頂き、色んな検査でもやはり「一日も早くどこか学校へ行ってみることをお勧めしたい」そして「この学校へ行けば最高ですけれど」と町田へ移ったばかりだという日本聾話学校からのハガキを頂き細かく教えて下さいました。
 それからは、もう考えている暇などなく、先生の「早い方が」との言葉が耳から離れずその日本聾話学校へ相談に行き、ようやく入学が決まり(二歳二ヶ月)、東京での生活が始まりました。乳幼児部でしたが子育ても、耳の聞こえない子も全くと言ってよいほど知らない事ばかりで大変戸惑いました。最初の何ヶ月間はフェリシア館に入れて頂いたのですが、夜になると両側の部屋からお母さんが大きな声で勉強を見てやっている様子で、だんだんエスカレートして子供がついに泣き出してしまう。朝起きると、また夕べの続きなのでしょうか、同じような感じで母子で戦っている・・・でも八時頃になると二人でニコニコ出てきて「行ってらっしゃい」と手を振っているのを見るとホッとしましたが。
 私にこんな事が出来るのだろうかと毎日、両隣の激しい様子を聞いて本当に不安になったものです。その頃まだ浩美は「アーアー」と言うばかりで何にも話しません。でも少しずつ色々な場面で抑揚がつくような感じになり、一日中おもちゃで「ブッブー」と車を動かし、暗くなると電気を「パッ」と点けたり消したりして、すっかり気に入り、「パッパッ」と喜んでいたものです。これが言葉の始まりだったのですね。
 時々やってくる父親が、インコを連れてきてくれて、ピーちゃんと名前を付け「ピーちゃんピーちゃん」と呼んで、手の上で餌を与え、どこへ行く時も連れて行くのですが、ある時電車の中で飛び出してしまい、皆が「あー」と笑いながらどうにか捕まえてもらい、その場がすごく和んだのと普段は人にすぐには馴染めない子供だったのですが、その時は、さすがに嬉しかったのでしょう、頭をペコペコして(私の真似ですが)お礼の気持ちを身体で表していました。
 小さい頃は、電車で出掛ける事が多かったのですが、幼稚部に入りある時、玉川学園の辺りでトンネルに入ると「マックマック」と言って叫びトンネルから抜けると「アケターアケター」と言うので、後で先生に話すと「これはすごいです。」と大変褒められました。
 それから少しずつですが、色々な場面で「アダッ、オカチーワネ」とか友達と遊んでいるとき、私を見掛けたりすると「アリッ、ママチャンダ」などと言うようになり、その頃、流行った「およげたい焼きくん」などレコードが擦り切れるほどぺープサートなど使いながら楽しみました。「ぞうさんの歌」なども低い音で障子などが揺れて響くのが気に入り、象さんになった気分で調子を合わせてドタバタです。
 でも、学校へ行くと、口が重くなり固まってしまうので、個人指導の時など「浩美ちゃんは目でお話しする」と言われるほど、なかなか口を開きません。言われた事は分かっていて目で答えているのだそうです。こんな風に表情で理解して貰える・・・これはとても嬉しいことでした。
 仲良しの友達だけでなく、皆と楽しくできたらと思っていましたが、それが、なかなか打ち解けず、来年、小学校という時、一年遅らせてほしいと先生にお願いしましたが「それは無理です。本人が納得しないでしょう。」との事でハラハラしながら、地域の学校へインテグレートしました。
 でも、この性格は殆んど変わりなくこのまま中学校へ進むより、思い切って環境を変えてみたいと担任の先生に相談したところ、「出来れば、その方が良いかもしれません。今、○○中学校は大変荒れている状態なので心配ですね。」との事。どこか全く別の所でと思っていたことが急にバタバタと動き出し、何の準備もしていなかったので、さあ大変です。五年生になってからその方向でとなったのですから、本人も大変だったと思いますが、慌ててから回りばかりでした。六年生になり、年配の男の先生が担任となり、色々と調べて下さったり、問題集など「こんな物を使って勉強してみたら、そして出来たら学校へ持ってきて」と放課後見ていただいたり大変お世話になりました。家では孫の試験勉強を見ているとかで「責任があるんで大変なんですよ」などと誰にもとても優しいおじいちゃんのような先生でした。
 そして、何とか念願の学校に決まり、担任はじめ校長先生などから大層喜んで頂きこんなに心配してもらっていたんだと、今までの色々の事がフーっと消えた気がして肩の力が抜けました。
