「聴覚障害者の子供を育てて」
東京都 緒方 とみ子
私が子供たちを育てる事ができたのは、ろう学校の先生や学級のお母さん方のお陰だと思っています。
我が家は夫婦も子供も皆ろう者なので、家庭でのコミュニケーションは不便がありません。同じろう者ですから気持ちは通じるのです。しかし、私自身は子供の頃に両親を亡くしているので、実際子供が生まれた時にはどのように育てていけばよいのかわかりませんでした。でも親子共にろう者なので幼稚部に入学する三歳位になると子供と心が通じ合えるようになりました。
息子の友達の健聴のお母さんでろうの子供とのコミュニケーションが上手く行かず悩み又、ろうの子供の将来を心配し苦しんでいる方がいました。その時私は自分のろう者としての経験や、子供は成長していくから大丈夫!心配ないという事を話し、お互いに頑張りましょうと励ましあいました。
息子が幼稚部の頃には、基礎的な大切な事を先生が一生懸命に教えて下さる様子を見て家でも同じように教えました。発音も私の耳の代わりに先生が放課後繰り返し練習をして下さいました。宿題も学校の帰り道電車の中で子供と一緒に外の風景を見て勉強したり、本物を見たりして勉強させました。帰宅後はその日にした事を日記に書かせたり絵も描かせたりしました。
大変でしたが無事に成長できたのも先生方、お母さん方のおかげだと思います。
長男は大阪で生まれ、一歳半の時東京の狛江市に引越しして、次男が生まれました。長男は品川ろう学校の幼稚部に入学して先生方に教えて頂き、幼稚部三年の十二月に足立区に引越しをして、大塚ろう学校に転校しました。小学部、中学部では大塚ろう学校の先生方に大変お世話になりました。
次男は幼稚部から中学部まで大塚ろう学校に通い育てて頂きました。高校になると長男は大田ろう学校に入学、卒業後は大田ろう学校の先生が玉川大学に推薦をして下さり大学に入りましたが、当時は今と違い手話通訳者がずっと一緒に行く事が出来ずに悩み、先生の口話がわからないまま退学しました。
次男は野球が大好きなので高校は石神井ろう学校に入学し専攻科まで通い卒業できました。
二人の子供たちはそれぞれ小学部、中学部、高等部、専攻科と学生時代に楽しい事・苦しい事をいろいろ経験したと思います。子供たちが成長できたのは皆様のお陰だと思います。本当にありがとうございました。
千葉県 曽根 佐知子
「みんなに会ってもらいたい人がいるんだけど、今度、食事に家に来てもらってもいいかな。」
就職で下宿して以来、めったに戻って来なかった博の、久しぶりの帰省早々の呟きめいた一言を耳にして、心の底から込み上げてきた喜びは、今思いだしても心が湧き立ちます。
「大事な方なのね!勿論、どうぞどうぞ」といいながら、頭の中では、はてどんなふうにお迎えしようかしら、私達の気持ちは、どのようにすれば伝わるのかのかしらと、ワクワクしながら考えておりました。大事な博が連れてくる大事な方と思うだけで、その日が待ち遠しく、心はただ、ただ舞い上がっておりました。
「本田もと子さん、もさんって呼んでいる。歯科技工科の先輩だよ。」まるで妖精のようにたおやかな、でもキリッと賢そうな、それまで私が、こっそりと博の生涯の伴侶として空想していた総てを凌駕する、それは、それは素晴らしい方でした。この方に出会って、素直に心がひかれ、愛し合える日のくることがわかっていたので、あの時から博の音の世界は突然閉じられたのだなあと、以来私は、固くそのことを信じております。ふたりで助け合いながら、夫々に仕事を持ち、健常者に劣らず社会活動にも積極的に取り組んで、楽しげに生きております。
明日で、結婚生活も九年目に入ります。ふたりの幸せな姿は、私達家族の本当に大きな喜びです。妹たちは申します。
ちょっと変わっている兄ちゃんだけど、もさんと結婚したことで総てはオーライね。本当に素敵な姉ちゃんだもん。」なんだそうです。
自分が聴覚障害者の母であり、長男の博が、小学五年六月七日から障害者であるということを、殆ど失念して生活しておりますので、今回のことを機会に、少し過去を振り返ってみることにしました。
二、三日前からの風邪の熱が下がらず、開業医の処方薬を服用しつつ学校を休んで臥せっておりました。喘息と湿疹に、生後六ヵ月頃からずっと悩まされてきたのがやや改善し、好きなヴァイオリンを友人と共に習い始め、いまに世界中を演奏して回りたいねと励まし合っての元気な毎日でした。
