[自立に向けて]
娘と私
福島県 磯部 あや子
私の娘、恵美子は今年で二十九歳になりました。
娘の二十九年前を振り返ると、さまざまな出来事が沢山ありました。昭和五十二年三月二十五日に三、四三〇グラムの大きな赤ちゃんで、待望の女の子で、私はとても嬉しかったです。
ところが二十九年前のお盆に実家へ行き、帰ってきたその晩のことです。娘は当時生後五ヶ月になる直前でした。突然大きな声で泣き出し熱も高く、座薬を入れて熱も下がり眠ったのでホットしました。次の朝から眠った状態で目をさまさないで、おもちゃのうるさい音も全く反応がありませんでした。あわてて私は娘を出産した近くの病院に電話をしましたが、日曜日で先生は不在でした。でも看護師さんから病院を紹介され娘をおんぶして行きました。
病院で娘を診察してくださった先生から思いがけない一言、「私の手に負えないので」とのことで喜多方県立病院の小児科の久保田秀雄先生を紹介され、私は娘を連れて行きました。娘は一刻を争う危険な状態でした。病院のベットには酸素テントが設置され意識不明の娘はテントの中で病院生活が始まりました。酸素テントの中で小さな体で、生きようと必死で頑張っている娘を病魔が襲いケイレンが続き、口からは泡を吐き娘がとても可愛そうでした。でも主治医の先生は必死で娘の対応に専念して下さいました。「恵美子ちゃんは化膿性髄膜炎なのでむずかしいので知らせる所に連絡して下さい。」と先生からお話があった時は、自分の責任を感じ目の前が真っ暗になりました。もしこんな小さな可愛い娘が・・・と思った時、酸素テントの中で眠っている娘の小さな手の指の爪が少し伸びている事が気になり、自分の歯でかじってあげたいと思いテントに付いているファスナーを開けて手を入れようとした時、先生が病室に入って来られ叱られました。
娘を思う親の気持ちでそんな事もありましたが、毎日、毎日主治医の先生の献身的な治療で奇跡的に意識が回復し嬉しくて先生と娘に手を合わせて私は思いっきり泣きました。泣かずにはいられませんでした。そして意識回復後は、娘に吸う力があるかを確かめるためにおしゃぶりを購入し娘の口の中に入れた瞬間、娘はかすかな力で吸ったのです。先生は「恵美子ちゃんは吸う力も出たよ。お母さんよかったね。」と言って下さり、私はまた嬉しくて先生に手をあわせ「先生、本当にありがとうございました。」と感謝の気持ちを伝えました。そして、鼻から注入していたミルクをわずかな量でも自分の口から飲めるようになり、本当に嬉しかったです。
そして娘は、一日一日元気になり体力も付いてきたのですが、私自身娘に対して三つの事がとても気になりました。
一つ目は「恵美子!」と名前を呼んでも振り向いてくれない。二つ目は、あくびをした時に舌が左側を向く。三つ目は頭の右側が異常にぶよぶよしている事でした。
はじめは、私の手の錯覚かなと思いましたが主治医に相談をしました。当時、喜多方病院には頭の断層写真を撮る設備が無く、主治医の指示で会津若松市内の病院へ救急車で行き、頭の写真を撮っていただきました。その結果、私が気にしていた右側のぶよぶよが三日月形の影になって写真に写っているので即刻、頭の手術が必要なので、当病院での手術を勧められましたが、主治医に先生のお考えで、福島市の大原総合病院の脳外科医の倉島康夫先生を紹介され、生後七ヶ月の娘を連れて大原病院へ行き倉島先生に頭の手術をして頂き、手術は九時間にも及ぶ大手術で主治医の久保田先生も手術に立ち会ってくださいました。倉島先生と久保田先生は同級生で、親友との関係で手術室の中への許可があったそうです。九時間後、脳外科の倉島先生が手術室からロビーに来られ「お母さん手術は大成功だよ。」と言われました。後の説明で「恵美子ちゃんの頭の中には七五CCの血腫があり全部取ったよ。」と言われました。
髄膜炎の後遺症は耳に影響がくることや、又今回娘が頭の手術をしないと何らかの後遺症が残るとも言われました。神経は交差しているので頭の右側のぶよぶよに血腫があったことで、欠伸をしたとき、娘の舌が左側を向いていたのは神経が交差しているからと、素人ながら私なりに思いました。