 そして、中学入学の時、その時の光景が今でも目に焼きついています。まず明るいのです、どこまでも広く開放感に溢れた校内の雰囲気に胸がドキドキするほど感動したものです。この喜びには実は、深い思いがありました。子供が幼稚部の時、迎えに行く一寸前に必ず見るテレビ番組があったのです。NHKの教育相談だったのですが、電話でお母さんが相談すると、そこに金沢嘉市先生と丸木政臣先生がいてご自分の体験談などを交えながら優しく、ときに凛とした姿勢で答えて下さっているのですが、その先生のお話しが聞きたくて時計を見ながら観ていたあの丸木先生が校長先生でしたので、本当にこれで良かった、と不思議なほど気が楽になりました。
 とにかく、中学校へ入ってから色々な事が凝縮されていて書きたいことは山程ありますが、まず、夏の館山合宿です。最後の日には六キロ完泳を目指すのですが、毎日少しずつメニューを変えて徐々に盛り上げ、その日が来ると皆気持ちが一つになり、先輩達がコーチとして両側に着き絶えず声を掛けてくれ、船の上からは先生が見守り乍ら応援してくれる・・・。大変な人数で向こう側まで泳ぐ様は想像できますが、見事完泳出来て沖に上がると先生方、他沢山の人達が握手で迎えてくれ感動して泣き出す子もいるほどその達成感は物凄いもので、いつまでも忘れられない思い出となっているようです。
 こうして色々な体験を積み重ね、高校に進むと外からの人がいますから今までと違った人達との出会いがあり、ここでこれまでなかなか出せなかったものが、氷が溶けるようにどんどん変わっていき今までにない充実した学校生活が送れるようになり三年間楽しく過ごせました。
 大学へは又、同じ学校へ進み、そこでも益々伸び伸びとした様子でしたが、ただ、文章が気がかりの一つでした。よく日聾の大嶋校長先生は「心配しないで。この子達に好きな人が出来て手紙を書いたりした時、恥ずかしいと思えば一生懸命何とかしようという気持ちになり、そこで変わってくるから。」とおっしゃるのです。本当かなと半信半疑でしたが、大学で、何日以内に何枚とか大変な量のレポートを提出しなくてはいけない事が科目毎にあるので、図書室へ行っては書いていたようですが(もう、人には頼っていられない)、それですっかり鍛えられたのか、殆ど悩まないで済むようになり、これは本当に嬉しく安心しました。
 そうして、学校生活も終わり、運良くソニーミュージックのレコード会社に入社でき五年近く勤めさせていただきました。色んなテレビに出るドリカムなどの歌手が出入りし楽しい面も多かったのですが、人の出入りが多く、電話がいつも鳴っているような所でしたので、その対応を出来ないことがプレッシャーだったようで、気にしなくてよい、と言って頂いたのですが、申し訳ないという気持ちがあまりに大きくなり諦める事にしました。
 それからは、今までに出来なかったことをしたいと、旅行とか好きな教室に行って時間に追われること無くのんびりしていたのですが、熱心に勧めて下さる人に出会い、また勤める事になり、今もお世話になっております。
 旅行が好きであちこち出歩いていましたが、
 まさか自分が人様のそのお世話をする会社に入るとは思ってもみなかったようでしたが、入社すると間もなく今のうちに保険代理店の資格をどんどん上級まで取ったほうが良いと先輩に勧められ、休みの日など本にかじりついていました。その甲斐あって思ったところまでクリア出来、これが会社の新聞に載ったとかで同じ部署の上の方達から、自分がなかなか取れないのによくやったねと褒められちゃったと、くすぐったそうな顔で安堵の様子。
 「仕事が忙しくならないうちに頑張ってやった方がいい」と言って頂いて、あの時取っておいて良かった、今はとてもそんな暇ないよ、この頃は本当にいい人ばっかりだったねといたく感謝の様子で話したりしています。
 今の仕事は結構大変なようですが、何かの時「こういう会社に入ってこんな仕事が出来るなんて学校に戻ったら、生徒やお母さん達に話します、すごい皆の励みになると思います、どうぞ頑張って下さいね」と声を掛けて頂いて大変嬉しかったと帰ってきたり、色々言ってくださる人がいて、毎日夜遅く帰ってきますが、何とか励まされ乍ら仕事をさせて頂いております。
