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「未来へ」
岩手県 菊池 春枝
 「花嫁のお母さんとして最後のお仕事です」と言われ、ぎこちない手つきで、娘のウェディングベールをおろしました。
 二十三歳で迎えた二千四年六月、挙式直前の母娘の儀式。
 一生忘れない、心に残るような言葉をかけようと思っていたのに、頭が真っ白になってしまい、ありきたりの言葉で「体に気をつけていつまでも仲良く・・・」そう言ったつもりが途中で声にならず、代わりに大きな涙がボロボロこぼれてしまいました。
 こんな事で涙を見せるはずのない娘の目からも涙があふれ出ています。
 メイクが崩れては嫌だからとにかく泣かないようにしようね、という前夜の約束が、挙式前に簡単に破られていました。悔し涙をこらえるのは得意中の得意だった娘と私でしたが感激には弱いと初めて知った日でもありました。
 千九百八十年八月 娘・樹理は私達夫婦の長女として生まれました。
 現在は二十五歳。東京の印刷会社で出版に関係する部署で勤務しています。二年前に結婚した夫と二人でさいたま市に暮らしています。
 生後まもなく、うすうす気がついていた音への反応の異常が二歳半の時にはっきり診断されました。両耳とも重度の感音性聴覚障害でした。
 誰でもがそうであるように私もしばらくは途方にくれた毎日を過ごしました。そんなある日、無邪気に笑顔を見せる娘から強いメッセージを受け取りました。
 「お母さん、何がそんなに悲しいの?私は何も失ってないのよ、私は生まれたときのままなのよ」。そうだよね、樹理は失ったものは何ひとつない、それどころか可能性も夢も未来も山のよう抱えているんだよね。
 そんな事に気がついた時 いつまでも泣いてばかりはいられない、生涯与えられた日々と時間を娘の為に生きようと心に決めました。そしてもうひとつ密かな願いを持ちました。
 一日も早く私を必要としなくなること、私の存在を忘れること。
 
 岩手医大で紹介された盛岡聾学校の幼稚部の教育相談に一年間通い、その後入学して四年間をここで過ごしました。そこには生涯をろう教育に捧げた先生がいらっしゃいました。その先生に母親として大事な事をたくさん教えて頂きました。先生との出逢いが母親としての私に大きな影響を与えたと思っています。出会ってから数年後、悲しい事に先生は不慮の事故で他界されてしまいました。娘が成長するたびに心の中で先生にご報告をしています。先生は娘のウェディング姿をきっと天国から見ていてくれたはずです。
 
 インテグレートがまだまだ難しい時代でしたが健常児の中で成長できると期待を持った私は、ろう学校の同意を得て一般の小学校への入学を希望しました。教育委員会のOKを頂いた時の喜びは言葉に言い尽くせません。受け入れてくれる小学校のきこえの教室にはベテランの先生がいらっしゃいました。地元にきこえの教室がないので越境入学でしたが、たくさんの友達もできて喜んで通いました。ろう学校幼稚部の時に、発音明瞭度を少しでも高くしようと一日に三十回以上の母音の発生練習をさせたりしていましたが、小学校に入学して、きこえの教室での指導の中にも発音指導がありました。樹理の発音は明瞭度は高いが語気が強いので怒っているような誤解を与えるので、直して行きましょう、というお話がありました。専門の先生の熱心な発音指導のおかげで二年生、三年生になると娘の話し方は、かなり滑らかになっていました。娘は当時をふり返って「発音練習は結構辛かった」と言いますがそれでも頑張れた事を先生にとても感謝していると言います。
 きこえの教室では先生と娘、二人三脚で目標に向かっていたように見えました。
 聞こえないことから発生する友達や先生とのいきちがいも、健常児でも起こるトラブルも、それなりに経験して自然な成長をする事ができたと思っています。いつの時も友達との関係をあきらめた事はなく仲直りの努力や工夫をしていた姿に、胸がしめつけられる時もありました。学習面は四年生ごろまでは成績も期待通りでしたが高学年になると想像通り難しい事が出てきました。この頃は自我が出てくる時期でしたので私の叱責で勉強に関心を持たせるのはムリな事だとわかりました。いろいろな事で意見が対立して、娘の生意気さに、つい感情的になって手を上げたり、取っ組みあって大喧嘩をしたり、情けなく思えて涙が流れた事もありました。
 今思えば若い未熟な母親でしたが娘と正面からぶつかったし、しっかり向き合ったつもりです。
 