その後、娘は福島の病院を退院し自宅での静養がはじまりますが、風邪、熱、寝不足、人ごみ、興奮、食べ過ぎ、疲れ等のどれかが原因になると具合が悪くなり目がつり上がり口から泡を吹き出し、右半身のケイレンに襲われ、四歳まで入退院の繰り返しでした。でも月日が経ち体力もついてきた三歳の時、私が朝ちょっと目を話した隙に姿が見えなくなり家から少し離れた線路まで歩いて行ったらしく、JRの磐越西線の汽車を止めてしまい、周りで作業をしていた方からの通報で知り、驚き、娘の状態を娘を見るまではいても立ってもいられませんでした。でも娘が線路の中でしゃがんでいた事が幸いして命に別状なく首と両肩に三ヶ月のかすり傷ですみ、本当によかったと思いました。主治医の先生に診ていただき、先生の一言で母親の責任を感じました。地元の駅や関係者の方々、警察の方々、会津若松市の駅の保安協会へ行き始末書も書き謝罪しました。
娘も大きくなり五歳の時、仙台市の宮城県ヒヤリングセンターヘ連れて行き聴力検査をしていただきました。その結果「あなたのお子さんは難聴です。耳が聞こえません。補聴器が必要です。」と言われた時は、娘の将来の事が頭に浮かび自分の気持ちをどう抑えていいかわかりませんでした。四歳過ぎまで入退院をしていましたので五歳になっても足元がしっかりせず、娘をおんぶして仙台のヒアリングセンターから紹介された会津若松市にある聾学校会津分校へ連れて行き、教育相談を受ける手続きをしました。同じ障害を持つ子供達が勉強している部屋へ連れて行かれた時、私の姿が見えない不安と娘なりの自己主張からでしょうか部屋の勉強道具を投げたり泣いたりして周りの人を驚かせた事もありました。
そして教育相談のためバスに乗り私と聾学校会津分校へ通い始め月日が経ち、小学部に入学しましたが三年生の時の夏休みに入った七月二十一日の朝、突然、また娘の姿が見えなくなり方々を探しましたが見当たらず、私の自転車も無く事故の事を考え地元の福祉事務所へ行き捜索をお願いしました。その後、娘が立ち寄ったお店屋さんのご主人からの連絡で無事に見つかりました。娘の元気な姿を見た安心感と自分のいたらなさがこみ上げてきて、娘をしっかりと抱きしめながら嬉しくて思い切り泣きました。すべて母親である私の責任である事ばかりで娘に大変申し訳ないと思いました。
会津分校も小学部六年生まで無事に終えて卒業しました。
中学部からは本校である郡山市の光風学園での園生活になり娘を自分の手元から手放すのは、今回が初めてなので不安がつのり郡山の聾学校に入学する前から娘の事が心配で心配で夜も眠れませんでした。入学の当日は、覚悟を決めて入学式に娘と共に出席しました。周りを見ても誰一人知らない先生方、保護者、子供さんたちで不安がつのるばかりでした。
中学部の当時の部屋担任の佐藤キイ先生と斉藤陽子先生を特に信頼して娘をお願いしました。寮母さんたちに支えられて三年間の園生活を無事終えて卒業しました。
高等部での三年間の寄宿生活がスタートしましたが、舎生活も無事終え卒業しました。あっという間の六年間の郡山での生活でしたが、この六年間の間、休みになる前日、娘からの自筆のファックスが届き「お母さん、迎えに来てください。お家に帰りたいです。」とたびたびのファックス。その度に私は汽車とバスを利用して園と舎に六年間、娘を迎えに行き、帰りは郡山の園と舎まで送って行く事でさまざまな出会いがありました。出会いがありそして別れがあり忘れられない素敵な思い出も沢山あります。すべて娘のおかげです。娘に心から感謝しております。「恵美子、本当に六年間ありがとう。」
平成七年に地元に帰って来た愛する娘、恵美子は、地元での仕事がスタートしました。
毎日駅からのバス通勤で一生懸命、娘なりに頑張って周りの人たちに支えられ十二年間勤めた会社でしたが、会社の方針もあり今年の三月三十日付けで退職しました。
