多くの人に支えられて
東京都 川上 みどり
娘が生まれた年は風疹が流行し妊娠初期に感染すると、障害児が生まれる可能性があるというニュースが報道されていました。そのニュースを他人事のように聞いていましたが、妊娠五ヶ月の時にその風疹にかかってしまいました。
周りからは子供の障害を心配する声も有りましたが「五ヶ月は既に初期ではないから大丈夫」自分自身を安心させ「たとえどんな子でもいいから」そういう気持ちで子供の誕生を待っていました。
やがて、娘は元気に生まれてくれましたが、命と引き替えに、聴覚は奪われていました。「音に対して反応がありません」と言われてから六ヶ月が過ぎ、一歳のお誕生日を迎える頃に難聴という診断が下り、補聴器をつけることになりました。
何の知識もなかった私は、補聴器さえつければいいと思っていましたが、「補聴器はメガネとは違います。」というお医者さまの言葉にがっかりしました。けれども、教育しだいで言葉の獲得もでき成長していくと教えられ、しっかり頑張っていこうと思いました。
最初の関門は補聴器の装着でした。イヤモールを耳に入れても、すぐに引っ張り出してしまいます。どのようにしたら長い時間補聴器をつけていられるか、それだけに気をとられる毎日でした。ちょうど同じ頃、歩行も、はじめの一歩が出そうで出ない状態から、やがてしっかりした足取りで歩けるようになりましたが、それと同じように、補聴器の着装時間も少しずつ長くなっていきました。
三歳から小学校入学までは所沢市の国立リハビリテーションセンターで言語訓練を受けました。絵カードを使っての訓練は、特に嫌がることもなく順調に語彙も増えていきました。
小学校に入学する前の二年間は近くの保育園に通い、集団生活を経験しました。小学校入学に際しては、難聴児への理解をしていただくために、国立リハビリテーションセンターの先生から、普通学級で具体的にどのような配慮が必要かを、専門的な立場からお話していただきました。そのおかげで、担任の先生には、手厚い配慮をしていただきました。そういう先生の接し方が、クラスの子供たちへのお手本ともなり、小学校生活のスタートは順調でした。
小学校から大学まで、全て普通学校に通いました。新しい環境に慣れるまでは、いつも苦労しますが、特に高校に入学した時は、なかなかクラスになじめず心配しました。けれども、部活動で親しくなったお友達から少しずつ輪が広がり、楽しい高校生活を送ることができました。
改めてこの二十三年間を振り返ってみますと、いろいろなことがありました。周囲の無関心から、孤独で寂しい思いをしたこともありました。けれどもそれ以上に、実に多くの人に支えられ、助けられて、今の娘の成長があったのだと感謝の念に絶えません。
難聴の疑いがあると言われて不安に揺れる頃、何回も家庭訪問をして励まして下さったのは、地元の保健婦さんでした。学校の様子を、毎日連絡ノートで知らせてくださった先生。いつも仲良くしていただいたお友達。お世話になった、たくさんの人の顔が思い浮かびます。
また、親の会の存在も大きな支えとなりました。難聴と診断されて間もなくの頃、親の会の会報を病院で見つけて入会しました。身近なところに難聴児はいませんし、ずっと普通学校でしたから、親の会の会報が唯一の情報源でした。娘が中学生になった頃からは親の会が開く勉強会にも出席して、先輩方の生の声を聞くことができるようになりました。心配事の絶えない時、先輩方のお話はとても支えになりました。
