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成長の過程を振り返って
神奈川県 堀田 とき子
 わが家の聴覚障害児は、今年成人式を終えました。この子は七人兄弟の五番目です。わが家に授かった瞬間から、波瀾が訪れました。その時既に男・女・男・女と四人の兄弟姉妹がいて、幼稚園に入園したばかりの長女が風疹をもらってきたのです。娘がなおると同時に、私が感染しました。つわりが始まったころで、一番悪い時期に風疹にかかりました。産婦人科に行く前でしたが、母子手帳をもらうまで家族の反対にあい、折角授かったこのいのちを、守りたいという私の願いは固く、さらに肺炎を起こし、これでもかと言わんばかりに、試されたような気がしました。
 結婚するときに七人子供が欲しいと宣言した私に、五番目は障害児という荷物を背負って、私を母にしたいと選び生まれてこようとしていたのです。
 男二人女二人は欲しいと話していたので既にその希望は叶えられておりました。もし、この子を生まなければ私の性格からして、一生その事を後悔して、幸せな日々を過ごすことなど考えられませんでした。そして、母子手帳をもらいに産婦人科に行きましたら「どんな障害を持ってくるかわからないのですよ。それでも生みますか」と言われました。「はい」と答えた私に「相当な覚悟が要りますよ」と言われました。もとより受け入れることを決めていきましたから、「もちろんです。覚悟はできています」と言いました。
 
 夫や母は「大変だよ」と言いますが、私にとっては大事な五番目です。「ぜったい生みます」と自分の意思をつらぬきました。
 
 いよいよ生まれる日となりました。すでに先入観のない所で生みたいと病院を変えていました。明け方から陣痛が始まり、助産院につくと、そのまま出産の準備に入りました。十時すぎ、「破水しましょう」という言葉にもうすぐ生まれるという気持ちと、どんな障害をもってくるのかと不安な気持ちになりましたが、その気持ちもすぐに解けて、破水と同時に生まれてきました。何のいきみもなしで無痛分娩を始めて体験しました。三千グラムと私にとってはいちばん小さな赤ちゃんでした。五体満足な男の子で、先ずは一安心でした。
 障害を確認するのに長い時間はかかりませんでした。三ヶ月すぎても音への反応がなく耳が聞こえてないのではという不安が起こりましたが、家族の反対を押し切って生んだので「それみたことかと、何を言われるか」の不安から、自分の胸に仕舞いこんで平静を装っていました。
 一歳半検診で言葉が出ていないので、検診を勧められましたが、まだ自分の気持ちに整理がついていなかったので、その後訪ねてくれた保健婦さんに「出生時の家族の反対を押し切って生んだこと」などを話し、「夫や母になんといわれるか不安だ」と言い、もう少し時間をくださいと頼みました。
 もうすぐ二歳になるという頃、保健婦さんがまた訪ねてこられました。まだ言葉が出ないことで、私の気持ちにも「何と言われてもいい、保健婦さんの勧める病院へ行き検査を受けよう」と思い、やっと夫にそのことを言うことができました。その時は何も言わなかったのですが、検査結果が出た時びっくりすることが起きました。
 夫は「耳が聞こえないとわかったのだから、これからどうすればいいのか分かっただろ、最高の教育を受けさせてやろう」と言ってくれたのです。
 自分の意固地な姿勢が今日まで、息子に適切な教育をしてあげられなかった事をおもい申し訳なくて、涙があとからあとからこぼれて、夫に対しても申し訳なくて頭があがらず、自分の浅はかな態度が、今日まで息子を苦しめ、夫に対しても信頼することを忘れていたことに気づき、こころから夫の言うことに従おうと思うことができました。
 