夕方五時ごろ、「ママ首が痛い、へんだよ、苦しいよ。」の声に様子を見た時の、ドキンとした感覚。これはただ事ではないと、生まれて初めて一一九のダイヤルを回しておりました。病院に着いたときは全身が硬直。ドクターは脊髄から採取した液を見るなり―ミルクのようでした―生きられたとしても植物人間ですよ、やれる限りのことはしますがと仰り、大量の抗生物質が投与されました。意識不明のままの博のベッドの周りを囲んでいた私たちは
「あれ、パパ、いま何時。」無言のまま、反射的に腕を差し伸べた夫の腕時計を見て、
「あ、八時二十分だ。」どんなに嬉しかったことでしょう。意識が戻ったのです。植物人間ではないのです。奇跡を信じました。そして三日目、
「なにか言ってるの?口をパクパクしているけど、わかんないよ。」
失聴をはっきりと確認した一瞬でした。東大病院での精密検査で、感音性全難聴の診断が下り、今の医学では回復はないだろうとのことでした。目にも軽い障害が出ているが、発育盛りでもあり、こちらは克服可能とのこと。細心の注意をとの但し書きが付いていました。肝の冷える宣告でした。博が不憫でなりませんでした。どうしてこれから寄り添ってやればよいのでしょうか。将来の総てが閉ざされた思いで、絶望の日々が続きました。
そんな折の夫の一言が、私にとっての回生となりました。
「きちんと受け入れて、これから出来る最上のことを、博の可能性を信じて、やればいいんだと思う。大丈夫だよ。」目から鱗でした。四人の子供達に恵まれた人生を、夫と共にこれからも幸せを信じて続けていけばよいのです。
兄ちゃんと慕う弟や妹達、双方の両親達の陰日なたない援助、以前と変らず付き合ってくれる友人たち、下谷中学校難聴学級、筑波大学附属聾学校高等部、歯科技工科の先生方、夫々が、夫々なりに、博にとっての相応しい生き方を導き、受容して下さいました。
当人のやる気が、突然の非日常をどのように受け入れて向き合っていったのかは、私には想像するしかございませんが、よき伴侶と共にこの日々の幸せの続くことがその答えなのだと、今日も私は信じ感謝いたしております。
兵庫県 宮永 信子
昭和五十五年四月二十三日桜咲く頃、私の娘、明生子が生まれた。
オギャア、オギャア、元気な泣き声だ。男の子かと思ったが、女の子ですよと看護婦さんの声、エッと思った、でも手も足もちゃんとある。元気ならどちらでも良いと思った。しかし、早生のためかあまり動かない。病気があるわけではなかったが、もうしばらく様子を見ましょうと言うことになり、入院となった。十日ほどして大丈夫と言う事で退院した。
とにかく何をするにも時間がかかり、ご飯を食べて終わるのに一時間三十分位かかった。それだけで一日が終わってしまうように感じた。まあ、私も子供の頃はご飯を食べるのは遅かったし、遺伝かな、しょうがないか、これも又、楽しい思い出だ。
一年ぐらいたった頃、あまり歩こうとしない娘が気になり始めた。ダッコ、ダッコと言う。このままではと思い娘を外に連れて行き、少し距離をおいて、おいでおいでと手をパンパンたたき呼んだ。晴れた日、雨の日は傘をさし、おいでおいでと、少しずつ前に歩いた。
五ヶ月ぐらいたった頃だった。いつものようにパンパンおいでとやっていると、早歩きで私の所に来た。私は驚くとともに、涙が出てきた。それからはほかの子と同じように、歩くようになった。
二歳になった時のこと、娘がお父さん、お母さんと言った。ゆっくりだが奇麗な声だった。今でもよく覚えている。明生子が三歳になった時、妹が生まれた。下の子に手がかかるので、あまりかまってやれない。気にはなったがどうしようもない。その頃から落ち着きをなくして行った。一時も座っていない。うろうろするようになった。
ある日、気がついたら娘がいない。外に出て探したがいない。何処に居るのだろう。私は探し回った。どうしよう、どうしよう、私はパニックになっていた。ふと前を見ると、娘がいた。たまたま近所の人が見つけて、連れて返ってきてくれた。それからも、落ち着きが収まることはなかった。どうしたら良いのだろうか、と思ったがわからない。そして声を出してしゃべる事も無くなった。どこか悪いのではと心配した。
私は神戸の病院で検査をしてもらった。その時初めて娘が難聴だと言う事を知った。うそだと思った、だってしゃべっていたのに、ゆっくりだけど、確かにしゃべっていた。私はその事をすぐには、受け入れることが出来なかった。その先生が言った。「言葉の訓練をしましょう。」私は「はい」と言った。神戸まで出てくるのは大変だろうと言って、姫路にある、藤森病院を紹介してくれた。
