[ひたすら成長を願って]
焦らずコツコツと
愛知県 三宅 るり子
私の息子良往は、昭和五十三年一月に産声を上げました。私の耳に入った看護師さんの最初の言葉が、「耳たぶの良い子ですよ。」二歳になる娘がおりましたので、男の子と言うことで、喜びと言うよりも、安堵の気持ちでいっぱいでした。二人目と言うことで、育児にも多少の余裕があり、のんびり構えておりましたが、三ヶ月検診の時、保健所の所長さんから「首の座りが少し遅いですね。」と言われ、要観察と赤い字で書かれた紙を見た時は、さすがにショックを受けました。息子に関しては「これから毎月検診に来てください。」と言う言葉を受け、それからは保健所通いとなりました。
一歳を少しすぎた頃の検診の、「随分良くなりましたね。」と言う言葉を聴いて一安心。しかし、運命の時がやってきたのは、それから数ヵ月後です。いつもの所長さんが不在で、代わりの先生がみえた時、息子を観察され、考えてもみなかった言葉が発せられました。「この子は耳が聞こえないんじゃないか。」正直を言いましてとても信じられませんでした。多少普通よりおっとりとはしておりましたが、体格も良く、よく食べ、よく寝る子供で、気になるとすれば、歩くことが少し遅かったことでした。しかし、現に息子はその時、先生に振られたおもちゃの音に反応を示さなかったのです。あの三ヶ月検診の「何かが違う」という疑問から一年三ヶ月、表面的な歩行の遅ればかりが気がかりで、まさか聴覚に障害があるとは、本当に夢にも思いませんでした。次の検診の時に、保健所より、岡崎聾学校と県の保健センターを紹介していただき聴力検査に通いました。いつまでも悩んでいるわけにもいきません。現実をしっかり受け止めて、最良の方法を考えるしかないのです。「この子達を救う道は教育以外には無い。早期発見、早期教育が大切である。」という先生の言葉を受け、教育を始めました。平行機能障害もあり、何とか歩行できるようになったのが二歳近くでした。
そして、幼稚部へ入学する少し前に、私が次男を出産しましたので、みんなと一緒にスタートできず少し遅れてしまいました。みんなが少し慣れて落ち着いてきたところへ入りましたので、子供よりも私の方が少しあせっていたようです。そんな様子を見て、一人のお母さんが「焦らなくてもいいよ。」と言って下さり、その時、この言葉はその後の私の生活の信条となりました。「ここで親があせったら子供がだめになってしまう。子供一人一人能力が違うのだから、あせらずコツコツやっていこう。」そう心に誓ったときでした。
幼稚部の時は、週に一日地元の保育所へ入れていただき、交流をさせていただきました。私の家は三河の田舎ですので、聾学校までは車で一時間近くかかりました。朝の通学時間は、母子にとって最高のコミュニケーションの場所でした。発音のキュウドサインから始まって、口形文字、そして、ひらがなへと進みました。三歳でひらがなが読み書きできるようになり、それからは言葉も日増しに増え、何もわからずにスタートしたときのことを考えると、感謝の気持ちでいっぱいになりました。
彼らはまた、聴覚が悪ければ悪い程、視覚の鋭さと集中力を持っているように思われます。視覚からの記憶力のすばらしさを感じた事がありました。それは、息子が小学部一年生の時です。旅行の好きな私は、息子を少しでも共通の楽しい話が出来るようにと思い、四年生用の大きな日本地図を部屋に張っておきましたら、北海道から沖縄まで全て位置を把握し、漢字で書けるようになりました。
小学部の二年生の二学期から一人でバス通学を始めました。それからが大変、田舎の事ですのでバスの本数が少ない、バス停までの朝夕の送り迎え、特に朝は毎日、母子とも大忙しでした。乗り遅れてバスを追っかける事もしばしばありました。中学部が終わるまで、一時間近いバス通学を八年間経験しましたが、体調を壊す事も無く、健康で毎日通学できた事は、奇跡のような気持ちさえいたします。
高等部になったときに、本人の希望で寄宿舎へ入りました。また、高等部になったら、他校から数名の入学者があり、友達も増え、息子にとっては大変な刺激となりました。そして、この寄宿舎での三年間の経験は、岡崎聾学校生活十五年間の最高の思い出となったようです。先輩や後輩との生活、先生や寮母さんとの会話、楽しい数々の行事、とくに他校から来た同級生のN君には影響を受けたようで、出会えた事を大変喜んでいました。親としましても、自立としつけ面で、息子にとって大変良い経験の場所であったと感謝をしております。
