息子の並々ならぬ努力を誉めてあげたい
静岡県 小坂 恵子
私には、三人の息子が居ります。
長男和史(かずふみ)は、今から四十二年前、私が二十五歳の時に生まれました。
もう当時の記憶は大分薄れていますが、和史と共に過ごした悪戦苦闘の日々が懐かしく思い出されて来ます。
「オギャアー」と大きな声を出して産まれて来た和史は、体重三千六百グラムの元気な男の子でした。
その子がその後、音の無い世界に生きるとは夢にも思いませんでした。
生後十七日目に、耳だれが酷いので、家の近くの耳鼻科で診て貰いましたところ、中耳炎だと言われ、それから一日置きに注射し、一ヵ月半かよいました。そして、中耳炎は治りましたが、その注射のために、聴覚障害を起こしてしまったのです。
男の子だから、口を利くのが遅いのかな?と、思っていたのですが、二歳近くなってやっと「バイバイ・・・」と声とも似つかわないで、言えるようになっただけです。でも、もう少し待てば声を出して話せる様になるかもしれない・・・と、一抹の不安を抱きながらも、期待していました。
でも、二歳になっても言葉を発しないのです。思い余って、吉原の「ことばの治療教室」に主人と一緒に行きました。先生が和史の後ろからとても大きな音の出る鐘のようなものを「ガン、ガン」鳴らしました。でも、和史は後ろを振り向きませんでした。
とてもショックでした。
そして、「本当に残念ですが、お子さんは耳が聞こえておりません。聾学校で教育を受けられた方が良いですよ。」と言われ、沼津聾学校を紹介してくださいました。
その帰り道、この子が一生音の無い世界で苦労していかなければならない・・・と思うと不憫で泣けて、泣けて仕方がありませんでした。
でも、泣いてばかりいては、この子のためにならない!何とかしてこの子を普通の子に近づけるように教育しなくては!と思い、数日後、和史を連れて沼津聾学校を訪ねて幼稚部に入る前の、幼児の教育相談を一ヶ月に二回受けることになりました。母と子の長い聾教育の始まりでした。
その時指導して下さったのは、佐治教頭先生でした。とても温厚で優しくて、小さな子の扱いが上手な先生でした。先生は「可能性を信じて頑張って下さい。」と励ましてくださいました。そして補聴器を着ける様に勧められました。ボックス型の補聴器で小さい和史には重そうでしたが、嫌がらずに寝る時以外は着けていました。
四歳からは、幼稚部に入学しました。
その時の担任は、女の先生で私と同じ年の六車先生でした。厳しさと優しさをもって子供たちに接し、私達親に手本を示して下さいました。
幼稚部から小学部三年まで、私は和史と一緒にバスに乗って毎日通学しました。
学校では、他のお母さん達と一緒に教室の後ろに座って、授業の内容を一生懸命筆記しました。行き帰りのバスの中でも、勉強しました。家に帰ってからは、その日の復習、また主人と一緒に夜なべで作った絵カードでの発語の練習と・・・夜遅くまで、親子で頑張りました。眠りそうになると、「星を見ようね」と言って、外に出て夜空を二人で見上げて、眠気を覚ましました。
普通の子は、今頃は、スヤスヤと眠っているのに、こんな酷なことをして済まない!と思いながら必死でした。
でも、高等部の時に「親の会」に親子で集まった時、皆さんの前で、和史は「小さい時は、母は厳しくて鬼だと思いましたが、今では感謝しています。」と言ってくれました。私の気持ちを理解してくれたのです。とても嬉しかったです。
それから私なりに考えて試みた事がいくつかあります。
まず、普通児との接触によって知識を得るようにと考え、お菓子やおもちゃを用意して近所の子に遊びに来て貰いました。
実家には、同じ年の女の子と、二つ下の男の子がいましたので、土曜、日曜日には連れて行って一緒に遊ばせました。
主人が土曜、日曜日が休みではないため、私の母や叔母、兄夫婦が出来る限り協力してくれて、海や山、遊園地と連れて行って、色々な経験をさせてくれました。