現在はこれまで勤めていた会社のすぐ側にある授産所「いいで工房」で自立に向けて訓練しながら通所しております。当授産所はいろいろなイベント、レクレーションもあります。パンを作ったり、ラーメンを入れるパックにシールを貼ったり手工芸などいろいろと作業を行っております。娘がパンを作れるようになるのは、まだまだずっと先かと思いますが、当授産所の佐藤施設長さんを始め若いスタッフの職員の皆さん達に指導をいただき毎日楽しく通所している娘を見て、母としてとても嬉しく思います。
食べものも好き嫌いがほとんど無く、一番好きな物はお寿司です。会津若松市にある回転寿司のかっぱ寿司には、一ヶ月でも数えきれないほど私と行って食べています。お寿司での栄養の取りすぎなのか、ご飯などの食べすぎでしょうか二十九歳の娘は太りすぎて大変心配です。胸と胃とお腹と三段腹?で、痩せている私は娘の脂肪が欲しいのですがこればかりはもらえなく残念です。娘は二十九年間、精神安定剤の薬を服用しております。主治医の先生には「一生涯服用することになります。」と言われてきましたがケイレンの発作を防ぐためには服用していたほうが良いとの事もあり、私自身、飲んでいることですごく安心をしています。誰でも何の薬も服用しなくていいのが理想かも知れませんが、飲んでいれば安心と言う気持ちは誰でも持っていると思います。娘が現在も服用しているケイレン止めの薬は二種類になります。一回目の時にケイレンがきたので現在の薬が娘にはあっているようです。年に一回の脳波の検査の結果も見守り今後の娘の健康も全て見守り、将来の事も陰で応援して行きたいと思います。
娘に一言「恵美子さん、五十七歳になった口うるさいお母さんだけどこれからもよろしくね。」娘、恵美子が小さい時から病気、頭の手術、さまざまな出来事は全て母親である私の責任であります。二十九年経った今でも娘に申し訳なく心から詫びる気持ちは変わりません。
五十七歳になり更年期も時々やってきて体調を崩したり、時には寝込んだりする時もあります。そんな時、娘は「お母さん大丈夫」と優しい言葉をかけてくれます。
可愛い娘、恵美子のために元気で長生きし、陰で支え、娘、恵美子を見守り、応援して行きたいと思っております。
兵庫県 正垣 直子
あやこといっしょに私自身も成長させてもらったなーと振り返っています。
三人姉兄の次女として、五十六年三月に生まれました。祖父母も元気で野菜や米を作っています。子供達は祖父母にあずけて夫婦共働きで働いていました。あやこの異常に気づくのも遅く一歳半の検診で、相談をしに近くの病院を受診しました。医師があやこの後ろから、「手をたたいて反応をみます。」と言って手をたたきましたが反応はありません。設備が整っていない為、紹介状を書くのでこれを持って京大病院へ行くように言われました。病院の帰り、この子はなぜ聞こえないのかな、あやこと消えてしまいたいと思いましたが、上二人の子供はどうなるんだろうと思い、涙が止まりませんでした。京大病院を受診して難聴というどうしようもない現実を突きつけられましたが、なかなか現実を受け止められずにいました。夫が「世の中にはいろいろな障害を持った人がたくさんいて、みんな頑張って生きているんだ」と話し、私一人じゃないんだと思うと前へ進んで行けそうな気がしました。
これまで子供は祖父母が見ていましたが、あやこの障害がわかった時から祖母に「あやこを見ていきなさい」と言われました。
豊岡聾学校に保育相談、幼稚部と通いました。後で後悔の無いようにと思っていますが、気ばかりあせっていました。
それでも、幼稚部の先生やお母さん方に励ましやご指導を頂き、私もあやこも少しずつ成長していきました。あるお母さんから「親が変わらなければ子供は良くならない」といわれました。本当にそうだなと反省し私が変わらなければあやこも、成長しないと思いました。
「頑張ってこの子を世の中へ出していくぞ」
私達の住んでいる所は駅からバスで、四十分位乗った田舎町です。豊岡聾学校まで通うには一時間三十分位かかります。家庭の事情で小学部から祖父があやこの送り迎えをすると言うので祖父にお願いしました。寄宿舎に預けようかと思いましたが、夜にあやこの笑顔が見られるようにと通学を選びました。祖父は当時八十歳位でした。一年生になりわからない、出来ないとぐずぐず泣くようになりました。家庭でのコミュニケーションも少なく集中力もなく、親も思うようにいかず沈んで行くようでした。それでもあやこの笑顔を見ると明日も頑張るぞという気にさせてくれました。
