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[暖かい支えの中で]
二十年を振り返って
茨城県 松下 かよ子
 息子が一歳八ヶ月の時、難聴という診断に目の前が真っ暗になり、これから家族はどうなるのだろう。聞こえなかったら話が出来るようにならないのではないであろうか。息子をどう育てていけばよいのだろう。と、色々な思いが頭の中をかけめぐり、考えても仕方がないけれど、どうして我が子が難聴になってしまったの?と悲観してばかりいました。
 まず始めにする聴力検査も泣いてしまい思うように進まず、イヤモールドも嫌がってしまうので絆創膏を貼って固定しても、すぐ取ってしまい焦りばかりの毎日。一日でも早く補聴器を付けたい、音を聞かせてあげたいという親の気持ちと裏腹で、補聴器の調整すら出来ない日々。
 メディカルセンターまでの四十五キロの道のりがとても遠く感じたものです。
 そんな憂鬱な私の気持ちを和らげてくれたのは、待合室にいた同じ難聴の子を持つおかあさんでした。「思っても仕方がないのよ。気持ちは分かるけど成るようにしか、成らないんだから、お母さんの焦る気持ちが子供に通じてしまうのよ」と言われ、一年八ヶ月もの間、音のない世界にいさせてしまったのは親の責任だから、早く補聴器を着けさせたいと思うのは親の勝手なのかもしれない。本人にしてみれば、今まで静の状態が、雑音だらけになっているのかも知れないと思い、焦る気持ちを落ち着かせるようにしました。
 やっとの思いで補聴器が着けられたと思ったら、道行く人に、じろじろ見られ、中には振り返ってまでも見ていく人、こそこそと話をする人さえおり、今だからこそ、手話も普及し補聴器や難聴と言う言葉も、見慣れ、聞きなれ、自然と受け入れてもらえるようになって、ボランティア活動をして下さる方も多く、有難い事ですが、息子達の小さい頃は、特別な、もの珍しいものとしか回りの人達には理解してもらえず、とても嫌な思いをしました。でもそんな時には、目が悪いからメガネをかけるのだ。それと同じに耳が聞こえないから補聴器を着けているだけで何も不思議な事ではない。恥じる事ではないと自分に言い聞かせるようにしてきました。
 不安だらけで、先が見えず弱気になっていた私の考え方が変わったのは、聾学校に通い始めてからのことでした。薬でも手術でも治らないので、補聴器を着けての教育訓練しかないといわれて聾学校に行った時のお母さん方の表情が印象的で「どうして我が子が聞こえないのに、こんなに明るくしていられるの?どうして笑えるの?」と衝撃を受けたものです。
 先生の話を聞いて、私の考え、思いは百八十度変わりました。父親は仕事をして、一家を守っているのだから、母親のあなたは、この子のため、家族のために笑顔を忘れず、毎日明るく元気に子育てをしていかなければならないのだと言われ、その日までの自分を恥ずかしく思い、そうだ我が子が大人になった時に、お母さんがあの時に、僕に何も教えてくれなかったから僕は話せないし、何も分からないなんって言われたら、それは私の責任だ、難聴になってしまった事を悔やむよりも、今しか出来ない事、今やるべき事が山ほどあるのをこの時、知り現実を目の当たりにしたのを、今でも鮮明に覚えています。
 当時、三歳六ヶ月だった娘も、弟の状態の話をすると「お母さん、健ちゃんにお母さんをあげるよ。由貴はばあちゃんでいいから。」と想像もつかぬ言葉が飛び出してきました。娘の顔を見ると、目に涙を浮かべているではありませんか。その時に出来る精一杯の気持ちだったのが充分伝わって来て「由貴ありがとうね。」と娘を抱きしめ、私はこの子のためにも、くよくよしていられないんだ。こんなに幼いながらにも一生懸命に弟を思い、考えてくれた事を無駄にする訳にはいかない。私や息子だけの問題ではない。これからは家族皆が協力して乗り越えていかなければならないんだ。と心新たにしたものでした。