 娘は小学校入学まえからクラシックバレエを習っていました。娘があこがれて始めたのです。何か特技があれば・・・と思った事と何かしら得るものがあるのではないかと思った事も習い始めるきっかけです。
 あるバレエ教室には障害児は受け入れないと断られ、やっと受け入れて頂ける教室を見つけました。ただ、障害に関して一切の特別扱いはできないという条件でした。
 そして想像以上に厳しい世界でした。音を上げて辞める生徒のほうが多く、先生の理不尽ともいえる指導に不満を持ち、辞めさせてしまう親も多かったです。そんな中で小学六年までバレエを習い続けることができたのは周囲の生徒さんと良い関係があったことももちろんですが特別扱いをしないかわりに全ての事に同じに挑戦させてくれた先生の姿勢があったからだと思っています。千人の観客の前でたった一人でステージで踊ることなど、全くメロディが聞こえない娘には不可能と思った私は先生に辞退を申し入れました。しかし先生から「やってみなければわからないわ」という答えが返ってきました。それからの自主稽古と周囲の生徒さんの協力で本番ではメロディに合わせて踊りきる事ができました。この日の感動を私は忘れる事ができません。娘は「バレエの先生はすごい人、聞こえない私でも可能性を信じてたくさんのことに挑戦させてくれたから」と言います。娘の前に壁が立ちはだかった時も逃げることなくぶつかっていく姿勢のべースはこのバレエにあったと思っています。
 六年生の発表会が終わった後、充実感とともに、現実も見え挫折感も感じたようで、バレエをやめると決心したのでした。「私はバレエに負けちゃった」とあっけらかんと言っていましたが、勝気な娘にとって負けを受け入れるという事は大きな進歩だったと思います。
 
 中学生になってチームプレーから得てほしいものがたくさんあったので、私も経験あるバレーボールを勧めました。中学校は、きこえの教室の関係でまた別な学区の中学に入学した為、楽な通学ではなかったのですが生涯の親友ができ、卒業式では皆勤賞を頂き、厳しい受験も経験した時期でした。
 第一希望の高校は不合格、滑り止め高校の中のひとつも不合格。障害者だけが不合格という結果でした。私は差別を感じ、娘が生まれてから何度目かの偏見を感じ悔しかったのですが、娘に対しては慰めの言葉がみつかりませんでした。
 しかし当の娘は「差別や偏見なんかではなく、自分の勉強が足りなかったのだ」と言い張りました。立ち直りが早い娘の高校生活が始まりました。始まってみると気が合う友人が本当にたくさんいて毎日が充実していました。
 中学と同じバレーボール部に入部。中学とちがって練習も本格的で強豪チームだったので練習は大変。当たり前のことですがみんなも自分のことでせいいっぱい。そんな中で孤立感を感じ情報不足で練習もままならないことに悩みました。しかし、悩みを友人に打ち明けた事で友人関係が深まり、その上、バレー部員に理解を求める行動をとったおかげで問題も解消してバレー部は一番居心地の良い場所になり最後まで続けることが出来ました。
 三年生になって、現役あと一ヶ月になってもユニフォームがもらえずにいたので早めに引退して受験勉強を始めることを勧めた時、娘は「あと一ヶ月もある、最後まであきらめない」と言って私の提案を受け入れませんでした。そして一ヵ月後、最後の大会でユニフォームを手にした時は驚きました。その日、娘が寝た後でこっそりユニフォームを広げて写真に収めました。
 こうやって高校生活も終わりました。内リンパ水腫というめまい発作を持ちながらも一日も休まず高校生活を終えたことはあっぱれと思います。
 思い起こしてみれば小学校・中学校・高校、「学校に行きたくない」という言葉を一度も聞いたことがありません。辛い事がないわけではなかったけれど学校や友達が大好きなまま学校生活が送れたようでした。
 