 それから、直ぐ平塚聾学校の教育相談に行き、子供との接し方や話し方を学びました。そのころは海老名市に住んでいたので、平塚に通うのに時間がかかるので、原付免許を取りました。夫は免許を取ったことに驚きましたが認めてくれました。それから息子を背負い二人乗りでバイク通学をしました。引っ越すまでの半年で二度も警官に呼び止められ、二人乗りは違反だと言われました。息子はみみが聞こえないので聾学校に通っていることを話し、背中に背負っていることで二人乗りとは違うというようなことで許して貰いました。三歳になるころ、平塚聾学校の幼稚部に入学のため、学校の近くに引っ越しました。
 上の子たちも、学校や幼稚園・保育園を変わらなければならなくて、環境に慣れるまで大変でした。十二月だったのですが、三月で卒園の次男は朝五時に起きて父親と一緒に海老名の友達の家まで行き、通園バスに乗せてもらい帰りは通園バスで帰るという生活をしました。また、四月には次男の入学と新しい保育園に入園の次女は慣らし保育でお迎えに行く時間に帰れなくてよく苦情を言われましたが、幼稚部に通いはじめた三男も五月には個人指導もはじまり、帰りが遅くなりました。長男は五年生に長女は三年生になりました。引っ越して半年が過ぎ、やっとそれぞれが落ちついたころ、六番目を妊娠しました。二十代で五人を生み、四年たって六番目、それから二年後七番目を三十五歳でうみました。二人とも女の子で、耳の聞こえない子と一緒に言葉を覚えていきました。そのおかげで、小学校に入るころにやっとですが二語文を話せるようになっていました。
 夫は汽車を教えるために、大井川鉄橋まで何度も行きました。ポッポッポッという言葉を言えるようになるまで通いました。色の付いた折り紙を持っていき、信号を見ては「赤」「青」「黄色」を教えました。
 幼稚部の三年間は耳の聞こえない子に集中していたために、長男のいじめを発見できなくて、「お母さん三年我慢すればいいんだよね」と言われたときに「そうだね、言葉を覚えて話せるようになったら聾学校に行かなくてもいいから」と言いましたが、一週間くらいたったころ、「僕の体がどうにかなっちゃう」と言われて、ハッとしました。「何かが起きている」と感じて話を聞いたら、「学校でいじめられている」というのです。相手のことを聞き出し、先生は何て言っているのと聞いたら「僕にがまんしろ」というのだというので、いじめている子の親に連絡を取り話し合いを持ちました。途中での転校でしたから友達もいなくて馴染めないために、友達になりたいのに上手に話ができないということがわかって、それからは先生がみていてくださるということになり一安心でした。
 このころ長男が家で弟に暴力を振るうことが多くなっていました。「どうして叩くの」と聞くと「だって言ったってわかんないんでしょ」と言うのです。その時、自分が一生懸命関わり方をおそわりながら、言葉を教えることの難しさや大変さをひとりで三男と向き合ってばかりいたことに気がつきました。上の子たちは、言えばわかると思っていたので、特に気をつかうこともなく、当たり前に生活していました。箸と言えば、ごはんを食べるのだからこの事だなとわかって箸を持ち、水と言われればコップの水だな、または、風呂の水が溢れそうなのだなとか、遠くにいても、一言でその意味を理解できる子供達だったのです。しかし、耳の聞こえない子には箸がどんな物か、何に使うのかなど全てを説明しなければならないのですから大変です。
 そこで、長男に「一回言われただけでわかるのは超天才、普通でも十回や二十回は言われているはず、耳の聞こえない子には百回も千回も同じことを繰り返して言わないとダメなんだよ」と、言葉を教えることの難しさや、理解することの大変さを話しました。
 しかし、「何時もお母さんは宏のことばっかりかばう」と言って、家庭内であばれていました。その度に赤ちゃんもいるので近所に一時避難をさせて、長男と話し合いました。