娘も中学生になってからは毎年夏に開催される「ふれあい合同キャンプ」に参加するようになり、初めて難聴のお友達ができました。このキャンプは難聴児だけではなく、視覚障害、てんかん、自閉症と健常児との合同キャンプです。自分と同じ障害だけでなく、他の障害児と接する中で多くのことを学びました。いつもはサポートを受ける立場ですが、ここでは自分がサポートする側になって、活躍する場がたくさんあります。娘はこのキャンプを楽しみにして、中学から高校までの六年間、毎年参加しました。大学生になってからはスタッフとして参加しましたが、ここで娘は多くのことを学び、今、旅行学を専攻するようになったのも、障害者に優しい海外旅行を企画したいと、思ったからだそうです。
娘が難聴だと分かった時、私は一生この子のそばにいて、耳代わりをしなければいけない、と思いました。それが、少しずつ一人で行動できる範囲が広がりました。
いつまでたっても「一人で大丈夫?」と聞く私に、娘は「大丈夫よ」と笑って答えます。時には「お母さん大丈夫?」と心配そうに言われることもあり、すっかり立場が逆転してしまったと思うのです。
今、親元を遠く離れてアメリカで留学生活を送っていることを思うと、二十三年前の心配がうそのようです。もう親の助けを必要としなくなった娘に対して、正直なことを言えば少し寂しさもありますが、娘の自立を嬉しく思います。
これからの長い人生、いろいろなことがあるはずですが、私は少し離れた場所で、娘を見守りたいと思います。
秋田県 三浦 悦子
私は昭和四十一年一月農家に嫁ぎました。結婚して三十四年になります。
その年の十二月五日に長男哲也が生まれました。生後一年目の春、八竜町の健康優良児として表彰されたほど、とても元気で丈夫な息子でした。
ところが、二歳頃から風邪を引いては高い熱を出し、十五キロも離れた能代市の病院に夜中の急患として駆け込みました。日中は元気いっぱいで、近所の子供達と遊びまわっているので「なかなか、いい子供だ」と常に誉められました。農家の春先は特に忙しく、夜遅くまで仕事に追われ、ようやく夕食を摂りやれやれ一休みしようと、思っているうちにまた熱が出る。その繰り返しで、何度も病院に行くようになりました。
そうして三歳になりました。それなのに、言葉が出てこないのです。私が心配すると理解ある祖父母は「男の子は話すことは遅いものだよ。」と慰めてくれるので、その言葉を信じて朝夕神仏に手を合わせて、お願いいたしました。又、いろいろな人の話を聞いては、大学病院も弘前、秋田、千葉と連れていって脳波、難聴検査などしてもらいました。診断はどこの病院も同じで、二歳の頃の発熱が原因と思われるが、別にそのほか悪いところがないので、あまり心配しないようにといわれました。
そうしているうちに、小学校へ入学する年齢になってしまいました。相変わらず言葉が話せず、私も家族もずいぶん悩み、町の福祉課へ相談したところ、能代市の養護学校ねむの木学園を紹介されました。
四月から入学することになり、毎朝、家の前までバスが迎えに来てくれ、帰りも家の前まで送ってくれるので、私は安心して仕事が出来ました。学園の先生からは「遊びも一番、いたずらも一番、勉強も一番」と言われたものです。しかし、養護学校でもあり、果たしてこれが息子のために良いのだろうか、と安心さの中に常に不安が入り混じりました。頭の中は迷いでいっぱいでした。
ねむの木学園へ入学して秋も深まった頃、先生から「お宅の子供は、どうも耳が聞こえないようです。前の方から話すと少し分かるが、後ろからは全く反応がありません」と言われました。その時初めて、自分の息子は耳が聞えないことを知らされ、私は大変なショックを受けました。
目の前が真っ暗闇になったような思いでした。気を取り直して今後どうしたら良いかと、先生に相談したところ、初めて「ろう学校」があることを教えて頂きました。児童相談所にも足を運びました。ろう学校入学が適切とのお話なので、私も家族と何度も相談し、決心して息子と話し合いました。なにしろ、ろう学校は秋田市内なので、自宅から遠く通学は出来ません。寄宿舎生活になるのです。
