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この十九年をふり返って
長崎県 清水 まり子
 娘が五歳の夏、越して来た長崎大村で、夕方バスを降りての帰り道のことです。腕に抱いて歩いていると、空に浮かぶ雲を指差し、象の真似をして見せてくれました。まだ言葉の表出は多くはない時期でした。「あーあ、ぞうさんね。お鼻の長いぞうさんね。のっしのっしって空を歩いているわね。気持ちよさそうね。どこへ行くのかな。」と言葉をそえながら、二人で夕焼け空を眺めました。
 この時娘が夕雲を見て、心の中で象をイメージし、言葉として表に出てはいないけれども、内言語としてはあることを、また一方イメージする力も育っているのだという事を実感し、とても嬉しかったのを覚えています。その後、夏休み中、本読みや劇遊びはもちろん、虫取りや川遊び、プールに出かけ、キャンプに参加し、夜は戸外で虫の声に耳を澄まし、星をみながら耳元で話しかけをいっぱいしました。雑巾がけや洗濯物の取り込みなどのお手伝いや、買い物、病院に行く時、生活の全ての場面が言葉の学校でもあり、チャンスを逃さず、できるだけの言葉かけをすることが大事と、今までの遅れを取り戻そうと必死に取り組みました。絵辞典や図鑑、絵本、新聞写真、地図も活用する場面は多かったと思います。(一学期からの取り組みでしたが、夏休みは存分に時間が取れ、内容を広げ深める事ができたと思います。)
 秋に入り、私の投げかける言葉に反応して、一語文もしくは二語文で、返事が返ってくるようになってきました。娘の返事に対し私が話しを広げ、それにまた、娘も自分の思いつきを、自分の使える言葉で返してくるといったやりとり、会話ができるようになったのです。イメージを言葉のやりとりの中でふくらませ、思わず互いに吹き出してしまうこともあり、言葉は拙くても会話自体はとても楽しいものになっていきました。母親として、ようやく心の中で、深くほっとするものがでてきたころと言えます。
 娘の障害発見から丸四年が経過していました。長い長い道のりであったと思います。
 
 娘の聴覚障害がわかったのは、一歳五ヶ月の時でした。娘の障害がわかってしばらくの間、最も苦しかったのは次の三つの事柄でした。
 一つには、子どもの数が多く、娘の上に育ち盛りの五人の子どもがいました。難聴の娘は三女ですが、すぐ上の次女、長女と三人は年子でまだとても手のかかる時期でした。加えて、育児の支援を仰げる近親者はいませんでした。
 二つには、そのことから、三女に集中できる時間の確保ができなかったことがあげられます。
 三つには、母親の私の体力がそれまでの出産・育児で払底しており、慢性の貧血と低血圧に苦しんでいました。
 こうした状況でしたので、さらに障害児の養育という難題がふりかかってきて、しばらく呆然としてしまいました。どうこの事態に立ち向かえばよいのか、暗然たる思いにとりつかれました。
 
 六番目の子どもである三女がお腹に入った時、風疹が流行し、次々と子どもたちがかかって、最後に免疫のなかった私がかかりました。妊娠五ヶ月の時でした。症状が重くなり、二週間隔離入院も経験しました。それである程度、先天性疾患を覚悟しての出産で、産後一ヶ月目に総合病院に出かけましたが、発育は順調で、母親の心配し過ぎと言われました。
 しばらくアトピー性皮膚炎の治療に、国立の小児科にも通っていたのですが、異常は指摘されませんでした。しかし一歳前後から、何かに夢中になって見とれている時などの呼びかけに無反応だったり、さらに、活発に動き回る時期に、床にねそべったままであったりする様子に異常を感じ、紹介を受けて療育センターに出かけました。検査の結果、高度難聴と診断の出たとき、このときほど口惜しいと思ったことはありません。医療機関の頼りなさ、そして風疹禍の出産にたいする公的なアフターケアの不足、不在を痛感しました。
 