 わが家では二歳で包丁を持ち、きゅうりを材料にした料理を作って家族にご馳走をするのが習わしで、その日から、家族の一員として家事、炊事、育児などを実践して小学校の卒業までには一通りの事ができるようになるというのが方針でしたから、家に帰ったら宿題よりも家庭学習よりも、家族で生きるための助け合いを教えていました。
 三男以外は、言われたことは守れるのに「愛の鐘がなったら家に帰る」という約束が、どうしても守れなくて、探し歩く毎日でした。「愛の鐘が聞こえないんだから仕方ない」といっても納得しないので「帰ったらカレンダーにシールを貼る」とか、「時計をもたせる」とか、「暗くなったら帰れ」とか「友達が帰ったら自分も家に帰れ」などいろいろ言ってみたけれどダメでした。随分大きくなるまでそのことでは苦労したなと、今でも一番大変だった事に教えられます。
 長男のイジメのことがあってから、子供と二人だけになる時間を作ろうと決めて、月に一度デートをしました。食事や買い物などをしました。特別に話し合いたいことがあると、他の兄弟たちに、「今日はお兄ちゃんと話したいから留守番頼むね」と言うと「わかった」と言って一・二時間もらってデートしました。他の子たちも同じようにしてきたので、自分の番が来ることを楽しみに待つようになり、「五年生になったらお母さんと二人になる時間がもてる」ということがそれ以来今でも続いています。耳の聞こえない子を持ったおかげで、他の兄弟姉妹たちと充実した毎日を過ごすことができたように思います。
 上の子たちは、下に耳の聞こえない子ができて「かわいそう」という気持ちがあるのに下の二人の娘は、生まれたときから「耳の聞こえないお兄ちゃんがいる」というので、自然に付き合っていて、喧嘩をしたり、遊んだりしてくれています。
 幼稚部を卒業して小学校を選ぶのに普通小学校を選び兄弟姉妹たちと同じ学校に通っていました。中学まで普通学校に通っていましたが、中三のとき進路のことで意見が合わずに、学校に行っても悩んでいたらしく、偽装通学をして、カバンを持って学校に行くのに、授業に出ないで何処かへ行ってしまい、帰宅時間になると、学校にカバンを取りに行ってから家に帰る日が続いていたのを知らずに、学校から「カバンがあるので取りにきてください」と電話を受けた次男が、持って帰ってきてしまったため、本人が家に帰るきっかけをなくしてしまい、そのまま四日間も帰らず、月曜日に警察に捜索願いを出しました。昼も夜も探し疲れて、どうしようもなくこれ以上は危険と警察に行きました。届けを出したあと一時間後に保護されたという連絡を受け、駆けつけました。何を聴いても言わず、あちこち行ったために一言で説明できなかったようで、学校には帰ってきたことを伝えましたが、親としては四日間探してもくれなかった学校の姿勢に不満もあったのです。本人も行きたくないと言うので、卒業まで進路のことなどで六日しか行きませんでした。
 そんなことがあったので、高校受験は普通校と聾学校を受験しましたが、結果は聾学校に入学することとなりました。手話もできないから不安だと言っていましたが、中学の卒業式が終わった翌日家に帰ると、野球の道具を探しているので、どうしたのかと聞いたら、聾学校の野球部の監督から電話があって「卒業して暇だろう、野球をしに来ないか」といわれたと言うのです。まだ、入学もしていないのにと思いつつも、半年間も学校に行っていなかった子が、四月から普通に通えるか心配もあったので、春休み中毎日通う姿に安心し、休みの日には見学にも行きました。小学校から軟式少年野球を地域でやっていたので少々技術も良かったため、打順は一番でショートを守りました。その春休み中の練習試合で活躍したり幼稚部の時の同級生と再会したりしたので、入学式後も順調に高校生活をスタートしました。