また、除夜の鐘の音を身近で体験させたいと思い、五歳の時に三島の三石神社へ連れて行き、百八番まで受け付ける順番を待って、親子で「鐘」を突きました。その鐘の響きを体中に感じた和史は、目を丸くして驚き、そして喜びました。その後三島大社へ行き、大勢の人にモミクチャにされながら初詣をしました。それからは毎年行くようになり、小学部一年の時に生まれた次男、四年の時に生まれた三男も一緒に連れて行き、我が家の恒例の行事となりました。
弟たちが生まれると、お兄ちゃんらしくなり、母と子四人でデパートやお祭りや遊園地によく出かけたのですが、そういう時は、初めは私が三男をおんぶして、和史が次男の手を引いて歩いていましたが、途中で「僕がおんぶするよ」といって、よく代わってくれました。そういう思いやりの気持ちが育ってくれたことがとても嬉しかったです。
弟たちも、物心ついてから、勉強に運動に頑張る兄の姿を見て、一目置く様に成りました。
小学部四年からは、一人でバスに乗って通学できるようになり、私達親は毎月一回、授業参観に行きました。でも、家に帰ってからは、相変わらず私が付いていて復習、予習と勉強させました。中学部一年頃までそれを続けました。
その間も諦めきれず、何とか耳が聞こえるようにならないかと、あちこちの耳鼻科、そして東京の大学病院へと行きましたが、答えは皆、今の医学では治らないという返事でした。
結局、生まれて間もなく患った中耳炎を治すために、一日置きに一ヶ月半も受けた注射の副作用で聴覚障害を起こしてしまったのでした。本当に残念で堪りませんでした。
高等部は全寮制でした。でも私は、我が子の様子を見たいため、学校の色々な行事には必ず出席しました。主人は教頭先生やその他の先生からPTA会長になる様にすすめられ、初めは断っていましたが、和史をここまで暖かい心でご指導くださったご恩返しと思い、引き受けて一生懸命努めました。
和史は野球部に入り、三年の時には主将になり頑張りました。私達親は、どこまでも試合に付いて行き、子供たちに聞こえていないと解っていても、親の気持ちは通じるだろうと声を張り上げて応援しました。この時の監督は佐藤先生でした。先生はその後、結婚式に出席して下さり、とても心温まるスピーチで若い二人を祝福して下さいました。
高等部を卒業すると、富士通沼津工場に就職しました。在学中から仲の良かった先輩が、先に入社していましたので、とても心強かった様でした。三交替でしたので、朝四時半に起きて出社したり、夜中に帰ってきたりして大変でしたが、一度も弱音を吐きませんでした。毎月給料の中から「お母さん食事代!」と言って、自発的に渡してくれました。
和史は、色々な事に挑戦しました。
自動車学校に通い、一回で免許をとりました。
学校では、口話中心で手話は教わりませんでしたので、手話サークルにも入りました。
いつの間にかサーフィンを覚え、健聴者の友達も増えました。あちこちの戦いに出場し、良い成績を得たようです。そしてA級のジャッジの資格も取得しました。
このサーフィンで知り合った聡明で、優しい由起乃さんと結婚しました。由起乃さんは、小学校六年生の時に高熱が出て聴力を失ったそうです。話し言葉はとても自然に聞こえます。初め二人は社宅に住んでいましたが、富士市に家を建てて、由起乃さんは家で美容院を開業しました。子供も二人授かりました。現在、小学校二年生の男の子と、一歳十ヶ月の女の子です。二人とも健聴児です。夫婦で力を合わせて、子育てを頑張っています。
私共夫婦は、現在次男夫婦と同居し、三男も結婚して、車で三十分位の所に住んでいます。今、私はとても幸せです。
先日、東京の憲政記念館で開催された「聴覚障害児を育てた母をたたえる会」で私が体験発表をすることになったのですが、和史は、私が一人では心配だろうと言って、会社を休ませて頂いて、一緒に付いて来てくれました。とても頼りになる親思いの優しい息子に成長してくれました。
これも一重に学校の先生方、会社の皆様、親戚の人々、回りの多くの方々の暖かい支えが在ったからこそと、本当に感謝しております。