父親はいろいろな所に連れて行こうと仕事が休みになると、弁当を持って親子ででかけました。山登りから観光名所、冬はスキー場が地元にあるので毎週のように行きました。クラスメートは男の子とあやこの二人で授業を受けていました。下の学級とあさの会を持つようになり刺激を受けたのか、毎日が楽しくなり明るく積極的に手を上げるようになり親にも一日の出来事を身振り、手振りで言葉もほんの少しずつですが出てくるようになりました。
聾学校と近くの学校との交流会があり、もちつきやクリスマス会といろいろ行事があって毎日の生活に張りが出て来たようです。二歳半頃から遠い聾学校に通っていたため、地域の子供とはなじみが少なく姉や兄は家では一緒に遊んでも友達の所へは遊びに連れて行ってくれません。家には祖父母もいたので気に入った遊びがあると一人で遊んでいます。私が仕事の帰りに、お宮さんの方を見るとブランコに乗って高く高くこいでいます。毎日ブランコに乗っている姿を見かけます。
地域の子供たちに大きくなってからこんな子もいたのだと記憶のすみに残るように地元の先生に相談して運動会の予選会に出したことがあります。初めは嫌がっていましたが集団の中に入ると先生や上級生の指示に従って、走って見よう見真似で演技をしていました。給食もみんなと一緒に頂きました。
四年生に夏休みの最後、水泳の記録会があり参加しましたが軽トラックの荷台から降りようとしません。あまり嫌がるので先生が兄を連れてくるとすんなり降りて兄と一緒に会場に入りました。競泳会に出た事が無く心配しましたがどうにか泳ぎきってくれました。よくやったと言う気持ちで一杯でした。五年生と六年生の夏休みに地元の小学校で平泳ぎとクロールの指導があり参加させました。熱心な先生で泳ぎが好きになり平泳ぎも出来るようになり喜んでいました。夏休みの記録会にも参加したのですがピストルの合図が分からないので先生とあやことでスタートを決めて先生が飛び込み台の端からピストルに合わせてハンカチをおろしたら、飛び込み台の合図であやこも先生の方を見ています。他の子がスタートに失敗してもう一度やり直しになりましたがあやこは一人頑張って泳いでいましたが他の子が泳いでいないので、変だと思ったか元のスタート台に戻ってきました。私は胸が一杯で見ていられませんでしたが、隣のお母さんが話してくださいました。
祖父とバス、列車通学の時もいろんな方に声をかけていただき、みんなに支えられているんだなと感じています。
中学部から自力通学を始めました。列車の中で寝てしまい降りる駅を通過してしまい高校生のお姉さんに起こされ、駅員さんのお世話になったことも二回や三回ではありませんでした。宿題も一杯出してもらい漢字検定の練習も頑張っていました。部活の卓球も先生の指導のおかげで自信が付いたのか高等部に入学しても卓球を選んでいました。
豊岡聾学校に高等部がないため姫路聾学校に入学しました。
高等部に入学して困ったことは通学が遠方なため寄宿舎に入りました。土曜、日曜、祝日には家に帰ってくるので、父がいつも迎えに行き月曜日には朝早く、駅へ送って行かなければなりません。もう少し便利がよければ一人で通学できるのですが、こんな生活が四年間続きました。高等部では卓球部に入り頑張って練習したのがまさかの全国大会へ、出場する事が出来ました。本人も大きな自信になったと思います。
クラスメートも七人になり友達も出来たようです。三年生になり進路を決めるに当たってあやこと相談しましたが、本人の思うような就職先も見つからず、まだ精神的にも難しいかなと思い専攻科に進学しました。あやこなりのペースでアンサンブルやスーツなどたくさん作りました。専攻科を半年ほど過ぎた頃、先生から一人欠員が出た会社があると知らされ現場実習に行くことになりましたが、その会社は寄宿舎からも遠く電車、バスと乗り継いでいかねばなりません。親は遠く離れているために寮の先生や担任の先生に朝早くからお世話になりながら、現場実習に通うことが出来ました。