 野球では三年間続けて関東聾学校野球大会で連続優勝の栄誉を勝ち取り、キャプテンとして優勝旗を持ち帰ることもできました。また、生徒会長としての重責も果たし、各方面に持てる力を十分発揮することができました。手のあいた時には和太鼓の練習にも取り組み、国体の開会式でも披露しました。
 また、三年間寄宿舎での生活をしましたが、家事も育児も経験は十分にしていたために、自分で洗濯をしたり小さい子たちの世話をしたり寮長としてもよく働き、先生方から褒められることも多くて充実した三年間を過ごしました。
 卒業式の答辞を聞いて多くの先生から「感激をした、こんないい卒業式は初めてだ」とか「涙がこぼれて司会をするのに困ったよ」とか言われ、とても心地良い感動をあたえた卒業式での息子の晴れ姿に感動しました。小中での経験が高校三年間に充分生かされ活躍できたことは、本人の努力が素晴らしかったのだと実感することができました。
 卒業後は就職をしました。自宅からバスと電車で二時間かかる相模原市橋本にあるセントラル自動車に就職し三年を迎えた現在も、頑張って通勤しています。朝は五時半に起きて六時に家を出、帰宅は午後十一時を過ぎることもしばしばの毎日です。
 平塚聾学校の鼓舞子という和太鼓クラブにOBで参加しており、土曜日や日曜日の空いている時間に練習や公演に出かけております。昨年は、あのニューヨークセンタービルに飛行機が突入したテロのあった日の午後成田からアメリカに行く飛行機に乗っていました。
 アメリカでの日本まつり公演のためでしたが、会社を休んでの参加でしたのに中止となり残念な思いもいたしました。また、ろう社会人野球の湘南ヤンキースに入部しており、春と秋に全国大会があるのでそこでも活躍しております。最近では女性の紹介所に入会して、彼女を探しております。まだ若いと言いますが、結婚費用も自分でためてほしい、貯金をするように指導しているものの、「いつまで子供扱いするのだ」と言われる昨今です。
 
 二十九年前の十一月十一日、私は結婚しました。今日が結婚記念日です。
 七人の子宝に恵まれ、また聴覚障害児を授かったおかげで、このような体験発表の場を与えられ三十年目のスタートの日を迎えられて本当に幸せに思います。夫と共に残りの人生をつつがなく過ごせたらそれでよいと思う毎日です。生きている限り心配はなくならないと思います。長男と長女が結婚し、どちらにも男の子がおり同級生です。これから残りの五人が結婚して孫がいっぱいの日々を夢見て、楽しく自然に生きていきたいと願っています。
 
親子の絆
埼玉県 宮岡 古乃ゑ
 長男の正は、昭和二十五年十月十一日に、元気な産声で誕生し、祝福されて育っていました。一才の頃に麻疹にかかり、すぐ後でしょう紅熱を併発し、高熱で危ない状態になり、手足の裏の皮がむけて赤くなっていました。病後は、丸々と肥え、よく笑い元気に育ちましたが、一才八ヶ月になってもまとまった話ができず、高いキーンとした声を出していました。
 不安になり、医学書を読み、もしかと耳鼻科に行き、「耳が聞こえていません。」と言われ、パニックで頭の中は真っ白、奈落に落とされました。正を抱え、それでもと音の出るラッパや笛を買い、街はずれの公園で思い切り鳴らしても正は反応がなく、どうしようと思案の泪にくれました。大学病院で診ていただいて、九十六デシベルとのこと、悲しみにくれました。宗教に入信を勧められ、正を背負って道場通いもしました。
 夫の知人から、慈恵医大でルンバールとパンピングをしてみたらと紹介され入院しました。声が高いので他の患者さんのこともあり個室でした。正の背中を二つ折りにして動かぬように跨り、手足を押さえて四人がかりで注射をするのですが、廊下まで聞こえてくる悲鳴に胸が締めつけられました。一ヶ月をすぎた頃、看護婦さんから、「今日の診察は、脳膜炎の診察ですよ。脊髄に細菌が入ったら大変です。お子さんの体力も消耗してきていますし、もう止めた方が。」との話で、可哀そうなことをしていたと気づきました。その背中には、注射針の跡が夏みかんの皮のように残りました。私は、自律神経失調症になり、生きる希望も失いそうでした。もう子どもはいらないと子宮卵管結束手術をし、正の教育に専念しました。