そして、和史の並々ならぬ努力を誉めてあげたいと思います。
東京都 蔵田 和美
次女「幸子」は生まれた時、少々未熟児ではありましたが、順調に体重も増え、何の心配もなく日々過ごしておりました。ところが、一カ月検診で心臓に雑音があると言われ、大学病院で検査を受けたところ、肺動脈狭窄だと診断されました。担当の医師からこの病名についての説明は受けましたが、よく理解できませんでした。「成長とともに心配するほどのものでは無くなるでしょうが、今後様子を見る必要はあります」と聞かされ、少し安心しました。
しかし、すくすくと成長するわが子に不安を覚え始めたのは、一歳の誕生日を過ぎたころです。長女に比べて言葉が遅く、あまり音に反応しないのではないかと思いました。それで一歳半の検診を受けた時、保健婦さんに相談しました。「幸ちゃん、幸ちゃん」と呼べば振り向く子供を見て、「大丈夫ですよ、ちゃんと反応しているじゃないですか」と言われて納得してしまいました。聴こえていないのでは、という不安を抱いていた私も、気持ちのどこかで安心したいという逃げがあったのだと思います。
そして、四ヶ月ほど経って娘は中耳炎になりました。当時、三鷹に住んでおりましたので、近くの杏林大学病院にかかりました。治療が終了した頃、担当の先生に思い切って「この子は聴こえていないのではないでしょうか?」と相談したところ、すぐに聴力検査をして下さいました。結果は最悪のもので「かなり、聴こえていませんよ。早く教育相談を受けて、早期対応をしてあげて下さい。」と言われ、杉並聾学校のパンフレットをいただきました。ショックで、病院からどうやって帰ったのか覚えていません。『聴こえない』という娘の障害を受け入れるのに時間がかかりました。
どうしたらよいかわかりませんでしたが、とりあえず杉並聾学校の教育相談に行って、今後のことを考えようと思いました。聾学校の校門まで行くと、足取りも重く行ったり来たり、なかなか前に進めませんでした。「学校ってこんなに静かなの?子供達の声が聞こえないよ。幸子はこれからどうなるの?」私は夫に問いかけました。夫の顔にも不安がよぎっていましたが、それでも私の背中を押してくれ「とにかく入ってみよう。それから行動すればよいのだから」と言ってくれました。教育相談室で待っていると、担当の先生が来られ、遊んでいる娘の背後から太鼓を鳴らしました。娘はこれにはすぐに反応するのですが、呼ばれると全く振り向きません。それを何度か繰り返してから、先生は「殆ど聴こえていませんね。念のため、昭和医大を紹介しますから、脳波と聴力検査を受けて下さい。」とおっしゃいました。先生の対応は淡々としたものでしたが、それでもわずかな望みにかけて検査を受けに行きました。
「ひょっとしたらこれは脳の病気で、治れば聴こえるようになるのではないか」と、医師の説明を受けるまでは祈るように待っていました。しかし、結果は同じで私共夫婦は子供の将来を考えて悲観しました。心臓疾患と聴覚障害、後になってわかったのですが、どうやら私は妊娠二ヶ月で風疹にかかったらしいのです。その頃は田舎に行っていましたので、そちらの病院にかかりましたが、風邪と診断されていたので、思い及ばなかったのです。
両親の心配をよそに、娘二人は聾学校の教育相談に通うのが楽しそうで、パズルやマッチング等に夢中でした。でも、それが返って私を勇気づけてくれたように思います。そして、聾学校に通ううちに、同じ障害を持った子供の親の方々に接するようになって、心が癒されていきました。初めて補聴器を着けた時、「幸ちゃん、幸ちゃん」と呼ぶと何度も笑顔で振り向いてくれました。音のニュアンスで自分が呼ばれているということを、察知できたのではないかと思い、たったそれだけのことだったのですが、とても感激しました。