ねむの木学園を三月中ごろ無事に卒業し、四月に入ると息子を連れて主人と二人で、入学式に出席しました。学校の手続きも終わり、これから十五年間お世話になる寄宿舎に生活用品などを運び、寮母さんから今後の寮生活のお話を聞いて、帰る時間になったら、私は自分の気持ちをどんなに抑えていくべきか迷いました。
玄関まで見送るわが息子に、涙を見せてはならない。悲しんでも息子のためにならないと、心で詫びながら、主人と二人で急いで車に乗りました。「後ろ髪を引かれる思い」とは、あの時のことだと思います。
その後は、学校に預けた安堵感もありこれから先、毎週土曜日にはわが息子を迎えに行くためにも、どうしても車の免許が必要なので、お腹に四ヶ月の子供が居る年で自動車学校に通って免許を取りました。そして、毎週士曜日は学校まで息子を迎えに行き、家に帰っては久しぶりに近所の子供たちと遊んだり、農作業の手伝いをさせたり今後の事を考えて、なるべくたくさんの体験をさせました。
小学校時代はずいぶんいたずらの多い息子で、特に寄宿舎では、いつも悪いことがあれば息子の名前が出るくらい、ガキ大将でした。高校に入ってからは勉強はあまり良い方とはいえなかったが、陸上部では斉藤光春先生と先輩の方たちの指導を頂いて、東北大会、全国大会に出場し優勝の経験もあり、いつも自分の目標とする記録に挑戦するようになり、やっと男子のたくましさが見えて来ました。何も分からないわが息子を、一から手をとって教えて下さった寄宿舎のみなさんと学校の先生方に、心から感謝しております。
さて、高校も無事卒業し専攻科は印刷科に進み、二年間で卒業も間近になり、就職も決まり、やれやれと思ったところ、息子は車の免許を取りたいといい始めました。学校の先生方は「普通の人さえ大変なのに、まして耳の聞こえない者が免許なんてとんでもない。屑箱にお金を捨てるようなものだからだめです。」の一点張りでした。主人はお金はどうでも良いが、この子のために世の中の厳しさを知ってもらいたいのだという考えでした。自動車学校では、ろう者のために指導員もいるし、補聴器を付けているなら大丈夫です。」とのことでした。
しかし、ろう学校からは何の回答もなく、どうしても免許を取りたいとの息子の強い希望もあって、自動車学校へは寄宿舎から通うようになりました。
運転の方は若さと自信もあって三月中に卒業しましたが、学科の方はなかなか理解できず、かなり難儀しました。私は仕事も休み息子と二人で秋田市内のアパートで一週間続けて勉強しました。まさに特訓とでも言うような勉強ぶりでした。その結果、見事に学科試験に合格し、やっとの事で免許を手にした時の息子と私の喜びは、口では言えない程でした。すぐにろう学校にも連絡し、先生方にご心配をかけたことをお詫びし、お礼を申し上げました。
その後、息子は勤務先を二度も変えましたが、現在は同じ障害のある人もいる会社で、まじめにしっかりと頑張っています。また、町内では駅伝大会をはじめ、各種スポーツ競技大会などには、なくてはならない存在として活躍しています。
最近では、手話サークルの各研修会などにも意欲的に参加し多忙な毎日を過ごして居るようです。現在は、「日本野鳥の会」に入り平成十年秋には、秋田テレビのビデオ部門で野鳥のビデオ大賞をいただきました。さらに千九百九十六年二月五日発行の秋田県二ツ井町主催の「第二回きみまち恋文全国コンテストに応募して入選し、本の中に掲載されました。
現実に付き合っている方もいたので、息子が恋心を抱きはじめた事は、大きな喜びでした。何とか実ってほしいものだと願っていましたが、相手のご両親に、健聴者とろう者という点で反対され、今はもう諦めた様子で、女性の話は二度と口には出さなくなりました。