 それからは「泣く声が出れば必ず話が出来るようになる(息子は聴力が両耳とも百十五デシベルなのですが)聴力に関わらず、発音訓練をしっかりすれば話が出来るようになる」と言う先生の言葉を信じて、教育訓練に没頭しました。私の傍から離れず、いつも泣いていて皆と一緒に訓練が出来ずてこずっており、耳から音や言葉が入らないので、物の名前を教えるのに絵カードや文字カードで、音は文字と言葉で表現し、人の名前や場所は写真のカードを作り、いつも持ち歩き一つの言葉でも多く覚えるようにと必死な思いで話しかけました。家中の物は、全部文字カードだらけで遊びに来た人は異様な雰囲気を感じた事でしょう。
 「百聞は一見にしかず」でいろいろな所に行って見覚えさせようと休みの度、高速道路、有料道路などの違いを実際に走りながら教え、絵カードや文字カードを持ち、マッチングしながら電車、バス、タクシー、飛行機、カーフェリー、モーターボートにも乗り又有名な場所は日本中地図を見せながら連れて行き教えました。三、四歳の頃なのに、息子はその当時の事さえ覚えており、写真を見ると記憶が甦って来て「また行きたいね」と話に花が咲きます。
 早期教育、幼稚部を聾学校に通い、小、中学校は地域の学校に通学しました。今思うと一番大変だったのが、小学六年間の予習・復習でした。聞こえていたって勉強は大変なのに聞こえない息子には、その日にやる授業は全部理解した状態で送り出していましたので、一日に四、五時間かかってしまい親子共かなりの負担で、スムーズに行く時は良いのですが、壁にぶつかってしまうと「みんな遊んでいるのに、なんで僕だけ、こんなにやらなくちゃならないんだよ。お父さんもお母さんもお姉ちゃんも聞こえるのに、なんで僕だけがきこえないんだよ。」と泣きながら訴えてきました。そんな時は、私も真剣勝負とばかりに、「お父さんだってお母さんだって、健を聞こえないように生んだんじゃないでしょう。生まれたて三日後に入院した時の薬の副作用で聞こえなくなちゃったんだもの仕方ないでしょう。その時にその薬を使わなかったら、死んでたかも知れないのよ。お父さんも、お母さんもお姉ちゃんも健のため健のためっていつも健の事を考えているのに、健は勿論大変だろうけれど健一人だけじゃなく家族だって頑張っているんだよ」と話した時には「神様からの使命なんだよ。健だったら聞こえなくても乗り越える力があるから神様は健を聞こえなくても大丈夫だと思ってそうしたんだよ。だから健だったら絶対に出来るようになるって」等と大げさな話を諭したものです。姉も毎日テレビは殆ど見られず、かなり不満もあったでしょうけれども一言も文句を言わず「健ちゃんが終ってからで良いよ」と協力してくれました。
 みんなと同じに勉強についていけた事で回りの友達は息子を仲間、友達として受け入れてくれていたようで、子供の世界も厳しいものですね。今までいじめられずにこられたのは、本人の精神的な強さは必要でしたが、姉の力もとても強いものがありました。中学になると反抗期が強くなり私の言う事は全くと言って良い位聞かず、姉に学校の様子を聞いたり、息子の間に入ってもらい話をする事さえありこの時点で今までのように四六時中傍らにいて教えなければいけなかった私の役目がなくなってきた事を実感しました。
 小・中・高校入学時、就職時と節目の時期は不安も多く、その環境に慣れるまでは瑞息になったり体調を崩す事もあったけれど、そんな時は、周りにいる人達に働きかけて困っている時やどうしても出来ないときだけ力を借りるようにしていき、助けてもらった時には感謝の気持を忘れず伝えるようにしてきました。そのお陰で今も誰にでも素直に「ありがとう」が言えるのだと思います。また挨拶は難聴だからこそ重要なコミュニケーションの一つにもなるので特に近所の人には「おはようございます。」「こんにちわ」「こんばんは」「いってきます」「ただいま」を習慣づけしてきました。息子から挨拶することにより、相手も違和感なく息子に話しかけてくれて繋がりが持てたようです。