 小さい時のことを思いますと、こんな風に働けるなど夢の夢でした。「長い目で見てゆきましょうね」と言われた日聾の先生の言葉を時々思い出します。今まで多くの人にお世話になりながら、ここまで何とか来ましたが、夢中で過ごしていて、周りをゆっくり見たり考えたりする余裕がなく、大したお礼も言えずに来てしまったのだと、はたと気が付きました。改めて心よりお礼を申し上げます。
 本人もこの事をいつも忘れないでほしいと心から願っています。
 
「娘を語る」
神奈川県 岡田 敬子
 昭和三十一年五月三日憲法記念日の朝八時三十分、二千七百グラムの目の大きな可愛い女の子の誕生に、男の子しかいなかった家では大喜びでした。
 発育も順調で十ヶ月過ぎ頃から歩き始め、誕生日には餅を背負って、前方に並べられたノート、絵本、人形、鉛筆、そろばん、筆の中から筆を持って来たので、祖父、母達は字の上手な子になると喜んでくれました。
 一歳検診では健康優良児と褒められました。ボツボツ赤ちゃん言葉、ブーブー、ウマウマの片言が話せる様になり、家中の人気者でした。
 一歳の夏、風邪を引き、百日咳となり高熱を出し、ストレプトマイシンの注射を何回か射ち、熱も下がり元気になりました。二歳近くになっても言葉として進まないので、お医者様に相談して東京の大学病院で検査を受け、ストレプトマイシンの副作用による難聴であることがわかり、注射をした事が悔やまれました。病院で言葉の多い普通保育園をすすめられ、保育園に通園する様になりました。一週間ほど通園した時、急に歩行が出来なくなり、病院で小児マヒと診断され、そのまま入院しました。此の年から小児マヒは、法定伝染病に指定され隔離病棟に入院し、家では保健所で消毒をしたりと大変な思いでした。二十日間の入院でしたが、歩くにも足を引きずる様になり、耳の聞こえまでが悪くなった様な気がしました。歩行訓練の為、新宿の障害者センターに通い、重い革靴を作り、その靴を履いて根気のいるリハビリの毎日でした。
 その頃、難聴の子はその旨の学校に入り教育したほうが良いと、お医者様の助言もあり、山梨聾学校の幼稚部に入り、朝早くから山道を歩きバスや電車に乗って、笛吹川の近くの聾学校に通いました。始めは椅子に座って、先生のほうを見る訓練。次に「ア」の音を出す訓練、口の開きを見て胸の響きを手で触り、私の声の響きと一緒に「ア」の音の出し方。薄い紙に息を吹きかけ紙の振動を見ながら「サ」の音。喉で息を止め「カ」の音。舌を顎に当て「タ」の音。唇をゆっくり開けながら「マ」の音。唇を強く開きながら手の平に息を強く吹きかけ「パ」の音。体に触りながら五十音の出し方を覚えました。五十音が出たら口形文字と結びつけ、模造紙に口形文字を大きく書き天井に貼り、寝ながらでも覚えさせたものです。鏡を見ながら二人で口形を合わせたり、五十音の音と字がわかったら絵本を見ながら、花、鳥、魚というふうに単語を覚え、動作語は、山道を歩きながら先に行き、後から来る和子に「待って」と教え、木から落ちる葉を見て「はっぱ」「おちる」、転んで「いたい」「ころぶ」など、その都度見たことを態度で言葉を教えました。
 障害者センターに通いながら、東京の聾学校の勉強の進み方を知り、両親に東京で勉強させたいことを相談したところ、両親も寄宿舎に預けるのではなく、子供の教育は両親と一緒でなくてはならないから、後悔のない様にと上京する事を許してもらいました。
 昭和三十八年、小学校に入学する年齢でしたが勉強の差があり、品川聾学校幼稚部からの勉強でした。田舎でのんびり農業をしていた私達夫婦は上京しても西も東もわからず、主人は無我夢中で建築関連の仕事で朝早く、子供が寝ているうちから出掛け、夜は子供が寝てから帰ってくる毎日でした。私も和子と一緒に学校に行き、教室の後ろで子供達の勉強を見てノートに取り、家に帰ってから反復の勉強でした。
 八月末に弟が生まれ、ますます大変な毎日でした。朝、オムツやミルク、お弁当を持って、満員電車の中で負ぶったまま哺乳ビンでミルクを飲ませることも度々でした。
 二年生までは毎日一緒に通い、帰りの電車の中で覚えたばかりの言葉や自分の意思を大きな声で和子が話すと、回りの人達は驚きの目で見ていました。私は止めたいと衝動的に思いましたが、和子が一生懸命に話しているのを止めてしまってはと思い、相槌を打ちながら話をさせました。
 三年生からは一人で通学する様になり、時間的にもゆとりが出て、五、六年生頃はバスに乗り、隣町の習字の塾に通える様になり、習字は楽しそうに週一回、休まず通っていました。