障害を持つ息子の親として、今日まで多くの方々のお世話になって、元気に育ってきた事への感謝の心を忘れず、自分の人生を大切にして、幸せに送ってくれる事を願うのみです。三十歳も過ぎた我が息子を見ていると、理解ある心の優しいお嫁さんが見つかる事を、心から願っております。
愛知県 水野 篤子
今年九月で満二十二歳になった長男、雅史が難聴と診断されたのは、満二歳九ヶ月の頃でした。その時、脳裏に浮かんだのは、「私は歩みたい。茨の道を父が歩んだその道を。」という少女時代に書いた詩の一節でした。多分思春期特有の感傷から衝動に駆られたのでしょうが、図らずも私のその後を暗示する詩でした。
満州から引き上げた後、やっと軌道に乗った事業にも失敗し、辛酸をなめた父は私の成人式を待たず、失意のうちに他界しました。そんな逆境の中で私は、幸いにも進学、就職、結婚と順風満帆の人生を歩んでいました。でも、長女を出産後、流産を繰り返し、三度目の妊娠では勤め先の高校に長期休暇願を届出、流産予防の体制をとった矢先、長女からの風疹が感染。中絶すべきかどうか非常に悩みました。でも、検査での心音に中絶イコール胎児殺しの罪悪感は拭えず、結局一大決心をして産むことにしました。
誕生後は、一抹の不安はあるものの、土鈴やオルゴールが大好きで、三ヶ月、六ヶ月検診でも何ら異常が見つからず、たいして気にも留めていませんでした。しかし、一歳半になっても「ママ」「バイバイ」以上の言葉が出ず、さすがに心配になり、その頃受けた検診で、言葉の遅れについて相談すると、名前を呼ぶと反応があり原因は私が仕事で忙しく、スキンシップが足りないとのこと、できるだけ子供と接する時間を作ったのですが、言葉の発達はありませんでした。その後、M病院での検査結果も小頭症の疑いと出たことに疑問を持ち、適当な病院を探そうと、またしても発見を遅らせてしまいました。
結局、預けていた乳児保育園の園医さんで、私の旧知の方に異常が発見されました。紹介されて受診した愛知県保健センターでの検査結果は、聴力損失、右七十八デシベル、左七十六デシベル感音性難聴でした。言語訓練開始時期は遅すぎて既に手遅れに近く、仕事優先で子供を犠牲にしてきたことに深い悔恨を覚えました。もう泣く暇はありません。訓練開始までの一ヶ月のロスが悔しく、言語に関する本を読み漁り、独自の方法を模索し始めました。
サリバン女史の「ヘレンケラーはどう教育されたか。」という本が私の福音書となりました。
興味の持続しない幼児を訓練のため、長時間拘束するのは至難の業です。
絵カードも手書きや新聞、雑誌の切り抜きを利用した手作りの方が、効果が上がりました。マッチングも障子の桟にカードを挟み、懐中電灯で照らす工夫を思いつきました。弁当持参であちこち散策し、就寝前に一日の出来事を絵日記にまとめることも、楽しみとなりました。
退職後は、聾学校の教育相談と保健センターに週一回ずつ通う他は、言語訓練にサリバン先生並に全力を尽くす覚悟でした。一日の訓練内容、その反省、訓練計画を記す事も日課になりました。しかし、我が子には親は最良の教師にはなれません。時には焦るあまり、ヒステリック気味になりました。そんな時、主人が交代して発声、発音、リズムの訓練をしてくれました。訓練開始後、三ヶ月すると私の膝に座り、耳だけで絵カードが取れるようになりました。半年後には字カードを利用した聞き取りも可能になりました。
こうしてセンターの訓練内容は順調にこなしてきましたが、言葉を機械的に暗記する事に限界を感じる事が起きました。五歳になったばかりの頃、絵辞典の「夢」の絵を「ユメ」とはいうものの、どうやら絵の中の爪を見て、夢と混同しているのに気付いたのです。
「ユメ」と「爪」の音節が似ている上に、夢の概念が欠如していました。難聴児のイメージの貧困という問題にぶつかりました。実地体験と絵本の読み聞かせに力を入れて、イメージを豊富にしようとあれこれ工夫をしました。図書館で借りるだけでは足りず、次々と本を買い込み、数年間に一千冊程にもなった本を活用しようと、家庭文庫を開き知人や保育園にも貸し出しました。