保育園にも行かせた。何も変わらない、笑顔もない。一ヶ月過ぎ頃、絵を見せて文字と合わせる訓練をしていた。絵には何の興味も無かったが、先生が字を書いて、やま、かわと、それを見た娘が同じように、やま、かわ、と書いた。先生が言った。この子は字を書くことが好きだね。字を覚えるのに、そんなに時間はかからなかった。私は文字カードを沢山作った。それに合わせて絵も作った。見る見るうちに色んな事を覚えて行った。だから今でも字を書くことは好きだと思う。好きなのだ。美しい字を書く、何かと娘にお願いして書いてもらっている。
字を覚えた事で自信が付いたのだろう、よく笑うようになった。この頃からだろうか、はっきりではないが、声を出し始めた。父ちゃん、母ちゃん、みかん、りんご、かめ、とり、いぬ、ねこ等繰り返ししゃべっていた。
あっという間に保育園も卒業、早かった。
幼稚園は家の近くにある幼稚園に入れた。保育園の先生が勧めてくれた。よくお世話になった先生だ。幼稚園には嫌がらずに行ってくれた。みんなと同じようにやっている。でも先生に言われた。みんながする事は同じように出来る。だけど自分から人と違う事をしようとしない。これでは物まねだと言われた。そうかもしれない。何かきっかけはと思ったがわからない。
ある時、みんなで紙芝居を作って発表することになった。タイトルは忘れたが、ある本の中の一頁、それを見て絵と字を書くことになった。同じように絵を真似るのは難しかったが、娘と二人でデッサンをして色を塗っていった。
まあ?何とか出来たかも?次に、セリフを書く、これは書くのは早かった。楽しそうだ、やっぱり字を書くことが好きなのだ。いい思い出だ。出来上がった。
紙芝居を先生が読んでくれた。二人で書いた絵に食い入るように見た。あっと言う間に、終わってしまった。あの紙芝居はまだあるのだろうか。もう無いだろうな。良い思い出です。
幼稚園も卒業近く、小学校を何処にしようか考え始めた。いろいろな人に聞いて相談した。クリニックの先生からは、聾学校に入れたらと前々から勧められていた。明生子を良く見て考えてくれたことだろうと思う。幼稚園の先生は、このまま小学校で頑張ってみたら、と言ってくれた。教育委員会の人は、先ずその目で見て話を聞きましょう、と言ってくれた。私は小学校に行って話しを聞いた。その先生は、三年生ぐらいまでは授業についていけるかもしれませんが、それからは勉強も難しくなって来る。止めとけば、という言い方だった。
どっちの小学校へ行かしたら、娘のために良いのだろうか。いろいろ考えて私は聾学校へ入れたほうが良いのでは、と心が固まった。が、明生子の父(家ではお父さんと言っている)、お父さんは、このまま小学校の方が良いという考えで、私と意見が分かれた。とにかく聾学校に行って見学させてもらおう、と二人で見学に行った。お父さんは暗い感じと思っていたらしくみんなの明るい顔を見て、聾学校に入れても良いと言ってくれた。
小学校一年生、明生子と一緒にバスに乗って学校に行った。勉強も頑張ってくれた。やはり書く事から入った。同じクラスで入ったのは三人、にぎやかな事が好きな娘は、人数が少ないもっと沢山いたら良いのに、と言った。
中学生になり、初め陸上部に入ったが、あまり好きではないらしく止めてしまった。バレーボールが好きらしく、バレー部に入った。高等部でもそのままバレー部で頑張った。
中学部、高等部でいろいろな事があったが、真面目に勉強もして頑張ってくれた。
高等部の卒業式は、お父さんと一緒に出席した。あっという間に学校を卒業、短いような長いような、もう学校に来る事はない、と思うと寂しくなった。最後にクラブとは別にやっていた、太鼓を打ってくれた。力強い音だ。ドン、ドン、ドンその音を聞いてよく頑張ったな、偉い偉いと心の中で叫んだ。涙が出て止まらなかった。良い卒業式だった。
卒業した娘は、ヤマトヤシキという百貨店に勤めている。嫌なこともあると思うが、いつも明るい顔をして入る。
小さい時は声を出さなかった娘も、今は良くしゃべる。これからもずっとこの笑顔を見たいと思う。そして、この笑顔がずっと続きますように、これからも娘と一緒に生きて行きたい。
本当に良くここまでやってこられたと思う。私一人じゃやってこられなかった。
娘が小さい時、お父さんはお風呂に入れてくれた。お父さんは歌が上手なので、子守唄を歌うとすぐにスースーと寝てしまった。よく協力してくれた。嬉しかった。
みんなが力になってくれたから、やってこられた。
ありがとう。これから先も自分に負けそうになることが、あるかもしれない。そんな時、みんなの事を思い出して頑張ろう。
これで私の体験記を、終わりたいと思います。
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