合格の通知を頂いた時はとても嬉しかったです。同級生より一年多い学校生活でしたが社会で頑張る力がついたようです。姉、兄、と三人で生活していますが、勤務が不規則なので一人暮らしみたいな生活ですがたまに顔を見ると喧嘩もしながら暮らしています。
今から思うと良くぞここまで成長してくれたなと、しみじみ思い出されます。
これからも皆さんに支えられながら、前に進んでくれることを願っています。
長野県 横沢 房代
私達の子供、清美は昭和四十年七月八日、横沢家の次女としてうまれました。生まれた時は大きな声で産声を上げ、家中の皆が元気の良い五体満足の女の子だと大喜びでした。
スクスクと大きく成長し、三歳頃になって風邪を引くと、引付を起こすようになり、急いで医者の所に連れて行く、その繰り返しでした。時には医者に行くのが間に合わず、足を持って振って直した事も何度かありました。今になって思うと、体がぞーとする思いです。
なかなか言葉が続かず、この子は何時になったら言葉が話芸のかと不安の日々でした。思い切って専門の医者に診察を、と思い信州大学病院の門をくぐり、色々と検査をしていただきました。その時、私達親子は大きなショックを受けたのです。
この子は聴覚に障害がありますと言われ、何度も何度も医師に聞きなおしました。
まさか、私達の子供に障害が?其の時ほど、世の中には神も仏も無いと悔やみ、あふれる涙がとまらず、どのくらい時間が過ぎたでしょうか。ふと我に返った時、医師から帰りに補聴器を、と言われました。
子供は何事かと、私の顔を心配そうに見上げていました。
それから月日が過ぎたある日、障害を持った子供のお母さんが来てくれて、長野県立松本ろう学校へ入学を勧めて下さったのです。その夜、家中皆で話し合い、本人のために普通の学校か、ろう学校か、心が大きく動きましたが、松本ろう学校への入学を決め、お世話になることになりました。
わずか四歳の入学です。そして約一時間の電車通学が始まりました。朝六時に起きなければ小野駅発七時十分の電車に間に合わないのです。駅までは車で送り、夏のうちはまだ良いのですが、冬の朝六時はまだ暗く、気温も氷点下十三度、十五度になります。マスクをかけると眉毛、捷毛が白く凍りつきます。それは、もう可愛そうで、家を出る私達親子も送り出す家族も泣きながらの毎日でした。
幼稚部、小学部三年までは私と一緒の通学でした。朝は小学二年生で、四歳年上のお姉さんが清美を起こし、支度をさせて、二階から二人で泣きながら降りてくる毎日です。これがお姉ちゃんの役目でした。それが四年生まで続き、五年生になった頃から自分で起きるようになりました。四年生からは、今は亡きおじいちゃんとの通学でした。松本市内に一室を借りて、おじいちゃんはそこで休んでいてもらい、授業が終ると一緒に帰ってきました。
今思い出すと、あの時は家族が一丸となってよく頑張って来たものだと心が和みます。
先生の教えは「目が見えるんだから、目の中に耳を持ちなさい。」そして口話での教えでした。
清美の人生の基本を作って下さった、松本ろう学校の先生方に心から、本当に感謝しています。いつも私達親子はどんな所にでも清美と一緒に歩きました。
始めのうちは一般の人達は、私達に指をさしたり、振り返って見られました。その時は涙が出るほど悲しい思いでした。でも、この子は私達の大切な子供だ、と堂々と胸を張り口話で話をし、幾度となく泣き、そして笑い、やがて高等部の卒業が近くなったある日、お姉さんが東京の学校へ行ったから私も東京の学校に行きたい、と言い出したのです。この子に出来るかと不安になり、学校の進路指導の先生とじっくりと話をしている時、先生からもし合格できればこの学校を勧めたい。それは、千葉県にある筑波大学附属聾学校へと、勧めて下さいました。
入学試験の前日、東京の早稲田大学の近くの宿に一泊しましたが、気持ちが高ぶり寝むれませんでした。