卒業後は、豊橋にありますコンピューターの専門学校へ二年通いました。多少健聴者との交流はありましたが、聾学校ばかりの生活でしたので、すんなり入っていけるのだろうか?と大変心配をしましたが、特に大きな問題も無く過ごすことができ、友達もすぐに出来たようです。この二年間は、すでに就職をしておりました娘と一緒にアパート生活をさせました。この時に、姉弟の絆みたいなものができ、良い経験が出来たと喜んでおります。また、車の免許を取得したり、手話サークルに参加したり、夏や冬の休みには、自分で探してアルバイトをするまで成長し逞しくなりました。それも、聾学校で培われた「チャレンジ精神」の賜物かと思います。
就職も大変厳しい状況になってきましたが、聾学校の先生のおかげで、自動車会社へ就職し、一人部屋での寮生活を送り、お知らせランプの振動の力を借りて起床していたようです。五年間勤めましたが退職し、その後、障害者の就職説明会に参加し、現在は地元の信用金庫で働いております。以前の職場より厳しく大変なようですが、なんとか頑張っております。遊びの方も忙しい様子で、休日は家にいることがほとんどありません。
振り返ってみますと、二十八年の間には様々なことがありました。言葉の不足から来る心の葛藤、理解しあえない苛立ち、情報不足からくる頑固性、そして、そんな多くの苦労もあれば、その苦労の中から生まれる大きな喜び、毎日、毎日発音の練習をして、やっと一音出た時のあの喜び、何度も何度も話して、やっと理解し合えた時の嬉しさ、この子たちとの会話は、まさに魂と魂とのぶつかりあいでした。
聴力一〇〇デシベル以上の、高度難聴という大きな障害を持った息子が、これまで成長できたのも、長い間お世話になった聾学校の先生方をはじめとした、本当に数多くの方々のおかげです。
そして、息子の口から出る、「僕も耳が聞こえたらなぁ。」という言葉を聞くたびに、彼らの幸せを願って止みません。
東京都 三輪 みち子
最近のことですが、或る事から、疎遠にしておりました都立品川ろう学校時代の子どもの恩師にお会いすることができました。
その先生のお話で、昭和六年に発足された「聴覚障害者教育福祉協会」という協会が今でも存続され、多方面にわたりご活躍をされていることをお聞きいたしうれしく思いました。私が「聴覚障害児を育てたお母さんをたたえる会」で推薦され、桜内義雄会長から栄えある賞をいただいてから、二十数年もの長い歳月がすぎています。
その当時は、まだ小さい子供も抱えていましたので、頂戴していいものかと考える余裕のなかった私は、ただ有り難くいただいてしまいました。それからもう二十数年がすぎています。
この協会や「たたえる会」を支えてくださっている関係の皆様に心より感謝いたしております。
私達家族を「はまなすの花」にたとえて下さったお気持ちを何よりも嬉しく思います。知床の海岸の砂浜に這うようにして、じっと春が来るのを待って一斉に真紅の花を付けるこの花の姿は何にも勝る想いでございます。この花のように子供のために努力するという無言の言葉でございます。必ず芽を吹くことを待ちましょうと感じ励ましていただいているこの「たたえる会」を継続していてくださる皆様のお気持ちを心より感謝いたします。
「早期教育が望ましいのです。」
病院での先生のお話は、「この子に合った教育を。」ということでした。
それからは一歳半になった娘を連れ、都立品川ろう学校玉川分校幼稚部に週一度教育相談に通いました。そして三年近い月日の後に、四歳になった娘を幼稚部一年生として入学させました。二歳になったばかりの次女を保育園に頼み、子供とともに勉強をする毎日がはじまりました。
受け持って頂きました先生は、「教育は机の上だけでなく。一日中が教育の場です。言い換えれば[言葉のお風呂に入れること]というのですよ。」と話をしてくださいました。それからは、子供が起きているときは片時も離れず、どこに行くにもスケッチブックを持参し、その場そのばで対処しながら絵を描き文字にして一つ一つの言葉を身につけさせることが私の日常の生活になりました。毎日の積み重ねが言葉を成長させることになるよう努力をしてきました。
この教育はやればやるほど、深さが増していくことをしみじみと実感しました。