幼稚部に入学するとお友達もたくさんできて、娘は一日もいやがることなく通学しました。むしろ母親の私のほうが、発音の練習をやっても効果が上がらないことに、いらだちを感じるようになりました。私の精神状態が不安定だったために、学芸大学の心理学の先生を紹介されて訪ねたこともあります。「あせらず、幸子さんの行動を静かに見守ってあげればいいのよ。言葉を発することだけにこだわらず、文字を入れてあげたらどうかしら」と先生はおっしゃいました。
担任の先生からは文字は早過ぎると言われましたが、娘が興味を持つなら、と思ってやってみました。長女の影響もあってか、文字を面白がって使うようになりました。絵本にも積極的に興味を示し、日曜日は父親と娘二人がいつも図書館へ行っていました。発音や聞き取りが苦手でしたが、絵を描くのが好きで、絵日記は嫌がらず書き続けました。文字を使えるようになってくると、言葉も増えて表現も豊かになり、私もそんなにいらいらしないで関わりをもつことができるようになりました。
小学部に入ると、国語、算数、社会、理科と学ぶことが増えそれに加えて発音、聞き取りの練習ですから、最初の一、二年は鬼のような母親だったと思います。担任がベテランの先生だったので、言われる課題も多く、私も娘を叱ったり機嫌をとったりして、授業をフォローしました。娘は興味が無いと感じた授業や話になると、全く先生のほうを見ないので、よく注意され、そのことで落ち込むことも度々でした。そんな時は、仲間のお母さん方や友人によく愚痴をこぼしては、慰めてもらっていました。
小学部低学年のうちになんとか将来自分で学力を身につけることができるように、基礎的なことに努力したように思います。読書もその一つです。夏休みに図書館に通ってどんな本を何冊読んだかとか、気に入った本の感想とかも作文にして先生に提出していました。ほめられるとますます読むようになりました。漫画も大好きでした。サザエさんのような生活漫画や、ドラえもんのように日常会話の多い漫画は、言葉の習得に大変役立ったように思います。本に関しては、欲しいと言った本を漫画も含めて、できるだけ買ってあげたように思います。
高学年になると、相次いで二人の女性担任に指導を受けることになり、娘のことを深く理解していただき、私も信頼して学校に委ねるようになりました。
この頃から、私はPTAの役員として活動をするようになりました。大変ではありましたが、PTA活動は違った立場からの、子供のサポートになったと思っています。聾教育に関する、まとまった知識もPTA活動に参加したおかげで、得ることができたと思っております。
中学部に入ってからも、先生に恵まれました。娘は家族には話さないようなことも、担任の先生には相談していたこともありました。多感な時期でもあり、信頼できる先生に指導いただいたことを、親として本当に良かったと思っています。私も子供の卒業まで、引き続きPTA活動に関わらせていただきました。
高等部と専攻科を通しては、大人になるための大事な時期でしたが、自立していく我が子を見守ることしか、力になってやれなかったように思います。何か資格を持っていた方が、役に立つのではないかと考え、中学からやっていた漢字検定と英語検定に挑戦していましたが、英検はどうしてもヒヤリングでつまずき、結局、漢字検定に努力しました。一級はとれませんでしたが、準一級まで合格できて、現在の会社に採用いただく時も、評価されたように思っています。
現在、幸いに会社に就職することができ、社会人として五年間がすぎました。普通の人と変わらぬ社会生活ができることを願って育ててきましたが、この頃やっと社会人らしくなったような気がしています。
今の彼女は、もう私の力は必要なく生きていけると確信しています。
私と娘は大勢の人達に支えていただき、今日まで、やってこられました。
心から感謝しております。
また「幸子」がいてくれたので、私は良い人生だったと最後に話してやりたいと、思っております。
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