筑波技術短期大学。
 最終的に娘が選んだ大学でした。一般の大学に進むだろうと思っていた私も周囲もその選択に最初は耳を疑いました。が、すぐに納得が行きました。これまで情報不足で発揮できなかった力を情報が充実したところで発揮できるかもしれない、と言う考えは理解できました。
 しかし私にはもうひとつどうしてもつくばにやれない理由がありました。娘のめまいの発作です。激しいめまいで立つことも座ることもできず、吐きつづけます。居間から玄関までの数メートルを一時間以上かけて這って移動したことも何度もあり、そんな状態の娘を家から離すことはできませんでした。大丈夫だからと言い張る娘をあきらめさせるのは、小さい頃からお世話になっている岩手医大の耳鼻科の先生に説得してもらうしかありませんでした。
 ところが頼みの綱の先生は「お母さん、めまいなんかで樹理の夢をあきらめさせてはいけませんよ、心配しなくてもつくばにはたくさんの病院があるでしょう」と反対につくば行きを説得されてしまいました。家に帰りよくよく考え、「心配だけれどたった三年間だもの、がまんしよう」という結論に達しました。
 試験の日はまわりの子が優秀に見えて仕方がありませんでした。茶髪だった娘の髪を大学のトイレでスプレーをかけて黒くして、白いブラウスの襟についたら大変!と大騒ぎしたことは楽しい思い出です。
 猛勉強のかいがあってか、デザイン学科に合格することができ、無事に入学を迎えました。
 つくばに出発のとき、なかなか乗る機会もないから思い出にと、二人で寝台列車に乗りました。こうやって夢を抱えて盛岡から出発した娘はもう盛岡には帰ってこないかもしれない、とゴトゴト揺れる列車のベッドで考えた事を思い出します。
 主人と入学式に出席して、つくばを後にする前に娘の部屋に置き手紙をして帰りました。私の携帯電話が鳴ったのは盛岡に向かって走っている車の中。
 オリエンテーションが終わって部屋に戻り、一人手紙を読んだ娘からです。
 「お母さんの手紙を読んだら泣けてきちゃった」という娘の涙声が聞こえました。娘の声を聞いたとたん、これから数百キロ離れたところで暮らすという寂しさが急にこみ上げてきました。
 その後、心配して頻繁にメールを送る母親を疎ましく思っているらしい冷たい言葉を聞くたびに腹立たしかったり悲しかったり寂しかったりして一年また一年を暮らしました。娘がいない生活が当たり前になった頃、娘は三年生になっていました。
 娘がこの大学で学んだ事、聞こえない友人から学んだもの、すべて代わるものがないほど大切だと思っています。インテグレートの時は受動的なことが多かったように思いますがこの大学では全てが能動的と言っていいと思います。
 娘自身の「ここで本当の自分を見つけた、これからの自分の生き方の一端が見えた気がする」という言葉を聞いて私の子育ては終盤と思いました。
 
 三年生になりすぐに就職活動が始まり、残念な事に岩手に帰る意思はない事がわかりました。自分の夢を追うという事なら応援しようと思いました。
 それに一日もはやく母親を必要としなくなること、という私の願いが成就されるのであれば淋しいなどと言ってはいられない、と自分を叱咤激励しました。
 卒業後は自分で希望した印刷関係の企業に就職して社会人第一歩を踏み出しました。
 学生時代とはちがう、厳しい現実を目の当たりにしてしょげて一方通行の電話をしてきたこともありました。ミスは誰でも経験する、だから気持ちを切り替えて、と言ってあげることしかできません。聴覚障害から発するさまざまな誤解やトラブル、不理解とも戦わなければなりません。聴覚障害者の雇用経験がない会社だったので理解を求める為のアピールも必要です。
 入社してすぐにびっくりする出来事がありました。
 大学の時に卒業研究として娘が制作した本(写真集)が出版されることが決まったというのです。本当に驚きました。内心、いい本だなと思っていましたが出版社に認められるとは夢にも思いません。障害の有無ではなく、親子の関係にも通ずる本ではないかというのが着目されたようでした。写真撮影、デザイン、編集、カット等すべて自分で作り上げた本で、親子の絆の大事さ、聴覚障害児とお母さんの関係に注目したものです。
 親子の絆がしっかりしたものであれば障害に負けずに生きる勇気を持つことができる、だからお母さんがんばって行こう、という内容の本です。
 このような形になって発表する事が出来たことは本当に幸せな事です。
 
 紆余曲折あり、試行錯誤しながら今では仕事もこなせるようになり、仕事現場は厳しいけれど自分が関わった本が書店に並んでいるのを見たときは達成感や充実感がある、と言っています。
 披露宴での印刷物は大学や仕事で覚えた技術で全て自分の手作りで、専門的に仕上げて行く娘の様子を見たとき、二十年前に重い障害であることを告げられた日のこと、そして娘の笑顔に助けられた日々の事を思いました。
 長いようで短い、二十三年間。
 一緒に暮らした十八年間。
 未熟な母親で自分の期待ばかりを押し付けて、理不尽に厳しくした事も感情的になった事もあった、本当にごめんね、と心のどこかでつぶやくことがあります。
 そして、母親である私の力だけではなく、学校の先生方、病院の先生、友人、友人のお母さん、影で支えてくれた主人や祖父母、たくさんの方々に支えられてした成長娘です。
 本当に皆さんのおかげです。ありがとうございます。
 今では時々しか会えなくなってしまった娘ですが会ったときは必ず明け方までおしゃべりに花が咲きます。それが私にとって最高に幸せな時間です。
 乗り越えることが多い人生かもしれないけれど、今までのようにどんな時も前向きに、そして最高のパートナーと一緒に最高の笑顔を忘れずに、自分らしく生きて欲しいと願っています。


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