二年間の玉川分校で基礎を身につけ、品川ろう学校の一年生になり、場所も大井町の本校に変わりました。小学部三年生までの三年間、母子二人三脚は続きました。四年生からは親とも離れて独り立ちし、先生との勉強に励んでくれるようになり、小学部の過程を終了し中学部に進学しました。その頃になると、学校での出来事や友達との事なども語ってくれるようになりました。
娘は一段一段、階段を上るように成長していきました。都立大田ろう学校高等部・同専攻科と学業の全課程を卒業し、一人の人間として成長してくれました。
今、思うと長いようでもあり、短くもありという歳月でした。卒業後は社会人の一年生として或る会社に就職し、大企業の社員として出発しました。会社ではたった一人の新入社員のために家庭訪問をし、仕事の内容も説明してくださるほどいろいろとご配慮いただきました。社員になった娘も努力し、自分なりの人生を見つけることもでき、よい伴侶にめぐり合い、二人の女の子を神様から授かりました。
私にとっても最高の贈り物でした。心配していたことも杞憂に帰し、健聴児として生まれた孫たちとの充実した日々、しかし、そんな幸せも神様は長くは続かせてはくれませんでした。それは、二人の孫たちが小学校一年入学と幼稚園入園したばかりのときに娘の主人は病気のため、あっという間に他界してしまいました。父親を幼くして亡くした孫たちは、今では高校生となり、母親と三人で暮らしています。次女夫妻も姉の子を自分の子どものようにみてくれていてよき相談相手になってくれています。娘も今は元務めていた会社の上司のお世話で下請けの会社の仕事をインターネットで事務処理をしています。
このように、基礎教育をしっかりと身に着けてくださった都立品川ろう学校に心より感謝いたしております。これからも安心してお願いできる学校を作り上げてください。都立聾学校の誇りを持って、これからも生まれてくるであろう子どもたちのために、精一杯の教育をしてくださるよう、皆様で考えていってほしいと願っています。それにしても、「都立品川ろう学校がなくなる。・・・」それはとても淋しいことですね。
娘たちも成長しそれぞれの家庭を築いている今では、私も長年の育児から解き放され、外に目をむけることができるようになりました。そういう視点で考えますと、障害のあるお子さんがかなり多くなったと聞いています。そういう問題について根本から考え直さなければならないことがあるのではないかと思います。身近な所から有害物質を減らしてクリーンな地球に、そして世界の人たちとともに助け合って暮らせるよう、人々が努力していく社会になるよう希望します。日常使用する洗剤にしても配慮すれば川をきれいにできるのです。
今具体的に感じている一例として病院に行くと患者の多いことを感じます。その中には三大成人病といわれ、この進んだ医学も完治することができないでいる病のかたが沢山いらっしゃいます。私も現在はその一人で、自然の空気を十分に身体が取り入れることができず、常時在宅酸素を携帯することになってしまいました。自分が不自由な身となってみて、同じような方が多く世間にいることも知りました。最近では数も多くなってきたのではないかとも感じています。通院の待合室で「あなたもおなじですね。頑張っていきましょう。」と声をかけるのも苦にならなくなりました。主治医のお話ですとこれからの時代もっと患者が多くなるとのことでした。そのためにも、もう一度繰り返しますが、そういう人たちを一人でも少なくするよう社会の一人ひとりが心がけて、有害物質を少なくし、綺麗な環境を整えていきたいと考えます。これから生まれてくる赤ちゃんを元気で産めるような社会環境作りについて、皆様とお話できる日を待っております。
以上、ここに書きましたことは、長女の子育てをかき、次女のことについてはふれていません。次女は、自分で「母を語る」という立場で原稿をまとめるとのこと、私との間で話しあいました。娘から見た私の子育て・・・どんなことがかかれるのでしょうか。
元都立品川ろう学校一保護者として 三輪みち子
東京都 瀬沼 澄江
昭和四十九年九月に次女として、娘が生まれました。長女は一歳のとき、先天性弾道閉鎖症で死亡しています。次女の娘は元気な子供と思って喜んでいました。しかし、一歳を過ぎても声を出さず、おとなしい子供だと思っていましたが、保健所の一歳児検診で保健婦さんに相談したり、かかりつけの病院で相談したりしました。
「三歳ぐらいまで、話をしない子供もいますので、もう少し様子を見ましょう。」との事でした。