 息子にとって、精神的にも肉体的にも強く大きく成長できたのは卓球を始めてからでした。中学の三年間は練習時間も部活の時しかなかったので、やっと県北大会に出られる位でしたが、高校で聾学校に入ってからは、部活の先生がいろいろな所に連れて行って練習や練習試合、試合をさせて下さり、どんどん卓球の面白さにのめり込み、寝ても覚めても回りが呆れる位夢中になっており、自分だけではなく友達も引きずり込み、練習を重ね、高校二年の時には全国聾学校卓球大会で団体個人共に三十八年振りに水戸聾学校が優勝するという奇跡まで起きてしまったのです。目標に向かって、ひたすら努力する素晴らしさを経験し自信がついたようで、それまでひどかった喘息や花粉症が嘘のように治ってしまったのには私達も驚きました。卓球を通して自分に自信がつくと、気持ちも体も変わっていく事を体験したのです。就職してからも休みには、高校の部活に行き後輩と汗を流し、現在の目標のデフリンピック世界大会で優勝する事を夢見て頑張っているようです。
 信頼できる先生との出会いがなかったらここまで強い気持ちに成長する事が出来なかったのではないかと思う位、部活の先生の存在は掛け替えのないものであり、今でも感謝の気持ちで一杯です。
 今までを振り返ってみますと、壁にぶつかる度に聞こえないという不満を訴えて来て、家族で協力して助け、方向づけして来ました。しかし同情しても、とにかく息子が強くならなければ何の解決にもならない、息子自身が切り開いていかなければならない。いつ、どんな時でも諦めず頑張れば出来ない事はないという事を、その度話して聞かせ、時間はかかっても一つ一つ乗り越えてこられたから、今の息子があるのだと思います。
 小さいうちは、親がこの子のためにと力を入れたものですが、今では姉弟でメールで話し合い、親の出る幕がない位です。成人しても姉弟が仲良くしている姿は、親である私が見ても、ほのぼのとして良いものですね。
 健聴者と何もかも同じ事を一緒にするという事は、不可能な事も沢山あるけれど、その不可能を一つでも可能にしていこうとしている姿に、今は只、陰から応援するだけです。
 今までご苦労さん。大変だったね、そしてこれからも、体に気をつけて、一社会人として頑張ってね。
 
『由紀枝のインテグレート』
宮城県 小松 諒子
 小松でございます。本日は私のような者がこのように光栄な場を与えていただいたことに深く感謝申し上げると共に、大変恐縮しております。私の体験と申しましても、親ならば健聴児も難聴児もなく、どなたも子育てでは同じような苦労をしていらつしゃるのではと思います。ある意味、当たり前の事ばかりになるかもしれませんが、これから少し時間をいただいて、私の次女・由紀枝についての体験をお話しさせていただきたいと思います。
 由紀枝は昭和五十一年十月二十三日、二千六百八十グラムとやや小さめの赤ちゃんとして生まれました。母親としては特に異常を感じることなく、普通の子どもとして受けとめておりました。それが難聴だと告げられたのは一歳二ヶ月頃、小児科医である夫からでした。言葉の少ないのは気になっていたものの「まさか、まさか」とそのときは信じられず、ボロボロ涙が止まらなかったのを覚えています。
 実は私も十ヶ月を過ぎた頃、昼寝中の娘の枕元で掃除機を使っても起きないことから音への反応がないように思い、難聴を疑ったことがありました。しかし夫は既に娘が七ヶ月の頃から喃語が少ないと難聴を疑い始め、後ろからの話しかけや雑音にも振り返らず、前歯が生えてきても一言も発語がないことから、早くに難聴だと診断していたということでした。言われてみれば長女と違い、由紀枝はベビーバスに入れると必ず激しく泣き、泣きすぎてせっかく着替えた湯上りの服にまで吐いてしまい、また着替えさせなければならないほどでした。またよく顔をひっかく子で、手に白いミトンをはめさせていたのを覚えております。なぜなのかとずっと不思議だったのですが、今になってみれば、耳が聞こえなくて不安だったのではないかと思います。