 さて、その後療育センターの難聴幼児通園施設に一年四ヶ月通いましたが、指導から養育の目処が汲み取れず、聾学校の教育相談に移りました。家庭でどう関われば良いのか、納得のできる指導方法、指導機関を求め、東京に見学に行ったりもしました。
 この間、娘は箱型補聴器の装用をいやがり、三歳になって耳掛け式に替えるまで定着せず、ほとほと困りました。一番大切な時期を、きちんと音をいれることができず、従って言葉の発達も鈍く、無駄に時間を消費しているという焦りと苦しみで、心底苦しかったのです。一刻も早く、どう接すれば聞こえも育ち、言葉も育つのか、家庭でどう関わればよいのか、そのポイントがわからず、お母さんの頑張り次第といわれ本当に困りました。どう頑張ればよいのかは、その時点まで、的確な指導をうけるチャンスはなかったのです。
 
 娘が四歳の時、長崎県立ろう学校を紹介されて教育相談にでかけ、その1年後思い切って、転校しました。結果的に見て、これが救いとなりました。
 母親への教育が徹底していましたので、仲間のお母さまたちが良い手本であり、先生でした。しかもよく助け合うお母さまたちで、ありがたい限りでした。また、そうしたお母様たちを育ててこられたベテランの先生方がおられ、娘をふくめ子どもたち全員の育ちについて、親身に相談に載っていただけたのも、どれほど助かったかしれません。
 週に一回、聴能の先生との聞こえと発達に関する学習会も実り多く、貴重な時間でした。日々の記録に関する的確なコメントをいただけて、子どもを育てる上での視点を学ばせてもらえると同時に、大きな励みになりました。聴覚を活用しての育児の意義も、この時よくわかりました。以後、子どもの聞こえの発達や補聴器のことに関して、左程の心配をすることなく過ごせてこられたのも、偏に優秀な聴能の先生に恵まれたからだと感謝しています。そして記録をつけることは、その後ずっと娘が高校卒業まで続けました。
 こうした中で私も前向きな気持ちで、娘との関わりを楽しんで、張り切って取り組めるようになっていきました。勿論、上の五人の兄・姉たちも母親の私を助け、よく三女のことに関わってくれました。ろう学校の行事、送り迎え、家庭での劇遊びに兄妹全員で取り組み参加してくれました。長崎に移る前、よく手引きがわりに読んでいた『聞こえの世界へ』の中に、早期教育に関連してこういう一節がありました。
 「人間の発達とその可能性は、早期教育だけでは計れるものではありません。たとえ早期教育の最適時を外した場合であっても、その後の長期にわたる努力が、素晴らしい結果をうむこともあります」
 この金山先生のお書きになった言葉に、賭けてみようと思ったのです。最適時を有効には使えなかったけれども、まだ希望はあるのだ、頑張ろうと心に誓いました。
 また、「母と子の教室」のキャンプで劇遊びの楽しさを目のあたりにし、先述のように家庭で、絵本の読み聞かせと同時に、随分いろいろと工夫してレパートリー多く取り組みました。
 『三匹のヤギのがらがらどん』、『ブレーメンの音楽隊』、『桃太郎』、『おおかみと七匹の子やぎ』、『シンデレラ』、『あかずきん』等等。『桃太郎』のきびだんごは、大福餅だったり、草餅だったりしました。『がらがらどん』ではタンブリンを鳴らし賑やかに、トロル役の私はこわーい声を出して、椅子の上に渡したダンボールの橋を歩いてくる子どもたちを待ち受けて、など子どもたちはとても面白がりました。夕食後、テレビは見ずに家中ドタバタかけまわって、家族で取り組み、楽しめたのは良い思い出です。
 幼稚部年長で、ようやく言葉の発達に見通しをもてるようになりましたが、学校はそのままろう学校の小学部に進みました。引き続き、本の読み聞かせ、台所仕事の手伝いをさせながらの言葉かけ、片道三十分をかけての通学路での話し込みなどに低学年では力を入れました。高学年になるにつれ、テレビや新聞をつうじての情報の取り入れ、空手教室や、地区の子ども会への参加、近所への買い物、バスやJRの利用など、社会との関わりにも力をいれていきました。近所の子どもたちとは遊ぶのですが、子ども会は嫌がり、それでも引っ張っていきました。通学時に、普通小学校の子どもたちから石を投げられたりした事もあったからでしょう。上の子どものPTA活動を通じて、多くの方々に理解してもらえるような働きかけもしましたし、親が積極的に社会と関わる姿もみせなければならないと思い、役員を頑張ってした時期でした。
 六年生の時、台所でお茶碗洗いをしていて、二回続けてお茶碗をわったことがあります。その二回目のとき独り言で「一難去って、また一難か、フー」と言っているのが聞こえ、そうした言語表現が自然にでるまでに成長したことを、嬉しく思ったことを覚えています。
 娘はろう学校に中学部の二年生まで在籍し、三年で普通中学校に本人の強い希望で転出しました。思い切ったチャレンジでしたが、勉強に頑張り、県立の総合学科制の高校に入学しました。インテグレーションした理由は、聾学校以外にも健聴の友人を持ち、いろいろと話してみたいということがあったようですが、当初は、思いどおりにはいきませんでした。コミュニケーションの問題は勿論ですが、すでにある程度仲間集団が出来ている中に、新たに入っていくということの困難と、ろう学校での親密さに慣れていた娘には、普通の学校での人間関係に慣れるのに、暫く時間がかかったかと思います。高校一年の秋、とうとう登校拒否気味になり、保健室登校をした時期があります。人間不信に陥ったといっていますが、先生たちもよく対応してくださり、家で拾ってきた子猫に心癒されたりなどして、次第に元気を回復していきました。学校にろう学校の先輩で、ギャローデット大学に留学した方が講演に見え、そのことも大いに発奮する契機になりました。目標が見えたようでした。高一の三学期からは教室にもどり、二年生からは友人もできて、俄然活発さを取り戻していきました。二年生では手話クラスのアシスタント的存在で、友人に手話を教える立場になったこともプラスに作用したと思います。
 高校入試の時は、母親の私も勉強につきあいましたが、大学入試の受験勉強は、父親に任せました。娘は小さい時から美術館には親しんでいたのですが、視覚と美的センスのいかせる勉強をと、大学はデザイン科を、私たち親とも話し合い志望と定め、準備を始めました。高校の美術の先生に放課後デッサンを見て貰い、後半は画塾に出して鍛えてもらいました。
 無事合格した後は、入学準備は自分でするといって、私が手伝おうとすると「私をだめにする気?」といい、自立心旺盛で少し寂しくなるほどでした。
 今、娘は大学のデザイン科で学んでいます。まだ社会には出ていませんが、親に頼らず自力でやって行こうとファイトを燃やしています。まだ、先にはいろいろなことが待っていることとは思いますが、娘の意欲を尊重して、見守っていきたいと思っているところです。
 