それから半年ぐらいした時、友人から「心配だったら、一度大きな病院で検査していただいたら?」「何でもなければ安心でしょう?」友人のこんな言葉を聴き、保健婦さんに相談して大きな病院を紹介していただきました。
病院の先生は、「難聴ですね。」私は思わず「えっ?どう言う事でしょうか?」と聞いてしまいました。優しい先生でよく分かるように説明して下さいました。
「耳が聞こえません。音や声が耳から入りません。だから、このままだと話が出来ないと思います。訓練するところがありますから、一生懸命頑張れば、必ず話が出来るようになりますよ」と、詳しく教えて下さいました。
そして、ろう学校を紹介していただき二歳から、ろう学校へ行く事になり、気付けばろう学校を卒業する時には、二十歳になっていました。長くて短い十八年でした。
ろう学校には大変お世話になり、先生方の力をかりて親子の戦いが始まりました。
ろう学校へ行くようになって、活発な子供になり買い物に行くとよくいなくなったりしました。ある時、デパートでいなくなった時、呼んでも聞こえないし困っていたら、「せぬまともみさんのお母さま、お子様がサービスカウンターで待っております。」と放送が入りました。安心と同時に、娘は自分の名前を言えたのか、何とか伝える事が出来たのか、と私は喜びました。そして、その事を店員さんに尋ねると「靴に書いてありましたので」と言われ、がっかりしました。こんな小さな事でも思い出の一つとして、心に残っております。
ろう学校にはバス、電車を使って通学していました。小学部三年生ぐらいから、一人で学校に行くようになり、ある日の事、電車の中で雑誌を拾って電車の中でも、バスの中でも見ながら帰って来たようです。でも、その雑誌は男の人が見る雑誌で、家ではお父さんが大変喜んで見ていました。この時にも、子供といろいろな話をしました。
昭和五十八年に、妹が産まれました。下の娘は障害もなくすごく元気な子供でした。上の子と下の子とは歳が十歳ほど違いますが、今は女の子同士、仲良くしています。
そして、中学に入りスポーツで活躍するようになり、バレーボールでは、浜松大会などが思い出の一つにあります。
高等部に入ってからは、陸上で全国大会に出させていただき、この大会で北海道や徳島などに、お友達ができ文通を始めるようになりました。これがきっかけで、文を書く楽しさを覚え、文を書くのも上手になりました。
このころから私もPTAのお仕事を手伝うようになり、学校に行くことが多くなりました。ある日、たまたま私が学校にいた時、担任の先生に呼ばれ「今日、娘さんが男子生徒と取っ組み合いのけんかをしたんですよ」と、聞かされました。もう高校生なのに・・・、こんな事が何度かありました。
だけど、いい事もありました。
学校のおかげで東京都青少年洋上セミナーに作文によるテストで、中国に行ける事になったのです。娘は、ろう学校しか行ってなかったので、大変良い冒険の旅になったと思います。出発に日は、ろう学校の校長先生や教頭先生が来て下さり、本当に頭が下がりました。
一つのクラスの中に障害者が一名入って、二週間生活をします。娘はすぐ皆なと、仲良くなれたようです。娘のためにクラス全員で相談をしたりして、クラスの一員として考えてくれたようでした。出迎えには担任の先生が来て下さり、先生と一緒に出迎えたのですが、船の甲板で手を振っている娘が見つけられずにいたら、クラスの仲間が皆で「瀬沼さんー!」と私を呼んでくれて、やっと娘の姿を見つけることが出来ました。
クラスのお友達が娘のために私を呼んでくれたことに、私はとても嬉しい気持ちでいっぱいでした。専攻科に入ってワープロ検定をとり、ろう学校の協力もあって三菱銀行に就職が出来ました。
平成十一年九月に結婚をして、今はろう協会の先輩に助けていただきながら、幸せに生活しています。まだ、子供は居ませんが、早く孫の顔を見たいような、恐ろしいような、複雑な気持ちです。もし、孫が生まれたら、今までの経験をいかして、娘の子育てに良きアドバイスをしていきたいと思っています。
今後も親子共に、一日一日が日々勉強の毎日でありますが、どんな壁も乗り越え、一生懸命頑張って行くつもりです。
あれから孫が生まれ、娘も子育てを頑張っており、おばあちゃんとなった私は複雑な気持ちで居ましたが、二歳になる孫が歌を唄ったり、おばあちゃんと呼んでくれると、複雑な気持ちもどこかへいってしまい、今は可愛い孫と楽しんでいます。
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