 当時の私は二人の子供を育てるのに手一杯で、夫の様子に気づく心のゆとりがありませんでしたが、早くに娘の難聴に気づいていた夫が、事の重大さに一人でどれだけ悩んでいたかと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
 難聴という事実を知り、由紀枝を育てるにあたって、私は夫と二人で固く決心しました。
 それは、(1)家族がひとつになって、由紀枝の教育に全力をあげよう。(2)健聴の普通の子のように、由紀枝を育てよう。ということです。
 由紀枝が難聴であるという事実を受け入れる時、特定の宗教に頼らない私たちでしたが、神が「この子を上手に育ててごらん」と授けてくれた命だと思う事で納得でき、運命に負けない強い子になるよう一生懸命に育てようと思いました。普通学級で健聴児と同じ場で教育を受け、出来れば大学に進学し、普通の社会人として働けるような人になってほしい。
 耳は聞こえなくとも必要な事は口話で話せるようにし、手話だけに頼らないコミュニケーションが出来る子になってほしい。そのために努力しようと、夫と話し合いました。
 由紀枝が一歳三ヶ月の時、補聴器購入を考えて仙台市ヒヤリングセンターで聴力検査を受けた折、東京の町田市にある日本聾話学校の存在を知り、一歳十ヶ月で母子夏期講習に参加しました。ここは唯一の私立校として有名で、「聾唖」ではなく「聾話」、つまり耳が聞こえない者が話をする事を目的に設立された学校ですが、設立者の大島校長先生や、ご自身も難聴児の母でいらした川村先生との出会いは、私の教育の原点となりました。
 二週間の指導の最初は哺乳瓶とオムツをはずす訓練でした。それは川村先生の教育の基本で、限られた時間の中で「ことばに専念できるゆとり」をもつために必ず最初にしなければならないといわれたことでした。母と子がゆっくり向き合えるのはこの期間しかない、家に帰れば他のことに気を取られてしまう。この二週間で子どもがこれからの基本を身につけるためには絶対に必要だと言われました。確かに言葉の発達を考えるなら、口を動かしてものを噛むことで脳の発達を促すことが必要になります。そのためにはいつまでも哺乳瓶で飲んでいては遅れがでてきてしまいます。また、おむつをしていれば子どもは安心しますが、おむつをはずすことによって子どもが精神的に大人になることが求められたのです。「言葉に専念できるゆとり」、「きちんとした生活習慣」をまず身につけることがすべての始まりだと、先生から教えていただきました。私にも娘にも辛い訓練でしたが、三日後にはおむつがとれて、母子でゆっくり向かい合い、言葉を育むゆとりが生まれていたのです。そして「一つの耳に一つの補聴器」という考えによって、それまで片方の耳にしかしていなかった補聴器を二週間のうちに両耳に装用するようにしたのでした。
 川村先生は、同じ障害を持つ子の母として、その後も折に触れて私に人生のアドバイスを下さいました。その多くのお言葉は、今も私の教育の大きな柱になっています。
 例えば「がんばってはいけない」という事。それは子どもも親も無理をしている状態で、結局は時間を費やすだけで何も生まれないというのです。焦っている時、いつもよみがえってくる言葉です。また、「家族の考えは一つになっていなければならない」という事です。例えば子どもが物を散らかしたりすると怒られるのに他の家族が同じ事をしても何も言われないのでは、説得力がありません。子どもは自分以外の人間の行動を見て育つのだから、家族全員の協力が必要なのだというのですが、本当にその通りだ、と実感したものでした。
