たくさんの愛情に育まれて
沖縄県 大城 喜代美
切迫早産のため十ヶ月入院の後、無事に生まれた長男が二歳半を迎える頃、二度目も十ヶ月寝たきりの時間を経過しました。
台風のため停電し、非常灯の心細い灯りに照らされた分娩室で、早貴は産声をあげました。
それから十八年の時間が経過しました。
ろう学校への通学のため、いつものように那覇のバスセンターに送る車の助手席に座る娘がふいに、
「おかあさん、早貴は難聴でよかった。」
「はあっ?」自分の耳を疑いましたが、
「だって、耳の聞こえる人達は、家の近くの幼稚園に通って、近くの小学校、中学校、高校に通って地域が限られるでしょ!?。私は難聴のおかげで、幅広くあちこちにたくさんお友達ができたし、何よりも目立つから。」
そんな前向きな言葉を聞いて、溢れ出そうな涙をこらえるのに、苦労しました。だって、私の涙腺は一度栓をぬいてしまうと、上下に振られたビンの口から溢れるビールの泡のように止めどころがないのです。
娘の聴覚に障害があると知らされてから、人間同士の見栄だけが飛び交う日本で、どうやって娘に人間としてのプライドを持たそうかと、それを一番の目標にして、彼女を取り囲む愛情深いたくさんの人と共に、押し寄せる時間の波と戦ってきました。
人間が幸せと感じるために一番必要なことは、物事を前向きに捉える心だと思います。
「前向き」と言う言葉は「言うは易く、行うは難し」そんな言葉ですが、私たち親子に神様は天然の素質を与えてくれたのです。「自分に都合の悪いことはさっさと忘れる性質」です。これは大きな武器です。
お陰で笑顔を忘れることなく、立ち向かえたのです。
更に彼女の教育のために、神様はすばらしいスタッフを次々と与えて下さいました。
沖縄では、夫婦共働きというのは、普通で私たち夫婦も普通の夫婦でした。
さて、娘が難聴と診断され、医者は無表情で簡単な判決「原因はわかりません。治療方法はありません。」
目の前が真っ暗になり、心臓が息苦しいくらいにバクバクしました。「どうしよう、どうしよう、どうしよう、・・・」。
泣いている場合ではないのです。
数日後、たまたま娘の補聴器を見て声を掛けて下さった方が「帝京大の先生が、この病院にいらっしゃるらしいですよ、評判がいいから診てもらったら。」その一声が神様の声に聞えました。早速診てもらうと、やっと障害の原因を教えてもらえたのです。
「お母さん、原因は滲出性中耳炎です。」
帝京大の田中先生を紹介していただき、親子四人で上京。期待していたものもやはり、治療方法はないとのことでした。しかしながら、帝京大では、家庭での教育方法を指導していたのです。糸口はあったのです、希望が見えてきました。
それから、ろう学校の教育相談に通うことになりましたが、また難関です。肉親の誰かが娘と一緒にろう学校に通わないといけないのです。私は仕事を辞めようかと迷いました。
しかし、「この子たちはずーっとお金がかかるから、あなたは仕事を辞めないで、別な方法を考えなさい。」そう言ってくださる方がいて、職場の方に娘の第二の母とも言える玉城さんという、すばらしい女性を紹介して頂き、娘は約二年間ろう学校に通うことができました。
この頃から、同居していた夫の祖母がボケも始まり、早貴の勉強と仕事と祖母の世話で、私はフラフラ状態でした。
ろう学校に行けないため、私は別な方法で母親の勉強をしようと、数名の仲間で東京の先生を沖縄に招き、指導を頂きました。
沖縄県難聴児(者)を持つ親の会の新垣会長のお世話で、会の活動を通してたくさん勉強させていただきました。
小学校は近くの言語学級のある学校に決めました。将来健聴者と一緒に生活する上で、どんな問題があるのか知りたかったのです。
進級し、親学級の担任にあいさつに出向くと、「こんにちわ、私は大城早貴の母・・・」「お母さんは、何のためにこの学校に入れたのですか!私は他の子もみないといけないのに、一人の子だけ見るわけには行かないですよ!・・・」あいさつが終らないうちに、十分ほどか、一方的に大きな声でまくし立てられました。