 中学生の頃、右足の発育が遅いのを気にしたり、膝の痛みを訴えたので、横浜市大病院で診察を受けたところ、膝の痛みはなくなるけれど、小児マヒの右足の手術は無理なのでリハビリをして右足をなるべく使うようにと言われ、夕方遅くまで陸上に卓球に頑張っていました。
 大田聾学校に通う頃は、藤沢に転居し、田園調布の高校に通い、勉強も運動も良いライバルの友達にも巡り合い、充実した学校生活でした。
 しかし、普通の高校を目指す様になり、受験も私立の高校では無理と言われ、都立高校を受験することになりました。受験の当日、学校の門の前まで送って行きましたが、拡声器の声がわかるかしらと後ろ髪を引かれる思いで帰ってきました。夕方帰ってきて、お弁当は友達と一緒に食べたとのことで安堵しました。
 数日後、合格の通知を戴き喜びの反面、又心配になりました。
 学校から入学の前に様子を聞きたいと通知があり、伺いましたところ、学校でも始めての事なので、どの様な接し方をすれば良いかと聞かれ、マイクの声や後ろからの呼びかけはわからない、ということを伝えました。前からは口形でわかり、わからないと再度聞き返しますから、普通に接していただく事をお願いしました。
 学校では、体育の男の先生がご自分から進んで担任を引き受けて、三年間受け持っていただきました。高校に通うようになり、補聴器が珍しく、隠されたりして困ったこともありましたが、お弁当も一緒に食べたり、テストの時ノートを貸してくれる友達もできました。
 勉強もわからないところは、先生に聞きに行く余裕もできました。大変だった三年間も無事に終わり、卒業式にはクラス代表で卒業証書を頂いた時は感慨無量でした。
 三年生の夏休みは、就職探しに大変でした。学校からの推薦の松下通信もありましたが、あまりに遠く勤務も大変ですので、藤沢近くにと思い安定所に相談に行きました。課長さんとお会いでき、障害者なのに良く頑張ったねと、労りの言葉をいただきました。
 藤沢の会社を紹介していただき、面接しましたが採用されず、最後に市役所で募集していたので、試験だけでもと思い、一般の人と一緒に試験を受けました。朝早くから試験会場に出掛け、夕方遅く帰ってきました。中には、難しく途中で帰ってしまった人もいたとか・・・。疲れた様子でした。一生懸命頑張ったのだからと労い、就職のことは少し時間を置いてと考えていたところ、一次試験が受かったと言う通知をいただき、夢ではないかと思いました。
 二次試験は作文と面接でした。この時は聴覚障害者であることを市役所の方はわかっていました。数日後、市役所から採用通知があった時、田舎の祖父母に早速知らせ、一生懸命に頑張ったので春休み家族旅行を計画しましたが、市役所の研修と重なってしまい、残念ながら中止になりました。四月から市民病院勤務と決まり、担当の方から始めての重複障害者採用なので、どの様な接し方をすれば良いかと聞かれ、事務職でしたから電話の対応、後ろからの呼びかけも無理なことや、前からでしたら口形で話がわかることを、お話してお願い致しました。
 始めは役所の皆様も本人も戸惑ったことだと思います。
 初めて与えられた仕事は、話す人もいないので早く終わって時間が余ってしまい、もっと仕事があればいいと、私に話すのですがどうしてもやることが出来ず、ただ、話を聞くだけでした。時が過ぎると職場にも慣れて仕事も覚え、忙しさを訴えるようになりました。
 就職して四年、結婚しましたが仕事を続けるので、スープの冷めぬ場所に住むことにしました。翌年、出産や育児と仕事の両立は難しく、眠れぬ日が続き、「自律神経喪失症」と診断されました。それで役所を辞めたいと申し出ましたところ、役所の上司の方が一年間休暇を取り、体を治してからと勧めていただき、休養させてもらいました。
 復職してからは病院の手話サークルに参加し、大勢の人と知り合いました。
 障害の人の診察の時は通訳もしてあげたり、残業したりと充実した日々となりました。
 二十五年、永年勤続の栄も戴き、今は本庁勤務となり、受付で障害の人と接する様になりました。陰で、パソコンを打って仕事をしている姿を見ると、よく頑張って続けられたことを誇らしく思い又、障害があったから私は人以上の知らない勉強をさせてもらったと思います。
 そして大勢の人々の理解と導きのお陰と、感謝いたしております。


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