 初めて聾学校に行きました時、正は四才でしたが、白い建物に怯えて校門を入らず困りました。病院での苦痛が忘れられないのです。学校では幼稚部で、口話法、読話、発声の勉強に母子で通学し、帰宅後は、繰り返し練習です。
 正が寝ると、私は、絵カード、文字カード作りをして、家庭内の品物に名前をはり、唇の動きを教え、根気よく続けました。母子で泣きながらの復習を重ね、月一回の読話大会を目標に、懸命の余り私は怖い顔になってしまい、お母さんは鬼だと言われました。受け持ちの先生と交わした連絡帳に随分励まされました。小三になると一人通学を正から希望し、お友達もできました。「どうして耳が聞こえないのか」「お母さんの耳をよこせ」「耳を買ってきて」とわめき、「お母さんはアウト」「だめ」と私のおなかを叩きました。「ごめんね、ごめんね。」ということしかありません。
 親類から「家の子供も年頃になってきたので、正ちゃんに出入りされると困るのよね。」と言われ、交際を絶ちました。正は、学校は大好きで、休まず通学しました。画が得意で、高等部のとき油絵で県展に出品し賞を頂きました。将棋が好きで、今も会社の大会に出ています。高等部卒業後、集団就職で名古屋の木材団地に行きましたが、仕事はベニヤ板の運搬で重労働で、友達はすぐやめました。初めてのお盆休みの帰省で、夫と私に麻混のクレープの上等な下着を買ってきました。嬉しく今でも出して見ては仕舞っています。団地はやめて木工所に移り、また印刷、写植と適職につけず、友達と上京し出版会社に勤務しました。その頃文化祭で出会った今の嫁さんと付き合いが始まり、松山にも連れて来ました。正が電話をくれるのですが、声でわかっても言葉が聞きとれず心配が募るばかりでした。今はFAXがあり助かりますが、当時は何かあると私は上京するので大変でした。思案の末、親類に家の管理を頼み夫と上京、ビルの管理人として住み込み、百八十度の転職で苦労しましたが、子供に近くなり、すぐ駆けつけられ安心を得ました。
 正達は結婚式をあげ、障害者同志心が通じ仲良くしています。
 出版会社の仕事も労働で肩を痛めてしまい、無理があり、自分から技術を身につけたいと国立リハビリテーションセンターに入所し、製図工の資格を取り、機械製図工として就職することができました。高等部卒業の折、先生からお祝いに製図用具セットを頂いたのですが、今にして思えば、先生には正のことが判っておられたのだと思いました。
 会社では聾者の採用は初めてで問題もありましたが、リハビリテーションセンターの先生、ハローワークの職員の方達のお骨折りで、その都度クリアーして頑張っています。待遇がずっと嘱託扱いで、正は不満でした。
 上司に話したら「悪いけど、あなたは電話もとれないし、渉外的なことは不向きだし、アシスタントがなければ仕事もすすまない。机に向かっているだけだ。民法十一条にあるように、親権者が必要な身分である。あなたは、子供さんの保証人もできない。」と話されたそうで、正は落胆し、私にどうしてくれると言ったのですが、今は自覚ができ、家族のため頑張り、余暇は、武蔵野市手話サークルで指導員をして楽しい時を作っています。
 八月十二日には三越本店で、菅原洋一さんとお仲間の方達と、手話ダンスの発表もあり盛会でした。
 私達も定年になり、正達の持家もできたので松山に帰るか迷いましたが、子供の近くに居るのが良いと、近所に住んでいます。
 私も、やっと草花に目が向く心境になりました。正達夫婦には、十七才の長女と十四才と十一才の男子の健聴の子供がいます。初めての出産の時は、子供を産むか産まないかで迷いました。長女は、二才八ヶ月から母親の希望で劇団に入れましたので、私は十一年間付き添いを続けました。