翌日の朝、子供と一緒に学校の門をくぐり、そして子供と一緒に面接が有り子供は試験、親は別室で面接試験、なんとしてでも合格させたい、の一心でした。それから何日か過ぎたでしょうか。学校より「清美さん合格しました。本当に良く頑張ったね」と嬉しい電話が来ました。家中の皆が清美と共に頑張って来た結果だと、大喜びし本当に嬉しかった。そして入学、寮生活が始まりました。月に一度は必ず面会に行き帰りは寂しさと不安で涙が止まらず、一年が過ぎようとした頃、アパート生活がしたいと言い出し困ってしまいました。
一人で生活が出来るのかと心配がいっぱいでした。思い切ってアパート生活をさせることにしました。それは子供が自立するための第一歩だと思ったからです。家からは一定のお金とお米を送り、決してアルバイトはしないと約束をさせ少ないお金での生活が始まったのです。
清美は清美で頑張り六ヶ月が過ぎた頃「お金が少し残ったよ」と言われ、良くやってきたと感心し、頑張れよと安心し、筑波では手芸の中の友禅を専攻しました。
会いに行くたびに、今は亡き原京子教授から「この作品は清美さんの作品ですよ」、「この子は素晴らしい何かを持っている」と言われ、頑張っているのだと涙が止まらず、頑張れよ、頑張れよと言い続けて来ました。
卒業近くになり、学校より電話が入り「日本手芸協会で、技術優秀にて講師免状を取得しました。」と通知が来ました。まだ十八歳で、これは真実か、と夢のようでした。
原教授より「筑波始まって以来の事ですよ。本当におめでとうございます。」と電話をいただきました。
授賞式の時には、作品と共に講師免状をいただき、原教授が私も感動していますと私の手を握ってくださいました。
耳の聞こえない子供でも自立の心が有れば又、目の中に耳を持てばなんでもできる、その事に甘える事なく自分を磨き上げていく事が、人生の幸福に近づける事になるんだと、清美に教えられ胸が熱くなりました。
現在は、日本のトップ企業の日本電気NEC株式会社の社員として働き、年三、四回は海外旅行に行き、月六万八千円のアパートに一人で生活をしてオーストラリアには友達も出来、手紙での交際をしています。私達にも一緒に海外へと計画してくれましたが、都合が付かず行けませんでした。次の機会には是非一緒にと言ってくれています。
そしていつの日でしたか「お母さん私を生んでくれてありがとう、お母さんが年を取ったら私が必ず面倒を見るから安心してね」と言ってくれました。
また、最近清美から嬉しいファクスが届きました。清美は健常者の人と一緒に三十人のグループ職場で働いているそうですが、十月の人事指令で上司が二人その職場のチーフリーダーになったと言う事です。上司の方は「聾者だろうと関係ない」清美の技術と活動的な所が良いと認めてくれたそうです。現在は、前の職場ではなく、全国の工場製品の総括をコンピューターに入力するプログラマーとして働いています。職場が変わって色々と大変な事も有り、でも自分の努力が認められ一部署を任されて、週一回の会議の時も自分の気持ちを上司に言えるようになってきているそうです。耳の聞こえる人達は粘りがないと言っている、私は解らないことは上司に教えてもらい、それを一生懸命にやる、出来た時の喜びは格別だと言っている、耳の聞こえる人の二倍も三倍も努力だ、でも絶対にくじけない、と言っている。
また今は気持ちに余裕が出来たのか、二十年も休んでいた友禅染色を初めだし工房に月二回通って作品も幾つか出来上がってきている。目の中に耳を持った子、世の中をしっかりと見ている子、全国のお父さん、お母さん、障害を持った子供も自分達の大切な子供です。大きく胸を張り、独り立ちする日が必ず来ます。自立する日が一日も早く来るように、子供と共に生きて行こうではありませんか。
子供に教育をつけて頂いた諸先生方、又社会の皆様に心から感謝申し上げます。
私の子供の現在までの歩みが、少しでもお役に立てばと思い、ペンを置きます。
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