 最後に付け加えますと、私は決して出来の良い母親ではありませんでした。母親法で子どもとの共感関係を育てることの大事さを学びましたが、ともかく一緒に子どものすることに付き合ってみる、転んだりすべったり、段ボールの空き箱にいっしょにはいってみる、子どもが何を感じているか、見ているのか、全てをうけとめ、共に味わう心のゆとりはどうしても必要で、大事です。またそこに親なればこその醍醐味もあると思います。
 これから育児をなさるお母様たちが、どうか日々のささやかな出来事を大切に、そこでの言葉掛けを大切に、躾と同時に楽しく子育てをなさるよう願っています。またいろいろな音を、鐘の音、虫の声、鳥の囀り、せせらぎの音、風の音、雨の音、波の音、生活の中でのいろいろな雑音にも留意して、一番はお母様の声ですが、お子さまの耳に届けてほしいと願っています。
 娘は手話もしますが、同時に音の世界も楽しんでいます。実現の有無はともかく、一時歌手になりたいと言っていた位ですから。
 お子様の心とお母様の心が響きあい、共鳴し共感できる機会がいっぱいありますように。命をはぐくむことの何にも代えがたい大事さを、難聴の子の言葉をはぐくむ営みを通して、改めて学ばせてもらい、心から感謝しています。


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