 苦労もありましたが、お陰で楽しい思いも経験しました。
 今も孫は表現の世界で頑張っています。
 息子夫婦に「弥生の声は、色で言えば何色の声ですか」と聞かれ、咄嗟に「ピンク色」と言ったのですが胸がせまりました。弥生も、「もし神様が一つだけ願いを聞いてくれるのなら、叶わないことだけど、お父さんお母さんに一分間だけでも私達の声を聞かせたい」と言います。
 私には、まだ孫達のことや後見の役がありますので、生きがいとして頑張ります。ここまでも、これからも、いつも私のやりやすいように助けてくれた夫に感謝です。
 正を導いてくださった先生方に心から御礼を申し上げます。
 
可能性を信じて
東京都 伏見 由利子
 「聴覚障害児を育てた母をたたえる会」でたたえられる程の母ではありませんが、落ちこぼれ、将来我が子はどのようになるのかと悩んでいた母親の代表として少しでもお役に立てる事ができましたら幸いと存じ、話をさせていただきます。
 何といっても教育は、教師の力量と考えます。素晴らしい先生にめぐり合う事で、子供が伸び親が救われます。私と娘が歩んだ道のりの中での日々をお話させていただきます。娘は三人兄弟の末で、はじめての女の子として誕生しました。現在二十歳になりました。すぐ上の兄と十二歳の年齢の差があることもあり、まるで初めての子を育てるように大切に育てていたのです。少々の物音にも目を覚ますこともなく良く寝る子で、女の子は育てやすい。まさか耳に異常があるとは、夢にも思いませんでした。ただ気になっていたのは、まだ首が据わらない頃抱きかかえると、異常なほど首をそり返し、首が据わってからは寝かすと首の力でブリッジをすることでした。ろう学校のお母様方に聞くと皆さんもそうだったとのこと、早く知っていればと、悔やんだものでした。
 一歳の誕生日を迎えても全く言葉らしいものが出ません。娘の回りに小さな子がほかにいない生活の中にいたので、まあこんなものかと深く考えることも無く日々を過ごしていました。でも、もしかして耳に何か問題があるのではないかと、母親の勘として耳鼻科で診断を受けました。この医師に病状を見過ごされてしまい、ずいぶん遠回りをしてしまいました。保健所の集団検診の折、この話をし、専門病院を紹介してもらい予約が取れたのが、二歳と二ヶ月の時でした。すぐに耳の検査をしてほしいのに月一回の予約の度、他の検査、又検査。その度貴子にとって恐い思いをしたのでしょう、白衣を見ると大泣きをするようになりました。通院し始めて四ヵ月後、やっと耳鼻科担当の先生に診ていただき、検査の結果、「貴子ちゃんは、感音性難聴ですね、すぐ補聴器を付けましょう」。「感音性難聴って何ですか。治療方法はないのですか?」「現在の医学では無理です。一日も早く補聴器を付け、耳を使う教育しかありません。」
 ここにいらっしゃるお母様方も同じ事を言われ、真っ暗な穴の中へ落ちる思いをしたと思いますが私も「なぜ我が子が・・・」と病院から自宅までどうやって帰ったか今でも思いだせない位のショックでした。全く音の無い世界、鳥のさえずり、風の音、そして私の声すら知らない我が子を見ると、切なく悲しく夢であってほしいと、何度思ったことでしょう。
 病院の紹介で早期教育の大切さをいわれ、わらをもつかむ思いで、立川ろう学校に通うことになりました。生後間もなくから通っているお子さんと比べるとその差は歴然としたものでした。早期教育の大切さを改めて感じさせられろう学校という専門性の力を持った先生のもとで、母子ともに勉強していこうと、気持ちを新たにして幼稚部に入学しました。担任の先生はベテランといわれる先生でしたが、何に付けても言い方が強く、納得できない押し付けとも思われる言動があったりして、不信と不安でいっぱいになったこともありました。先生方の専門性の中身は、保護者が障害をどう捉えているかということへの配慮をするカウンセリングの力も含まれているはずだと思います。当時同じように感じ励ましあった保護者三人組は、今でも何でも話し合える友達です。