こうして訓練に励む毎日でしたが、難聴を見つけて下さった園医さんの勧めで、市立保育園の年少組に中途で入園しました。四歳三ヶ月のことです。言語訓練のため、半日保育という希望を快く承諾してくださり、楽しい保育園生活が始まりました。ところが、年中組になると障害児に無理解な保母が担任となり、さらに年長組みになって園長が代わると、園の様子ががらりと変わり、親と保母との会話が禁止され園児は沈黙を強いられ、重苦しい雰囲気が漂うようになりました。雅史も登園を渋り、おどおどした表情が窺われるようになりました。園では一言も話さなくなり、言葉のない知恵遅れの子として扱われました。
担任に「話せる様になるのは夢の、又夢」と言われ、再三、障害児用の施設へ移るように勧められました。半日保育では充分な教育ができないと、全く放置され白痴同然の扱いで、一日保育に切り替えることには不安がありました。そんな状態では小学校へのインテグレーションも無理だと思われました。
聾学校へUターンしようかと相談に行ったのですが、何となくぎすぎすした雰囲気で、戻る勇気はありませんでした。そんな折、私は三番目の子をお腹に宿してしまったのです。厳しい訓練に明け暮れる状態で、長女ですら充分面倒を見る暇がないのに、まして乳飲み子まで抱え込んで果たしてやっていけるのか、はなはだ不安ではありましたが思い切って産むことにしました。生まれたのは男の子で、長女には母親不在の寂しさを癒し、雅史には良き相棒、そして私には辛さを忘れさせるオアシスとなりました。
卒園間近なある日、園の学芸会の「ももたろう」の劇に雅史は出るのを拒否されました。
当時、センターの指示で桃太郎の本の暗記に取り組んでおり、内容が理解できないという理由に、非常に怒りを覚えました。主人は園長に直談判に行き、雅史を出演させるよう強く求めました。間もなく小学校就学前に受けた知能テストの結果が非常に良い事が判り、園長から謝罪を受けました。こうして無事に小学校入学を果たしましたが、今度は集団登下校の際に分団の六年生男子のいじめが起こりました。評判の悪い児童が揃っていて様々な問題を起こしていました。車道に押し出されたり、物をぶつけられたりして危険なため、見回りをして自衛手段をとりました。子ども会の要請で長女の女子分団に入れましたが、女、女とからかわれ、いじめがエスカレートしてしまいました。登下校の責任が学校と子供会との間であいまいな事も問題をややこしくしていました。その後、三年間も受け持ってくださった当時の雅史の担任は、厳しい中にも優しさのある、きめ細かな指導をされる、信頼できる先生でした。毎日往復書簡をやりとりし、いじめに対して毅然と立ち向かって下さいました。又、当時五年生の長女の担任と図って学年ぐるみで問題解決に協力してくれました。
このいじめ事件は、私がそれまで近所付き合いがなく、雅史をひ弱に育てていたことの反省を促しました。翌年PTAの広報委員長を引き受け、いじめ撲滅と障害児の理解をアピールしようと思いました。その翌年には副会長になり、先生方やPTAの方々と幅広く交流して、PRに努めました。その一方で雅史を自立した子にしようと心を砕きました。
こうして小学校は無事安泰に終える事ができましたが、中学入学の頃から主人の両親が入退院を繰り返すようになり、その介護に疲れ果て、私自身も病に倒れることも度々でした。そんな時、三人の子供が家事を分担して助けてくれました。気がつくと、雅史はすっかり絵に没頭しており、全く勉強意欲を失っていました。成績はどん底でしたが、校長先生は彼の絵の才能を高く評価し、雅史に出番を用意し、美術部の部長に推し、様々な美術展入賞に導いて下さいました。又、善行優良生徒としても表彰して自信を付けて下さいました。