 由紀枝の教育のもう一つの基本は「全ての言葉に目を向け、いつもいっぱいの言葉にふれさせる」ことで、これは現在筑波技術大学学長である大沼先生のお言葉です。先生には二歳で宮城県立ろう学校で担当していただいて以来、ずっと補聴器をみていただきました。
 難聴の子に言葉を教えるにはどうすればいいか、大沼先生にはたくさんのご指導をいただきました。そしてそのご指導の一方で、親の強い希望でインテグレートについても相談にのっていただき、市内の「お人形社幼稚園」に通園させていただけるようになったのです。
 多くの幼稚園に断られる中、唯一快く受け入れて下さったのは、横山園長先生でした。卒園後、先生が県内有数の教育者でいらした事を知り、だからこそ娘を引き受けて下さり、たくさんのお友達と本当に楽しい毎日を過ごすチャンスを与えて下さったのだと、改めて深い感謝の気持ちでいっぱいでした。
 そしてこの頃、午前は幼稚園、午後は幼稚部というかけもち通園も経験しました。毎日大変でしたが、とにかくいろいろ体験させる事ができ、やってみなければわからない事をたくさん経験させることができたと思います。また、由紀枝を通して『耳が聞こえない子でもこれだけのことができるのだ』とあの時代に教える事ができたのではないかと思います。例えば幼稚園のお友達が補聴器に興味を持ったら、小さくてもつけさせてあげました。すると子どもたちは「こんなにうるさいんだ」「じゃあ静かにしなきゃ」と納得してくれ、水遊びでも「由紀枝ちゃんの耳には水をかけちゃだめ!」と気配りしてくれたりしました。子どもたちばかりでなくお母さん方もとても優しく、由紀枝の言葉を増やすためにいろいろ工夫して下さった事も、いい思い出です。
 けれど、親がどんなに頑張っても子供がついてこられないことがある事に気づいたのもこの頃でした。親はいろいろ予定を組み、あれもこれも教えたいと思うのですが、子どもの体力には限界があってついてこられない事もある、それを考えてあげなければならないという事が分かりました。健全な肉体には健全な魂が宿ると言いますが、本当です。まずは我が子の健康が第一で、それなくして教育は成り立たないのだということを知りました。
 こうして由紀枝は、小学校から大学まで一切特殊学級に通わないインテグレート一本の学校生活をスタートすることになりました。けれど、記念すべき小学校の入学式には参加できませんでした。入学前年の十一月から一年間、夫が国際協力事業団の医療プロジェクトに参加する事になり、南米エクアドルで生活していたからです。由紀枝のために単身赴任するか、家族で暮らすか、随分迷いました。しかし私自身、言葉が思うように通じない辛さやもどかしさを体験したいという気持ちと、家族は常に共にあるべきだという思いから、一年間エクアドルで暮らす決心を固めました。
 ところが現地には日本人学校はなく、日本の進度に合わせて親が勉強を教えるのだと知りました。そんな中で由紀枝の日本語の勉強をどうすべきか、とても不安でした。一年間専門の先生も機関にも頼れないため、耳型のとり方を習い、補聴器点検や整備について学びました。また一年間に必要な指導の準備として幼稚園時代に毎月数回通っていた仙台市やまびこホームの西方先生にお願いして年間カリキュラムを組んでいただき、それを頼りにエクアドルに向かったのです。とにかく「日本語を忘れず、日本語を増やして帰ってくる」ことを目標に頑張った一年間でした。
 この一年は日本では得られない経験も多く、現地滞在中の日本人のご家族との交流などを通してお友達もでき、由紀枝にはよい日々であったと思います。また大人になった今でも外国旅行をしても物おじしないなど、いい経験になっているのかなと思うことがあります。
 大変いい思い出の多いエクアドル生活でしたが、ただ一つ残念だったのは、由紀枝にとっての「節目」を迎える機会が失われた事でした。本来迎えるはずだった卒園式や入学式には参加できなかった娘は、外国生活の中で心の区切りのつかないまま、十一月にいきなり小学一年生の生活になじまなければならなくなったのです。