しかし、ここで第三の母親が登場です。言語学級の新垣先生がまたまた素晴らしい教師であり母親でした。
学校も近くの難聴学級に進みますが、第四の母の登場です。
自身も障害児の母で、英語の先生が学級担任になって下さいました。
娘の周囲の肉親や、たくさんの先生方、小学校、中学校の友達、仲間たち、何よりも私以外の三人の母達の愛情に親子共々、育てていただきました。
沖縄ろう学校を今春卒業し、美容学校に毎日楽しく通っています。
これからも親子共々、笑顔を絶やすことなく、愛情を頂いたたくさんの方に、恩返しできる日を楽しみにしています。
神奈川県 山口 久枝
娘久美子は松下通信工業(株)佐江戸工場に勤務しております。
障害に気づくのが遅かったのでどうなることか心配いたしました。四歳になってもワァワァ言うだけで言葉になりません。でも一歳半頃は、「マンマ」「ブー入る」など出ていたので心配はしなかったのです。義父母も心配しないで遅いだけだからと言われました。幼稚園のこともあり家庭医に相談し紹介状を書いてもらいました。受診の結果は知的障害でした。何度か受診したある日、カウンセリングの先生が久美子の遊ぶ様子を見て「あら、意志があるの」と言われショックでした。欲しいものは自分で取りに行くのにと思いました。知能テストもお母さんがガッカリするからしないほうがいいと言われ又傷つきました。そして児童相談所送りになり、ときわ学園に行くことになりました。学園では身辺自立が目標でした。学園内の久美子はおとなしく指示通りに行動し何の問題もないようでした。一ヶ月位して先生から聞こえてないようだと告げられました。聴力検査を受けましたが、難聴はわかりましたがそれ以上はだめで脳波聴検を受けました。結果は高度難聴でした。私は、九十八デシベルがどんなものか説明を受けていないので、軽い病気位にしか思っていませんでした。園長先生に呼ばれ、大きな声しか聞こえないと説明され泣きました。障害の重複とわかり涙が止まりませんでした。「子供に涙は見せないで笑顔で」と園長先生に言われました。
養護総合教育センターヘ通い親子で指導を受けました。私はここで、子供を甘やかさない、子供のいいなりにならない親に変身できたことを大変ありがたく思っています。
ときわ学園の隣が横浜聾学校でした。新年度より聾学校の幼稚部三年に編入しました。この頃はじめての言葉「ボーク」が出ました。なんだか意味不明でしたが大好きな「ボウシ」のことでした。どんなに嬉しかったことか、一生忘れられない一言でした。聾学校では、ひらがなが書けて読めるのは当たり前でした。私と久美子にとって大変な毎日が始まりました。この頃母と子の教室の両親講座に参加しました。何もわからなかったので大変勉強になりました。
幼稚部の一年間は実りあるものでした。読み書きそして百まで数えられるようになりました。小学部では目立たない子でした。中学部になって積極的な一面が出てきました。わからないところを先生に質問するようになりました。そして高等部進学ではパソコンがやりたいと言い、生産流通科に進学しました。今まで友達は必要としていなかったのが一緒に遊んだりおしゃべりしたりが楽しくなり、演劇部で演じることが大好きにもなりました。ときわ祭(文化祭)では演劇で一生懸命に頑張りました。
そんな高校生活二年の時、自宅が全焼し義父が亡くなりました。久美子を可愛がってくれた大好きなおじいちゃん。あまり感情を出さない久美子も大泣きしました。
その後久美子は簿記二級に合格し自信をつけたように思います。ゆっくりですが確実に前進しました。これも聾学校でご指導頂いた先生方のおかげと感謝しております。久美子もよく頑張りました。お父さんも兄二人も何も言わず協力してくれました。家族の支えがあったから私も頑張れました。私どもこれからがもっと大変かもしれませんが負けずに家族助け合っていきたいと思っております。