 当時、小田急線の和泉多摩川に住んでいた私は、何度か駅で一つ上の学年の母子に会い不思議に思い理由を伺うと、学校は許可してくれないので内緒で言語クリニックヘ通っているとの事でした。このめぐり合った親子からの紹介で、私も娘と言語クリニックヘ通い始めました。クリニックの先生は、「無理に声を出させようとしては駄目です。あせらず、ゆっくり、貴子ちゃんの発音のことはお母様は何も言わなくていいですよ。お子さんの発声を逆に聞き取るお母さんの耳を育ててください」と。この先生の言葉にどれだけ助けられたか、又、ホットしたか。立川ろう学校と言語クリニックを併用しながらの日々が過ぎました。
 五歳のある朝、学校へ向かう駅への途中、「オアータン」と私を呼んだときの感動は一生涯忘れられません。それからは言葉を次々と覚え理解していきました。学習面ですが、小学部一年・二年を担当してくださった先生のおかげで現在があるといっても過言ではないと感謝しています。幼稚部時代十六名いた同級生は皆、インテグレートや転校してしまい残りの三名での二年間でした。
 先生の口癖は「基礎学力が大切。後はテストになれること」宿題プリントの出ない日はありませんでした。私も答えは分かっても、どういう教え方をするのか、一年生になったつもりで授業を見て家で一緒に宿題を取り込む毎日でした。習慣とはすごいです。私に言われて嫌がりながらやっていた宿題を、いつの間にか自らコツコツとするようになり、夏休みの宿題百枚プリントも一週間で終わらせたときは驚きました。今まで「勉強はしなくていいの?」の言葉はいったことがありません。逆に、「一緒に出かけない?」「後一週間後テストだから無理」と断られることばかりでした。
 立川ろう学校での十六年間、特に高等部の頃、付属聾学校専攻科への進学を考え始め、遅れている学習面でどうしようと悩んでいるとき、「学校の先生に分かるように教えてください」とお願いしてごらんといいました。数学はこの先生、国語はあの先生とお願いし放課後、昼休みと勉強しました。又、家庭に事情もあり、「教育上の入舎」ということで寄宿舎へ入舎したときも、「良かったね。周り中に教えてくださる先生がいてくださって学習面のこと、悩み、なんでも相談できて絶対後でプラスになるからね。」と娘に言いました。途中で「もうやめる」といいながら高等部最後の二年間寄宿舎で過ごしたおかげで、付属聾学校での寄宿舎生活もスムーズに過ごすことができました。
 フランスの文豪ユーゴの言葉に「学校を開くものは牢獄の門を閉じる」とあります。本来学校は子供に「知性の光」を与えるとともに「心の扉」を開く場所でなければならないと思います。筑波大学付属聾学校高等部専攻科での二年間、全国から集う仲間と過ごし、素晴らしい先生方のご指導の下、人間的に一回りも二回りも大きく成長させていただき、この春付属聾学校では五・六年ぶりという、商工組合中央金庫に就職し、本店の審査第一部の書記として働いています。
 どんな苦悩、境遇にあろうが、その人で無ければ果たせぬ使命があると思います。聞こえないという宿命。宿命は使命として果たすために生まれてきた我が子。途中がどうあれ、我が子の可能性を信じて一緒に戦ってきました。
 これからも、立ちはだかる困難を乗り越えていく精神を、娘にも学んでいく努力をしてほしいと望み、私自身も、我が子と同様の障害をもつ方々に貢献できる人間でありたいと思います。
 ご静聴ありがとうございました。


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