 帰国後すぐ、由紀枝は姉と同じ仙台市立通町小学校に通い始めました。他の子が学校にすっかり慣れた頃、外国帰りで八ヶ月遅れの難聴の新入生はまさに右も左も分からず、外遊びをしてそのまま土足で教室に入りこんで先生を驚かせたりした事もありました。しかし先生方の温かいご配慮でなんとか学校生活をスタートすることができました。勉強でも毎日予習や復習をしながら、周囲に遅れないように頑張る日々の始まりとなったのです。
 毎日の授業で大切だったのはFMマイクを使用することでしたが、毎時間、本人が先生にマイクを持っていただくようにお願いさせるようにし、これは大学卒業まで続きました。小学校では担任の先生が変わる度、初日にマイクなしで一日過ごしていただき、翌日マイクを使用して「分かってる顔」「分かってない顔」をきちんと覚えていただくようにしました。補聴器やマイクが万能ではない事を知っていただき、ちゃんと言葉が伝わったかどうかを表情から判断していただく事が、非常に重要なポイントだと考えたからでした。
 小学校では教科を理解するために親が先生とコミュニケーションをとり、学習内容に穴がないよう二人三脚の日々でした。そんな中、小学三年から卒業まで担任して下さった坂本先生が作って下さった「時間割連絡簿」は、毎時間の様子が必ずメモしてあり、家で教える立場の母親には非常にありがたいものでした。親からではなくご自身から申し出て下さったことも、本当に嬉しいことでした。
 しかし先生方とは円滑に関係ができても、娘にとっては友人作りに苦労した時代だったようです。せっかくお友達になれても引越しや転勤のために一年足らずでお別れすることも多く、なかなか「長い友達」が作れませんでした。途中入学に加えて幼稚園が違うために幼なじみもおらず、「せめて小学校と連携のある幼稚園で受け入れていただければよかったのに・・・」と残念に思った事もありました。
 また友達ができにくかった事もあってか、「いじめ」も、やはり多少はあったようです。
 けれど娘はその当時、一切それを口にせず、私共はその事実を知りませんでした。大きくなってテレビで「いじめ」関連の番組を見た時、「実は・・・」と明かしたのが初めてでした。親としてはすぐ気づいてやれず、苦しかっただろうと申し訳なさでいっぱいだったのですが、本人はそうした愚痴を言いませんでした。昔から由紀枝は、学校は学ぶところであり、分からないことを学べるから学校が好きだと言っていました。本来は辛いはずのいじめや、先生にかわいがられているという周囲のねたみなどは我慢しなければならないことだと心に決めて毎日を過ごしていたのではないかと思います。どうせ避けても避けても必ずまた出てくる問題なのだから乗り越えなければならないと、ひとつひとつ頑張って乗り越えて生きてきたのではないかと思います。
 小学校卒業後は仙台市立仙台第二中学校に入学しましたが、ここでも先生方には本当によく理解していただいていたと思います。特にもとから難聴学級が設置されている学校にいて、他のお子さんがわざわざ通級してくる中、普通学級で・・・とお願いする事の心苦しさがありました。しかし三年間同じ先生に受け持っていただき、部活を通して他校出身の友達もできるなど頑張った三年間だったようです。進路や受験への不安は当然ありましたが、いろいろな方面からサポートしていただき、無事普通高校に合格することが出来たのです。
 そしてこの三島学園女子高等学校(現在・東北生活文化大学付属高等学校)での生活は、由紀枝に「ゆっきーって明るいよね」と言ってくれる多くのクラスメートや、コンサートや買い物に一緒に出かけるような仲の良い友人という宝物を与えてくれました。友人たちにも一目置かれるようになり、分からないところを教えるなど「してあげられることがある」喜びを知ったようです。また先生方も大変理解があり、クラス内の係分担でも娘の興味関心を伸ばすような心配りをして下さったことで、娘は本来の活発で行動的な面を発揮するようになりました。そしてそんな安定した気持ちが学習面にも表れてか、三年次には学級から一、二名のみの推薦枠に選ばれ、東北生活文化大学で念願の大学生活をスタートしたのでした。