長野県 神農 あつ子
昭和四十七年四月、桜の花が満開でとても綺麗に咲いていた頃、わが子、長女が生まれました。果樹農家だったので、美しい枝が育つようにと「美枝」と名づけられました。
少し早く生まれてしまったためか、未熟児で体も小さく、三ヶ月間位は熱ばかり出して、病院通いの毎日でした。動きが活発になり、ハイハイが出来るようになった頃からは、だんだん病院へも行かなくなりました。歩くのも早く、動作も機敏でとても障害があるとは、思えませんでした。でも一歳過ぎた頃から、音に対しての反応が鈍い事に気付き、又、家の都合で塩尻から長野へ帰ることになり、ハッキリしなくてはと思い一番大きな病院、松本の信州大学病院で検査を受けました。
結果は、聴力障害であると言われました。
その時は、体の力も抜けてしまい「ウソだ、なぜ、どうして、ウソであってほしい」と心の中で叫んでいました。そして子供のため、親である私達がしっかりしなくては、と思い夢中でした。そこで相談に乗ってくれていた先生が「長野ろう学校には、ろう教育に熱心で、とても素晴らしい先生がいますから尋ねてごらん」と言われました。
昭和四十九年三月、長野市篠ノ井有旅、主人の生まれた家に帰ってきて、三世代同居の生活が始まりました。
そして、祈る気持ちで長野ろう学校を訪ねました。
先生は補聴器をなるべく早くつけて、耳からの音を聞かせてやってくださいと言われ、早速付けました。そして耳から音を聞かせることから始まりました。
リズム、絵カード、絵本、紙芝居、おもちゃ、などで遊びながら楽しく教えてくれました。私たち親は、毎日の絵日記と、日誌を書く事から始まりました。
四年間、小学校に入るまでは、その日の子供との出来事を絵日記に書き、それを、次の日、子供が先生とお話する事から始まりました。日誌には何をやったか、どんな新しい言葉が出てきたか書いて、先生に見て頂き、色々なアドバイスを受け、一生懸命やった事が、思い出されます。諺にもあるように「三つ子の魂、百まで」と言われますが、本当に一番大事な幼稚部の時、ろう教育にとっても熱心な先生に教えて頂いた事、とてもあり難く幸せに思っております。そして、小学部に入り中学部、高等部と、本当に良い先生方に教えて頂き感謝しております。
又、高等部の時、第二十五回全国身体障害者スポーツ大会(はまなす大会)で北海道に行きました。その時今の天皇陛下が、皇太子の時、会場で話しかけてくださったそうです。「がんばってくださいね」と言われたと、帰ってきて話してくれました。その時の写真を誰かが撮ってくださり、大切にとってあります。とてもありがたい良い体験をさせて頂きました。
筑波大学附属聾学校では、一人で生活する事も経験し何より全国に友達が出来た事、今でも交流が続いております。又、子供達の親とも、互いに助け合い、楽しくやって来られた事、今でも子供の小さかった頃、皆で、一緒にソリスベリ、スキー、海へと行った事が懐かしく思い出されます。
一生懸命やっていれば、いつかいいことがあります。
今、美枝さんは社会人となってから十年が過ぎました。仕事にそして、協会の仕事、手話サークル、手話指導にと、又大好きなスキーでは世界の山にまでも行って滑り、ダイビングにも挑戦し、旅行にと忙しい毎日を送っております。
最後に、どうか今までお世話になった方々への、感謝の気持ちを忘れずに、二度とない人生です。持って生まれた運命を大切に、夢に向かって、体を大事に悔いない一日、一日を頑張ってほしいと願っています。
簡単ではありますが、以上で体験発表を終わらせて頂きます。
どうもありがとうございました。
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