「是非大学に進学するよう頑張りなさい」と励まして彼を支えて下さいました。
進学先は面接の際に好感が持てた、名古屋デザイン専門学校高等部に決めました。
入学後は勉強が嫌いだった子が、好成績を収めるようになり、みるみる頭角を現して四年制大学も推薦入学の基準に達していましたが、就職のことを考えて名古屋造形芸術短期大学に入学しました。
卒業時には、学力優秀品行方正生徒として表彰され、同席の私もつい感涙に咽びました。
短大入学後は、理解ある良き師、良き友に恵まれ、水を得た魚のように青春を謳歌していました。しかし、就職活動に失敗し、コンピューターによるデザインを学ぶため、三年制のドライデントデザイン専門学校に特待生として入学しました。
現在、二年生ですが中華料理店、デザイン会社、自らデザインしたTシャツ販売と多忙で充実した毎日を送っています。大きな志を持ち、夢の実現に遭進している雅史の前方に大きく立ちはだかっているのは、就職問題です。希望通りのデザイン関係の仕事に果たして就けるかどうか不安でなりません。就職活動中、面接を申し込んだ際の冷たい反応が、今なお私の心を凍らせます。成人した子供の就職に親は、どう関わったら良いかが今の私の課題です。これまで絶望の淵に立っても何とか飛び込んできましたので、暖かい手を差し伸べてくださる方もいらっしゃるのではないかと、ひたすら出会いを念じています。
さて、最後になりましたが名古屋難聴児を持つ親の会と、私の関わりについて、お話しましょう。雅史が四歳の頃、ひょんなことから入会と同時に役員になったものの、次男の誕生後しばらく遠ざかっていました。でも休会状態となり、主人達が発起人となり再建に当たりました。幸い、春日ひろ美さんが会長を引き受けてくださり、会はつぶれるのを免れました。
私も雅史が十歳の頃、役員に復帰し、以後今日まで役員を続けています。平成二年からは年に一度「実践の記録」を発行することになりました。主人は、初代会長の尾形やす子さん編集の「きぼう」と言う冊子を高く評価し、手始めに「かたつむり」と言う子供達の作品を掲載する新聞を発行しました。当時、雅史は詩や絵物語、紙芝居を作ることが好きで、作品を発表する場も提供できたらという親心もあったのですが、投稿者が少なく三号で廃刊となりました。それがとても残念で、年に数回発行するお便りも散逸するのが惜しいこともあり、皆さんの協力で実践の記録発行に踏み切りました。今は若い方々にバトンタッチしましたが、灯を点し続けて行って欲しいと思います。
雅史もこの会を通して多くの友人ができ、又、実践の記録の表紙のデザインや工作教室を担当し、今日の雅史の基盤を作って頂きました。私も人生の岐路に立った時、適切な助言を頂き、学習会、講演会と幅広い活動を通して難聴児の育て方を勉強する機会を得ることができました。また、長女もこの会のボランティアをやったことで、大きく成長し大学時代から福祉関係のボランティアを行い、高校教師になってからもクラブの顧問として継続しています。
会の持続は大変ですが、私のように多大なメリットを得た者もいるのです。会の存在の意義を充分認識して活動を続けて行くことが、私達の任務だと思います。
雅史と歩んだ道は時として茨があったものの、傍らに野の花が咲き乱れる田舎道でした。舗装された道よりはるかに趣のある道でした。
親としての務めを果たすまで歩みを共にしなければなりませんが、今や彼は独りで我が道を歩み始めました。私は黙って彼の旅立ちを見送らねばなりません。
悲しいやら嬉しいやらで複雑な心境です。
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