 大学は家政学部で、毎日の学科や実習に追われてそれまで以上に大変な学業の場だったようですが、よき先生方とよき友人に恵まれ、由紀枝にとって最高に充実した四年間だったようです。また、長い休みには自分から申し込んでワープロやパソコンの資格取得の学校に通い、自動車の普通免許も取得しました。また大学一年の頃には泉区の手話サークルにも通い、聴覚に障害のある仲間や健聴の方との交流もしていました。この頃には何事にも前向きに自分で計画を立てて取り組むようになり、どんどんやりたいことに挑戦していく姿を見られるようになり、嬉しく思いました。
 そして卒業の日がやってきました。卒業式の後、教室で教授から改めて卒業証書を手渡された時、どこからともなく拍手が起き、最後には全員が拍手して下さったのです。誰もが一生懸命支えて下さっていたのだ、また誰からも認められる由紀枝の頑張りの姿であったのだと、私達夫婦にとっても感無量の体験であり、嬉しさで胸がいっぱいになりました。
 けれど実はそのとき、まだ由紀枝の就職は決まっていませんでした。三年生から始めた就職活動で既に十数社の試験を受けていましたがすべて不合格で、本人も本当に苦しんだ毎日だったと思います。そんな本当に厳しい活動の末、ようやく就職が決まったのは、翌月四月初めのことでした。中央出版グループ・ジャストミートコーポレーション仙台支社(現在・株式会社共育舎)に勤務が決まり、ようやく幼い日に願った社会人としての娘の姿を見ることがかなったのです。
 娘の今の仕事は「営業促進担当」、つまり営業職が回る予定の地域の情報をわかりやすくまとめる役割です。電話を取る事はなく、ただしっかりと情報をまとめて書き込み、営業の方々に手渡す仕事なのだそうです。何よりチームワークの仕事なので、傍からみれば辛いこともあるのだろうと思いますが、頑張っている娘を見ると、「なかなかやるな」とも思うこの頃です。
 確かに休祝日の休みがなくてなかなか友達と会えないとか、終業時間が遅くて毎日の家族の団欒が少ないなど、欲を言えばきりがありません。しかしあの時代に、普通の学生でもなかなか就職できない中、自分で一生懸命挑戦し続け、入社できたのですから、それは幸せな事だと思います。本人の選んだ道だから・・・と、まずは健康第一をモットーに、悔いのない日々を送って欲しいと願うばかりです。
 こうして振り返ってみれば、「普通の子のように育てる」ことは、思うは易く、行うには大変な道のりでした。コミュニケーションにしても、由紀枝の聴力から見て、手話に頼らない教育法を選んだことで、時に辛い思いをしたこともあったのではないかと思います。しかし私は、最終的には健聴者と同じ「普通の生活」を送れる人間になってほしいと願い、結局ここまで方針を変えずに育ててきました。ライオンが我が子を強く育てるために崖から突き落とすという例えがありますが、我が家は四人で一度崖を降り、一緒に頂上を目指してきたように思います。
 最後になりますが、ここまで来られたのは決して母である私一人の力ではありません。先生方のご指導と優しいお友達に支えられ、由紀枝はここまで本当に努力してくれました。
 そして常に家族を守るために頑張ってくれる主人や、現在ろう学校の教諭である由紀枝の姉・里美が私を支えてくれたからこそと思います。ここに改めて、感謝申し上げます。
 そして拙い私の話を最後までご静聴いただきました皆様にも、心より感謝申し上げます。
 本日は本当にどうもありがとうございました。
 これで、私のお話を終わらせていただきます。


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